開国への潮流③ | 散策日記Ⅰ

散策日記Ⅰ

美術館&博物館で開催された展覧会の記録、それにまつわる散策記です。

 オランダの予告通り、1853年にアメリカ海軍の軍人ペリーが浦賀に来航し、フィルモア大統領の開国要求の書簡を浦賀奉公に渡しました。

 

 アメリカが開国を要求したのは、日本に捕鯨船の港を確保するためだといわれています。また、ヨーロッパはクリミア戦争の最中であり、イギリス、フランス、ロシアには東アジア進出の余裕がなかったため、日本との交渉でアメリカが主導権を握りました。

 

 老中阿部正弘は、これまでの幕府独裁の慣例を破り、前水戸藩主徳川斉昭を海防参与(最高顧問)に任命し、一般大名や幕府役人にも意見を求め、ペリー来航を朝廷に通達しました。このような政治体制の変化は、結果として、諸大名や朝廷が中央政治に進出する足がかりをつくることとなり、幕藩体制の崩壊の火種になったといわれています。

 

 1854年、ペリーは日米和親条約を締結して開国を実現。下田・箱館の2港の開港、漂流民の救助、必需品の供給、最恵国待遇条項などを定めました。

 

 1855年プチャーチンが来航し、日露和親条約を締結。下田・箱館・長崎を開港し、両国国境を択捉島とウルップ島の間と定め、樺太については国境を定めず雑居地とすること定めました。

 

 1858年、日米修好通商条約がアメリカ総領事ハリスと大老井伊直弼の間で締結されました。神奈川・長崎・新潟・兵庫の開港、江戸・大坂の開市、外国人居留地の設置、領事裁判権、自由貿易の原則など。領事裁判権により治外法権を認めたことになり、自由貿易とは言いながら協定関税とされたため関税自主権を喪失する不平等条約でした。

 

 アメリカに続き、オランダ・ロシア・イギリス・フランスと同様の条約を結びました。これらの条約は同じ年に結ばれたため、総称して「安政五カ国条約」といいます。幕府はその後、ポルトガルおよびプロシアとも同様の条約を結びました。

 

 英国公使オールコックの提案で、1862年、竹内保徳を正使、松平康直を副使、京極高朗を目付とする全38名の使節団が、ヨーロッパの修好通商条約締約国へ派遣されました。この文久遣欧使節団に与えられた主な役割は、新潟港と兵庫港の開港の延期と、江戸と大坂の外国人居留の延期を確約すること、西洋事情を視察すること、ロシアとの樺太境界を定めることでした。

 

 文久遣欧使節団とイギリスは、新潟と兵庫の開港、江戸と大坂の開市を1863年1月1日から5年延期することを取り決めた覚書に調印しました。他の締約国とも同様の覚書を取り交わし、約1年に及ぶ旅程を終えました。

 

 修好通商条約を契約期限内に履行することが困難になった背景に、急激な物価上昇や幕府が混乱していたことが挙げられます。

 

 1856年、薩摩藩の藩主・島津斉彬(なりあきら)の計らいにより、13代将軍家定は篤姫と結婚しました。外様大名の家から将軍の妻が出たことが、譜代大名たちには面白くなく、将軍の跡継ぎ問題が起こりました。

 

 14代将軍を、11代将軍家斉の孫で紀州徳川家の徳川家茂(いえもち)にするか、徳川斉昭の子で水戸徳川家の一橋慶喜にするか。家茂を推す井伊直弼ら「南紀派」は正当な血筋から将軍を出すべきだと主張し、水戸徳川家の慶喜を推す徳川斉昭ら「一橋派」は、この国難の時代では、聡明な人物が将軍にふさわしいと主張します。井伊直弼が大老になり、徳川家茂が14代将軍に就任しました。

 

 朝廷の許可無しに不平等条約を結んだ井伊直弼に対して、一橋派が批判をいっそう強めていくことになります。天皇を尊び開国に反対するという尊王攘夷運動が全国に広まっていきました。世の中の不穏な空気に井伊直弼は反対派を次々に処罰しました。これが1858~1859年に起きた安政の大獄です。

 

 1860年まだ寒い春、井伊直弼は彦根藩邸を出発して江戸城へ向かう途中、桜田門の前で水戸藩からの脱藩者により、暗殺されました。この桜田門外の変以降、幕府の権威は地に落ち、朝廷との関係は険悪なものになっていきました。

 

 そこで幕府は、老中安藤信正を中心に公武合体策を取り、幕府と朝廷の協力関係を築こうとしました。14代将軍家茂と孝明天皇の妹・和宮(かずのみや)を結婚させます。しかし、和宮降嫁に恨みを抱いた尊王攘夷派の水戸浪士の襲撃を受けました。これが1862年に起きた坂下門外の変です。

 

 朝廷と幕府の関係は一見うまくいったかと思ったのですが、朝廷は巻き返しを図る一橋派(島津久光、一橋慶喜、松平春嶽など)の力を背景に、一橋慶喜を将軍後見職に就任させました。そして1863年。朝廷の干渉により、将軍家茂は上洛(京都に赴くこと)し、孝明天皇に攘夷を迫られます。

 

 当時の幕府は、外国の要求を拒絶する力が無くなった上、諸藩をまとめる力も弱っていました。このままでは外国に勝てない、江戸幕府を倒して新しい国をつくることが必要だ、と一発奮起する人たちが現れます。坂本龍馬もそのうちの1人でした。

 

 坂本龍馬は、江戸幕府を倒すためには、まず大きな組織が必要だと考えました。そこで、犬猿の仲だった薩摩藩と長州藩を和解させ、提携の約を結ばせました。京都の薩摩藩邸で、薩摩藩側から小松帯刀と西郷隆盛、長州藩側から桂小五郎(→木戸孝允) らがそれぞれ代表として会見しました。

 

 この薩長同盟により、長州藩は1866年の第2次幕長戦争で勝利を収め、坂本龍馬は平和に江戸幕府を終わらせる策として、政治の実権を幕府から朝廷(天皇)に戻そうと呼びかけました。

 

 第2次幕長戦争中に14代将軍家茂は病死し、一橋慶喜が15代将軍になりました。幕府に不満を持つ者と日本の夜明けを夢見る者とで日本中はますます混乱しました。そんな大混乱の日本を植民地支配しようと、新政府軍の陰にはイギリスが、幕府軍の陰にはフランスがついていました。

 

 このタイミングで新政府軍と幕府軍の戦いが始まれば、イギリスかフランスの植民地支配されることが予想されたため、15代将軍慶喜は、坂本龍馬らの要求に従い、1867年に大政奉還を行いました。この大政奉還で、鎌倉幕府から約680年続いた日本の武家政権は終わりを迎えました。