1989年6月24日、美空ひばりは52歳で亡くなった。1989年は1月8日に元号が昭和から平成に改まった年。その死は昭和の終わりを強く印象づけるものだった。

 彼女はこの前の年に、東京ドームのこけら落とし興業として行われた『不死鳥コンサート』で病気療養から復帰していた。翌1989年の2月6日にツアー『歌は我が命』を福岡市でスタートさせ、翌日、北九州市・小倉の九州厚生年金会館(当時)でのコンサートが、結果として最後のステージになった。

その声は、わずかにゆらいでいた

 そのラストコンサートのテープが残されている。専属バンドの指揮者がサウンドチェックのために録音したものだ。

ラストコンサートを収録したカセットテープ。誰もラストコンサートとは思っていなかったため、映像は残されていない。指揮者・チャーリィ脇野がバンドの音をチェックする為に録音していたことで偶然生まれた貴重なテープ
ラストコンサートを収録したカセットテープ。誰もラストコンサートとは思っていなかったため、映像は残されていない。指揮者・チャーリィ脇野がバンドの音をチェックする為に録音していたことで偶然生まれた貴重なテープ
ラストコンサートの舞台となった福岡県北九州市小倉にある北九州ソレイユホール(旧九州厚生年金会館)
ラストコンサートの舞台となった福岡県北九州市小倉にある北九州ソレイユホール(旧九州厚生年金会館)

 完全復活したはずの彼女は、ステージに立てるような状態にはなかった。
 この日の客席には人知れず医師もいて、もしも食道にできていた静脈瘤が破け、気管に血液が流れ込んでしまったときには、すぐに肺に酸素を送り込めるようにと準備をしていた。

 小倉での公演は昼と夜の2回。昼の部の開始を“機材トラブルのため”15分遅らせて、美空ひばりはステージに立った。歌声を、専属バンドの指揮者であるチャーリィ脇野はこう聞いた。

「意識がファーっと遠くなったり、また戻ったりみたいな歌がずーっと続いていくの」

 それは、詰めかけたひばりファンには気付かない程度のゆらぎだった。

美空ひばりの元専属バンド・ひばり&スカイの指揮者、チャーリィ脇野。ひばりとは30年来の付き合い。ラストコンサートの当日も、ひばりの一番近くで支えながら、タクトを振った
美空ひばりの元専属バンド・ひばり&スカイの指揮者、チャーリィ脇野。ひばりとは30年来の付き合い。ラストコンサートの当日も、ひばりの一番近くで支えながら、タクトを振った

 5曲を歌い終え、トークを始める。

《後ろに腰掛けがございます。せっかく用意してくれたんだから、ちょっと座らせてもらいます。20代はこんなことなかったんですけど》

 こう言葉にしたあと、大きく《ふう》と息をついた。

 今回『アナザーストーリーズ』では、このラストコンサートの映像がどこかに残されているのではと考えて探したが、見つけることはできなかった。あるのは音声だけ。しかし、映像がないからこそ、溜息が強く、重く伝わってくる。

女王は最後まで光の中で

 小倉でのコンサートはなんとか昼の部を終えた。ただし、数時間後にはまた、ステージに立たなくてはならない。
 美空ひばりは楽屋で点滴を受け、その様子を見た周囲は夜の部は中止を検討する。しかし、歌の女王は強行を選んだ。

 夜の部が始まって、会場の2階にある音響調整室にいた音響スタッフの末松光廣は、美空ひばりの裏声がバンドに押されているのに気が付いた。

 「美空さんは裏声がきれいなんですけど、僕の中では返らなかったですね、裏声が。声が出なくなったと思うんですよ、あんまり。だから美空ひばりさんの声が、バンドに負けてしまうんですよ」

 末松は状況を確認するため、美空ひばりが舞台袖に帰ってくるタイミングを見計らって駆けつけ、そこで女王が体のバランスを失ったのを見た。

 「しんどそうというか、こう、痛いのを我慢するような」

 周りに抱きかかえられて倒れこそはしなかったが、もう、ステージで歌うのは不可能に見えた。

 末松は絶望的な気持ちで2階の調整室に戻る。すると、そこから見える舞台には、平然と歌う美空ひばりがいた。それが、彼女がステージで、華やかなライトを浴びながら歌う最後の姿だった。

会場の音響技師、末松光廣。長年ひばりのコンサートに携わってきた
会場の音響技師、末松光廣。長年ひばりのコンサートに携わってきた

 このラストコンサートのおよそ半年前、昭和が終わってから4日後にあたる日に、美空ひばり最後のシングル『川の流れのように』が発売されている。もともとアルバムのためにつくられた曲で、そこからシングルカットするのは、別の曲の予定だった。制作を手がけた境弘邦が振り返る。

 「ひばりさんが、それでもいいけれど『川の流れのように』はどうだろうと」

元日本コロムビア プロデューサーの境弘邦。「川の流れのように」が収録された、ひばりの最後のアルバムのプロデュースを秋元康にオファーした
元日本コロムビア プロデューサーの境弘邦。「川の流れのように」が収録された、ひばりの最後のアルバムのプロデュースを秋元康にオファーした

川の流れのように

 しかし、彼女には人生を歌った歌はすでにいくつもある。境はそれを理由にこの曲は「シングルの候補にはならない」と思っていた。しかし、いつもなら最後の判断を委ねる彼女がどうしても譲らない。

 「なぜひばりさんはこれにこだわるんだろうって、僕も凄く冷静に考えてみたら、自分の生い立ちから今日までというのは、決して楽な道ではないわけですよね」

 9歳で歌の天才少女と呼ばれ、あまりのうまさに「子供らしくない」と批判され、あるいは順風満帆に見える人生を嫉妬され、顔に塩酸をかけられたこともある。しかし、辛さや苦しさを見せることなく、見る側聞く側の期待に応え、スターであり続けようとした。

戦後の焼け跡の中で育った彼女の歌は、日本を勇気づけてきた
戦後の焼け跡の中で育った彼女の歌は、日本を勇気づけてきた
年に20日間しか一緒にいられなかった美空ひばりと息子・和也
年に20日間しか一緒にいられなかった美空ひばりと息子・和也

 境は、美空ひばりが川とはどんなものなのかを繰り返し語るのを聞いて「実にそうだな」と思った。

 その『川の流れのように』を、美空ひばりは小倉のラストステージでも歌った。今回の『アナザーストーリーズ』ではそれをもう一度、取材に応じてくれた当時の彼女を知る人たちに聞いてもらっている。

 命をかけて上がった最後のステージの舞台裏を紹介する『女王 美空ひばり 魂のラストステージ』は、6月22日水曜日21時から、NHKBSプレミアムで。命日の6月24日に合わせて放送される。(敬称略)

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