中国史(4) 周王朝と封建制度 | 歴史と折々の随想

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【封建制度とは桃太郎の“キビだんご”?】


 殷王朝を滅ぼし、渭水のほとりの鎬京を都として黄河流域に新国家を建設したのが周王朝です。周王朝は殷王朝のような神権政治ではなく、制度によって国家統治をおこないました。その導入された制度が“封建制度”です。


 簡単に言えば“今、あなたが領有している土地を、あなたのモノだと保証してやるから、その代わりに私の家来になりなさい。”ということです。この『土地』というのは食料生産が可能な農地と、そこで働く人を意味する支配領域のことです。前にも述べたように、中国には多くの民族が混在しています。当然、大小様々な民族集団や部族集団があって、小さな集団は大きな集団に帰属することで、自分たちの安全を確保しようとします。つまり周王朝成立の影には、殷王朝の圧政に苦しむ異民族の協力があったと推測されます。ちょうど大きな磁石を中心に、小さな磁石が吸い寄せられるのと似ていたのでしょう。


歴史と折々の随想-周の封建制度

 ところが教科書や参考書には、封建制度とは『土地を媒介とした主従関係である。』と説明されています。だから間違って『あなたに土地をあげるから、私の家来になりなさい。』という制度だと理解されがちです。


 桃太郎の“キビだんご”ではないのです。


 おとぎ話の犬や猿や雉ならば、たかがだんご一個で家来になって、あげくに鬼と戦ってもくれますが、人間ではそういうわけにはいきません(笑)。土地を与えて家来にするというのでは、まるで自分の手足を切り取って家来を増やしているのと同じ事になります。これでは家来が増えれば増えるほど、王権は弱体化することになりますからね。


 またこの制度は中国に限ったものではありません。中世ヨーロッパやイスラーム世界、鎌倉時代の日本においても存在しました。しかし同じ封建制度といっても、その内容は多少異なります。


周王朝における封建制度は土地を保証する側の主(周王)と、土地を保証される側の従(諸侯)の中核が、血縁関係者によって固められていました。つまり周の武王は殷を滅ぼした際に、鎬京を中心として、6人の弟達を封建して国家の基盤としたのです。中でも四男の周公旦は、武王亡き後も、魯の君主として周を支えました。もちろん、全てが血縁関係者というわけにはいきません。武王の父である文王の代から仕えていた太公望も、武王の代で斉という国を封建されています。もちろん彼は血縁者ではありません。


しかし周の建国当初は、血縁関係を重視していたのは確かのようです。周王朝では氏族的血縁関係者に貢納と軍役を負わせ、この氏族集団を“宗族”と呼び、宗族が守るべき規範として“宗法”を定め、王朝内部の結束を固めたとされています。


 これに対して中世ヨーロッパの封建制度(ヨーロッパでは“フューダリズム”といいます。)は主従関係が双務的契約関係で成り立っていました。血縁に対して契約というとドライな関係に思われ、単なる契約関係なら簡単に破られるのではないかと考えられます。


 これは私の個人的な見解ですが、この契約による主従関係というのは、キリスト教における「神と人間との契約」に由来しているのでないとかと考えています。西洋における神との契約は絶対的な意味を持ちます。宗教観の希薄になりつつある現代人には到底想像し得ない倫理観が生じると考えられます。ヨーロッパにおいてサイン一つが非常に重要なものであることは周知の事実です。「契約不履行」はすべての信用を失い、ひいては社会的抹殺を意味することにもなりかねません。こうした契約に対する感覚は、前述の宗教観に由来していると想像するは、論理の飛躍でしょうか?


事の正否は別にして、血縁を重要視するのか、契約を重要視するのかは、その土地柄や風土に根ざしたものであり、どちらが正しいとは言い切れないと考えられます。


 では、今日はここまで。

            明石智彰


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