11月22日主日礼拝の説教要約です。
あくまで一信徒による要約ですので神学的に間違った解釈をしている場合もあり得ます。その点はご容赦いただきたく思います。
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説教要約11月22日「祈りによる関係」
Iテサロニケ3:11~13

祈 りはクリスチャンに限らず、人間すべてに生まれながらに備わっている行動であると言えます。祈りを知らない人はいませんし、子どもでさえ祈ります。しかし クリスチャンの祈りは他の人々のそれとは異なります。クリスチャンの祈りは一方的な「お願い」ではなく、神と人との双方向の「対話」です。

祈 りは簡単なように見えて、実は難しいものです。主弟子たちも三年間、主と衣食住を共にする中で何度も「祈り方を教えて下さい」と問いましたし、パウロも 「何を祈って良いか分からない」と告白しています。この問いはそれまでのイスラエル流の祈りと、主イエスの説いた祈りが異なることに由来します。イスラエ ルの祈りは形式を重視したものでしたが、主イエスは祈りをその形式から開放しました。それにより私たちは以前よりも自由に神様に語りかけることができるよ うになりましたが、その分、祈りは難しいものとなりました。

しかし、祈りの真髄はこの「どう祈って良いかわからない」「祈り方を教えて下 さい」という心にこそあります。パウロは「私たちは何を祈るべきか、どのように祈れば良いか知らない(ローマ8:26)」と告白し、そして「聖霊の助けを 求めるように」と勧めています。言葉にならない、言葉にできない、そんな「うめき」を聖霊が祈りとして整えて下さいます。それが神からクリスチャンに与え られた最大の賜物であり、神の臨在の証でもあります。そしてこの点が、クリスチャンの祈りと、他の人々の祈りとの圧倒的な相違点なのです。

パ ウロは祈りの困難さを誰よりも痛感した器でありました。彼は様々な困難と迫害を経験し、テサロニケ教会に訪問する計画を一度ならず二度までもサタンによっ て妨げられました。祈っても、祈ったようにならないことはあります。望むものはすべて与えられる、祈れば祈ったようになる、とも聖書には書いてあります が、このように私たちはしばしば、神の沈黙を経験します。この矛盾。パウロは誰よりもこの矛盾を突きつけられた器でありました。この矛盾により、祈りは時 に嘆きに変わります。主イエスの祈りさえ、聞かれないことがありました。それ故の嘆きが十字架の上の「エリ、エリ、レマ、サバクタ二(神よ私をお見捨てに なるのですか)」です。

しかし、主もパウロもこの聞かれない祈りをなおも信仰を持って祈り続けました。嘆きと化した祈りは上述の「うめ き」となります。そしてこの「うめきの祈り」、もはやどう祈って良いかさえ分からないような時の言葉にならない祈り、それこそが祈りの真髄です。パウロの 「うめきの祈り」はテサロニケ教会に注がれる愛となりました。この「うめきの祈り」を聞いて神はテサロニケ教会への愛を増し加えて下さいました。パウロの 祈りにより、テサロニケ教会は祈りの共同体=愛の共同体となりました。祈りが聞かれないことにより、祈りは嘆きとなり、うめきとなりましたが、その「うめ きの祈り」によって、パウロの願いも、主の願いも、願った以上に叶ったのです。

互いに祈り合うこと、これは非常に大切なことです。誰かの 名を挙げて祈ることは、自分の心にその人を受け入れるスペースを用意することに他なりません。祈りなしにそのスペースは生まれません。そのスペースは自分 で用意するものではなく、神に願って、神に与えてもらうものだからです。パウロはテサロニケ教会に対して「信仰の不足を補いたい」「互いの愛が増すよう に」「聖なるものとなるように」と祈る一方で「私のために祈って欲しい」とリクエストもしています。自分の心の中にテサロニケ教会のためのスペースを豊か に備えると同時に、テサロニケ教会の人々の心にも、自分のためのスペースを求めたのです。この姿こそ、祈りの共同体を形成するものの姿です。教会員が互い に名を挙げて祈り合う関係の中にこそ、正しい愛の共同体が形成されるのです。

言葉にならなくてもいいのです。「ああ神様」と呼びかけるだ けでよいのです。「あの人のために」と思うだけで良いのです。後は聖霊があなたのうめきを取りなして下さいます。そのことが神様と自分との関係の基礎であ り、自分と隣人の関係の基礎となるのです。祈りなしにはどんな関係も真には成立しません。とにかく、少しずつでも祈って下さい。必ず豊かな恵みがあるはず です。

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今日からアドベントに入りました。いよ いよ教会もクリスマスモードに入ります。今日は教会の外壁にイルミネーションをつけましたが、赤と緑のイルミネーションが切れていて、青だけしかありませ んでしたので、なんだかホタルイカの群れみたいになってしまいました。しかし、いいんです。クリスマスはそもそもきらびやかなものではないのです。主イエ スが生まれたのは真っ暗な馬小屋の中です。きらびやかさよりも、心が豊かに祝福されるクリスマスをお迎え下さい。

・・・・とか言いつつ、来年は赤とか黄色とかのイルミネーションをちゃんと用意しようと思いました。

それではまたいずれ。主にありて。