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「剣の道」は「人間の道」である。剣禅一如の世界を説いた名著『剣と禅』

記事:春秋社

日本刀(真剣)と下げ緒
日本刀(真剣)と下げ緒

 武蔵と宗矩とを比較してみると、両者の性格――人間類型の差か、または環境の相違からか、一方は天下の枢機に参じてその志を伸べたのに、一方は雲を得ざる蛟竜のように、池中にその一生を埋もれ去ってしまった。しかもその差は両者の剣境――悟処の表現にもそっくりそのまま、あらわに打出されているからおもしろい。

 武蔵の剣の極意は、世間周知のように「巌(いわお)の剣」と呼ばれている。かれ自身の説明によれば「岩尾の身と云は、うごく事なくして、つよく大なる心」(兵法三十五箇条)であり、また「盤石のごとくに成て、万事あたらざる所、うごかざる所」(五輪の書)であるという。つまり、生死の両頭を脱した、寂然不動の境とでもいうか、八風吹けども動せず、大山崩るるともこゆるぎもしない絶対境が巌の身である。

 (中略)

 新蔭流のことは知らないが、直心影流には丸橋という型が五本あるけれども、一本も『新秘抄』にいうような打込むところがない。「唯一筋に行く」というよりは、むしろ魯の如く愚の如く「流に随って性を認得す」る趣きがある。そこで私はかねてから「丸橋」は「まろばし」とよみ「転」を意味するのではないかと考え、それは、いまという時、ここという処に、全生命を打込んで、即時即処に円球を盤上に転ずるように円転無礙に真実を行じてゆくことだ、臨済のいわゆる境に乗ずる底の、自由無礙な絶対随順行が「転」の真意だと主張してきた。

 (中略)

 石舟斎宗厳の孫、飛騨守宗冬が何かちょっと踏みすべらせたとき、沢庵和尚がそれを誡めるために贈ったというのが、例の『不動智神妙録』である。
これは文字通り「不動智」について語ったものであるから、まず第一にそのことを説明している。「不動とは動かずと申す文字にて候」。これは沢庵をまつまでもなく、その通りに違いない。したがって、不動とは武蔵の用語でいいなおすと、巌の身のことになる。ところが、沢庵は、その動かぬすなわち巌の身とは何かといえば、「動かずと申して、石か木かのやうに無性なる義理にてはなく候」と、武蔵の、くらやみの牛をたしなめるようなことをいってみせている。それどころか「向へも左へも右へも、十方八方へ心の動き度様に動きながら、卒度も留ぬ心」が実は不動なのだといって、こんどは宗厳流のまろばしを持ちだして、柳生の顔も立てている。沢庵の八方美人式仲裁は、なかなか手が込んでいる。

 (中略)

 武蔵と但馬の対立も、沢庵のこの動即不動、動静一如の弁証法的和解によって、他愛もなく言いくるめられて握手し、同時に禅と剣もやアやアとまたここで再会することになった次第である。まずはめでたし、めでたしである。(53~70頁)

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