10日ほど前から、あらゆる事態がものすごいスピードで変化している。
世界を動かしているCPUのクロックが暴走したのかもしれない。そうとでも考えないと説明がつかない。それほど、身の回りのすべての出来事が急展開している。
この1週間ほどの展開は、いくらなんでも、ニュースソースの無駄遣いだと思う。
普通の状況だったら、新聞社のデスク諸氏は、五輪延期まわりの話題をいじくりまわすことだけで、1週間は楽に暮らせたはずだ。
週刊文春がスクープした財務局職員の遺書の話題にしたところで、状況が状況なら半月はイケるネタだ。
それが、たったの3日で「過去の話」になっている。
「いまさらそんな古いネタ蒸し返しても仕方がないだろ?」
的な、地層の下の化石みたいな話題になってしまっている。
こんなバカなことがあるだろうか。
しかし、現実に、事態はそんな調子で進行している。
ニュースは、オーバーシュートしている。
で、われわれの理解力はロックダウンし、事態を追う人々は呼吸困難に陥っている。
正直なところを申し上げるに、私は、現今の状況の変化に追随できていない。
ようやくのことで事態を把握したと思う間もなく、その私の現実認識は、半日後にはすっかり陳腐化している。そういうことが毎日のように繰り返されている。時事コラムを書く人間は、3時間ごとに現状認識を更新しなければならない。そんなことは不可能だ。なので、この1週間ほど、私は最新情報をウォッチする作業を断念している。理由は、たいして性能の良くない頭脳をこれ以上酷使したところで、疲労が蓄積するだけだからだ。
前回は、休日の関係で休載させてもらった。その決断をしたのは、実は当日だった。
というのも、新刊を2冊出したばかりということもあって、当初は、掲載日を1日前倒しにして、木曜日更新の形で原稿を書くつもりでいたからだ。ええ、私もこう見えてわりと商売熱心なのです。
ところが、いざ執筆日がやってきてみると、これが、どうやっても意欲がわかない。書くべきネタが見つからなかったのではない。むしろ、あまりにもネタが多すぎて、話題が絞りきれなかったという方が実態に近い。それ以上に、私は、世界で起こっている様々な事態の進行のスピードにキャッチアップできなくなっていた。簡単に言えば、変化のめまぐるしさが、こちらの思考速度を凌駕していたわけで、それゆえ、私は、自分のアタマの中にある言葉を文章の形で定着させることに困難を感じていたのだ。あるいは、私は、せっかく苦労して書いた原稿が、3日で無意味になってしまう予感を抱いていて、そのあらかじめの徒労感のために執筆忌避に陥っていたのかもしれない。
「こんな調子で2時間ごとに一面トップの大ニュースが飛び込んで来る状況で、オレはいったい何を書いたらいいんだ?」
と思うと、コラムニストの執筆意欲はその時点で枯渇する。
そういう時は自粛要請の如何にかかわらず、休んだ方が良い。
そもそも、自粛は他人に要請されるべきものではない。他人に要請して良いものでもない。
あたりまえだ。
「自粛」は、あくまでも本人が自分の意思で自分の行動を差し控えることだ。
世間の空気を忖度したり、他者からの圧力に屈して活動範囲を狭めたりする反応は「萎縮」と呼ばれるべきだし、自分以外の人間や集団に自粛を求める態度は「恫喝」ないしは「強要」と名付けられなければならない。
さて、今回は、あえて個別の事件や出来事に焦点を当てることを避けて、この半月ほどの間に私が「政治家の言葉」について考えたことを書いてみようと思っている。
このテーマを選んだ理由は、ドイツのメルケル首相が3月18日(現地時間)の夜に発信したテレビ演説に感銘を受けたからだ。
私は基本的に「感動」という言葉は使わないことにしているのだが、今回のテレビ演説に関しては、その言葉を使ってもかまわないと思った。それほど強く心を打たれた。
全文の日本語訳は、こちらのサイトで読むことができる。
冒頭で書いた通り、3月にはいってからというもの、あらゆる事態がとんでもない勢いで動いている。そして、この状況を受けて、世界中の政治家たちが、それぞれに強いメッセージを発信している。私は、先日来、危機的な状況を前に立ち上がった世界の政治家たちの言葉に耳を傾けながら、政治家が言葉を扱う仕事なのだということを、あらためて思い知らされている次第だ。
そうなのである。政治家は、一も二もなく、言葉で説明することの専門家であったはずなのだ。
ちなみに、政治家が言葉の専門家であるという旨のこのお話は、ずっと以前から、専修大学の岡田憲治先生が繰り返し強調しているテーマだ。私も、直接お会いした機会に、いくたびか詳しくお話をうかがっている。
より詳しいところは、『言葉が足りないとサルになる』あたりの著作に詳しい。ぜひ一読してみてほしい。
コラムニストも、言葉を扱う仕事に従事する人間ではある。
ただ、文筆業者の仕事は、文字をいじくりまわすことでなにがしかの表現をたくらむ言語玩弄者としての側面をより多く含んでいる。それゆえ、言葉への誠実さにおいて、政治家にはかなわないと思っている。
まあ、このあたりの事柄についての見解は、人それぞれ、立場によって、まるで違っていたりもするはずだ。なので、これ以上突き詰めることはしない。ここでは、私がそんなふうに思っているということを簡単に受け止めていただければ十分だ。話を先に進めることにする。
さて、私が感心したのは、メルケルさんの演説だけではなかった。
イギリスのボリス・ジョンソン首相のテレビ演説も、メルケル首相の演説とは別の意味で見事な出来栄えだったと思っている。
「別の意味」というのは、ジョンソン首相が、23日に英国民に向けて語った外出禁止令を含む思い切った内容の演説原稿が、それ以前に、英国政府が示していた方針と、かなりの部分で矛盾するものだったからだ。つまり「一貫性」という観点からすると、23日のジョンソン首相の演説は、支離滅裂だったと言っても良い。「裏切り」という言葉を使うことさえできるかもしれない。
ただ、重要なのは、ジョンソン氏が、状況の変化に応じて、最新の事態に適応した政策転換を悪びれることなく実行してみせたことと、その自分の前言撤回(あるいは「朝令暮改」)を、率直に、わかりやすい言葉で国民に向かって語った点だ。
この点において、彼の説明はいちいち出色だった。
イギリス国民は、前後の経緯はともかくとして、あの日の演説には納得したはずだ。
個人的には、これまで、ジョンソン首相について、その振る舞い方や選ぶ言葉のエキセントリックさから
「軽薄」で
「お調子者」で
「受け狙い」の
「ポピュリズム」丸出し
の政治家だというふうに評価していた。
それが、23日の演説を聴いて、見方をあらためた。
「なーんだ。やればできるんじゃないか」
と、大いに見直した。
ふだんはお行儀の悪い軽薄才子みたいに振る舞っていても、いざ国難という場面では、にわかに引き締まった言葉でシンプルなメッセージを発信することができるわけで、なるほど、政治家の評価は危機に直面してみないと定められないものなのかもしれない。
同じことは、トランプ氏についてもある程度言える。
この人について、私はずいぶん前から「問題外」の政治家だというふうに判断している。あらゆる点で、ほとんどまったくポジティブな評価ができない人間だとも思っている。しかしながら、今回の新型コロナ対応に伴うテレビ演説に限って言うなら、まことにトランプさんらしい率直な言葉で、米国民に語りかけている。この点は評価しないわけにはいかない。
もちろん、いつまでたっても「チャイナウイルス」という言い方を引っ込めないところや、必要のないところで野党やメディアの悪口を並べ立てる悪癖は相変わらず健在なのだが、国民に向けてのテレビ演説では、さすがの芸達者ぶりというのか、あれだけの選挙戦を勝ち抜いた政治家ならではの説得力を発揮している。
ついでに申せば、7000億ドルという前代未聞の巨額を投じる経済政策の打ち出し方も見事だった。
この点は、ドイツもすごい。報道によれば、7500億ユーロ(約89兆円)規模の財政パッケージを承認したという。
これも、これまでのドイツ政府の態度からは想像できない思い切った決断だ。
国民に覚悟と忍耐を求める以上、国としては、それだけの裏付けのある数字を示さなければならない。
これは、言葉の使いかたそのものとは別の話だが、言葉に説得力を与える意味で、不可欠なことでもある。
引き比べて、わが国のリーダーは、国民の前にほぼ顔を出さない。
これは、どれほど嘆いても嘆き足りないことだ。
メルケル首相は、ドイツ国民一人ひとりに向けて、さらにはドイツにいる外国人や底辺の労働者にも目を配りながら、新型コロナウイルスとの長く苦しい戦いに臨む覚悟を求める歴史的な演説を披露した。
ジョンソン首相も、いつもとは違う真剣な表情と言葉で、丁寧に政府の施策を説明し、国民に理解を求めている。
トランプ大統領も、いつものウケ狙いのスベったジョークや底意地の悪い罵詈雑言とはまるで違う口調で、米国民に自覚と希望を持ち続けることの大切さを訴えている。
彼らは、いずれも未曽有の危機に当たって、政治家の本領を遺憾なく発揮してみせたと言って良い。
一方、うちの国の政府の人間は、テレビの画面に出ることを極力避けようとしている。
記者会見では質問を打ち切るし、そもそも、臨機応変な記者との受け答え自体を、あらかじめ拒絶している。
こんな態度で、国民に政策を説明できる道理がないではないか。
ふだんの日常的な政策は、官僚に説明させればそれで足りるのだろうし、施策の細部について言うなら、担当官庁の役人の方が詳しいのだろうからして、彼らに説明を委ねることは、むしろ適切でもあるのだろう。
しかし、危機への対応は別だ。
文字通りの「国難」に対処する場面では、選挙で選ばれた政治のリーダーが、自分の言葉で国民に直接語りかけることが絶対に必要なはずだ。
が、そのことがこの国ではおこなわれていない。
なんという損失だろうか。
一説には、危機に直面する場面で国民の前に顔を晒すことで、失敗の責任を取らされることを避ける深謀遠慮だという見方もある。
まさかそんなことはないと思うのだが、そうでないにしても、言葉が少ない。
少ないだけならまだしも、出てくる言葉があまりにも空疎だ。
報道によれば、麻生太郎財務相兼副総理は、3月24日の午前、記者団に対して次のように語ったとされる。
《―略― 一律(給付)でやった場合、現金でやった場合は、それが貯金に回らず投資に回る保証は? 例えば、まあ色々な形で何か買ったら(一定割合や金額を)引きますとか、商品券とかいうものは貯金には(お金が)あまりいかないんだよね。意味、分かります? リーマン(・ショック)の時と違うんだよ。リーマンの時、マーケットにキャッシュがなくなったんだから。今回はどこにそういう状態があるの? みんな銀行にお金が余っているじゃん。だから、お金があるんですよ。要はそのお金が動かない、回らないのが問題なんだから。(24日、記者会見で)》
なんというのか、記者を子供扱いにするものの言い方からして、記者の向こう側にいるはずの国民に、マトモに説明する気持ちを持っていないとしか思えない。
察するに麻生さんは、現金の給付には乗り気ではなくて、その理由は、現金が貯蓄に回るなどして、必ずしも景気浮揚につながらないからということのようだ。
実際に現金を配布した場合、一定数の国民はその現金をすぐには使わず、貯蓄に回すだろう。その点は、麻生さんのおっしゃる通りだ。
が、国民が、現金を貯蓄に回す理由は、必ずしも現金が不要だからではない。むしろ、多くの国民は、将来が不安だから貯金をしている。そう考えれば、現金は、安心料として必要なものだし、多くの国民の不安を取り除くためにも、現金を支給することには大きな意義がある。
この記事を読んですぐ、私は以下のようなツイートを発信した。
《政府が現金じゃなくて商品券を配りたがるのは「カネはやるけど、使いみちはオレが決める」「援助はするが、援助の方法はオレの一存で決める」「食べさせてやるけど、何を食べるのかはオレが決める」「オレの推奨する消費先以外にカネを使うことは許したくないから現金は渡せない」ということだよね。》2020年3月25日-17:03
《貧しい人間が現金をほしがるのは、生活に困窮しているからでもあるが、それ以上にカネが無いことで行動が制限されているからだ。その意味で、生活困窮者が本当に必要としているのは、現金で買える「モノ」ではなくて、現金と引き換えに手にはいる「自由」なのだよ。麻生さんにはわからないだろうが。》2020年3月25日-18:09
《メシを食うカネにも困っている人間がパチンコや酒にカネを使ったり、風俗だのゲーセンだのになけなしの現金をつぎ込むのは、それこそが「自由」だからだ。「オレはオレの時間をオレの好きなように過ごす」という実感が欲しくて人は時に愚行に走る。商品券では自由が買えない。ここがポイントだぞ。》2020年3月25日-18:14
もうひとつ付け加えれば、政府が、現金でなく商品券を配りたがるのは、貧窮する国民の暮らしを支えることや、近未来に不安を抱いている国民に一定の安心感を与えることよりも、彼らの購買行動を促して経済を回すことをより重視しているからでもあれば、特定の業界(つまり商品券が指し示しているところの「商品」の生産者たち)への利益誘導をはかりたいからでもある。
こんなことでは、到底国民の支持は得られない。
もしかしたら、安倍さんや麻生さんが、テレビ演説で直接国民に語りかけようとしないのは、自分たちの打ち出す政策が、筋の通った言葉で説明できない筋の通らない政策だからなんではなかろうか。
政治家の言葉は、巧みでなくても、誠実であれば十分に伝わるはずのものだ。
せめて、正直に、自分の言葉で、まっすぐに語りかけてほしい。
安倍総理が、和牛券やお魚券や旅行クーポン券を配布する理由について、万民を納得させるだけの言葉を持っているのなら、ぜひその言葉を披露してもらいたい。
もし仮に、現政権が、説明をしないリーダーに追随する国民を作ることに成功していたのだとすればこれはもうわれわれの負けだ。好きにしてくださってけっこうだ。私は非国民の道を選ぶだろう。
(文・イラスト/小田嶋 隆)
延々と続く無責任体制の空気はいつから始まった?
現状肯定の圧力に抗して5年間
「これはおかしい」と、声を上げ続けたコラムの集大成
「ア・ピース・オブ・警句」が書籍化です!
同じタイプの出来事が酔っぱらいのデジャブみたいに反復してきたこの5年の間に、自分が、五輪と政権に関しての細かいあれこれを、それこそ空気のようにほとんどすべて忘れている。
私たちはあまりにもよく似た事件の繰り返しに慣らされて、感覚を鈍磨させられてきた。
それが日本の私たちの、この5年間だった。
まとめて読んでみて、そのことがはじめてわかる。
別の言い方をすれば、私たちは、自分たちがいかに狂っていたのかを、その狂気の勤勉な記録者であったこの5年間のオダジマに教えてもらうという、得難い経験を本書から得ることになるわけだ。
ぜひ、読んで、ご自身の記憶の消えっぷりを確認してみてほしい。(まえがきより)
人気連載「ア・ピース・オブ・警句」の5年間の集大成、3月16日、満を持して刊行。
3月20日にはミシマ社さんから『小田嶋隆のコラムの切り口』も刊行されます。
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この記事はシリーズ「小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 ~世間に転がる意味不明」に収容されています。フォローすると、トップページやマイページで新たな記事の配信が確認できるほか、スマートフォン向けアプリでも記事更新の通知を受け取ることができます。