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人が人を裁くということ (岩波新書 新赤版)
著者 小坂井 敏晶 (著)
市民の司法参加が義務として捉えられる日本と、権利として理解される欧米。この違いは何によるのか? また、冤罪事件が繰り返されるのはなぜか? これらの点から分析を進め、裁判と...
人が人を裁くということ (岩波新書 新赤版)
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商品説明
市民の司法参加が義務として捉えられる日本と、権利として理解される欧米。この違いは何によるのか? また、冤罪事件が繰り返されるのはなぜか? これらの点から分析を進め、裁判という営みの本質に迫る。【「TRC MARC」の商品解説】
著者紹介
小坂井 敏晶
- 略歴
- 〈小坂井敏晶〉1956年愛知県生まれ。フランス国立社会科学高等研究院修了。パリ第8大学心理学部准教授。著書に「異文化受容のパラドックス」「民族という虚構」「異邦人のまなざし」など。
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私なりにいろいろと考えた
2019/01/28 15:00
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ふみちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
著者がいうように、明確な殺意がある犯人が相手をめった刺しにする、ところが救急車で運び込まれた先の病院には名医がいて、その刺された男の命を助けてしまう、もちろん、この場合殺人ではない。ところが、明確に殺意があったわけではないが衝動的に相手をさしてしまい、相手が救急車での搬送途中に渋滞に巻き込まれて死んでしまったとき、これは「殺人」になってしまう。理不尽なような気もするが法により我々が人を裁く場合は仕方がないことなのだ。裁判員制度が導入されてから、はたして我々は正しい判断ができているのだろうか。やはり疑問が残る
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人を裁くことに対する哲学的な問い
2017/07/29 18:00
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:親譲りの無鉄砲 - この投稿者のレビュー一覧を見る
あとがきで筆者自ら述懐しているように、人が人を裁くというのは、なんと重いテーマなのか。執筆動機には、欧米に倣う形で2009年に日本に導入された裁判員制度のことが念頭にあったのだと思う。導入部での著者指摘によると、フランスの参審制や歴史的にコモン・ローを採用している英米の陪審制度の違いには、近代国家形成過程の違い、国民の国家・政治観の違いが見事に縮図的に反映されているという。面白い。このあたりは、同著者による「民族という虚構」の続編的考察ともいえるかもしれない。トップダウン的に裁判員制を導入した日本では、裁判員そのものを信用していないとも取れる制度設計が目につく。法律や裁判について素人の一般市民が、裁判審理にコミットすることによる、冤罪発生確率の上昇や量刑の誤りを招くのではないか、等という素朴な疑問は、制度導入前より議論されたものであるが、他国の制度を慎重に考察した著者は、事実認定だけなら素人の陪審員だけでも問題は無い、とする。一見日本人の常識と異なる結論なので、目から鱗の思いだ。プロの裁判官ですら、多数決による罪状認否や判決には、社会心理学のテーマでもある密室空間における同調圧力や認知不協和に基づく意見維持の脆弱化がある。一方、少数意見の尊重の雰囲気は同調圧力を緩和する。英米の陪審制で事実認定は全員一致とする原則には、歴史・経験的な知恵のみならず社会心理学的にも故なしとしない。このあたり著者の面目躍如たるものがある。日本の裁判員制にはまだ問題は色々ありそうである。日本人の精神風土との兼ね合いもあり、この制度が根付くかどうか今後よく吟味する必要はありそうだ。
本書後半では、なぜ人は人を裁くのかという根源的な問題に対して、哲学的ともいえる考察を進める。特に本書での最大の問いは、人は主体的な存在であり、自己の行為に対して責任を負う、という普通語られる責任論の根拠としての「自由意思」なるものが本当にあるのか?という点である。大脳生理学者リベットの実験によれば、人間の「行為」は人間の顕在意識形成に先立って起こっている、という「事実」がある。人間の意思が因果的に行為を制御できていないとすれば、人とは、実は犯罪行為に対する罪を問われるような自由意思を持つ主体的存在ではないのではないか、という深刻な問題である。個人的には、このレトリックには、顕在意識のみに自由意思があると決めつけている部分に危うさがあると思うので、著者の考えには賛同しない。
著者は仏教説話を引きつつも、宗教に解答を見出すことに否定的である。しかし二千年の歴史を持つ大乗仏教には、自我執着の末那識が麁重縛の種子を阿頼耶識に播くことで表面意識に煩悩が育ってしまうというサイクルがあるという心理モデル概念が既にあり、そこには確かに完全な自由とは言えないが、煩悩生成を許すかどうかの意思的決定権をそれぞれの人間に認めている。また修行により煩悩の滅却が可能であるとする。今の社会心理学がまだ人間の内面構造の深くに踏み込めていないのではないか。キリスト教徒ではないが私が本書タイトルで連想したのは、ヨハネ福音書8章のエピソードである。犯罪者に対して抱く大衆の憎しみの気持ちが人を裁く権利を主張している。しかし、裁く権利があると思っている人それぞれにも一つや二つの傷が脛にあるはずだ。時代とともに極刑が影をひそめ始めているのも事実だ。大衆の価値観も不変ではない。犯罪の原動力が煩悩にあるならば、人の集合知が、犯罪の少ない寛容的で平和な社会を構築する方向に社会を不断に改変していくことが可能だ、という方に賭けたいと思う。
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法制度論としては賛成できない
2019/09/23 13:23
2人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:書評太郎 - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は3部構成になっていますが,著者のメインテーマである第3部(原罪としての裁き)には,少なくとも法制度論としては賛成できません。第3部の著者の主張を私なりに要約すると,次のとおりです。
(1)人間には「自由意思」(自分の行為を制御する能力)は備わっておらず,従って「責任」(自分の行為に対する非難可能性)というものはない。
(2)それにも関わらず,犯罪の行為者を犯人(=責任者)として処罰するのは,社会秩序を維持するために,犯罪のシンボルとして処罰される「スケープゴート」が必要だからである(歴史的には「魔女」や「動物」が選ばれたこともある)。
(3)「責任」と「罰」は表裏一体であり,責任があるから罰するのではなく,犯罪のシンボル(スケープゴート)として選ばれたものに「責任」があるとされる。
なお,第1部と第2部では,現実の裁判において「冤罪」を回避し難いことがデータに基づいて論証されており(そのこと自体に異論はありません),全体の流れとして読むと「冤罪犠牲者もスケープゴートとして理解すべき」というかの如くです。
しかし,著者の主張には2つの点で賛成できません。
第一に,人間には自由意思がないという著者の前提は,常識的に考えて俄かに信じ難いものですし,科学的にもまだ決着が着いていません(著者が根拠とする実験を行ったリベット自身もこれに同意していません)。
仮に,この前提が正しいとすれば,人が刑法その他の法律や契約を守って社会生活を営むことは凡そ不可能となるはずです。しかし,実際には,大多数の人は法律や契約を守って生活しており,だからこそ社会が成り立っています。法律や契約がフィクション(虚構)であることは論を待ちませんが,「大多数の人は法律や契約を守る」という事実はフィクションではないはずです。
第二に,著者のいうとおり,人間に自由意思がないとすれば,刑罰を正当化することは,もはや出来なくなるはずです。
著者は,「スケープゴートが必要だから」ということで刑罰が正当化される(現にされている)と考えているようですが,少なくとも,人権思想を基礎とする近代刑法においては,刑罰の正当化根拠として明らかに不十分です。仮に,これだけで十分だとすれば,行為者の処罰に留まらず,法律を理解できない責任無能力者や,さらには冤罪犠牲者の処罰も正当化されることになりかねません。近代刑法は,まず「証拠による裁判」の原則を打ち立て,次に「責任主義」によって処罰対象にさらに絞りをかけました。著者は,冤罪が避け難いという現実と,責任は虚構であるという議論によって,近代刑法の2つの原則を無効化し,刑罰の正当化根拠を等閑視していると言わざるを得ません。冤罪は,理論的に回避不可能というものではなく,困難ではあっても,これを根絶するための不断の努力を続ける他ありません。しかし,人間に自由意思がないということが科学的に実証された場合,刑罰という制度は廃止せざるを得ないと思います(少なくともスケープゴートに人間を選ぶべきではないと思います)。
私としては,本書を読んだ裁判員や職業裁判官が(おそらくは著者の意図を誤解して)「刑事裁判はしょせんスケープゴートを選ぶ手続に過ぎない。この人が本当の犯人かどうかは分からないが,犯人である可能性が高いし,社会を納得させるにはこの人を犯人にする他ない」などという考えに陥らないことを願うばかりです。