後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「日本が太平洋戦争でアジア諸国の植民地を独立させた」

2023年11月15日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は日本人が誇りにすべきことを書いてみたいと思います。
それは日本がアジア諸国を欧米の植民地から解放し東南アジア諸国を独立させたことです。太平洋戦争で東南アジアの諸国を独立させたことです。
1946年12月8日の真珠湾攻撃で第二次世界大戦に参戦した日本は、快進撃を続け、瞬く間に東南アジアを占領してしまいました。
その地域はイギリス、フランス、オランダ、アメリカの植民地だったところです。
ですからその地域の日本軍の占領は植民地の解放とも言えます。
欧米人を追い出し、大東亜共栄圏という経済圏を作るというのが日本が主張した大義名分でした。
東條総理は各地の首脳を東京に集め、大東亜共栄圏を作るためのアジア会議を開催しました。
しかし1945年の夏に日本が敗北するとビルマ(ミャンマー)、ラオス、カンボジア、ベトナム、マレーシア、インドネシア、シンガポール、フィリッピンなどが一斉に独立を宣言したのです。
グエン・ザップ将軍の率いるベトナム軍は、曾ての宗主国であるフランスと激しい戦争をして勝つのです。
そしてスカルノ将軍の率いるインドネシア軍も、宗主国のオランダに勝利して独立を勝ち取るのです。
図面は日本が占領する前の東南アジアの植民地を地図で示したものです。

 1番目の写真は第二次世界大戦前のアジアの欧米の植民地の地図です。図の出典は、http://homepage3.nifty.com/asia-kenbunroku/Shokuminchi.htm です。
そしてインドネシアの独立戦争に現地に残留した日本兵が多数参加したのです。独立後のインドネシアは非常に親日的な国になりました。
ベトナムでも多数の日本兵がホーチーミンの部下としてフランス軍と戦ったのです。
ここで私のささやかな体験を以下に記します。それは1981年のことでした。
北京の大学へ集中講義に行った際、親しくなった教授から「1959年にソ連と中国が大喧嘩をした理由を知っていますか」と聞かれたことがありました。
「日本の新聞では、イデオロギー路線の論争でソ連が絶交して出て行ったことになっている」と私が答えるとこの教授は苦笑いして言ったのです。

「イデオロギー論議なんて高尚な話ではありません。ソ連の空軍と海軍が中国全土の空港と港湾を自由に使い、すべての軍事作戦の指揮権をソ連に与えよと要求したからです。簡単に言うと、中国全土がソ連の植民地になるということだったのです。当然、毛沢東は断固拒絶しました。ソ連は怒って中国全土から引き揚げたのです。その時、無償供与した工業設備をネジ一本まで貨車に積んでシベリア鉄道で撤収したのです。私の大學でもすべての実験装置が持って行かれ、ガランとした建物だけが残ったものです」
1990年代に河北省の工業団地へ何度か行きましたが、日本の工場進出歓迎は尋常ではありません。
しかし、その同じ町の映画館のポスターには日本軍閥粉砕の赤い字が大きく踊っていたのです。「あの映画はなんです?」「あ、あれは娯楽映画ですよ。現在の日中友好に関係ないです」と、特区の幹部は軽く答えていました。
中国がかつて欧米の植民地になっていた屈辱を中国人は忘れません。
それを考えると、最近に近習平国家主席が太平洋の制海権を握ろうとしています。欧米に植民地化された以前の屈辱を晴らそうとしているのです。

さて日本は今後の対中外交をどのように進めるのが日本の国益を守ることになるのでしょうか?

中国海軍の駆逐艦の写真を3枚示します。
 (写真の出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%8F%AF%E4%BA%BA%E6%B0%91%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E8%89%A6%E8%89%87%E4%B8%80%E8%A6%A7です。)

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。