樺太千島交換条約 | 北海道歴史探訪

北海道歴史探訪

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FMアップル「北海道歴史探訪」
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北海道には歴史がない、あるいは浅いなどといわれますが、
意外と知られざる歴史は多いのです。
そんな北海道にまつわる歴史を紹介します。

 

 

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2017年11月11日の放送テーマは「樺太千島交換条約」でした。





                      


外交は国の行く末を決める重要事項です。

日本は明治に近くなってから、初めて本格的に外国との交渉することになりました。

北海道の北に位置する樺太や千島列島は、国境というテーマで様々な交渉が行われました。

日本とロシアとの国境は、1855年・安政元年の日露和親条約で、千島列島の択捉島と得撫島との間に定められていました。

しかし、樺太については国境を定めることができず、日露混住の地とされています。

翌1856年、クリミア戦争が終結。

それにより、ロシアの樺太開発が本格化していきます。

ロシア人が樺太に多く入ってくるようになると、日本人との間で頻繁に紛争がおこるようになりました。

箱館奉行・小出秀実(こいで ほずみ)は、樺太での国境確定が急務と考えました。

彼は北緯48度を国境とするか、得撫島からオネコタン島までの千島列島と交換に、樺太をロシア領とすることを発案しました。

徳川幕府は小出のアイデアにより、北緯48度にある久春内で国境を確定することとします。

そして1867年・慶応2年、小出秀実と石川利政をペテルブルクに派遣。樺太国境確定交渉を行なわせていました。

しかし、樺太国境確定は不調に終りました。

樺太はこれまで通り日露混住の地とされました。

幕府とロシアは争うように樺太に移民を送り込みます。

樺太は、日本人・ロシア人・アイヌ民族が住むことになり、三者間の摩擦で不穏な情勢になっていきます。

明治に入ってからも、日露両国の紛争が収まることはありませんでした。

また、ロシアは1869年・明治2年、樺太を流刑地に指定しました。

以後、樺太へのロシア人の流入が急増し、暴行や窃盗が頻発し殺人事件も起きます。

そのような状況から、樺太の日本人居留地を守るため、国境確定は緊急の課題となっていました。

当時、2人の男が持論を展開しました。

1人は外務卿・副島種臣。彼は、樺太を2分して国民の住み分けを主張しました。

もう1人は開拓次官の黒田清隆でした。

彼は、遠隔地の樺太を早く放棄し、北海道の開拓に全力を注ぐべきだとしました。

その後、征韓論の論争から副島が下野することにより、黒田の樺太放棄論が明治政府内部で優勢となりました。

この樺太放棄論を携えて、ロシアと真っ向から交渉できる人物が必要となりました。

黒田が白羽の矢を立てたのが、北海道開拓使に務めていた榎本武揚でした。

榎本は元幕府海軍を束ね五稜郭を占拠。箱舘戦争をした人物として知られています。

降伏後、黒田に才を惜しまれ、助命されて開拓使に出仕していました。

榎本であれば、北海道事情に詳しく国際法にも強い。

黒田は彼を交渉担当に推します。

しかし、榎本は渋ったと伝わります。

黒田は太政官に人事案を提起して、榎本を無理やり帰京させました。

そして、天皇臨席による閣議で、榎本を駐露全権特命公使に任命します。

日本と樺太の命運は、榎本に担われることになりました。

1874年・明治7年3月10日、榎本は横浜港を出帆。スエズ運河経由でイタリアに上陸しました。

そこからロシアを目指し、サンクトペテルブルクに到着したのは6月10日のことでした。

交渉は当初、楽観視されていたともいいます。

樺太を全て領有したいロシア。

樺太放棄に異存はない日本。合致点は見えていました。しかし交渉は難航します。

ロシア側は、樺太で起きた殺人事件の処分など細かい懸案を数多く取り上げ、交渉を引き延ばしました。

そのため本交渉が始まったのは11月14日でした。

その後、日本側の交渉方針がぶれたこともあり、弱腰外交という批判も出てきました。

広大な樺太を捨て、小さな島が並ぶ千島列島を手に入れる。

この方針は、イギリスの意向も大きく反映されていたといいます。

日本の国力では樺太開発は無理で防衛もできない。

千島列島ならば周囲が海なので防衛しやすい。

ロシアが侵攻してきても千島列島にイギリス海軍が援軍を送ることができる。

イギリスは、明治政府の要人にこのアドバイスを送り続けていました。

イギリスは、ロシア海軍が将来太平洋に進出することを懸念し、千島列島を日本に領有させることでオホーツク海に封じ込めようと考えたのだといいます。

1875年・明治8年3月8日、榎本はロシア外務省アジア局長のピョートル・スツレモーホフと向き合いました。

榎本は千島全島を譲るべきだと訴えます。

スツレモーホフは、それは大島たるパラムシル島までも望むのかと聞いてきました。

これに対して、榎本は幌筵島のみならずカムチャツカまで連なる島々をすべて譲っていただきたいと回答しています。

スツレモーホフとの協議は延々と続きました。

しかし榎本は粘りに粘り、ついに樺太を放棄する代わりに、カムチャツカ半島まで延びる千島列島全島の譲渡を勝ち取ることに成功します。


5月7日、榎本はロシア側全権のアレクサンドル・ゴルチャコフと、樺太千島交換条約の調印を交わしました。


ここに黒田の主張する樺太放棄論が成就し、政府は北海道の開拓に力を注ぐことになっていきました。


榎本はその後、同年8月から9月にかけて西欧を視察しています。

ドイツでクルップの工場と鉱山を見学した後、パリ、ロンドンを訪問しました。


1878年・明治11年7月26日、榎本はサンクトペテルブルクを出発し、帰国の途に向かっています。

但し、日本への帰りは東回りになりました。


ロシアの実情を知るためにシベリアを横断。

鉄道・船・馬車を乗り継ぎ、9月29日にウラジオストックに到着しています。

そこから黒田清隆が手配していた汽船・函館丸に乗船して、10月4日に小樽に着いています。

そして、札幌滞在の後10月21日に帰京しました。


長い旅になった榎本のロシア交渉。

この旅が、その後も大きな意味をもったことは、歴史が証明しています。




出典/参考文献
産経新聞
【北方領土 屈辱の交渉史(2)】
樺太千島交換条約を主導したのは「太陽の沈まない国」だった
インターネット資料