前回のエントリーの補足です。
平等の慈悲について前回書きましたが、コメントで質問を頂いていたのでもう少し詳しく書いてみます。
仏教の「平等」と「平等」の違い
「平等」という言葉を辞書で引くと、国語辞書と仏教辞書では意味が違います。
びょう‐どう 〔ビヤウ‐〕 【平等】
[名・形動]かたよりや差別がなく、みな等しいこと。また、そのさま。「利益を―に分配する」「男女―」(デジタル大辞泉)
平等 びょうどう
共通,同等,無区別,すべてに及ぶなどの意.しかし,特に重要なのは〈差別(シヤベツ)〉に対するものとしての用法である.すなわち万物が区々別々のもの(差別)としてある現象世界の実態と,それを真実(法)からみたときの在り方に関して,たとえば_差別即平等_などと用いる.
→平等(法の立場)
→平等(用例)平等(法の立場) びょうどう
通常,物をみる時には,みる者とみられる物の主客が分離している.みる視座は無数にありうるから,いかなる判断も相対的である.しかし釈尊の成道以来,仏教の悟りの伝承は万物存在を法の立場からみようとする.自我的なはからいの上に判断する人間の視座ではなく法の立場である.したがってそれはひとたびは自己(自我的自己)を否定した立場でもある.そしてこの縁起,無常,空といった術語によって示されている法からみると,万物それぞれの差別は差別としてありながら,同じ法に包まれていることにおいて平等である,ととらえる.その上で宗教実践の道が説かれる.したがって,差別即平等,平等即差別というときの〈即〉はけっしてイコールではなく,宗教実存の地平における表現と見なければならない.
(岩波仏教辞典より)
平等の慈悲といった場合は、この法の立場からの平等を言います。それが、前回のエントリーにも書いた、三縁の中の無縁です。
無縁。差別の見解を離れた平等絶対の慈悲で初地以上の菩薩や仏のおこす大悲を言う。
一般で使う「平等」と言っても、そこには差別がある前提での話です。仏教で言う「平等」は差別の見解を離れた上での平等なので異なります。
また、英和辞典で引くと、平等に相当する単語として、以下の結果になります。
びょうどう【平等】
〔均等〕equality; 〔公平〕impartiality
平等の|equal; even
平等に|〔均等に〕equally, evenly; 〔差別なく〕impartially
(プログレッシブ和英中辞典(第3版))
仏教で言う平等は「〔均等〕equality」とも「〔公平〕impartiality」とも異なります。ただ、日常に平等と私たちが今日使う場合は「〔均等〕equality」で使う場合が多いと思います。
しかし、実社会で平等(〔均等〕equality)は、いわゆるこの世の正義*1(fairness 公平 公正)ではないことが多いです。
twitterで以前見つけた画像を紹介します。
質問された方の話からすると、画像左の「平等(〔均等〕equality)」だけでは正義(fairness 公平 公正)とは違うように思われているので、平等かつ公平の慈悲という言葉を使わないと、全ての人を救えないと思っておられるのではないかと思います。確かに、平等と公平、公正は両立しません。
しかし、阿弥陀仏の大慈悲は平等ですが、それは上記画像左のような平等ではありません。「万物それぞれの差別は差別としてありながら,同じ法に包まれていることにおいて平等である(岩波仏教辞典」」ということです。その意味で、上記画像右のように、足らないところは足してみんなが試合を見られるようにすると言った「正義(fairness 公平 公正)」でもありません。
そういう意味で、平等の慈悲と仏教では言いますが、それは一般にいう平等(〔均等〕equality)でもありませんし、公平(正義 fairness 公平 公正)な慈悲とは言いません。
*1:参照:justiceーhttp://goo.gl/ojCvuE