食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

江南の発展と首都開封のにぎわい-10~17世紀の中国の食(5)

2021-02-15 17:48:06 | 第三章 中世の食の革命
江南の発展と首都開封のにぎわい-10~17世紀の中国の食(5)
唐代(618~907年)の中頃までは黄河中下流域の中原地方が最も豊かな地域でした。ところが唐代の後半になると江南(広い意味で中国の南半分のこと)での開発が進み始め、次第に中原よりも豊かな地域に発展して行きます。そして北宋代(960~1127年)以降の中国では、江南の生産力が中原や中国全体を支えるという構図になります。南宋(1127~1279年)が華北を金に奪われながらも150年間続いたのも、豊かな江南を有していたからです。

江南で生み出された農作物の多くは運河などを利用した水上輸送によって北宋の首都開封に運ばれました。このように中国中の富が集中した開封は様々な文化が入り混じった大都市に成長します。

今回は、このような江南の発展とそれに支えられた北宋の首都開封の様子について見て行きます。

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江南の豊かさの源となったのが長江流域の高い農業生産力である。以前は開発があまり進んでいなかった長江下流域では唐代(618~907年)の終わり頃になると、以下にお話しするように新田の造成や農業技術の進歩などによって農業生産力が飛躍的に向上したのである。



長江河口域のデルタ地帯は満潮になると海水が流入するため、そのままでは農地にすることはできなかった。そこで、海水の流入を防ぐために土地の周りを堤防で囲むと同時に、降雨などでたまった水を排水する設備を備えた「囲田(いでん)」と呼ばれる水田が作られるようになった。同じように、河の一部や池を堤防で囲んで排水することで「圩田(うでん)」と呼ばれる水田も作られた。さらにいくつかの囲田や圩田の外側に大きな堤防が築かれた。

これを空から見下ろすと、張り巡らされた排水・給水路の間に堤防で守られた水田が並んでおり、さらに一番外側を大堤防が守っているイメージになるだろう。

こうして長江河口域に新しい水田が開拓されると同時に、新しいイネの品種も導入された。唐代の終わり頃にベトナムから「占城稲(せんじょうとう;チャンパ米とも呼ばれる)」という赤米が持ち込まれたのだ。

占城稲はあまり美味しくないが生育の早い早稲(わせ)で、旱(ひでり)や虫害に強く、やせた土地でもよく育ったため、従来の晩稲(おくて)を栽培できない土地でもコメを作ることができた。特に低湿地帯や新たに開拓されたばかりで地力に劣る新田に適していたと言われている。こうして従来の稲と占城稲を土地ごとに使い分けることで、長江下流域での生産力が著しく高まったのである。

ちなみに赤米が赤いのは、糠層(ぬかそう)と呼ばれる玄米の表面部分にタンニン系の赤色色素が含まれているからであり、精米すると糠層が削れて白い米粒になる。なお、占城稲(赤米)は鎌倉時代の日本にも伝えられ、生産力の向上に貢献したと言われている。

さらに栽培技術にも革新があった。その一つが「苗代(なわしろ))を作ることで、唐代の終わり頃から苗代を作って田植えを行うようになったのだ。苗代を作ると、低温などの春先の不安定な気象条件や雑草などから幼苗を守りやすく、また、良く育った苗を選んで田植えをすることで生産性を上げることができる。

もう一つが肥料の発達だ。宋の時代には「火糞」と呼ばれる肥料が使用されるようになった。これは草木を燃やして灰にしたものに人の糞尿を混ぜて作った肥料で、それぞれ単独で使用されていたものを組み合わせることで肥料の効果を高めたものと考えられる。

以上のように、イネの新品種や苗代、新しい肥料などを利用することで、1年のうちに2度のコメ作りをする2期作や、イネとムギの2毛作が行われるようになった。こうして長江下流域は「蘇湖(長江下流域)熟れば天下足る」と言われたように、農業生産の中心として確固たる地位を築いたのである。

こうして江南で生産された農作物は大運河などによって首都の開封に運ばれたが、11世紀になる頃にはその総量は年間約50万トンに達していたと見積もられている。

このように江南が農業生産の一大拠点として発展してくると、多くの人々が華北などから移住してくるようになり、江南は一段と発展することになった。

江南では当初はコメやムギなどの主食となる食糧が主に作られていたが、次第に商品価値の高い茶や酒などの嗜好品の生産も盛んになって行った。また、絹織物や陶磁器などのぜいたく品や日用品の生産も盛んになった。そして、それにともなってこれらを扱う商業が活発化した。こうして、江南から始まった生産から流通に至る大きな経済の流れは中国全土に広がり、各地で特産品が作られ全国に流通するようになったのだ。

茶は、唐代には上流階級の一般的な嗜好飲料として普及していたが、宋代になると庶民階級にも広がり、各都市には多くの茶館ができた。また茶は中国国内だけでなく、周辺の遊牧民族や日本など諸外国への重要な輸出品ともなった。宋代の茶の主な生産地は長江下流域や四川地方だった。

一方、絹織物業は江南だけでなく、山東や四川などが生産の中心となった。また、宋代に大きく躍進したのが陶磁器業で、長江南岸の景徳鎮で青磁や白磁に代表される優れた宋磁が作られた。これらの絹織物や陶磁器は日本にもたくさん輸出された。また、イスラム商人に売られて西アジアやヨーロッパにも運ばれた。

ところで、唐代までの商売は決められた地区内に限定されていて、夜間の店舗の営業は許されていなかった。しかし宋代になると、どこでも自由に店を開くことができるようになり、昼夜の区別なく営業が許されるようになった。こうして商売が盛んになり、「鎮・市・店」と呼ばれる中小の商業都市が各地に生まれて行ったのである。

北宋の首都開封は黄河と大運河が交わるところに位置し、水上輸送の一大拠点になっていた。そのため、中国全土に加えて海外からも商人がやってきて、大活況を呈していたそうだ。

最盛期の開封の様子を描いたものに下の『清明上河図』がある。これは北宋末期の画家張択端(ちょうたくたん)の作品とされており、開封の春の様子が描かれている。



この絵では大船が浮かぶ運河に湾曲した大きな橋がかけられているのが描かれており、その上を多くの人々が行き来している。そして橋の上や河岸にはひさしや大きな傘が所せましと並んでいて、食べ物か何かを売っているようだ。また、手前の河岸には瓦葺の屋根の下にテーブルが並んだ食堂のような建物も見える。

当時の記録によると、開封には様々な郷土料理の店があり、遠くからやって来た商人たちはいつでも故郷の味を楽しめたという。例えば、イスラム教徒の商人のために豚肉を使わないハラル料理を出す店や、仏教徒のための精進料理の店もあったそうだ。また、大衆向けの安い屋台から上流階級のための高級レストランまで幅広くそろっていて、誰でも開封の食を楽しむことができたという。

さらに盛り場には、芝居や手品などの様々な出し物小屋が50以上もあり、飲食店でも演劇や音楽などのショーが演じられていて娯楽性も高かったようだ。ちなみに、盛り場のはずれにはいかがわしい店もあったそうだ。

以前にお話ししたように北宋は金に攻められて華北を失い、南宋(1127~1279年)となり首都は杭州に移った。杭州は小さい街だったが、北方から逃げてきた北宋の住民を受け入れながら人口100万を超える世界屈指の大都市へと成長して行った。

杭州も開封と同じように水上輸送の拠点であったことから、たくさんの物資や商人が集まってきた。また、北方からの人口流入によって近くの長江デルタも発展し、人口数十万の大都市がいくつも生まれた。杭州はそれらの都市とも交易を行うことで、経済的な大発展を遂げたのである。

杭州の商店街には様々な商品を売る店が軒を並べ、飲食店街には各地の食や飲み物を楽しめるたくさんの店がひしめいていたそうだ。また、酒場や演芸場、そして遊女屋なども繁盛していたという。13世紀に杭州を訪れたマルコ・ポーロは杭州を「壮麗無比な大都会」と絶賛したと言われている。


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