王国(あるいはその家について)

劇場公開日:

王国(あるいはその家について)

解説

長編映画デビュー作「螺旋銀河」が第11回SKIPシティDシネマ映画祭にてSKIPシティアワードと観客賞をダブル受賞した草野なつか監督の長編第2作。

出版社の仕事を休職中の亜希は実家へ数日間帰省することになり、小学校から大学までをともに過ごした幼なじみの野土香の新居を訪れる。大学の先輩だった直人と結婚して子どもを産んだ野土香は、実家近くに建てた新居に暮らしていた。その家は温度と湿度が心地よく保たれており、まるで世間から隔離されているようだと亜希は感じる。最初は人見知りをしていた野土香の娘・穂乃香は一緒に遊ぶうちに亜希に懐くが、野土香はとても疲れている様子だった。数日後、東京の自宅に戻った亜希は、ある衝撃的な内容の手紙をしたためる。

演出による俳優の身体の変化に着目し、脚本の読み合わせやリハーサルを通して俳優たちが役を獲得していく様子を、同場面の別パターンや別カットを繰り返す映像で表現。ドキュメンタリーと劇で交互に描きながら、友人や家族といった身近なテーマをめぐる人間の心情に迫る。「ハッピーアワー」の高橋知由が脚本を手がけた。

2018年製作/150分/日本
配給:コギトワークス
劇場公開日:2023年12月9日

オフィシャルサイト

スタッフ・キャスト

監督
脚本
高橋知由
エグゼクティブプロデューサー
越後谷卓司
プロデューサー
鈴木徳至
撮影
渡邉寿岳
音響
黄永昌
美術
加藤小雪
衣装
小笠原由恵
ヘアメイク
寺沢ルミ
編集
鈴尾啓太
草野なつか
助監督
平波亘
エンディング曲
GRIM
写真
黒田菜月
手紙文作成
高橋知由
澁谷麻美
イラスト
さいとうよしみ
タイトルデザイン
さいとうよしみ
宣伝デザイン
三浦樹人
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映画レビュー

5.0役者の生成変化の過程を捉えた稀有な作品

2023年12月31日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

普段見ている映画は、役になりきった俳優が画面に映っている。しかし、元々は役者たちは個別の人間であり、映画の役の人間とは別人だ。しかし、優れた映画は観客にそう思わせない、これはこういう人物なんだと思わせる説得力がある。
しかし、ふと不思議に思うのは、俳優も最初から作品の中の人物として存在していたわけではない、彼ら・彼女らはどのように役に変身していくのか、ということ。
この映画は、その過程を描く作品だ。映されているのはリハーサルの光景だ。何度も同じシーンを反復しながら、「俳優」だった者たちが映画の中の「人物」になっていく過程がスリリングに描かれていく。
何度も同じシーンを見せられるのは苦痛だと思う人もいるかもしれないが、脚本上で同じシーン・同じセリフであっても俳優の演技はひとつとして同じではない。メタモルフォーゼの過程というか、徐々に変化しているのが確かにわかる。同じセリフ、同じシーンだからこそ、細かい差異がわかりやすく浮かび上がる。
これは「生成変化」の映画なんだろう。変化そのものを捉えるのは実に難しいことで、時間芸術ならではのアプローチでそれを捉えた稀有な作品だ。

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杉本穂高

4.0革新的・斬新な新時代の映画手法!

2024年4月20日
iPhoneアプリから投稿
鑑賞方法:映画館

びっくりしました。

冒頭は普通に始まったな〜くらいに思っていたのですが、
でも、殺人犯と刑事のいる場所としての違和感があったり、最初からコンフリクトがあるつくりで
あれ?っと観客に感じさせるところから始めるあたり、監督は只者ではないと思いました。

そこから、
役者陣による本読み?の応酬が始まります。
最初は『ドライブ・マイ・カー』の俳優陣による本読み(棒読みの)を彷彿とさせるな〜と思って観ていたら
全然違う。
本読みを重ねるごとに、役者陣に役が入り込んでいく、どんどん熱を増していく、という視点と
それを観ている観客がストーリーや登場人物にグイグイ引き込まれたり感情移入したり、思考が重なっていったりと、
直接的な映画表現がなされなくても、役者の練習風景だけでストーリーが頭に入ってくるあたり、
もはや映画の革命を観せられたように思いました。

これを意図的にやっている監督は本当にすごい。
この作品と出会えて幸せです。

映画的なストーリーとしても、観客に解釈を委ねられる系ですから、
考察含め、余韻を楽しめる映画作品となっており
私としてはすごく楽しめました。

ラスト近くの主人公の殺人を犯した心境を手紙にしたため、それを朗読するシーンでは
殺人の動機も理解できたりはします(あくまでも観た人それぞれの解釈になる前提です)が
ゆえに人間の本質的な怖さにも触れたように感じます。

本読みの練習風景だけではなく、ちゃんとした映画の一場面も切り取られて観せられますから
映画作品としても完成しているのだろうとは思うんですよね。
風景も差し込まれますしね。役者の読み合わせだけでなく、おそらくはちゃんと映画作品としても仕上がっているはずですが
その全体像は見えないんですよね。それがまた巧みだなとも思いました。

いやぁ、映画ファンには一度は観ていただきたい作品です。
とにかく驚きました。

すごい!!

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ひでちゃぴん

3.5不条理劇(映画)で、観る人によっては…

2024年2月14日
Androidアプリから投稿
鑑賞方法:映画館

悲しい

難しい

映画の台本をト書きを入れて、ブラッシュアップしていく
内容としては、王国というか、自分(とテレパシーというか目と目で通じ会う人と)のお城🏯を築き上げていきたかった途中で、障害となる友人の子を台風の濁流の川に突き落としてしまうのだが…
友人は地元に残り、大学の先輩と結婚
その大学の先輩はかなりレベルの低い私立中学で美術の先生といった立場に…なぜ私の大切な友人がこんな人とと…という自分勝手な思い込みも
私の方が友人を私の王国で幸せに…といった自己チューな考えもあったのかな〰️
映画より演劇にした方が、見ごたえ有ると思います‼️

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ろくさん

4.0王国を見た

2023年12月26日
iPhoneアプリから投稿

保坂和志の小説にこういう一節がある。作中に登場する映画青年のセリフだ。

"映画って、だいたいしゃべってる人を中心に撮るでしょ。そうすると、そのあいだって、聞いてる方が何してるかわかんないでしょ。
だけど、しゃべってる人の動作なんて、だいたい見なくたってわかってるしーー"

保坂和志『プレーンソング』より

発話者を、ひいては音の鳴る方向をひたすら愚直にカメラで追い続けることにはあまり意味がない。むしろ空間が平板化し、ショットに立体性がなくなる。

しかしかといって映画青年の言うことをそのまま実践し、音のしない方向だけを映し出すことにももちろん意味がない。保坂もまたそんなことを主張させるためにこのセリフを書いたわけではないだろう。映画青年が本当に言いたかったこととは何なのだろうか?

さて、本作ではホン読みをする3人の男女の姿が異なる角度や長さで次々と映し出されていく。

そこに数学的な法則性は見当たらず、素早くカットを切ってみたり、10分以上の長回しで捉えたり、とにかくさまざまな実験的撮影が実践される。

舞台のほとんどは殺風景なレンタルスペースや公民館の空き部屋のような場所だ。しかし撮られたショットにはときおり形容しがたい緊張感が漲っている。というのも、映像と音声の絶えざる離合集散がショットを立体たらしめているからだ。

カメラは発話者を映し出したかと思いきや徐々にその横の傍聴者へとスライドしていったり、あるいは何もないところで立ち止まったりする。映像と音声の距離が伸縮することで、そこにその時空間固有のテクスチャが現れる。

『プレーンソング』の映画青年が本当に言いたかったことはまさにこれなんじゃないかと思う。つまり、カメラの前の時空間が湛える固有のテクスチャを捉えること。

ここでいうテクスチャとは単に辞書的な意味での手触りのことを指すのではない。そこに存在するありとあらゆるもの(会話する人々とか、吹きつける風とか、遠くから聞こえてくる音とか)の総体が織り成す現今的な、つまり今この瞬間にしか生起しえない手触りのことだ。

ロベール・ブレッソン曰く、シネマトグラフの条件とは不意に出来する奇跡を捉えることにあるのだという。まるで釣り人のように、静かな湖畔にじっと竿を垂らし、何かが通りかかったら釣り上げる。何が釣れるかはわからない。重要なのは、その瞬間を逃さないことだ。

しかし本作がブレッソンの諸作品と異なるのは、釣り上げるまでの過程をもテクストとして観客に提示していることだ。本作にはまさに「決定的」といえるようなショットもあれば、はっきり言ってそこまで意味があるとは思えないショットもある。ピンボケのカメラ、ガタガタのパン、セリフを噛む役者。

そのとき私が思い浮かべたのは積み木の玩具だ。積み木の玩具はレーシングカーやぬいぐるみと異なり、あらかじめパーツが最小単位の素材に分解されている。なおかつプラモデルのように明確な完成形も存在しない。

本作もまた積み木の玩具のような作品であるといえる。そこには最小単位の素材だけがある。幾度と同じ箇所を繰り返すホン読みシーンもそうだし、途中で挟まれる橋や砂場や道路(おそらく元の脚本を順当に撮っていくのであればロケ地として使用されていたであろう場所)のショットもそうだ。

そしてそれら素材を組み立て、無数の「映画」へと昇華させていくのは、他ならぬ我々受け手の責務だ。

そういう意味では本作はメタ映画だといえるかもしれない。受け手に出来合いのスペクタクルを提供するのではなく、素材だけを手渡し、能動的に組み立てさせる。

当然、出来上がる映画は受け手の数だけ存在することになる。先ほど私は「ときおりハッとするショットがある」といったことを書いたが、人によっては私がハッとしたショットに何も感じないかもしれないし、逆に私が何も感じなかったショットにハッとしているかもしれない。

ここで脚本上の「王国」のエピソードが輝きを帯びてくる。「王国」とは親しい者たちの間にのみ成立する超言語的空間のことだ。脚本の中の亜希と野土香のように、あるいは野土香と直人と穂乃果のように、我々受け手もまた監督ら作り手と個々別の「王国」を築き上げているといえる。メタとベタの境界が瓦解し、映画は無際限に拡張していく。ちょうどオーソン・ウェルズ『上海から来た女』のミラーハウスのシーンのように。

脚本、撮影、編集にいたるまであらゆる面において立体性のある恐ろしい映画だったと総括しよう。

我々はあの殺風景な部屋の向こう側に、途方もなく巨大な王国を見たのだ。

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