日髙神社の由緒

日髙神社の由緒

大切な巻物があります

日髙神社の由緒

 この由緒書は、日髙神社・重松神社にあります。必要な方に頒布しています。

 これから紹介する由緒には元となる文書〔巻物〕があり、それをわかりやすく解説したものです。巻物は大浦区で大切に保管されています。

日髙神社と大成家の関係について

 東広島市安芸津町木谷に鎮座します重松神社の神主は、江戸時代の初め頃から日髙神社の神主も務めてまいりました。呉市蒲刈町大浦に鎮座します日髙神社と木谷は随分離れていますが、なぜ神主を務めるようになったのでしょうか。このことについては、次のようなお話があります。

1640年頃に大浦村に虫(またはネズミとの説も)が大量に発生し、10数年にわたって不作が続きました。いろいろな神主に祈祷をお願いしたのですが、全く効果がなく困っていたところに、当時の奉行・西尾殿より木谷村の第7代神主・大成影正に祈祷の命が下されました。大浦に赴いた影正は春日のご神体が埋まっていることを見抜き、このご神体を掘り出したところ、虫は一斉に退散し、作物が稔るようになった、ということです。以後、大浦村のすべての神社・社の奉仕をするようにも命ぜられ(1654年か?)、現在に至っています。

 このことを裏付けるかのように、次の8代目の神主・景次から裁許状(神主であることを証明する書状、1668年)に、大浦村の八幡宮が記載されることになります。

大成景次の神道裁許状

 江戸時代、神主であることを正式に認められるには、京都の吉田家が発行する神道裁許状が必要でした。この神道裁許状には、官名や奉仕神社の場所と神社名などが書かれています。大成影正も1652年に神道裁許状をいただいていますが、大浦の八幡宮(=日髙神社)の神主を命ぜられたのは裁許状を取得した後のことですので、大浦の八幡宮については神道裁許状には書かれていません。
 次の8代・大成景次からは、神道裁許状に大浦の八幡宮は記載されることとなります。ちなみに、大成景次の神道裁許状は、寛文8年(1668)に発行されました。この裁許状には「大浦八幡宮」と書かれていますが、当時、日髙神社が「大浦八幡宮」と呼ばれていたという意味ではありません。「大浦にある八幡宮」という意味で記載されており、現在の日髙神社のことです。日髙神社は明治頃までは「日髙庄八幡宮」といっていたように八幡宮です。

8代神主・大成豊前掾景次の神道裁許状【1668年発行】
★吉名村〔竹原市〕とも関係があることがわかります。
★詳しくは、「日髙庄八幡宮~神社編~」をご覧ください。

日髙神社の本

本のタイトルは、「日髙庄八幡宮~神社編~」です。
重松神社・大浦区事務所・安芸津図書館などで閲覧できます。

「うつろ舟」の話がポイントです

 日髙神社の由緒に「うつろ舟」あるいは「うつぼ舟」という言葉が出てきます。この舟がいったい何なのかについてわかっていないと、日髙神社の由緒を理解することは難しいと思います。
 それは、「うつろ舟」の話を知らないと、日髙神社の由緒に書かれている日付と日数が合わないと思われるでしょうし、「流れ者の刑」とは具体的にどいういった刑なのか全くわからないからです。
 ここで紹介している日髙神社の由緒は、説明を加えながら、できるだけわかりやすくしていますが、元の由緒書には説明や解説はなく、解読にかなり苦労をしました。
 しかし、ここで紹介する「うつろ舟」、あるいは「うつろ舟の蛮女」について書かれた本を読まれれば、「元の由緒書」に書かれていることがある程度理解することができます。短い話なので、皆さんもぜひ読んでみて下さい。
 ここで紹介する本は実際に購入した本です。

「うつろ舟」の本を紹介します

●加門正一「江戸『うつろ船』ミステリー」楽工社、 2009年

 

●渋澤龍彦「うつろ舟」福武書店、1986年

 

●柳田国男「妹の力」角川ソフィア文庫、 2013年

 

●東郷隆「病と妖怪ー予言獣アマビエの正体ー」インターナショナル新書〔集英社〕、2021年
 この本にも「うつろ舟の美女」について書かれています。

 

※購入してはいませんが、次の本も気になっています。
●佐藤秀樹「曲亭馬琴『兎園小説』の真偽: うつろ舟の蛮女と大酒大食の会」‎ 三弥井書店、2022年

「うつろ舟」以外の参考図書

 日髙神社の由緒には刑罰や病気について出てきますので、その関係の本も多く購入しました。それらのうち、次の本は最も参考になった本です。