吉田拓郎 フォーライフ・ヒストリー 〜 NHKアナザーストーリーズ番外編 〜 | Kou

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音楽雑感と読書感想を主に、初老の日々に徒然に。
ブログタイトル『氷雨月のスケッチ』は、はっぴいえんどの同名曲から拝借しました。

 以下はタイトルにもあるように、3月に放送されたNHKの番組「アナザーストーリーズ」の"番外編"です。放送をご覧になった方、あるいはフォーライフというレコード会社をご存じの方なら、興味をもっていただけると思います。

 

 資料としては、「吉田拓郎 挽歌を撃て」(石原信一著)を主としました。フォーライフ発足の5年後に発刊された本です。吉田拓郎社長在任中に書かれたもので、まさにリアルタイムのフォーライフが記されています。ここから当時の状況や拓郎さんのことばを数多く引用し、また、以下に掲げた他の資料も組み合わせて構成しました。今から半世紀近く前、話題を呼んだレコード会社の事の推移を、番組以上に知っていただけるはずです。

 

 一方、放送の直後、拓郎さんは自身のラジオ番組で、アナザーストーリーズを痛烈に批判しました。番組の趣旨や取りあげ方が気に入らなかったらしく、数十年来のうっぷんを晴らすかのように過激なことばを並べ立てました。その矛先はかつての仲間にも向けられたほどです。ですが批判することは、図らずもフォーライフをあらためて語ることになりました。これもまた貴重な証言であると、その文字おこしを追記させてもらいました。

 

 当時拓郎ファンであった自分にとって、フォーライフは鮮明な記憶として残っています。ですが拓郎さんにとっては、できれば消し去りたい過去のようです。いらぬお節介であることは承知していますが、吉田拓郎という稀代のアーティストにとってフォーライフとは何だったのか。NHKがあえて掘り起こしたように、拙文もその記録のひとつとしてお読みいただければと思います。

 

 

 

引用・参考資料

 執筆者および出版元に深謝します

『吉田拓郎 挽歌を撃て』 石原信一著

『ヤング・ギター・クロニクル 吉田拓郎これが青春』

『吉田拓郎 終わりなき日々』 田家秀樹著

『自分の事は棚に上げて』吉田拓郎著

『ふたたび自分の事は棚に上げて』吉田拓郎著

『もういらない』吉田拓郎著

『俺だけダルセーニョ』吉田拓郎著

『地球音楽ライブラリー 吉田拓郎』

『吉田拓郎読本』

『オールナイトニッポンゴールド』2022.3.11

 

 

 

 

 

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 フォーライフレコード。この世間を騒がせることになったレコード会社はどのように設立されたのか。端緒となったいきさつを、吉田拓郎はこう語っている。(以下、引用欄は拓郎のことば。断りのない限り80年発刊の『吉田拓郎 挽歌を撃て』から)

 

フォーライフは一ヵ月で決まった。CBSソニーとの契約が切れるので、おれが再契約するかどうか検討している時、小室(等)さんから電話があってね。レコード会社やらないかって言うんだよ。だから発案者は小室さんだし、その時は実は大スポンサーがついていたんだよ。何億円でも出すっていう、土地をいっぱい持ってるAがいてね。それで、小室さんとおれの二人でやってくれって。最初は小室さんだけでもよかったらしいんだげど、小室さんがスポンサーに吉田拓郎を知ってるかってきいたら。知ってるっていうんで、おれにも声をかけてみたいということになって二人になったわけ。それで、おれが小室さんに、参加するとしたら条件出してもいいかって言ってさ、秘書2人に電話1台、部屋をひとつくれって冗談で言ったんだよ。それに給料はCBSソニーの何倍かくれよって。そしたらOK、それでスポンサーに話してみるよってことになってね。ああ、こりゃあすげえな、これから一生左うちわで暮らせるなって思ったわけ。

 

 拓郎は、おもしろおかしく話している。だがそれなりの動機があった。CBSソニーで拓郎は、ワンマンレーベルである「オデッセイ」を立ち上げていて、プロデューサーとしても契約していたのだが、その権限はあいまいだった。レコーディングでは主導権を握っていたが、販売や宣伝面には口出しできなかった。プロデュースしたバンド、「猫」についても思うようにならなかった。そんな折り小室から電話があり、話に乗った。

 

 この前年、拓郎が婦女暴行容疑で逮捕される、いわゆる金沢事件がおきている。これは冤罪事件であったのだが、対応に奔走したのが、拓郎が所属するユイ音楽工房の顧問弁護士久保利英明だった。久保利は小室の話を酒場の与太話だと思った。だが設立されたフォーライフの監査役に就いている。参加したのは後藤由多加の存在だった。後藤は早稲田大学在学中にユイ音楽工房を設立し、拓郎やかぐや姫らをマネジメントしていた。フォーライフでは副社長となり、実務を取り仕切った。82年からは拓郎の跡を継ぎ、3代目社長を務めている。

 

後藤は、最初はまったくメンバーに入ってなかったんだよ。でも、あいつはそういうところが閃くのね。自分が除外されてるってことが憤懣やるかたないって雰囲気で、ある席に来たわけ。酔っぱらってね。それでその席に来た時、もう資料をいっぱい持ってきていたわけ。おれたちよりはるかに多くのね。後藤の話を聞いているうちに、あれ、こいつおれたちよりずっと詳しいや、やっぱりこいつもいた方がいい、っていう気にさせちまった。勢いでその気にさせたんだよね。そこで、じゃあ後藤にこの会社作ることに関してはみんな任せるか、みたいになったわけ。おれが泉谷をくどき、小室さんが陽水を引っぱってきたけど、あとは全部後藤が走りまわってまとめたんだ。それで、やっぱり自分たちがオーナーにならなくちやダメだということになって、スポンサーも切ろう、おれたちで金を出しあってやろうということになった。で、資本金は確か三千万かな。最初は何億もの会社になるはずのものが、金出さなくてもいいっていう話が結局身銭切ることになってさ、いろいろ苦労して、ひどいもんだよ。今でも酒飲むと、あの何億円って話にのっておきゃよかったな、あの人元気なの、みたいな冗談が出るよ。

 

 

難航

 

 フォーライフレコード設立は、後藤が取り仕切った。だが前面に立ったのは、小室等、吉田拓郎、井上陽水、泉谷しげるであった。彼らはミュージシャンであると同時に、取締役兼プロデューサーとして経営にあたることになった。

 

 まずは社長を選任しなければならない。ミュージシャンのレコード会社であるという基本精神を貫きたい。だから小室らの中からの選ぶことになった。4枚の紙が用意された。各自、社長にふさわしい人の名を書いた。開票となった。小室が4票をとった。陽水が笑いながらぼやいた。「小室さん、あんた自分で自分の名前書いたの。せめて3対1だったら可愛気があったのにねえ…」。

 

 こうして準備が進んだのだが、発表を前にしてマスコミに洩れてしまう。たちまち音楽業界は騒然となった。既存のレコード会社が新しいレコード会社の誕生を拒絶したのだ。フォーライフが前例となれば、ミュージシャンの自立を促進し、業界の秩序が大きく変えられてしまう。つまりは、カネの問題であった。4人に去られるなら、レコード会社の売上低下は必至であった。特に陽水はドル箱スターだった。その74年のレコード売上高は、所属するポリドールの国内盤売上のほぼ半分だとされる。彼が抜けることは、まさに死活問題であった。拓郎の脱退も、CBSソニーにとって痛恨の出来事であった。

 

 レコード業界は反攻の狼煙を上げた。レコードを制作するには、マスター・テープを作らなければならない。そこまでならスタジオさえあればできるだろう。だが音源を塩化ビニールにプレスして初めてレコードとなる。プレス工場は日本には2社しかない。それは大手レコード会社の傘下にあった。フォーライフのような異端のレコード会社からの受注を、プレス会社は拒否した。

 プレスは専門知識と設備がなければできない。自前のプレスエ場を持つには資本がいる。フォーライフは韓国のプレス工場への委託を考えた。貨物便の経費はかかるが、人件費は日本より安い。だが問題はまだあった。販売をどうするかであった。大手レコード会社はそれぞれ独自の販路を持っている。レコード会社からレコード店まで、音楽産業界の決められたルートがあった。これを無視して、フォーライフのレコードが店頭に並ぶことはない。フォーライフは追い込まれた。だがそこに救世主があらわれた。ポニーキャニオンが手を差し伸べてくれ、プレスと販路を引き受けてくれた。

 

 

 

設立

 

 こうして、75年4月11日、フォーライフレコードの設立記者会見が開かれた。拓郎、小室、陽水、泉谷がしっかりと握手する姿がスポーツ紙の芸能欄を飾った。一般紙も報じた。フォーライフは大きな社会現象であった。「フォーライフ、私たちに音楽の流れを変えることが出来るでしょうか」。さわやかなキャチングであった。

 

 だがこのフレーズの奥には、先述の、旧来の音楽産業を敵にした抗争があった。船出はしたものの、あまりにも危険な賭けであった。4人のミュージシャンだけなら闘うこともいいだろう。だがフォーライフは彼らだけのものではなかった。新しい音楽にははせ参じた総勢22人の社員がいた。拓郎たちの若い情熱に共感し、大手レコード会社から移った者もいた。未知数の可能性に夢を膨ませる若い新入社員がいた。生活の保証をしなければならない。いたずらに無謀な戦いはできない。勝つ戦いをしなくてはならない。だが、そんな内外の杞憂をよそに、当の4人はいたって楽観的であった。

 

フォーライフをつくった当初はお祭り騒ぎというか、企業を経営していくというより、極端にいうとクラブ活動を始めたという感じだった。社長室に何を入れようかとか、プロデューサー室に二段ベッドを入れたら面白いとか、そんなことばかりミーティングと称して話していた。音楽の話はあんまりしなかったね。4人それぞれの音楽性についてはまるで干渉しなかった。それは自分のテリトリーの話だから。その辺はやっぱりライバルだからね。


 取締役プロデューサーとなった4人は、フォーライフ設立を祝して銀座にくり出した。銀座で飲んだことなど、拓郎は数えるほどしかなかった。レコード会社の接待や、プロダクションとの打ち合せでしかなかった。自分で金を払ったこともほとんどなかった。腹の出た中年の社用族が企業取引で使う場であると思っていた。長髪にジーンズ姿の若者とは無縁であった。しかし身なりはラフでも、れっきとしたレコード会社の社長と取締役である。札びらを切れば立派な銀座の客なのだ。


 4人はとあるクラブの扉を押した。中央のボックスにどっかと腰をおろした。女たちはその風体に驚いたが、すぐに嬌態をつくって側についた。拓郎は銀座でのわずかな経験で、艶っぽい話が受けるのを知っていた。下半身の話を始めた。しかし受けたのは女たちにではなく、他の3人の取締役たちにであった。男たちの野太い笑い声が、静かなクラブの雰囲気をぶち壊した。


 泉谷が店の弾き語りのギターを手にした。大声で歌いはじめた。「ちょっと、いいかげんにして下さい」。クラブのママが顔をしかめた。「おれたち4人がそろって、こうして歌ってやるってことはめずらしいんだぞ」。泉谷は食ってかかった。ママは、アイスペールの氷を握ると4人に向けて投げつけた。彼らは氷を拾い投げかえした。罵声が飛び交った。店の女たちも4人に氷をぶつけた。拓郎の投げた氷がカウンターにはねかえって、コロコロと自分の方に転がってきた。

 

 

 

クリスマス

 

 75年6月に誕生したフォーライフレコードは、翌76年3月の決算で31億円を売り上げた。社員も30人に増えた。年商100億円は、マスコミが4人のピーク時の売り上げを単純計算した数字であったが、その3分の1の業績をあげたことは評価された。


 具体的には、75年8月にまず泉谷がシングルとLPを発売。9月に拓郎がシングル『となりの町のお嬢さん』をリリースし、いずれもヒットさせた。翌年3月に発表された井上陽水のアルバム『招待状のないショー』は、オリコンのアルバム・チャートで9週間連続で第1位にランクされた。拓郎は5月にLP『明日に向って走れ』をリリースし、3週連続1位になった。ほぼ3ヵ月間、フォーライフのアルバムが1位を独占したことになる。

 

 この時期拓郎は、TBSのスペシャル番組「セブンスター・ショー」に出演。全国14力所のツアーを開始するなど、精力的な音楽活動をみせた。勢いに乗った拓郎は、念願であったプロデューサとしても始動。フォーライフレコード第1回新人オーディションの合格者である、川村ゆうこのプロデュースを手がけるなど、精力的に動きまわった。しかしそんな勢いに乗った暑い夏の日の会議室で、ある提案が議題に上った。

 

あの頃はプロデューサー会議っていうのがあってね。ああでもない、こうでもないって。いつも会議やってたんだけど、ちっとも進まなくてさ。で、なんかの拍子で、前からあたためていたものなんだけど、おれ、クリスマスのレコード作りたいんだ、という話になってね。一人で作ろうと思ってたんだけど、話してるうちに、じゃあ4人でやるかってことになってさ。そうなると会社としても盛り上がっちゃうじゃない。四巨頭が一緒にレコード作るとなると、当然こりゃ相当な売り上げになるって読みになるよね。4人のファンがそれぞれみんな買ってくれたら、すごい枚数になるって。

 

 クリスマスのアルバムは、拓郎個人の企画だったのだ。クリスマス・アルバムというのは、欧米のロックやポップスに携わる者にとって夢のような誘惑であった。エルヴィス・プレスリーにしろ、スティーヴィー・ワンダーにしろ、クリスマス・アルバムを作れることは、ビッグ・アーティストならではのステイタスだった。

 拓郎には、歌ってみたい曲があった。企画ものでもないと歌えない曲だった。ディランの「風に吹かれて」だ。それは、まさしくクリスマス・プレゼントだった。後藤ら会社の他の主なメンバーは、クリスマス・アルバムに反対した。だが創設メンバーに押し切られてしまう。

 

4人の取締役がやろうって突っ走ったんだから、誰ももう止められないよね。レコード会社作ってまだ一年目ぐらいの時だから。おれたちにはまだ商売なんてことが全然わかっていなかったしね。なんだか知らないけど、なんか会社やってるみたいな、みんな。イニシャル枚数を決める時なんかメチャクチャだったもんな。何百万枚にしろってさ。営業サイドが「それはちょっと多すぎます」って言うと、「いいよ、うるせえ、『かぐや姫・フォーエバー』は何枚売れた? あんなのすぐ抜くんだから、どんどん作っちゃえ」ってね。もう強気だった。

 

 拓郎らの無茶な要求を抑え、営業が出したイニシャル・プレスは30万枚であった。これでも当時の常識外だった。10万枚で大ヒットの時代であり、あくまで強気だった。さらには早い者勝ちとし、30万枚の限定販売とした。

 

 こうして76年11月10日に発売されたアルバムは、22日付けの週は1位となった。だがそれだけだった。トータル10万にも満たなかった。それぞれのファンは、4分の1しか入ってないレコードは買わなかった。結果、この大赤字がフォーライフをぐらつかせた。年が明けて2年目の決算では8億円の赤字となり、フォーライフの屋台骨を揺さぶることになった。

 

やっぱりおれが一番あおりを食ったよ。『ぷらいべえと』っていうレコード、あれは会社が大左前になっていてさ、年度末までにレコード作ってもらわなきゃどうにもならんって言われてね。だから大急ぎで始めたんだけど、スタジオもミュージシャンも時間がなくて押さえられなかった。仕方なくスタジオは夜中の0時過ぎからのレコーディングでね。もうそれしか時間取れないんだから。それも毎晩。そりゃ眠くなっちゃうよ。メンバーにしても仕方なく昔から知ってる仲間に頼んでさ。ドラムほとんど叩いたことがない奴がドラム叩いたりね。で、『くちなしの花』なんか歌ってるんだもの、もう地獄のレコーディングだったよ。


 シンガーソングライターのアルバムなら自作の歌が基本である。だが『ぷらいべえと』の収録曲は他者の歌が多い。急ごしらえゆえ仕方がなかった。一種の遊びのレコードだった。レコード・ジャケットも、拓郎がキャンディーズの伊藤蘭をクレヨンで書いたもの。レコーディングではアマチュアも演奏している。通常のクレジットに記される、ミュージシャンやスタッフの名がないのはそのためだった。しかし皮肉にもよく売れた。営業はパート2を作ってくれと頼んだ。だがそれだけは拓郎も頑強に拒絶した。

 

 『クリスマス』で窮地に陥り、『ぷらいべえと』でいくぶん持ち直したものの、業績は好転しない。社内の空気は暗かった。レコードの売上高は、過去の彼らに比べれば、平行線ないしは下降線をたどっていた。普通の会社なら、歌謡曲や洋楽のヒットでカバーできる。あるいは年間数十人という新人を売り出すのが常なのだが、フォーライフは2年間で5人しかデビューさせていない。小室の経営姿勢に問題があった。

 

初代社長の小室等さんの時代、非常に不景気だったわけ。バブルを迎えようとするときに、社長が頑なな人でねえ。正義の塊みたいな人たった。毎朝会議で「社会と相反する行動をしちゃいかん」と。それが高じて「レコード作っちゃいかん」みたいなところまでいくわけ。「塩化ビニールを使っちゃいかん」と。「え、塩化ビニール使っちやダメなんですか?」「それは公害の元なんだ」って社長の訓示がそこにいっちゃう。いまならね、インターネッ卜があるから音源の配信を考えるだろうけど、あの頃はレコードを作るのに塩化ビニールを使わざるを得ないからね。

 

 小室の姿勢はあまりにも浮世離れしていた。社内の雰囲気も暗かったという。創業メンバー4人の考え方も合わなかった。危機意識も異なった。陽水は性格上、我関せずであったし、逆に泉谷は社長を俺にやらせろと言い張った。そうなると、拓郎が出ざるを得なかった。

 

小室さんは性格的に、いろんな人の意見を幅広く聞く人だから、普通、3ヵ月で出るレコードが1年以上もかかってしまうこともあった。おれたち4人がすったもんだやるからね。それじゃうちの社員がみんな食えなくなる。会社つぶすのだけはまずい。それでおれみたいな暴力的なバカがやった方が、少しはましなんじゃないかって単純に思ってね。

 

それで小室さんに話したんだ。「会社変えましょうよ」と。「俺に(社長を)やらせてくれない?」と。それで、各アーティストのプロダクションの社長と8人いる株主を呼んで「何月何日付けから俺が社長をやるから応援してくれ」という話をした。それで応援できないという人も、もちろんいた。だから「応援できない人には辞めてもらう」って言ったよ。地獄だったね、本当に。 だって、人を切る作業って、すごく大変なんだよね。その作業を、1ヵ月以内
に片付けようと。俺はせっかちだから、1ヵ月以内に人に会って話したりした。「応援できない」っていう特定の人物の息のかかった社員、いっぱいいるわけよ。全員辞めてもらった。それが大変だった。フォーライフが生き残っていく方法としては、ある種不穏分子は切るしかないというのが、当時の俺の哲学たった。やる以上は俺のやり方でやるしかないと。
それこそみんなの意見を聞いてバランス取って、なんてできっこないよ。

 

 

吉田拓郎社長

 

 77年5月13日、渋谷のフォーライフレコードの地下にあるスナックで、小室等から吉田拓郎への社長交代の記者会見が開かれた。小室が業績不振の責任をとる形となった。拓郎が泉谷と陽水に承諾を求めたとき、「それしかないのか」と、泉谷は寂しく言った。「もっと誰かいないのか。拓郎じゃない方がいい」。陽水も反対であった。だが、拓郎は押し切った。それは決して権力にあこがれての社長の椅子ではなかった。

 

 記者会見場には拓郎と小室の姿しかなかった。拓郎は代表取締役になったが、他は3人は取締役を辞任し、経営から手を引くことも発表された。この社長交代劇を、レコード業界は冷ややかに受けとめた。拓郎のワンマン体制となり、フォーライフは崩壊するとも見られた。だが拓郎はそのような空気を気にする余裕もなかった。社長業に邁進するしかなかった。

 

 泉谷のフォーライフ脱退が表面化したのは、それから間もないことであった。「言うことと、やってることがまるでちがうじゃねえか!」。泉谷はタンカを切った。拓郎がフォーライフ当初の路線から、既成の芸能界寄りになっていくことに、言いようのない悔しさを覚えた。自分たちのユートピアであるフォーライフが、色褪せていくように見えた。

 

フォーライフが初期の破天荒さでやっていけなくなったから、泉谷は去っていった。おれが会社を守っていかなきゃ駄目だ、守りに入らなきや駄目だと言った時に、泉谷はつまんなくなって脱けていった。泉谷はそういうつもりで参加したわけじゃなかったからね。もちろん、おれも陽水も小室さんもそういうつもりの参加ではなかった。でも会社がやっていけなくなった以上、ヘッドとしては考えなきゃいけないわけよ。でも泉谷はそれをよしとしないわけ。そりゃものすごくわかるんだよ。おれだってよしとしないって言いたいわけだから。そう言いたいんだけど、おれは泉谷みたいにできない性格だから、じゃあここは守りにまわるぞ、大手と手を組むぞ、CBSのマネをするぞみたいなね。何と言われようと会社を守ろうと思ったわけ。それはおれの理想でも何でもないわけよ。全然得にはならないんだから。

 

 フォーライフのスタッフの中には、泉谷を裏切り者と呼ぶ者もいた。だが拓郎は、泉谷こそわが友だった、という感慨で彼を見送った。

 

おれが喧嘩してさ、助っ人を頼んだとする。喧嘩の理屈も聞かないで駆けつけるのが泉谷だろう。小室さんや陽水は一瞬考えて、理屈があったら来る。小室さんと陽水とは一回離れたらもう会えないと思うが、泉谷とはそんなにヘビーじゃないんだ。いまだに奴はおれにとって最高の後輩だし、最高のテーゼを与えてくれる男さ。

 

 拓郎にとって喧嘩の生理まで共有する泉谷を、親友と呼ぶべきかどうかはわからない。冷静な判断を下してくれる友、小室や陽水こそ必要なのだから。だが、泥酔してまったくの孤独に突き落とされた時、甘ったれ気分といわれようが、拓郎は差し伸べた手を握ってほしいと思う。ばかばかしい軽薄さでもいいから、男同志などという気分で短絡してみたい。

 

しょせん、次男、三男は社長になんかならねえんだよといった気持が、おれに泉谷に何でも相談させていた。金から女までさ。だが、そのおれが社長になっちまったら、泉谷は好き勝手出来ないよ。自分を抑さえられないとしたら、出るしかないじゃないか。おれと泉谷の立場が逆だったら、きっとおれも出ていただろう。

 

 拓郎はこの時期、浅田美代子と再婚している。ハワイで挙式し、永田町ヒルトンホテルで結婚披露宴がおこなわれた。南こうせつと山本Jウタローの司会で宴は軽妙に進行した。三百人の招待客の中には、音楽業界経営者の顔も見えた。それは拓郎が、いまやレコード業界の一翼を担っている男であることを意味していた。


 だが、拓郎の新社長としての初仕事は思わぬ形でやってきた。77年9月10日、警視庁保安二課は、井上陽水を逮捕したのだ。マリファナ・パーティーに参加した、大麻取締法違反容疑だった。この日の午後、拓郎はフォーライフ社長として、緊急記者会見をした。そして「陽水の逮捕が社会に与えた影響は大きい。社長としても不徳の致すところです」と謝罪した。また一方で東京地検に出向き、陽水の音楽的な業績を検事相手に力説し、求刑軽減の嘆願をおこなっている。

 

 事件に対応した久保利弁護士は語る。「拓郎は非常に熱心だった。陽水は法を犯した。あとは嘆願しかない。これは拓郎が一番嫌う行為のはずです。しかし社長としてやらなきゃならない。彼の生き方としては非常にジレンマがあったと思います。自分のことでは人に頼み事をしない人が、フォーライフのために、社長としてやらなければならない。それを拓郎はやってのけました」

 

 陽水の事件の二ヶ月後、拓郎はアルバム『大いなる人』を発表した。しかしこの時期、ステージ活動はおこなっていない。ライブ活動から吉田拓郎は消えた。ミュージシャンでありながらも社長である立場は、ステージに立つことを許さなかった。髪も短く切り、歌をやめてもいいと半分覚悟した。

 

 拓郎は社長業に汗を流した。地方のレコード店の店主と会い、食事をすることもあった。売れない在庫を責められた。「売りたくねえんだったら、売らなくてもいいよ!」と口走りそうになると、「社長、押さえて押さえて!」と社員に制止された。業界の重鎮から「お前なにやってるんだ。バカヤロー」と怒られたこともあった。午前2時や3時に「いまから来い」と電話がかかってくる。行くと説教された。「会社ごっこは楽しいか」といじめられ、しかし可愛がってももらえた。

 

いわゆる社長付き合いっていうのをやった。お得意さんとゴルフに行ったり、いろんなプロダクションの社長と会って酒を飲みに行ったり、レコード会社の社長と食事したりとか、そういうことが多かったね。でもそれはそれで結構面白かったしね。だから後藤も一度も会ったことのない人たちとも積極的に会っていたよ。ナベシンさん(渡辺プロ社長、渡辺晋)とか、ホリタケさん(ホリプロ社長、堀威夫)とかね。会ってみるとみんな思ってたより奥が深すぎてさ。話をするにはおれはまだ勉強たらんなって気持になったね。

 

 だが社長としての限界を感じたのは、業界内部の深層には、自分は入り込めないと悟ったときだった。フォーライフはレコード協会に入ってなかった。打倒CBSソニーを標榜するなら、同じ土俵に乗らないといけない。だが自分は、そこで闘う器ではないとわかった。フォーライフは最高なのだという意識のもとに彼らとつきあおうとしたが、それだけでは駄目だった。

 

 一方、拓郎はお飾り社長ではなかった。週一の訓示を、社員全員あつめておこなっている。下から上がる報告や数字もすべて見た。社員の高い外食昼飯代を知り、弁当まで手配し、それくらいは自分たちで選ぶと反発されたりした。制作された作品もチェックした。納得いかないものもあったが、諸事情を知ると了承せざるを得なかった。昇級やボーナスの査定もおこない、役員給料は一気に下げた。情に流されまいと鬼になった。社内改革もおこなった。社員も50人以上に膨れあがっていた。だがバラバラだった。横の線ばかりで、縱のラインを引かねばならない。命令系統や責任系統をはっきりさせる。そのためにはまた馘首もおこなった。人の生活を奪う。それが辛かった。

 

 

 

プロデュース

 

俺がフォーライフレコードという会社を作った狙いは、全権を持ったプロデューサーがしたいと思ったから。CBSソニーではできなかったからね。当時の体制では、一ミュージシャンがプロデューサーになるなんて許されなかった。会社のディレクターが強くて、大きな力を持ってた。全然、俺の自由なんて利かないわけよ。当時、俺は営業から宣伝から、すべてにおいて発言権を持ってやりたいと思ってた。でもCBSソニーという会社は、レコーディングの現場は俺が主導権を持てるけど、宣伝とか営業に関してはいっさい口出しができない。俺の権限は、音源を作るまでで終わり。そんなの意味ねえやって。俺、クレジッ卜上ではプロデューサーだったけど、本当はもっと口出したかった。宣伝でも、「こうやって売れ」とか「こういう対策を練ろ」って、もっと言いたかった。だからずっとCBSソニーには不満を持ってたんだ。そんなときに会社作らないか、って話があったから、「じゃ、俺こうしたいんだ」と。「俺が全権握ってやりたい」と。そしたら、会社作りを提案してきた側がOKを出した。俺の夢だったからね。俺が全権握って宣伝から営業から文句を言わせず「こうしろ、俺が作った新人なんだから、こうやる」っていう、ソニーの中ではできなかったプロデュース・システムで会社ができる。それでフォーライフに参加した。

 

 社長就任の前年、拓郎がプロデュースした新人がデビューしている。76年4月、キャッチ・コピー「5人目のフォーライフ」で売り出された、川村ゆうこである。フォーライフレコード第1回新人オーディションのグランプリ・シンガーだった。拓郎には確固たるその信念があった。プロデュースを通じ、ひとりの人間をつくることであった。しかし音楽プロディーサーとしての信念は、誤解を招くもとになった。

 

 拓郎はゆうこをディスコに連れていくことがあった。汗まみれになって二人で踊った。酒も飲ませた。ブルースに合わせてスローに踊るとチークにもなった。それは人目には恋人同志のように見えた。女をだます手馴れた男と映った。音楽プロデューサーと新人シンガーの関係とは思えないと、拓郎は非難された。職権濫用との言葉や、嫉妬まじりの中傷もあった。だが拓郎は弁解しなかった。「そうだよ。惚れてるんだから。あの娘とわかり合いたいんだよ」


 ゆうこのデビュー曲『風になりたい』は8万枚売れた。一応の成功であった。拓郎が得たものは満足感ではなかった。

 

おれ流に善意を示そうとすればするほど。真面目にやればやるほど反感をかってしまう。どうしてかな。それはとても辛いことだよ。思い入れが激しすぎるのかもしれないが、歌手がいて惚れてしまって。こいつはいけると思ったら。おれは本気で考える。おれの持ってるものを全部やりたくなる。おれが犠牲になってもいいと思う。それがまわりに、なんでそんなとこまで首つっ込むんだとか、でしゃばるなって言われてしまう。でもさ、30、40ぐらいのおっさんが、17、18ぐらいの娘連れて頭下げて歩くの、楽しいと思うかい。それは会社を思っているからだとか、仕事が好きだからだなんて嘘だよ。その娘を大きくしなきゃと思ってるからなんだよ。その娘に惚れてるからだよ。いやらしいとか、デキてるとか、すぐに考える、いかんよ。おれはそれがふつうだと思っている。みんながおかしい。

 

 

原田真二


 川村ゆうこが選ばれた新人オーディションに送られてきたテープは、全国から2千本以上にも上った。この中に気になるテープがあった。多重録音で凝りまくったミキシングの音に、戦闘的な詞がかぶさっていた。連呼するような歌唱であり、メロディ・ラインもハードで挑戦的であった。


 5次審査まであるオーディションで、このテープは1次ではずされていた。だがスタッフのひとりが興味をおぼえ、容姿を知りたいと連絡した。送られて来た写真を見て、唖然とした。少年としか思えぬあどけない若者の顔があった。名前は原田真二、広島市在住の高校2年生であった。


 拓郎はこの若者に、ハイティーン時代の自分を嗅ぎとった。高校・大学でバンド活動をしていた自分とよく似ていた。真二をプロデュースしたいと思った。真二が青山学院大に入学した77年春、拓郎のプロデュースが始まった。アパートの部屋探しから拓郎は関わった。真二の両親を東京に招き、息子の将来性を熱っぽく語った。この年の6月、拓郎はフォーライフの社長となっている。真ニのプロデュースは、拓郎主導のもとに成されることになった。


 クリスマス・レコードの惨敗でフォーライフは再建をせまられていた。拓郎はファニーフェースの真二をフォーライフのアイドルとしてデビューさせることにした。テレビ・ラジオなど主要メディアのみならず、あらゆるマスコミに売り込みをかけた。フォーライフは、当初の方針からは考えられない新路線に舵を切った。


 泉谷のフォーライフを脱退した理由は、このメジャー・ラインへの転向であった。拓郎は、既成の音楽業界システムに倣ったスター作りを指した。一方で、手堅い経営者となるならば、真二に熱くなってはならなかった。客観的な商品として、冷静に判断する必要があった。

 

 6月、拓郎は真二のために伊豆で合宿を張っている。作詞の松本隆、アレンジャーの瀬尾一三を動員し、真二の音楽感性を最大限引き出そうとした。歌謡ポップスのヒットメーカーである筒美京平のレコードを毎晩真二に聞かせた。プロの作曲家が、いかに緻密な計算で楽曲を創作しているかを説明した。旧弊の歌謡界であっても、優れているものは素晴らしい。

 

 もとより、真二の素養が素晴らしかった。拓郎がデビュー前に置かれていた音楽環境より、数段進歩した状況が真二にはあった。拓郎の読みは当たった。斬新なメロディ・ラインが飛び出してきた。「こいつは天才だ!」。シングル盤3枚分の曲がたちまち出来上がった。

 

 拓郎は次に、真二のバックバンド作りにあたった。同じ広島出身で、拓郎のバックを担ったこともある元「愛奴」の青山徹を中心に編成した。ロック色の強い青山とポップス感覚の真二のハイブリッドを狙った。だが真二は、ハイティーンの若者がそうであるように、突っ張り、背伸びした。異なる音楽指向の、個性の強い二人の若者は衝突した。仲介に入るのはいつも拓郎だった。

 

 川村ゆうことがそうであったように、拓郎は真二をどこへ行くのも同道させた。飲み歩くのも常だった。多くの人に真二の才能を知ってほしかった。会う人ごとに紹介する言葉は、「真二は日本の財産だ。天才だ!」だった。しかしそれは、明らかにオーバーランしていた。ゆうこ以上に真二にのめり込む拓郎を、あきれた目で見る者が多かった。遂には真二の親からも、干渉が過ぎるとクレームを出るほど、無償の愛にも似たプロデュースは続けられた。


 真二のシングル『てぃーんずぶるーす』『キャンディ』『シャドウボクサー』の3枚は、77年10月から毎月1枚という、異例のローテーションで発売された。これは拓郎の発案であった。絶対の自信あってこその、冒険的な販売戦略だった。果たして拓郎が予期した通り、真二のルックスとポップス感覚はたちまちブームとなった。3枚のシングル盤は、120万枚という驚異的な売れ行きをみせた。


 78年2月発売のLP『FEEL HAPPY』もヒットチャート1位になった。人から見れば狂気のごとく思われたセールス・プロモートも、拓郎にしてみればいたく真面目なことだった。拓郎のプロデュースは世の常識と抗い、拓郎はこれと信じ、突っ走った。その結果、原田真二は一躍、当時、ニュー・ミュージックと呼ばれたジャンルのトップシーンに駆け上がり、そしてフォーライフの再建も可能となった。

 

 だが拓郎の周囲には、手放しで喜べない空気も漂っていた。はたして拓郎に社長としての自覚があったから再建されたのか。プロデューサーとして真二をコントロールして大ヒットにつながったのか。計算しきった設計図の上で成された行為だったのか。情熱のほとばしるまま突っ走り、たまたま良い結果を得ただけではないか。実はクリスマス・レコードの失敗と紙一重だったのではないか。彼が本当の意味での社長、あるいはプロデューサーだったのかという疑問だった。表層的には評価されるべきだ。だが、泉谷がフォーライフを脱退する時に投げかけた、既存の体制的な成功ではなかった。拓郎はやはり体制には成りきれない男だった。


 

復帰

 

 拓郎は社長就任以来、三つ揃いの背広をぴしりと着こなしていたが、突然またジーンズに変わった。1年半ぶりのラフなスタイルで、「久しぶりにステージで歌ってみようかな」。後藤に一人言のようにつぶやいた。


 78年3月、拓郎は全国15力所の小規模ツアーを行なった。4月、文化放送セイヤングのパーソナリティーを担当することになった。拓郎に変化が起きてきた。歌に対する渇望だった。自分がアーティストであるという自負が再び頭を持ちあげてきた。一度は歌もやめて徹底して裏方にまわると宣言したのだが、それを撤回しなければならなくなった。「おれってどうして、こうコロコロ変わるのかな…」。照れくさそうに拓郎は笑った。フォーライフの社長室にも姿を見せなくなった。

 

 元「猫」のメンバーでもあり、拓郎のバックバンドでサイドギターを担当していた常富喜雄は、フォーライフ制作部にいた。常富は拓郎の意を察し、2枚組LPという大作を企図した。拓郎はその話に乗った。77年6月、拓郎は作詞家・松本隆、常富らとサイパンに飛んだ。新アルバムでは、松本は拓郎になりきり、詞を書く。拓郎の言葉遣い、ものの見方、思想、生きざま…それらを松本の頭に、いや肉体ごと浸み込ませるための合宿であった。


 拓郎の音楽性と松本の感性の融合。それらが混然一体となったのが、新アルバム『ローリング30』だった。収録曲『外は白い雪の夜』他、珠玉の曲ができあがっていった。10日で14曲の仕上がりという、信じられないハイスピードであった。拓郎は歌に飢えていた。8月、箱根ロックウェル・スタジオで『ローリング30』のレコーディングが開始された。まだできあがってない残りの詞曲は、現地で作ることになった。昼のレコーディング中、松本がホテルで詞を書き、夜それに拓郎が曲をつけた。まるでマシーンのような作業のように、それはスムーズに流れた。スタジオの拓郎は将棋をさしたり、久しぶりのレコーディングにもかかわらず、リラックスした状態で進行した。曲は全21曲となった。LP2枚組でもおさまらず、シングル盤を1枚付けるという大作ができあがった。

 

歌手やろうかなあ、やっぱりレコーディング楽しいなあ。と思ったね。ほら一番自分らしい落ち着き場所ってあるじやない。人間ってさ。やっぱりスタジオにいる時の自分が一番落ち着いたもんね。自分の快感ってこれだな、みたいな。毎日歌のことしか考えなくていいわけだからさ。やっぱりしびれるなあって感じあったもの。自分が作った曲でありながら、いい曲だなあって感じでさ。すごく自己陶酔があったよ。まあ、みんな自分の歌が一番だと思っているんだろうけどね。


 全21曲のうち、拓郎が10曲を自らアレンジした。フォーライフになってから、自分の曲は他のアレンジャーにまかせることが多かっただけに、その熱意の度合は手にとるようにわかった。78年11月、こうして制作されたLP2枚、シングル1枚のセット『ローリング30』は15万枚いう数字を一挙にあげた。


 79年、『吉田拓郎 アイランド・コンサート in 篠島』が開催され、オールナイトで69曲、約8時間歌い、観客2万人を動員した。



社長退任


 82年6月、吉田拓郎はツアー最中の株主総会で、フォーライフ・レコード社長を退任すると表明した。6年の在任期間であった。退任の2年後拓郎は、 『俺だけダルセーニョ』 というエッセイ集を出している。社長を辞する直前「82年春」の記述として、フォーライフへの思いを綴っている。

 

フォーライフレコードを発足させて、もう10年近くなりつつある。いろいろなことがあった。しかし、そのいろいろなことというのは、会社が誕生して、小室等から僕へと社長がバトンタッチされたあたりまでに集約されている。小室等前社長の2年間は、それは大変だった。いまだから話せるようなことが、かなりある。しかし、彼は本当に根気よく耐えた。3人(陽水、泉谷、僕)から白眼視されることもあった。が、やはり、持ち前の辛抱強さを発揮して耐え抜いた。しかも彼は理想を追ってやまなかった。現実とのギャップを直接感じながら、やはりフォーライフの理想を追った。当然のごとく、行きづまってしまう。それでも泣きごとひとついわないで、自分だけで踏んばってみせた。責任感の強い男である。そして、見事に散った。

 

あとを引きついだ僕は、オニになることだけを心にいいきかせた。みなからチヤホヤされなくたってもいい。何と呼ばれてもいい。この会社が10年後に一人歩きするためには、テメーひとりの個人プレーなど問題外である。オニになるのはつらいことである。心にもないことでも口にしなければならない。社長なんて、まったくやるもんじゃないのである。いま、わが社は、一人歩きに近い状態を進みつつある。僕がオニである必要もなくなった。月に1~2回、副社長(後藤由多加)と専務から報告を受けることもいまでは不要だし、もっといえることは、一度オニとして引き受けた仕事が、その必要性を欠いたとき、すべて終わったと判断したい。いまさら、フォーライフのシンボルもへったくれもないのだ。近い将来、自分をより自由な場所に置くつもりでいる。このことは、以前から、自分の中で不完全燃焼中だ。極端にいえば、もう、フォーライフレコード専属である必要も、僕サイドとしては、さほど感じないのだ。フォーライフヘの愛情とか、そういったこととは別の次元の話として、僕はすべてにフリーな場所を求めている。フォーライフの悪口をたたく人は、いつまでも許さない。かといって、フォーライフにいつまでもへばりついている自分も好きではない。

 

 70年、拓郎はエレックレコードでデビューし、72年、CBSソニーレコードに移籍。75年、フォーライフレコードを設立。00年にインペリアルレコード、そして09年、エイベックスレコードに移籍した。これら彼のレコード会社の変遷の中で特筆しなければいけないのは、やはりフォーライフレコードだろう。拓郎は、フォーライフを離れてから10年の後、自著『終わりなき日々』(2010年)でこう語っている 。

 

フォーライフを辞めたいなと思ったのは、あそこにいることで自分がつぶされてしまうように感じてたんですね。フォーライフが僕に求めていることがあまりに僕の現実と違っていた。それはたとえばあきらかに企画モノを作りたがる、制作費ゼロで古い曲を焼き直したり、海外でミックスをやり直してきたりとか、ともかく新しい曲をレコーディングすることよりも古いものを焼き直して、というようなことを非常にやりたがる。そういう期待のされ方っていうのは本意じゃないわけです。それでいてアーティストとしてそれを頼まれたら断れない。とくにフォーライフは自分で作ったわけで、その会社を裏切れない。だからその会社が方針として吉田拓郎の企画モノが要るんだってなった時に、そりゃ駄目だって言えない自分がいたから、それから逃れたい。そこにいなければ出そうが出すまいが知ったこっちゃないっていうのはあったからね。元社長として立場的にOKを出している自分にすごいジレンマがあった。それはフォーライフにいるからでね。いなきや、あの会社が勝手にやってるんだから関係ないよって言える。嫌だという意思表示もするし。でも、OK、NGの権限はもうないという立場になりたいと思ったことが一番かな。

 

 さらにその12年後の2022年3月、フォーライフレコードをとりあげたNHKの番組、またフォーライフそのものについて、拓郎は次のように語った。

 

先日ね、テレビでフォーライフの話をやってましたけれど、この番組をつくったスタッフをぼくはよく知っている。だからぼくにもインタビューの話があったんだけれど、冗談じゃない。そんないまごろ、あんな会社の話なんかしたくないと断りました。あのスタッフたちに言ったんです。つま恋のコンサートとフォーライフレコードの設立が、あたかも関連しているようにつくってあるけれど、関係ねぇじゃねぇかよって文句言っときました。ああいう風にまとめられちゃうと、フォーライフの4人が絡んでいたみたいに・・・。つま恋は関係ねぇよ。あの連中はねぇ。つま恋はおれと南こうせつがやった。関係ねぇよ。小室や井上は。同じ時期にやっちゃったってことだけ。

 

で、あの番組は、フォーライフは大いなる勘違いだったというのがテーマだったと、ぼくはそう捉えているんだけれど。あんなのは、若者の大いなる勘違いだった。だから番組のインタビューなんか受けなければいいと思うんだけれど、相変わらず空気は読めてないなって、ぼくは思いました、見ててね。妙にテレビでヒーロー扱いされて、美化されてね、そういうのではないんだ。あれは間違いだった。若気の至りだった。

 

だって、あのフォーライフレコードに参加した若い社員たち、家族たち、その人たちがいちばんつらい思いをしてるんだから。そのことに対しての意思表示とか反省ができないのに、インタビューなんかに応えてはいけない。おれはそう思う。だから泉谷が辞めるって言ったのは、自分に正直に泉谷は動いたって言う意味で、手っ取り早くあいつは責任をとったということなんだ。責任をとらなきゃいかん、みんな。ぼくは泉谷の脱退はショックだったけれど、たぶん一番ショックを受けたのはおれなんだけれど、そのとき泉谷に言ったのは、おれが社長やって、会社を絶対建て直してみせるから、おまえな、いま辞めるなよ、頼むよって、何回も泉谷を説得したんだけれど、まぁ泉谷は、拓郎はダチだから、拓郎が社長になっちゃうとおれとしたら言いにくくなっちゃう、付き合いにくくなるんだよと嘆いてた。それが泉谷の言い分だった。あいつの気持ちは十分理解できたんだけれど、さすがそのときは状況が状況だけに、会社を建て直さなきゃいかんと。それで、ぼくが会社の改革をやるから、それしか会社が生き延びる道がないんだから、ぼくとしても泉谷にあんまり譲るわけにもいかない。涙をのんで、泉谷を、まぁ、送りだした。非常に心は痛みましたけれど。

 

はっきりいえば、あの会社は最初から無理だった。スタートから見切り発車しちゃったってことなんだよ。それでもっとていねいなビジョンとかを誰ひとりもってないのに、行き当たりばったりで、そりゃ、無理だよ。たとえばぼくは川村ゆうことか原田真二とか、若いやつをいっぱいデビューさせて、会社がけっして4人だけじゃない、いっぱい若いアーティストがいるっていう、それが夢だったんだから。本来、プロデュースすることが。誰もそんな後輩を育てるなんて素振りも雰囲気も何もないんだもん、だってさぁ。しょうがねぇよ。

 

もっと言うと、たとえば若いアーティストの、原田真二のレコーディングや、川村ゆうこのレコーディングを現場で一生懸命やったけれど、見にも来ない、誰も。そんなのないよ。そういう若い才能とかを、フォーライフのために探したり育てたりとかをしないでさ、いつまでも夢のような話に酔っぱらってほざいてるなんて、会社の社員を思ってるなんて、それはおかしい。絶対に。言ってることは新しそうにみえるけれど、結局、企画力やアイデア力や、たとえばレコード界や芸能界や、そういうところとのつきあいとかはまったくできないくせに、なんか風呂敷ばっかり大きくなって。だからフォークって言やあOKみたいな、なんかそういう融通のきかない、それじゃ会社なんかできねぇし、誰もついてこないんだよ。誰も。ここだよ、誰もついてこない先輩になっちゃった。だめだよそんなのね。そこが問題なんだよ。音楽は必ず伝承されるものだから。若い人たちがそこを見習ってくんねえとってのがあるんだよ。そこをわかってない。あれはもう若気の至りってのが間違いなく、おれたちのミスでした。そんなこと絶対やっちゃいかん。あれを率先してやろうとした俺たちは間違っているという、そこに立たなきゃ、スタンスを。あれは間違いだったと結論づけないでさ、あれを美化しちゃいかんよ。

 

それで、ぼくは2年目から社長をやって、何をやったかというと、全国の営業、販売レコード店のご主人たちに全国行脚して回って、そのご主人たちからすげぇ在庫のことやらで怒られたりして、地方に行く度に何やってんだフォーライフって怒られて、いつも頭下げてまわって、疲れ切って東京帰ってきたら、ひとりで六本木でやけ酒飲んで憂さ晴らしてたんだけれど、そういうときにおれをサポートしてくれたのは誰かといったら、フォーライフの若い社員たちだった。そいつらが、社長ご苦労さんですって、社長飲みましょうやって、おれとつきあってくれてた。そういう関係ってのがやっとできて、そこからフォーライフという夢のような会社をつくりあげたのではなくて、会社として存在だけを考えていろんなことに手をだしたけれど、それがよかったか悪かったかは、後日誰かが判断することで、おれたちが決めることじゃないから、ただおれは、そういう道を歩んだけれど、それをだからさ、結局、だ~れもわかっていない。だからぼくは言ったじゃん、番組の最後にメールを送って、すげ~疲れたと。無駄な疲れをいっぱいしちゃったようなあの数年間、あそこにいたことで。

 

おれの本音をはっきり言わせてもらえれば、おれはCBSソニーにいればよかったよ。ほんとだよ。すげぇ、CBSソニーでも、おれ丁寧に扱ってもらっていたし、何ら不満はねぇよ、はっきり言って。あれを何かしらんけれどこっちへ引っ張り込んできた人がいたじゃないか。何だったろうって思うよ。反省しかないよ。ほんとに。

 

だから泉谷が一番正しかったね。ほんとに。あいつのシンプルな、やっぱり70年代ってのは、要するに先が見えないけれど、既成の社会や文化とかルールとか、大人たちがつくった社会をぶっ壊せとか言って、そういう雰囲気が強くて、若者に。これはまぁ、体験した人じゃないとわからない空気感だった、実は。だからあそこにいたおれたちは、みんななんか舞い上がって、誰かのせいじゃない、みんな舞い上がっていた時代。独特のあのころの風が吹いていた時代だったからね。だから若者の発言も刺激的なものが多くて、刺激を求めてもいたからね。これが70年代後半になると元気がなくなっていってね。若者だったおれたちが30歳を過ぎてしまうころには、すっかり世の中も変わっちゃって、おれたちもその中に溶け込んでいちゃって、結果的には、じつにものわかりのいい、おじさんへの道ってのをひたすらみんなが歩きはじめていたってことなんだ。

 

その後、泉谷ともつきあいは続いてさ、泉谷の企画で普賢岳のチャリティコンサートをやったり、いろんな楽しいメモリーもつくれた。やっぱりそこには、おれたちの、おれとか泉谷は、同じ釜のメシを食った仲ってのが残った。

 

 

 

吉田拓郎フォーライフヒストリー

NHKアナザーストーリーズ番外編