京城の日本公使館 | 一松書院のブログ

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※2021年11月24日、1882年の最初の日本公使館の位置についての記述を全面的に修正しました。
 

 朝鮮の都に置かれた日本の公使館。南山の北麓の印象が強いが、1882年の壬午軍乱とか1884年の甲申政変の時は別の場所にあった。

 

 朝鮮王朝時代から大韓帝国の日本公使館の場所の変遷を、覚えとして整理しておきたい。

 


 ソウル歴史博物館所蔵の『漢陽京域圖』(1890〜97製作?)には、木覓山モンミョッサン南山ナムサン)の北麓に「日本公使館」が記載されており、敦義門トヌィムン西大門ソデムン)の外側、天然亭チョニョンジョンの横に「旧日本公使館」の記載がある。

 

 1876年に「日朝修好条規(江華島条約)」が締結され、日本政府はこれによって日朝間の従前からの華夷的な「交隣」関係が、近代西欧の国際法的関係になったものとした。日本は、朝鮮よりも上位にはなり得ない「交隣」関係を捨てて、国際法的秩序の受容で先行したとして自国を朝鮮よりも上位に位置づけようとした。同時に、華夷的な朝清関係にも楔を打ち込もうと考えた。

 国際法的な国家関係では、公館を相互の首都に置いて自国の主権を代表する公使を常駐させるのが外交慣行だが、華夷的な関係においては使臣は常駐しない。日本は執拗に朝鮮の首都に公使の駐留を認めるよう迫っていた。

 

◆1880年12月から壬午軍乱(1882年7月)まで

 朝鮮に対して攻撃的な圧力を強めていた明治政府は、1880年4月に花房義質よしもとを朝鮮公使に任命し、12月に赴任させた。しかし公使館は漢城の城内には置けなかった。朝鮮側から指定されたのは、漢城の城外、西大門外の京畿キョンギ監営の向かい側にある天然亭の場所であった。天然亭はすぐ下に西池ソジと呼ばれる蓮池があり、そこを見下ろす場所にあった。

 

 1882年7月、壬午軍乱が起きた。軍人への糧食の配給が遅延し、開化政策が経済的な困窮を招いたと不満を抱く軍人が蜂起し、民衆もそれに加わった。開化政策をすすめる日本の公使館も包囲され、花房公使以下の公使館員は、公使館に自ら火を放ち、包囲する群衆を突破して揚花鎮ヤンファジン(現在の合井ハプチョン)で漢江ハンガンを渡って仁川インチョンに脱出した。

 

 当時、清は、朝鮮を欧米列強に開国させて自国の宗属関係による特殊な地位を確立しようとししていた。壬午軍乱は、この清の方針に逆行するものであったため、清が軍隊を派遣して反乱を鎮圧した。そして、「衛正斥邪」派のリーダーとして反乱勢力に担ぎ出されていた興宣フンソン大院君テウォングンを清に抑留した。

 

京城府編『京城府史』第1巻(1934)P. 501

 

 西池は、その後埋め立てられて竹添普通学校が置かれ、現在は金華クマ初等学校となっている。京畿監営のあった場所は、植民地時代に赤十字病院が建てられ、現在もそのまま病院の敷地になっている。

 

 最初の日本公使館の場所は、1920年1月に真宗大谷派が朝鮮総督府から無償で借り受け、ここに向上会館を建設した。真宗大谷派は、1878年に釜山に本願寺別院を置いて朝鮮での布教活動を開始し、3・1独立運動後は朝鮮人懐柔のための社会事業に乗り出していた。
 

日之出洋行制作絵葉書 左の韓屋が「天然亭」

 

 1924年からは、ここに女子技芸学校が開設され、1936年に向上女子実業学校となった。
 

 

 解放後は、財団法人東明学園が学校運営を引き継ぎ、現在は東明女子中学校になっている。

 

◆1882年8月から1884年4月

 

 清が軍隊を出して反乱軍を制圧すると、8月に花房公使を軍艦4隻と陸軍1個大隊をつけて仁川から京城に向かわせた。8月16日に日本軍と共に京城に入った花房義質は、泥峴ニヒョン(チンゴゲ)の李鍾承イジョンスンの邸宅1を公館とし、軍隊はその付近の民家2掌楽院チャンアグォン3を接収して宿舎とした。これらの具体的な場所について、京城府編『京城府史』第一巻(1934)には次のように記されている。

  1. 李鍾承は武将であって乱中地方に移居した。其の家は相当な規模で文武諸官を容れるに充分であった。其の位置は現本町二丁目八〇番地及び之に接する南方・西南方一帯の地で、其の正門は東向し同番地なる現藪蕎麦店の位置にあった。
  2. 現寿町三番地料亭喜よしの付近より南山の山手一帯の民家。
  3. 現黄金町二丁目東洋拓殖会社計上支店の西端一帯にあった官署。

1933年発行の『京城精密地図』に落とし込むとこのようになる。


 花房義質は1882年9月18日離任し、後任の公使竹添進一郎が1883年1月7日着任した。

 日本は、慶雲洞にあった朴泳孝パギョンヒョの邸宅を購入して、ここに公使館を移すこととした。

 朴泳孝は、壬午軍乱の事後処理として日朝間で締結された済物浦チェムルポ条約批准のため、修信使スシンサとして日本を訪問しており、その関係で邸宅を公使館の場所として売却することになったのであろう。

 朴泳孝の慶雲洞旧宅は、現在の地下鉄3号線安国アングック駅の南側、昌徳宮チャンドックンにほど近い有力両班の屋敷の多い一帯にあり、向かい側は興宣大院君の雲峴宮ウニョングンであった。日本は、朝鮮王朝の中枢に公使館を進出させたのである。

 

◆1884年4月から甲申政変(1884年12月)まで

 

 日本は、4月17日に公使館を移転した。新しい公使館本館を建設する予定だったが、当初は韓屋をそのまま事務所や宿舎として利用した。本館の建築工事は、大倉組が70人以上の職人を日本から呼び寄せて行われた。敷地は、慶雲洞の天道教チョンドギョ教会の南側約1,000坪の広さがあったという。朴泳孝の旧宅だけでなくその周辺も買い足したのかもしれない。


現在の地下鉄3号線安国駅アングンヨッの3番出口を出て楽園商街ナゴンサンガ方面に進むと、右手に天道教チョンドギョの施設がある。

その南側の区画が日本公使館敷地であった。

 

 公使館本館は、11月3日に落成した。竹添進一郎は前年末から日本に帰国していたが、落成直前の10月30日に帰任していた。この図は、井上角五郎の『漢城廼残夢』(1891.10)に掲載された挿絵として『京城府史』に転載されているものである。

 

 この新しい公使館の落成から1ヶ月後、12月4日に金玉均キモッキュンや朴泳孝などの急進開化派のグループが郵政局の開局式典の宴会を利用して政変を起こした。竹添進一郎は、日本軍守備隊150名で国王高宗を擁して開化政策を進める開化派勢力を警護することになっていた。

 

 高宗をはじめとする王族関係者は、昌慶宮から西に隣接した景祐宮キョンウグンに避難し、日本軍はここを警護したが、高宗らは翌日昌徳宮に戻った。ここで、東大門トンデムン付近の下都監ハドガム(現在の訓練院フルリョンウォン公園)に駐屯していた清国軍隊1,300名が、反乱勢力を制圧するという名目で出動、敦化門トナムン宣仁門ソニンムンで日本軍守備隊150名と交戦状態になった。

 竹添進一郎と公使館の館員と日本軍は、開化派のメンバーとともに昌徳宮の北門から脱出して、嘉会洞カフェドン方向(現在の北村プッチョン地区)を迂回して慶雲洞の公使館に戻った。しかし、ここも清軍や朝鮮住民に包囲されたため公使館を放棄。公使館員と日本軍守備隊は、12月7日に職人や避難してきた日本人民間人など100名以上とともに鍾路を西に向かい西大門から仁川に脱出した。

 この時に、南山北麓の日本軍の本営と公使館は火を放たれて焼失した。

 

◆1885年1月末以降

 

 金玉均や朴泳孝など、政変を起こした開化派メンバーは日本へ渡ったが、公使館員や軍部隊は仁川に留まった。

 12月28日に、参事院議官井上毅ら先遣隊とともに竹添公使は京城に向かった。朝鮮政府は、彼らを城内には入れず、西大門外の前京畿監司金輔鉉キムボヒョンの邸宅(義州路一丁目55:現在の渼芹洞ミグンドン警察庁庁舎の裏手)を仮の公館とした。全権大使の外務卿井上馨は、1月3日に西大門外の京畿監司に入り、1月9日に漢城ハンソン条約に署名した。この条約で朝鮮側は日本に焼失した慶雲洞の公使館の代替地を提供するものとしている。竹添進一郎は、朝鮮側から忌避されていたので、近藤真鋤を臨時代理公使とし、竹添は辞任、帰国した。

 

 京城居留民団役所『京城発達史』(1912)には、

只京城の内外を威圧せし清兵は引き揚げしも、我駐在兵又同時に引き揚げたれば我日本人団は昨年に倍して寂寥を覚えたり。竹添公使は一月に辞任帰朝したるを以て近藤書記官臨時代理公使として在勤せり。一月京城条約後韓廷は直ちに南山の清泉涌き老翠滴る処に構へられたる緑泉亭を我が公使館とすべく提供し、元の倭城台倶楽部の在る所を領事館敷地として提供したれば、直ちに公使館は西門外の京畿監営より此緑泉亭に移り増築工事を施せり。

とある。また『京城府史』第二巻(1936)には、

この月、日本政府は朝鮮側の提供した南山山麓朴某なるものの邸宅を公使館に充当し、現寿町六番地にあった倭城台倶楽部の地一帯を領事館の予定地として受領した。十一日 竹添公使の辞任帰国後近藤書記官臨時代理公使となり同月某日西大門外の仮公使館を南山に移転した。

《中略》

近藤代理公使は十七年の変乱に鑑み条約上城内の居住区域には何らの制限なきに拘はらず、外務協弁及び清国理事官と談合の上、 取締の便宜上より日本人は南山山麓に清国人は水標橋付近に居住せしむることとし、日本人の居住地を公使館(現総督官邸)を起点とし領事館より北行する小路の両側すなわち現寿町と本町二丁目の南辺に横はる小路の両側及び其の西端より同町九十二番地なる現明治製菓京城販売所に達する小路迄の一小域内に定めた。此の頃前記道路の幅員は現在と大差なきも付近の他の道路に比較すれば最も広く、 現に殷盛を極むる本町表通はなほ之より狭く、日本人家屋は一も認むることができなかつた。

とある。

 

 さらに日清戦争後の1896年には、領事業務を行う領事館を新たに建設した。現在、新世界シンセゲデパートのある場所である。

 

◆公使館から統監府へ

 

 1905年の日露戦争後、1905年11月17日に第2次日韓協約で日本は大韓帝国の外交権を奪った。この結果、外交を担当する日本の公使館は不要となったとされ、統監府が置かれることになった。また外国の公使館も、その国の主権を代表する公使館ではなく、在留する自国民の保護や査証業務を行う領事館ということにされた。日本の領事館は理事庁となり、併合後はそれがそのまま京城府庁となった。

 

 日本公使館は1906年1月31日に閉鎖され、翌日の2月1日に旧外部ウェブ(外務省:現在の韓国歴史博物館ハングッグヨクサパンムルグァンの場所)の庁舎に統監府が置かれた。同時に南山北麓で統監府の新庁舎建設が始められ、翌1907年2月に完成して28日にここに統監府を移した。

 

写真右端の建物が統監府庁舎。中央の三角の屋根は東本願寺、左の建物は明洞大聖堂。

 

 旧日本公使館は、統監官邸として使用された。併合後は、朝鮮総督の官邸となった。

このイチョウの木が上の総督官邸の絵葉書の左側で、旧日本公使館の位置が推定される。

 

歴代公使

花房義質 弁理公使 1880年4月17日
1882年9月28日
竹添進一郎 弁理公使 1882年11月6日
1885年6月30日
島村久 臨時代理公使 1883年12月
1884年10月
高平小五郎 臨時代理公使 1885年3月
1887年8月
杉村濬 臨時代理公使 1886年10月
1887年3月
近藤真鋤 臨時代理公使 1887年8月6日
1891年2月27日
河北俊弼 代理公使及弁理公使 1890年12月17日
1891年3月10日死去
松井慶四郎 事務代理 1891年3月
1891年4月
梶山鼎介 弁理公使 1891年3月24日
1892年12月16日
大石正巳 弁理公使 1892年12月6日
1893年7月21日
大鳥圭介 清国駐箚特命全権公使兼任 1893年7月26日
1894年10月31日
井上馨 特命全権公使 1894年10月15日
1896年10月1日
三浦梧楼 特命全権公使 1896年8月17日
1896年10月17日
小村寿太郎 弁理公使及特命全権公使 1896年10月17日
1896年6月9日
原敬 特命全権公使 1896年6月11日
1896年10月12日
加藤増雄 弁理公使及特命全権公使 1897年2月23日
1899年6月1日
林権助 特命全権公使 1899年6月1日
1906年1月31日

アジア歴史資料センター アジ歴グロッサリーより転載

2021年2月28日追加修正

 

 

以下の資料を参照した。

 

京城居留民団役所『京城発達史』1912

 

京城府編『京城府史』第一巻 1934

京城府編『京城府史』第二巻 1936