traverse 新建築学研究 vol.20

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新建築学研究

traverse 20 kyoto university architectural journal


Special Program 布野 修司

Shuji FUNO

古阪 秀三

Shuzo FURUSAKA

竹山 聖

Kiyoshi Sey TAKEYAMA

traverse 二十周年記念座談会

4

traverse 20th Anniversary Discussion

石田 泰一郎

Taiichirou ISHIDA

大崎 純

Makoto OHSAKI

Gravure

4回生スタジオコース作品

12

Students' Works : 4th Year Studios

Interview 木村 吉成

Yoshinari KIMURA

松本 尚子

24

'Kamae' - Structure, Attitude - the architecture tolerating ambiguity

Naoko MATSUMOTO

宮本 佳明

受容される「欠落」― 多義性を包容する大らかな構え

Katsuhiro MIYAMOTO

「終わり」のない建築

36

Never-ending architecture

伊藤 東凌

Toryo ITO

井上 章一

Shoichi INOUE

失われるもの、遺すもの Lost and Inherited

48


Project

contents

竹山研究室

オ ブジェ・アイコン・モニュメント

64

金多研究室

自分の仕事を好きにならな

74

神吉研究室

神 吉研究室プロジェクト

TAKEYAMA Laboratory Objet d'Art / Icon / Monument

KANETA Laboratory

KANKI Laboratory

Do you like your job?

Projects of Kanki Lab.

80

Essay 布野 修司

Shuji FUNO

「アジア」 の欠落 ― 世界建築史をいかに書くか?

88

Lack of Asian Architecture: How We Write a Global History of Architecture?

竹山 聖

未 完結の美

大崎 純

建 築構造設計のための機械学習

100

牧 紀男

東 日本大震災からの復興雑感 ― 今後の復興対策につながる新たな取り組み

106

柳沢 究

住経験論ノート(2)― 親の住経験をインタビューすること

112

Kiyoshi Sey TAKEYAMA

Makoto OHSAKI

Norio MAKI

Kiwamu YANAGISAWA

B eauty of the incomplete

94

Machine learning for structural design of building frames

What's new about the recovery projects in the Great East Japan Earthquake Disaster

Note for Study on Dwelling Experience 2: Interview with Parents about Their Dwelling Experience

Students' Essay 清山 陽平

跡形もなく、しないこと

118

成原 隆訓

リ アリティの欠落からの解放 ― アニメーションにおける場所と風景

120

石井 一貴

述 語面としての「仮面」建築

122

Yohei KIYOYAMA

Takanori NARIHARA

Kazutaka ISHII

N ot completely to change

Free from the Absense of the Reality: places and landscapes in animations

"Masked" architecture as a predicate phase

Contributors / Back number / Editorial note

124


DISCUSSION

traverse 二十周年記念座談会 traverse 20th Anniversary Discussion

『traverse――新建築学研究』編集委員

布野修司

古阪秀三

竹山 聖

石田泰一郎

大崎 純

Shuji FUNO

Syuzo FURUSAKA

Kiyoshi Sey TAKEYAMA

Taiichiro ISHIDA

Makoto OHSAKI

『traverse―新建築学研究』創刊二十周年を記念して、創刊当時の編集委員の先生方を招き座談会を行った。『traverse』に込められた思 いを振り返りながら、その本質と展望について議論する。 聞き手:宮原陸、菅野拓巳、三浦健、河合容子 2018.8.23 京都大学桂キャンパス竹山研究室にて

4


traverse 20th Anniversary Discussion Shuji FUNO / Shuzo FURUSAKA / Kiyoshi Sey TAKEYAMA / Makoto OHSAKI / Taiichiro ISHIDA

創刊にあたって

布野 ― まだ大先生方が助教授だった時代に、助教授の J

をとって J リーグといって、何か月かにいっぺん集まって、 鴨川縁の赤垣屋でいろいろな議論というか飲み会をやって いました。そのなかで、研究というと黄表紙 ( 日本建築学 会の論文の通称 ) だけを意識しているような仕事ばかりを

れば、京都大学の機関紙になればいいなと。最初から学生

やっていたらだめじゃないのか、京大は京大の審査基準を

が中心になるといいかなと思ったんですけど、スタートす

持って、京都からなにか発信できないか、という話になっ

るときにいきなりはちょっと無理なので、われわれで道筋

たんだと思います。僕は東京から来たこともあって、京都

を引いて、いずれはそういう方向になればいいなと思って

大学に憧れがあった。京大のオリジナリティとし、かつて

いました。

1)

『建築学研究』 があったわけですし、京大としての独自の メディアをだしたらたらどうかと思ったんです。

大崎 ― 最初は海外に向けてという意味合いがだいぶ大き

くて、それで半分英語にしたり、英語のアブストラクトを 古阪 ― 設計、構造、設備とかマネジメント系とか、いろ

必ず書いたりしました。

いろな分野がとにかく自由にやろうというのが、いちばん 大きなことなんですよ。

石田 ― 布野先生の巻頭言を何回か読んだことがありま

す。僕の理解では、京大のそれぞれの先生がレベルの高い 布野 ― そうそう、竹山先生が付けた「traverse」という名

ことをいろいろとやっているけど、 どうもよくわからない。

前にもその思いが込められている、学際的に議論をやろう

だから京大の活動を外部に向けて発信しようと。そうして

というね。建築のなかでも分野を超えて一緒にやりましょ

外部に対してだけでなく内部に対しても相互に見えるよう

うという意識があった。

な、どこから見ても京大の活動がくっきり見える形にしよ うというのが、創刊のとき皆で考えたことにあったと思い

竹山 ―『traverse』を作ったときは純粋に、 京大発のメディ

ますね。後は自由なメディアというか、論文に書くような

アを作ろうよ、論文報告集のような形ではない、京都でもっ

ことではないかもしれないし、かといって商業的な話でも

とフリーに皆で語れる場を作ろうよと。『建築学研究』 とい

ない、自分の専門に関することを書けるメディアになれば

う戦前から戦後にかけて京大で出ていたものもある程度そ

いいなという話もありました。もちろん京大のなかでも、

ういう自由な気風がありました。僕は東大の大学院のとき

もう少し自由にやりましょうよという話もありました。そ

に、イェール大学の『Perspecta』という雑誌に原稿を書い

れから、先ほど話にあったような飲み会の議論もあって、

たことがあるんですね。これはすごく立派な雑誌で、大学

創刊したという話だったと思います。当時は、ある外部の

院生が企画・編集して、執筆を世界中から集めるというこ

先生から「この時代によくこういうことをしますね」と言

とをしていて。ハーバード大学も『Harvard Architecture

われたりしたけど、僕たちはこういう事をやるんだぞとい

Review』というのを出している。そういうのを見ていると、

う自負心みたいなものもちょっとありました。

どちらも大学院生が編集長になって雑誌を出していて、そ の編集長はたいていすごいクリティークになっているか建

1)「建築学研究」:1927(昭和2)年5月に創刊後、1950(昭和 25)

築家になっているんですよ。僕はそういうふうな雑誌にな

年 156 号まで発行され、数々の論考が掲載された。

5


DISCUSSION

布野 ― 今の学生にとっても、竹山先生がどうやって何を

作って何を書いてきたかっていうことは気になるでしょ う。まず『建築学研究』の頃を知っている先生方に聞きた かった。実際に教えて来られた先生に聞くというのは自然 な流れだったし、初心を確認すべきということだよね。 大崎 ― 戦前の頃に学生だった横尾先生は、 戦前戦後の「建

築学研究」 の状況を知っておられたので、 そういう話を聞く ということもありました。そうして当然のごとく、最初の 名誉教授のインタビューは横尾先生に決まったわけです。 横尾先生は、縦社会の横働きということや、横のつながり が大切さというのをずっと言われていて、 『traverse』とい う言葉を見てすごく喜んでおられました。構造の先生で計 画系と話ができる先生というのは昔は横尾先生だけだった のですが、今はたぶん私だけだと思うんですよ ( 笑 )。そう いうことも引き継いでいる。

traverse 創刊時のスケッチ

竹山 ― やっぱり名誉教授になると自由になるから、なん

でもしゃべってくれます。それに布野先生もおっしゃった けど、計画系でも歴史をちゃんと見ることが大切だと思っ

思い出に残っている記事

ていて。だから、歴史を改めて振り返ってみるという企画 もあっていいだろうというので、何人かに連続して名誉教

2)

名誉教授インタビュー

授インタビューをしたんですね。

― 布野・古阪・大崎 布野 ― 本当におもしろかったよ。

竹山 ― 名誉教授インタビューというのは僕の記憶では、

いちばん最初からシリーズで目玉企画の一つとしてありま した。第一号は横尾先生。とにかく名誉教授に聞いていこ うと。 大崎 ―『traverse』創刊にあたって、過去の「建築学研究」

の記事を全部見たんです。その頃は出版物が少なかったの でここに論文みたいなものを書いていたんですね。これが 京大の学術的な媒体でした。これに見習って、学術的な発 信の場として『traverse』をつくりましょうということに なって、最初はそのような先生方の論文に近いものを出し たわけです。

6


traverse 20th Anniversary Discussion Shuji FUNO / Shuzo FURUSAKA / Kiyoshi Sey TAKEYAMA / Makoto OHSAKI / Taiichiro ISHIDA

1号に寄せた記事

3)

― 石田

石 田 ― 思 い 出 の 記 事 を 挙 げ て く だ さ い と い わ れ て、

『traverse』1号で 20 年前の自分が、最初にどんなことを 書いたのかなと思って読み返してみました。すると、こう いう課題についてこういう考え方で研究したいということ を、割と思い入れを持って書いていました。それで、 今でも こういうこと考えているな、おおよそ問題意識としては同

布野 ― これはすごく時間がかかったよ。皆が本音でこう

じことで、20 年前からこんなことやってたな、と改めて感

いうことを考えて教員をしてましたよ、ということを書い

じました。20 年経って、いくつかの問いについては、ある

たから。

程度答えられるようになっていますが、依然として大きな 問題については僕自身まだ答えを持っていないし、クリア 5)

にもなっていない。こういう記事は他のメディアだったら

若手座談会

書かないだろうし、そういうものが書けたのは『traverse』

― 竹山

だからかなと思いましたね。 竹山 ― 『traverse』が7年越しの出版だったというのが

竹山 ― 布野先生が僕の半年前に京大に来ていて、僕が来

あったんですけど、たぶん 93 年に立て続けに僕も含めて

たときに布野先生に言われたことがあるんですよね。 「京大

外から呼ばれてやってきて、京大の中でいろいろな力学的

で建築家を育てるぞ」って。底辺を上げたり、アベレージ

な作用があって、いろいろな地殻変動が起きたんだと思い

を作ったりするのではなくて、トップを引き上げるんだと

ますね。それで新しく入った人間、それから元々いて新し

発破をかけられたんですよ。

いことに動こうとしている人たちが、わーっとマグマが吹 き出すように亀裂を登っていって、ボンって吹きあがった

布野 ― しんどいんですよ、ボトムアップというのは。

のが1号。7年ゼミみたいにね ( 笑 )。こういうスタイルの メディアは日本の他の大学にはなかった。こんなものがで

竹山 ― つまり、そういうふうに建築家を育てなきゃとい

きたのはすごいことだと思っていますね。

う話があって、十何年経ったときに、気がついたら SD レ ビューという若手の登竜門のようなコンクールに京大の学

大崎 ― 学生と教員が両方書いているというのはあんまり

生が通るようになったんですね。9号のときには、卒業設

ないかなと思いますね。

計日本一を三連覇した。 そういうふうなことがあったので、 京大出身の若手の建築家、これから伸びる人たちを集めて

竹山 ― 問い直す企画として、大学とはなんだ、というシ

我々で話を聞こうという企画が立ち上がりました。どうい

リーズもあったわけですね。とにかく、教育とは、大学と

う記事にしようかというなかで、とりあえず SD レビュー

は、建築学とは、とか。そこで、建築学とは、ということ

に通っている若手を集めてみようかということでそんな企

で「建築学のすすめ」

4)

にやがてなるんですけど。

画になりました。これがとっても面白くてね、やっぱりそ の後皆活躍しています。僕が最初来たときに布野先生に宿

7


DISCUSSION

題を言われて、それからしばらく経って京大からも結構元 気な若手が出てきて、その気分がここに表れているんじゃ ないかな。新しい先生が来たら、わーっと学生が刺激を受 けるじゃない。布野先生が来てその半年後に僕が来て、そ のときの 2 回生・3 回生というのは、いわば紀元前と紀元 後くらい違うわけ。 布野 ― 僕は9月に来て、 最初に2回生の課題で「鴨川フォ

リー」というのを出したんだけど、そのときの2回生が皆 頑張ってるよね。平田晃久、森田一弥、山本麻子などアト リエ事務所をやっているのは学年 80 名中かなりの人数で すよ。次の年から竹山先生が来て、設計教育を見直したん です。それまでの設計演習は実は 4 年生まで同じ先生が担

座談会 快感進化論書評

当していて、一人でレポートの採点をするがごとく、なん

6)

― 学生

の議論もされていなかったという状況があった。僕は設計 の経験は少ないけど、山本理顕さんや毛綱毅曠さんと設計 教育してきた経験はあったから、積極的にやったほうがい

布野 ―「快感進化論」はおもしろかったですね。

いと思った。 竹山 ― シンプルだと思いますね。伊勢先生

7)

は、お酒も

竹山 ― それよりももっと大きいのは締切を守らせるこ

飲まないしストイックな感じがあるんですけど、おもしろ

と。信じられないだろうけど、その頃までは締切を守った

いユニークな発想をしていて。そのユニークななかでもユ

学生はとにかく一人もいなかったんです。締切を守る学生

ニークなものがこの「快感進化論」です。伊勢先生は、栗

がいないということは、講評会ができないということ。僕

本慎一郎という文化人類学者・経済人類学者を特に私淑し

はそれを知っていたのだけど、布野先生は東大出身で、締

ていて、その人とすごく親しいですし、すごく影響を受け

切守らないなんて信じられないわけですよ。

ていますよね。伊勢先生は環境の、特に音の先生なんだけ ど、ものすごい文化論的な発想をしていて、学術的には怪

布野 ― 講評会を全員についてやって、ビアパーティ。芦

しいというふうな理論がいっぱい出てくるわけですけど、

原義信先生が始めたんだけど。翌日に次の課題が出る。そ

その分すごくおもしろいわけですね。そのころ、複雑系と

れが当然だと思っていた。

か、それまであらゆる分析のなかで出たものを総合的に理 解しなおそうじゃないかとか、非合理的なものに論理を認

竹山 ― 京大は、締切の日にぼちぼち始めようかという学

めるにはどうすればいいかとか、そういうようなことを考

生が多かったわけですよ。先生達もそれに対応して学年末

えて伊勢先生が出した本が「快感進化論」です。それがお

に辻褄があっていればいいと。実は、締切を守りますよと

もしろいというので皆で座談会をしたんですよね。

いって、布野先生とか僕とかが設計演習を始めたときの最 大の抵抗勢力は先生達だった。そんなことはできないって

布野 ― 伊勢さんの議論で僕がいちばん覚えているのは、

いうんですよ ( 笑 )。学生は締切を守れといったら、それま

要するに言語と空間認識力がホモサピエンスの原理だとい

でを知らないですから、そういうもんだとすぐにそれに順

うことですね。音というのは、栗本慎一郎の理論がバック

応するわけですよ。先生達がいちばん大変だった。

にあるんだろうけど、突きつめていくと言語の話になると

8


traverse 20th Anniversary Discussion Shuji FUNO / Shuzo FURUSAKA / Kiyoshi Sey TAKEYAMA / Makoto OHSAKI / Taiichiro ISHIDA

いうわけですね。言語の起源はというと、目の前のマンモ

や生理的な反応を見ていくと、やはり自然の光に適応した

スを捕まえるときに、声を発してコミュニケーションを

結果が人の心身には刻み込まれているなと感じることはあ

とっていたことに始まる。二足歩行とか、道具や火の使用

ります。

とかあるけど、ホモサピエンスがホモサピエンスとなるの は空間認識能力なんだよね。言語も抽象能力ですね。空間

布野 ― ということは、人工環境だけで育った新しい人種

を認識する抽象能力を持ったのがホモサピエンス、建築を

ができるという話ですね。自然環境だって森を切ったりし

つくる能力が人類の根拠。「誰もが建築家である」というの

たら相当違うわけでしょう。環境も違ってきたら人種も

が布野説。

違ってくる。

竹山 ― 僕は座談会で、火と言語、に建築も加えるという発

石田 ― そこまで変われるのかという話もあります。これ

言をしていて。火と言語と建築が、人類が認知的贅沢を存

からの『traverse』で、例えばそういったテーマでの企画

分に楽しむための装置であって、それによって進化したと。

があってもいいと思いますね。

ここで布野先生と僕は微妙な戦いをしてますね。でもね、 今の布野先生の話はまったく腑に落ちて、言語と空間認知

布野 ― 単に大鉈みたいなテーマじゃなくてね。

というのは人間のある種のコミュニケーションをきちんと 整えたわけですよ。言語には二つあって、他者とのコミュ ニケーションとインナースピーチ、自分の内部の思考の深 まりでしょ。この二つはどちらが先かという議論があるん だけども、でも少なくとも社会をつくるときには、他者と コミュニケーションをとるという、ある場をつくる力が言 語にはある。それで建築にも、ある場をつくるという力が ある。火にもその力があって、火のまわりに集まって、ダ ンスとか言語を通してコミュニケーションをとる。その場 をちゃんと安定的につくるのが建築。だから火と言語と建 築というのはとても重要なんじゃないかということを話し ました。

2)布野修司・古坂秀三・大崎純,真のトラバースを 横尾義貫 名 誉教授インタビュー,traverse 1,pp.129-135

布野 ― 例えばミツバチでもチンパンジーでも巣を作る。

以後 traverse 2, 3, 5, 7, 8, 9, 10 に掲載

遺伝子に組み込まれている能力と後天的に建築能力を獲

3)石田泰一郎,色彩の心理効果の意味を考える― 人と環境の長く

得していくた空間、言語の抽象能力とは異なる。我々は

深い付き合い,traverse 1,pp.87-93

家だけじゃなく風よけの塀でもなんでもつくる。建築を

4)平田晃久・松岡聡・百田有希・大西麻貴,京都大学 出身 若手建

我々は獲得したということ。

築家 座談会「これからの建築ジェネレーション」 高松伸 + 布野修司 + 竹山聖,traverse 9,pp.21-36

石田 ― 人工環境ですよね。それと人の身体的な深いとこ

5)traverse 編集委員会 編(布野修司・古坂秀三・山岸常人・竹山聖・

ろにあるもの。それらの関係がどうなっているのか、とい

大崎純) , 『建築学のすすめ』 ,昭和堂,2015 年

うところが今の建築・都市の大きな問題じゃないかな。技

6)座談会 快感進化論書評,traverse 5,pp85-99

術的にいろいろなことができるようになって、光だけ考え

7)伊勢史郎:2003 年京都大学工学部准教授。著作「快感進化論

てもそうなんですけど、人の光に対するいろいろな感じ方

ヒトは音場で進化する」

9


DISCUSSION

『traverse』の可能性について

先生方から一言

石田 ― 巻頭の辞にある、京都大学の活動がくっきりと見

布野 ―『traverse』にはいろいろな性格がある。それで願

えるようにということがトラバースの創刊の志です。だけ

わくは、ぬえ的であることがいい。ある側面は既往的だけ

ど最近のトラバースの記事で学生編集の皆さんが時間を

ど、ある側面は学生が勝手にやっているふうだし。あまり

使って力を入れているのは、インタビューとか外部の人の

他から規定されないこと。そして二番目に言いたいのは、

話を聞くことですよね。それは確かに京大の人がやってい

どうやってサステイナブルにできるかということ。

・・

るけども、京大の発信とか京大の姿がくっきり見えるとい うこととは、また違うんじゃないかと僕は思っていて。 その

古阪 ― 出発点は、自由。この建築学科のなかでもそうだ

ような企画があってもいいし、そのような方向に変わって

し、外向けにも自由にやっている。それがいちばん重要だ

いくならそれでもいいかもしれませんが、それはトラバー

と思う。京大はもともと自由だといっていたにも関わら

スの初めの頃の考え方とは変わったところだなと僕は思い

ず、だんだんとそうじゃなくなった。そういうなかでその

ます。

ことをわれわれは発信しないといけないわけね。メディア は大いに自由にできる可能性がある。もうちょっと変なこ

竹山 ― それは僕も同感してるところがある。タモリが

とをいうと、日本はステップバイステップで、石橋をたた

やっていたテレフォンショッキング、あれと同じで前巻の

いても渡らないくらい慎重になる。一方で中国はスキップ

インタビュイーが次を紹介するやり方をしていったら、ど

バイスキップ。なにが良くてなにがまずいか。制度的には

んどんかけ離れていったわけですよ。それはともかくルー

スキップしないといけないようなものがいまだに残ってい

ルをそういうふうにしてしまったから、結果的に、遠くま

る。この『traverse』はそこでどういうふうに自由な発言

で取材に行ったりスカイプでやったり、いろいろなことを

をするか、非常に難しいことですけど、是非ともそういう

やるようになって。もうちょっと近場の、地に足ついた方

ことを、自信を持ってやってもらいたい。

向にした方がいいんじゃないのということになって、また 京都に戻ってきているのですよね。

大崎 ―『traverse』の位置づけというのは、 創刊のときから

あいまいで、京大建築の有志とでやっているもので公式の 布野 ― OB もいっぱい出てきているんじゃないの。京大ナ

ものではないんですよね。建築系教室にあることは明記し

ショナリズムじゃないけど。

ていて、 その住所はここ京都大学の住所が書いてあります。 だからあまりいいかげんなことはできない。それから、最 初は海外に向けてという話で、英語をもうちょっと充実さ せて海外の方にも見れるようにした方がいい気がします。 石田 ― 僕は、 『traverse』の創刊の精神というのはどこか

にあったほうがいいと思います。でも、さっき布野先生が

・・

言われたように、ぬえ的なところがあるというのはおもし ろいと思います。どこから見てもくっきり見えるのかどう かわからないけども、見る角度によって見え方が違うみた いな。

10


traverse 20th Anniversary Discussion Shuji FUNO / Shuzo FURUSAKA / Kiyoshi Sey TAKEYAMA / Makoto OHSAKI / Taiichiro ISHIDA

竹山 ― 今日過去の記事を見て、すごくいいことが載って

いるなと思って ( 笑 )。僕こんな発言してるんだという。記 録としても中身としても、とっても意義のあるメディア じゃないかと。ただ僕はやはり、学生がのびのび育つとい うか、どれだけ刺激を受けて新しい経験を持つかというこ とが大切で、 『traverse』のメディアとしての充実度もそう ですけど、同時に学生たちも人生を前向きに生きてくれる きっかけになってくれればいいなと思っているので。そう いうような媒体にはなってきたんじゃないかと思うんです よね。今後に伝えていく限りは、これは不滅ですという感 じがします。そして意義があると思います。

11


スタジオ設計課題作品

4回生スタジオコース作品 Students' Works : 4th Year Studios

田村 太久人

14

Takuto TAMURA

太田市美術館図書館 Art Museum & Library, Ota 私は、風俗化した駅前の光景を目のあたりにして、すっかり考えこんでしまいました。どのような建築を建てるべき かわからず、途方にくれました。空間は生まれました。力強い地下空間です。この空間が本とアートの力をかりて、 太田の街を耕します。この空間は豊かな街を育む土壌となるでしょう。

小西 泰平

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Taihei KONISHI

駅前タワーマンション考 ― 街の人が「利用」できる「空間」としての公開空地の設計

Consideration of high-rise apartment buildings around stations: The design for the available "Public Open Space" 駅前タワーマンションは、街に多大な影響を与える。その中でも、街の人に開放された部分である公開空地に着目し、 現状の『ただの「公開」された「空地」』に対し、 『街の人が「利用」できる「空間」』としての公開空地を提案する。人々 の居場所と大規模緑化を立体的に展開し、街のランドマーク・駅の玄関口・オープンスペースとして機能することで、 街により良い影響を与える建築を設計した。

高山 夏奈

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Kana TAKAYAMA

Here was lake, is land, and will be lake and land. ―「土地を減らす」という埋立地の水辺再開発を考える Here was lake, is land ,and will be lake and land: Backfilling filled-ground 目的を果たしたあとの広大な埋立空き地について考えるプロジェクト。敷地である滋賀県浜大津もその一つである。 戦前から繰り返し行われた湖岸の埋立地は幅 200 m長さ 3 キロに及ぶ。この埋めすぎた土地を減らす、つまり湖に戻し、 湖と街とを繋ぐように図書館コンプレックスを設計した。

間山 碧人 Aoto MAYAMA

正親小学校 4.0 Seishin Elementary School 4.0 京都市上京区に位置する正親小学校。一時は児童が 1000 人を超えていたが、今は 160 人ほどである。少子高齢化が 進む中でも存続している、この小さな小学校を地域の拠点としながら、学校機能の維持について考える。

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スタジオ設計課題概要 / 推薦文

平田スタジオ HIRATA Studio

gravure

Alternative Ota

建築家には、すでにそこにあるものを超えて、つまり先入観 を超えて、新しいリアリティを構想する能力が求められる。 太田市美術館・図書館は、2013 年に原案が構想されてから、 6 年以上が経過しているわけである。現在の地点から、フレッ シュな視点を通して、全く違ったオルタナティブを構想する こと。若い観察眼と構想力を生かした、力強い案を期待して いる。

柳沢スタジオ YANAGISAWA Studio

駅前タワーマンション

近年増加している、駅前タワーマンションを対象に、事例調 査・フィールドワークを元にその問題点や可能性を検討し、 オルタナティブを構想する。

神吉スタジオ

昭和に取り残されてしまったような、小さな建物が並ぶ駅前に 美術館と図書館を計画する。そこでこのプロジェクトでは地上 に大きなボリュームは作らず地下空間を利用するという素朴な 考えを元に始まった。そんな優しげな考えとはうらはらに、地 下に現れた空間はダイナミックで緊張感のある遺跡のようであ る。丁寧に設計されたスケールの変化する空間には抑制された 光のみが差し込み、深い思考へと促す。遠い昔に沈んだ沈没船 のように、横たわり続ける建築である。

多くの大規模開発された街で同じような都市景観が生産され続 けている。このプロジェクトはそんな「同じような」を逆手に 取り新たな都市空間を大胆に生んでみせた。どこにでもある駅 前のタワーマンションに共通する要素を抽出し、その要素の持 つ潜在的な価値を最大化するケーススタディを行なったのであ る。各手法は明快かつ効果的で、駅前タワーマンションはあた かも公共建築のように変化した。より小さなスケールでの設計 に疑問は残るものの、示唆に富んだプロジェクトである。

場所の力

KANKI Studio

これまでにない変化をみせる現代の都市・地域で、どのよう なランドスケープが受け継がれ創造され得るだろうか。新し いランドスケープにむかうために、場所に潜む力を読み、そ の力を顕在化させる建築と都市・地域空間の提案をめざす。 各人が選ぶ敷地およびその位置する都市・地域の「場所の力」 の読解作業を重視しつつ進める。敷地は、全員参加でそれぞ れの現地調査に赴くため、京都から日帰り可能圏内とし、自 由に選ぶ。

吉田スタジオ

埋め立てにより「場所の力」が失われた敷地に対し、土地を減 らすことで敷地が秘めていた場所の力を発掘し、水辺と屋根の 豊かな設計により新たな場所の力を付加することに成功してい る。また湖岸、街、ユーザーそれぞれに対して丁寧に整理を行い、 単一的でない風景と価値を創出している。ぱたぱたとした屋根 による空間のバリエーションをこれだけ示すことができたこと も評価でき、とりわけ屋根の下の屋内空間と屋外空間のバラン スは非常に魅力的である。

地域施設 4.0、その先へ

YOSHIDA Studio

少子高齢化と人口減少が始まり、公共・民間の境界もはっき りしなくなった昨今、どのような施設がローカルな地域に新 しく必要とされるのだろうか。ほかのまちと同じ仕様では " 使えない " だろうし、うしろ向きの未来を語っても夢がない。 ソフト・利用・運営の仕方などの新しいあり方にも依拠した 刺激的な空間で、建築・施設・地域のあたらしい未来を展望 してほしい。

地域に根差す小規模小学校の在り方を魅力的に解いている。 まず、部屋のグラデーションに始まる。教室を中心に、地域コ ミュニティに開放される特別教室を周辺道路との関係からバラ ンス良く配置した。そこへ大学生の下宿を織り込む。地域住民 とは、近隣の高齢者だけを指すのではないのだ。それらをまと め上げるのが立体街路である。現代問題視される関係者以外の 立入領域をうまくコントロールし、折り合いをつけている。全 体のバランスがよくとれた作品である。


GRAVURE

平面図 GL-7500

平面図 GL-5500

断面図

14


Students' Works : 4th Year Studios HIRATA Studio / TAMURA

sutdy model

15


GRAVURE

■ かたの設計:タワーマンションの公開空地のための新しい設計制度 アーカイブから見出された「かた」 ④私的な「軒」

⑤内向きな「ベンチ」

BE

NC

H

ST

G

RE

ET

E

N

T

IT RE

EX

③平面的な「緑」

.

②駅の「出口」

EN

VOLUME

①巨大な「VOLUME」

か PU B LO LIC T

現状:ただの「公開」された「空き地」としての公開空地 提案:街の人が「利用」できる「空間」としての公開空地

O SP PE AC N E

問題点やポテンシャルの再考

ポテンシャルから見出された「かた」 ③立体的な「緑」

④公的な「軒下空間」

⑤「 座 れ る 場 所 」

街中からすぐ分かるこ

駅出口をただの「出口

公 開 空 地 を 立 体 化 し、

住人のみならず、街に

街の人が訪れたとき

とが活きる公共機能を

」で は な く、駅 の 玄 関

大規模に展開された緑

も開かれた軒下空間を

に 、「 気 軽 に 座 れ る 場

加え、容積率を上げる。

口として設計する。

化を街に提供する。

提供する。

所」を提供する。

O O R

EN RE

ET RE ST

O S PE P N A C E

TE

G

GA

F

②駅の「玄関口」

LANDMARK

①街の「LANDMARK」

各敷地へのかたの適用 ex) 高層階の公開空地

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地下広場

緑化テラス

軒下空間

大階段


Students' Works : 4th Year Studios YANAGISAWA Studio / KONISHI

■ かたちの設計:街のためのタワーマンション

ローレルタワー梅田 2008年 38階250戸

キングマンション天神橋1 1997年 24階152戸

クロスタワー大阪ベイ 2006年 54階456戸

▼既存高さ

ディーグラフォート大坂 N.Y.タワー

公共機能としてのレンタサイクル 市内のタワーマンションをレンタサイク ルの拠点として整備する。

LANDMARK

2008年 46階331戸

①公開空地内にサイクル

アップルタワー大阪 2006年 32階300戸

ステーションを整備し、 タワーマンションをレン タサイクルの拠点にする。

アステリオ北堀江 ザ・メトロタワー

松屋タワー

2009年 22階48戸

②タワーマンションという

2009年 29階187戸

ランドマークを頼りに、 レンタサイクルのネット ワークが広がっていく。

遠くから見える街の人の居場所

LANDMARK

なんばセントラルプラザ リバーガーデン 2014年 25階553戸

街 の 人 は 遠 く か ら 緑 を 見 つ け、休 む 場 所 を 求 め て タ ワーマンションを訪れる。 ローレルタワー難波 立体的な緑化

ルネッサなんばタワー

2005年 39階389戸

G

RE

EN

2006年 38階134戸

平 面 に 収 ま り き ら な い 緑 が 街 へ 自 然 を 提 供 し、ス ト リートレベルでの景観を良くする。 座れる大階段

シェアオフィス

なり、町の人の居場所を展開する。 三角テラス

O S PE P N A C E

R

O

O

ST

訪 れ た 人 が 緑 の 中 で 階 段 に 座 り、時 に は ス テ ー ジ に

F

RE

ET

シェアオフィス

大阪市 現地調査マ

緑 化 さ れ た テ ラ ス が、軒 下 空 間 を 生 み 出 し、人 々 の たまり場になる。

GA

断面図

TE

駅直結の地下広場 地 下 鉄 駅 に つ な が る 広 場 が 町 の 人 の 玄 関 口 に な り、 「駅前空間」を創出する。

17


GRAVURE

18


Students' Works : 4th Year Studios KANKI Studio / TAKAYAMA

19


GRAVURE

正親小学校 4.0

Concept 京都市ではまちなかで跡地利用を考えずに次々と小学校が統廃合されてきた。そこでまちなかの小さな小学校が地域の 拠点として活用されることで、統廃合せずに存続することを設計する。地域と関わる機会の多い高齢者だけでなく、 あらゆるな世代が利用できるように、地域と関わる機会がない大学生のための下宿先を併設した小学校を提案する。 そして大学生が部活動の運営を行うことで、小規模小学校の教員の負担軽減にもつながる。また、道路側からも入れる 特別教室は地域へ一般開放を行い、特別教室の近くに住む大学生がその教室での地域のイベントにも携わる。

Diagram

図工室の向かいにある下宿

音楽室の向かいにある下宿

下宿 住 民 ︓工作が好きな大学生

住 民 ︓音楽が好きな大学生

小学校に対する役割︓美術部の顧問

小学校に対する役割︓吹奏楽部、合唱部の顧問

地域に対する役割 ︓工房を利用して、地域の人が

街路

小学校

ピアノ教室を音楽室で行い、

ギャラリーでの企画運営

そのサポート

図書室の向かいにある下宿

グラウンドの向かいにある下宿

住 民 ︓勉強が好きな大学生

住 民 ︓スポーツが好きな大学生

小学校に対する役割︓子供に放課後勉強を教える

小学校に対する役割︓運動部の顧問

地域に対する役割 ︓屋上のイベントスペースでの 講演会などの企画運営

20

地域に対する役割 ︓地域のコーラスサークル、

ものづくりを行うサポートや

地域に対する役割 ︓グラウンドを利用した夏祭り、 運動会のなどの企画運営


Students' Works : 4th Year Studios YOSHIDA Studio / MAYAMA

A

昼食時は全児童が入れる それ以降は一般利用

下校時、大学生の下宿の 庇下に寄り道する

体育館は街路から一般開放

25 GL -1500 GL -1500

GL+1500

14

屋根の上は イベント利用可能

13

GL -1500

12

22

26

GL -1500

GL -1500

16

GL+1500

27

15

13

EV

防犯の役割

13 11 屋外工房

22

B

GL -1500

朝の登校に利用

10 6

22

8

1

7

3

GL+2400

4

B’

20

24 GL+1500

27

20 19

GL+3000

27

18

GL+3000

20

下校時の出口

GL+1500

GL+3000

20

20

27 20

22 9

防犯の役割

26

下校時、大学生の下宿の 庇下に寄り道する

22

5

2

GL+3000

26

下校時の出口 17

下校時、大学生の下宿の 庇下に寄り道する

23

GL+4200 平面図

A’

GL+700 平面図 1:1100

1 エントランス 2 応接室 3 校長室 4 保健室 5 事務室 6 職員室 7 会議室

8 放送室 9 理科室 10 図工室 11 調理室 12 食堂/レストラン 13 図書館 14 体育館用エントランス

15 16 17 18 19 20 21

体育館 体育館舞台 PC室 家庭科室 音楽室 HR教室 多目的室

22 23 24 25 26 27

1:1100

倉庫 体育倉庫 ギャラリー 消防団 地域利用室 下宿

20 6

21

8

A-A’ 断面図 1:500

21 20

19 22

5

6

24 22

B-B’ 断面図 1:500

21


「欠落」 traverse20 のテーマは「欠落」です。 「欠落」というものは生命・物質において、宿命であり、逃れることができないものです。 日常では様々なものが「欠落」し、代替する新たなものに塗り替えられます。しかし、 歴史的建造物の保存、災害からの復興、絶滅危惧種の保護など形態は様々ですが、人は「欠 落」と立ち向かい続けています。「欠落」は人にとって乗り越えるためのものであるとい えないでしょうか。 一方で、「欠落」は美的なものとしても捉えられます。ルネサンス期のミケランジェロ の彫刻は、未完の美を体現しているといわれており、あるいは、廃墟美という概念では、 廃墟の持つ静寂、寂寥、孤独が美を形づくるとされています。時の流れを想起させる「欠 落」は、ともすれば完全なものよりも豊かな表情を見せるのかもしれません。 また、メタボリズムの考えに基づけば、循環し自生する都市において、「欠落」は新し い存在を生むための契機であるともいえます。都市における「欠落」に目を向けることは、 求められる建築物や都市に対しての建築家の役割について解答を得る手掛かりになるので はないでしょうか。 ノートルダム大聖堂の火災という衝撃的な「欠落」のあった今、悲劇的なイメージを越 えた、「欠落」を考えていきます。 本号の企画や京都大学建築系教室の先生方と京都大学の学生によるエッセイを通じて、 建築や都市の「欠落」から伺える様々な可能性を論じる契機になればと考えています。

theme


interview

インタビュー

受容される「欠落」−多義性を包容する大らかな構え

24

'Kamae' - Structure, Attitude - the architecture tolerating ambiguity

木村 吉成

Yoshinari KIMURA

建築家。1973 年和歌山県紀の川市生まれ。

松本 尚子

Naoko MATSUMOTO 建築家。1975 年京都府京都市生まれ。

2003 年に木村松本建築設計事務所を設立。藤井厚二賞 (2019)、吉岡賞 (2017)、SD レビュー入賞 (2008) など多 数受賞。2019 年春から旧・本野精吾邸に事務所を移し、建築の「構え」にある普遍性を求めながら、京都を中心 に設計活動を行う。

「終わり」のない建築

36

Never-ending architecture

宮本 佳明

Katsuhiro MIYAMOTO 1961 年兵庫県宝塚市生まれ。宮本佳明建築設計事務所代表。大阪市立大学大学院教授。代表作に『「ゼンカイ」ハウ ス』、主著に『環境ノイズを読み、風景をつくる。』 (彰国社)、 『Katsuhiro Miyamoto』 (Libria, Italy)など。

失われるもの、遺すもの Lost and Inherited

伊藤 東凌

Toryo ITO

1980 年京都市生まれ。臨済宗大本山建仁寺塔頭両足院副住職。禅が育んできた美や叡智を現代の衣食住に生かせる よう全方位的な表現に取り組んでいる。特に食、芸術、農業、建築、先端技術への関心を持って、未来に対しての発 信に努める。

井上 章一

Shoichi INOUE 1955 年京都市生まれ。建築史家、風俗史研究者。国際日本文化研究センター教授、 2020 年より同センター所長。建築史・ 意匠論を専門としながらも、ユニークな視点で広く日本文化について論ずる。主な著書に『京都ぎらい』 (2016 年)など。

48


INTERVIEW

受容される「欠落」 ― 多義性を包容する大らかな構え 'Kamae' - Structure, Attitude - the architecture tolerating ambiguity

建築家

木村吉成 松本尚子 インタビュー Yoshinari KIMURA & Naoko MATSUMOTO

/ Architects

木村松本は、100 年後も建築を残したいという。 彼らの建築における手つきは独特で、茶室のような秩序と自由さ(遊び心)が同居しており、 その間にスキを感じとることができる。いってしまえば欠落である。 この欠落が冗長性をつくりだし、多様な状況を受け止めるとともに、誤読すらも可能にする。 それは、想像もできないような未来の社会においても読み替えを可能にする、言わば建築の生存戦略のように思える。 米澤 隆 氏(建築家)

スキを生み、誤読を許容する建築の構えを求め、木村松本の建築はこの先も無言かつ雄弁に建ち続けるであろう。 自身のプロジェクト、そして京都について。インタビューを通し木村松本の建築家像を探ろうと試みた。

聞き手:松原元実・西村佳穂・菅野拓巳 2019.07.16 木村松本建築設計事務所・旧本野精吾邸にて

24


'Kamae' - Structure, Attitude - the architecture tolerating ambiguity Yoshinari KIMURA / Naoko MATSUMOTO

事務所結成・大阪から京都へ

建築の「構え」

― 事務所結成の流れをお伺いしてよろしいでしょうか。

― 新建築住宅特集で「建築と構え」というコラムを書か

れていらっしゃいましたね。多義性という言葉が多くの作 木村 ― 大学を卒業してしばらく経ってから一緒にチーム

品に共通していて、多様に受け止められる構えにしたいと

を組んでコンペに出していて、そこから自然な成り行きで

いうことを感じました。「構え」というのは木材がそのま

2003 年に結婚と事務所の立ち上げという、人生の二つの

まむき出しになったような構造、つまり骨組みのようなイ

大きな出来事を一緒に行いました。大阪の住吉区で立ち上

メージでしょうか。先日、我々で『house A / shop B』と最

げ、その後京都に移りました。ちょうど今年で 7 年が経ち

近できた『house S / shop B』の2作品を見学させていただ

ます。

きました。どちらも、骨組みがむき出しになっていて、魅 力的な空間が広がっていました。

― 今年度から、木村松本事務所が旧・本野精吾邸に移転

された経緯を教えてください。

木村 ―「構え」という言葉を使う以前に私たちは構造にす

ごく興味がありまして、骨格のようなものをずっとメイン 木村 ― 様々な偶然と必然の重なりでした。建築家の本野

に設計をしていました。

精吾さんのお孫さんの陽さん夫妻が所有していて、陽さん を中心にこの建物を残して活用していく活動を行なってい

松本 ― ひとの生活など、人間の行為そのものが多義的で

ました。昨年お亡くなりになられたことがきっかけで、今

あると思っていて、そのような状況をいかに建築ですくい

後の保存・活用の道を考えられるなか、本野精吾研究を行

上げていくか、または人が自由に活動できるような状態に

なっており、かつ住宅遺産トラスト関西という近代建築の

いかに展開していくかと考えたときに、 「行為」と「形式」

名住宅の保存活動団体に所属していらっしゃる、笠原一人

というものがくっつきすぎていると、人間は自由に行動で

先生(京都工芸繊維大学・助教)からこのお話をいただき

きないのではないかと思っています。そのようなことを考

ました。この建築に対して理解がある方に借りてもらおう

えているときに、構造家の満田さんと出会ったことが非常

ということになり、ちょうど私たちが旧・本野精吾邸を好

に重要でした。スケール的にはもっと大きなもの、つまり

きだったことから紹介をいただき、今に至ります。

人間のスケールよりも遠いものを明確に提示するとき、周

25


INTERVIEW

木村さんのご実家のみかん山。この大らかな佇まいが木村松本作品の原点となっている。

囲の環境や歴史と正確に対応さえしていれば、むしろ人間

部と外部がないので人間が使えるし、隙間に蛇とか虫が住

はより自由に行動できるようになるのではないかと考える

めるという全く違う位相でみんなが使っている状態があら

ようになりました。今では、まずストラクチャーを与え、

われていると思います。コラムでは我々の建築が「石積み

それをどう使いこなしていくかを考えていく設計スタイル

なのだ」という語り口で書いていますが、実際未だに石積

に変わってきました。『house HS』もその流れのなかにあ

みにはなれていないです。でも憧れや理想としてみかん山

ると思っています。

の石積みがあり、そのような何か違う捉え方でいつも挑戦

「構え」という言葉は FUJIWALABO の藤原さんが、IHA

していきたいと強く思っています。究極的にいうと、人間

ギャラリーで行なった展覧会で、木村松本作品から導き出

のためだけの建築ではないということはすごく面白いので

されるキーワードとして挙げてくださり、この言葉をテー

はないかといつも思っています。

マに藤原さんとトークを行いました。すごくいい言葉だな と思い、以来私たちもこの言葉を通して建築を考えるよう になりました。

誤用

木村 ― コラムでは、 「構え」という言葉を説明するときに、

みかん山の石積みの話を引き合いに出しました。我々は事

― 先ほども話題に上がった、 『house T / salon T』を掲載

象の摂理・存在理由などに対して、うまく応答しているよ

した号の新建築のコラムに、 「建築専門性の開放」というフ

うな状態を「いい構え」とみなしています。建築はもちろ

レーズが挙げられていました。そのコラムで材の誤用・汎

ん土地の上に建ちますが、同時に都市の中、社会の中、時代

用を住み手が行うということを書かれており、このような

の中にも建ちます。そして、見えないものですが、法的な

誤用・汎用を建築と住み手をつなげる手法として使われて

制限、あるいは京都という場所の景観に対してなど、様々

いるような印象を受けました。そこにはメッセージ性のよ

なものに対しての応答があります。そういった様々なファ

うなものはあるのでしょうか。

クターに対して、十個の問いに対して十通りで答えるより も、十個に対して一通りで答えればとてもエレガントです

木村 ― 人間を超えたところにある論理でできたものを人

よね。

間が使っていく中で、どうやってその使い方を設定するの か、ということが重要だと考えています。使い方の方向性

松本 ― みかん山の石積みは我々にとっては憧れです。内

26

を指し示すことがプランニングであるわけですが、設計段


'Kamae' - Structure, Attitude - the architecture tolerating ambiguity Yoshinari KIMURA / Naoko MATSUMOTO

木村さんが dot architects 設計・施工の『UNDER THE BRIDGE(2017) 』で DJ としてプレイしているときの写真。 音楽のミキシングは建築設計の多義性と通底しているとおっしゃっていました。

階でその使い方を共有できるのは、あくまで一世代 30 年

用のバックグラウンドになっているのかもしれません。DJ

程度にすぎません。実際に使うのは施主ですし、もしその

は、ある共通の文脈を重ねて行くように BPM(テンポ)が

施主がその建物を手放したとしても、次には他の誰かが

近い他のジャンルの曲をつなぎ合わせていくのですが、そ

使っていくと思います。そこに設計者である我々が介入す

のぐちゃぐちゃで読み替えが自由な感じがとても面白いと

ることはなく、さらには僕らの言葉などがないなかで、建

感じていました。今僕がディテールに竹を使ったりするこ

物が使い続けられていくのだとすれば、使い方についての

とは、DJ と同じなのではないかなと思っています。ビニー

ある程度の解説をしておかなければいけないのかなと思い

ルハウスで使う直径 25mm とか 30mm の金具であれば、

ます。素材や誤用などは、その解説のうちの1つと捉えて

それを同じ直径の竹に置き換えても良いのです。その瞬間、

います。

竹は天然素材ではなくて、植物繊維でできたパイプ材とい う見方になる。すると竹について僕らが思っている、いわ

― 木村松本さんの作品は、ディテールや、その使われ方

ゆる「伝統的」、「和風」といった属性が消える。パイプ材

まで考えられているものが多いと思うのですが、そこに関

を直径という数字だけで捉えることによって、見方のずれ

してどのようなこだわりがあるのでしょうか。

から、そこに違う材が登場する理由が作れるのです。 こういったことを考えるにあたって、仲の良い友達と、

木村 ― 建築の中でもディテールは大きな興味の対象に

tumblr に「工夫」というサイトを作り、みんなの日常で発

なっています。私はある審美性に基づいた言葉、例えば「薄

見したものを載せています。(https://mkktt.tumblr.com/)

いものは美しい」のようなものを鵜呑みにしたくなくて、 む

ものの見方、考え方のずれや横滑りなどといったものを

しろ自分でその審美性をしっかり定義したいのです。ディ

こうして蓄積していっています。

テール自体にも自分なりの原理的なものを突き詰める、あ るいはその原点まで遡り、そこからものづくりを始めたい

松本 ― 誤用するということは結局、人を信用していると

のです。ディテールの存在意義は、建築において何らかの

いうことだと思います。その感じが態度にあらわれている

問題を解決する方法となることだと考えています。よりシ

ことで、使う人もリラックスして過ごしてくれる。それを

ンプルで一般の人でも理解しやすい解き方など様々な問題

建築で示していきたいというところに、ディテールが役割

解決の方法があるなかの 1 つとして、誤用が挙げられるの

を果たすといいなと考えています。

ではないかと思います。 僕は昔 DJ をしていたことがあるのですが、 これが材の誤

27


INTERVIEW

木村さんと友人達で運営する「工夫」:日常に溢れる様々な自分たちも含めた「誰かの誤読」のアーカイブとなっている。(https://mkktt.tumblr.com/)

年に一度開かれる清水坂の陶器市。竹とビニールハ ウス結束部材で作られるブレたフレームが和風建築 の中に重ね合わされる。

疎水性のあるまな板がパッキン材の代わりに。 はたけ・あぜ道の間のフェンス。ビニールハウス資 材の金属管を支える竹。工業製品と天然素材が「管」 という共通項で使われている。交差部には保護の軍 手。 竹とビニールハウス部材を使った習作。

民家の木製格子。朽ちて無くなった部材を同径の竹 で補う。部材寸法の共通性が異素材をブリッジする。

28

育てられるパイプ材、竹。

2×4材の端材。3 個同時に蓋を密閉させる。 また、2 × 6 材を用いるとどん兵衛の直径 144 ミリ と近似し 1 本で蓋ができる。


'Kamae' - Structure, Attitude - the architecture tolerating ambiguity Yoshinari KIMURA / Naoko MATSUMOTO

けど絶対売れると思っていたし、ほとんど確信どおりの人 リノベーションのような設計

が入ってくれたなと思います。 ― このようななかで、木村さんと松本さんはどの程度の

―『M の平屋』をはじめとする京都のリノベーション作品

タイムスパンを意識していらっしゃるのでしょうか。

など、木村松本事務所の作品からは建築のこれまでの時間 の流れによる変化の蓄積、例えば間取りの更新、増改築な

木村 ― 家一軒 30 年と言われていますけど、 40 年も 60 年

ど、これらを汲み取り現代における「構え」を再定義して

も、実はそこまで大きな違いはないと思います。米澤さん

いくことに興味を持っていらっしゃると感じました。まず、

の推薦文で用いられた、30 年を1世代と考えると 100 年

『M の平屋』はどのようなプロジェクトだったのでしょう か。

で 3 回代替わりできることになります。仮に1代が住んだ あと売り飛ばしてもいいし、そのまま下の代に受け継いで もいい。そう考えていくと、年数が長ければ長いほど、試

木村 ―『M の平屋』はクライアントがいないプロジェクト

行を繰り返す回数を増やすことができます。

でした。京都で町家の改修販売をしている八清(ハチセ)と

クライアントがライフスタイルを固定してしまうのでは

いう会社が町家を買い取り、私たちをはじめとする建築家

なくて、住みながら毎回絶えずトライアルアンドエラーを

が設計を行い売りに出す、という方法を採っています。そ

繰り返す動的な状況を生み出せられるような環境であると

の建物は、もともとの連棟の平屋の一番端が無理な増築に

いいと思います。

よって二階建てになっていました。平屋に無理やり柱を建

もう一点、時間に関する話があります。米澤さんは我々の

て、真上に二階を増築していたのです。すごいところに柱

作品を見て、木村松本の作品は新築もリノベーションです

が建っていて、壁際にも柱が立っているし、不思議な空間

よね、とおっしゃっていました。我々の設計は、躯体の設

になっていました。立地は下賀茂と悪くないのですが、規

計とプラン、あるいは生活の設計が噛み合いすぎないよう

模が小さかったのでどのような売り方をするべきか考えて

にしています。まず徹底的に軸組のスタディをして、その

いました。

骨組みをもとにプランの設計を考えていく。新築というの

2LDK から3LDK ぐらいのものを作り、集合住宅の値段

はその両者の過程が連続していることであれば、リノベー

と同程度の、少し小綺麗にまとめたものを買ったとしても

ションというのは例えば 30 年前に建てられた建築の既存

大して面白くないだろうなと思い、そこで僕たちは機能を

の骨組みのなかのプランを設計することですね。30 年越し

整理し直しました。1階をいわゆる1LDK に集約させ、無

にプランを設計することと半月や1ヶ月後にプランを設計

機能となった2階部分は洗濯機のみが置かれ、光が大きく

することの違いは、躯体の設計とプランの設計とのブラン

差し込む「ベランダ」となりました。その結果、形式とし

クの長さの違いに過ぎないからです。その性質がある種リ

て平屋化させたこの建築を『M の平屋』と名付けました。

ノベーションという行為とが重なり合うような感じがしま すよね。

松本 ― あの平屋のように、規模としてはそれほど大きく

なく、増改築を繰り返した建物は京都に多く、一部は再建 築不可なものもあります。そのような建物に対応できる解 法みたいなものをこれまで探してきた経緯もありました。 加えて、京都で家族形態が核家族で、ちょっとおもしろい 職業をしていて、こういった建物が欲しい人もいるだろ う、と架空のクライアント像を想定していたので、特殊だ

29


INTERVIEW

木村松本建築設計事務所のスタディ模型群。繊細かつ力強い骨組みは繰り返しのスタディの結晶である。

松本 ― おそらくその時点で、どのようなサッシが取り付 スタディ−抽象概念としての模型

くか、どのような外壁になるのかなどといったことも並行 して決まっていく建築の原型のような長い時間をかけてス タディしていきます。

― 木村松本さんの作品は、人のふるまいのような微視的

なこだわりがとても強いと感じています。そこで、実際の

― 先ほどの、ストラクチャーを与えてそれをどう使いこ

スタディの話をお聞きしたいです。抽象概念から具象に移

なすかを考える、という設計スタイルでは、どのようにス

行する手続きは難しいと思うのですが、100 分の 1、50 分

タディしているのでしょうか。

の1のスケールの模型の中に、いかに具体性を見出してい るのでしょうか。

松本 ― リノベーション的な考え方になるになるのです

が、ストラクチャーはもうあって、それをどう使うのか、と 松本 ― 住宅レベルのスケールの場合、大抵は 100 分の

いうようなスタディをしています。なかなかうまくいかな

1 の軸組のモデルのスタディから始めるのですが、まずこ

いような時は、そのストラクチャーのスパンを微妙に動か

の段階で構え方といった大枠の部分を、どの程度掴めるか

しながら、最終的にこれだというものに着地します。この

を検討します。どのようなフレーム、どのようなストラク

場合も、実寸大の物質性なども手に取りつつ、大抵は 100

チャーになっていくのかといったことに並行して、ディ

分の 1 の模型を使ってでき上がります。

テールが話し合われていることが多いです。このような検 討を経て、スケールが 50 分の 1、30 分の 1 と大きくなっ

― 100 分の1の模型で実際にできる形を想像するのが難

ていきますが、現実的な部分を押さえに行ったりすること

しいのですが、イメージのコツのようなものはありますか。

に用いる程度で、ほとんど最初の 100 分の 1 のスケールと 実際のスケールで話をしています。これが私達の特徴のよ

松本 ― なんとなくでもいいから作り方を知っていること

うな気がします。

が、強みとして効いてくるように思います。建物じゃなく ても小さい構造物を作ったり、屋台を一個作ったりとかで

木村 ― 構造を見るときは 100 分の1模型を使い、ディ

も良いのですが、物と物がどう組み合わさるかなどを知っ

テールがどうなっているか、どのような軸組みの組み方を

ていることは、すごく大事です。

するか、軸組において何mの柱に何mの梁が取り付くか、 そしてその取り合いや納まりを考えています。

― 構えということについて、外に対しての見え方や、内

部空間の広がりなどが重要だと思うのですが、立面や断面

30


'Kamae' - Structure, Attitude - the architecture tolerating ambiguity Yoshinari KIMURA / Naoko MATSUMOTO

のスタディについてはいかがでしょうか。 木村 ― 断面のスタディは本当に念入りにやります。立面

に関しては、内側からどうふさぐかと、外側からどうふさ ぐかの違いでしかないと考えています。そういう意味では、 ファサードとかエレベーションという考え方が、展開図と の考え方とそれほど変わりはないですね。

二人で設計をするということ

― お二人の設計の流れには、そこに考え方の違いや共通

点などがどのように絡んでくるのでしょうか。 松本 ― 基本的には私達二人、あるいは他のスタッフも一

緒に、という感じで進めています。どちらか一人だけが決 めることはないので、当然すごく喧嘩もしますが、二人の 方向性が大きくずれてはいないという認識はあります。 木村 ― やはり基本的には違った設計観を持っているのだ

と思います。スタッフが増えたことも、考え方の違う人が 集まるという意味で大きな影響を受けています。 松本 ― 考え方に関しては、学生時代、私達は大阪芸術大

学で根岸一之先生のもとで勉強していました。彼は建築家 でありながらアートを愛好する人で、そういった姿勢に大 きく影響を受けています。ものづくりや建築の話だけでは なく、根本的にものを考えることに対して共通の体験は多 いと思います。だから、生い立ちや経験の違いというもの はありますが、広いジャンルにおける姿勢や物事の良し悪 しの判断に関して信用しているものは同じだと思います。 また、現代美術のものの見方にも影響を受けていると思 います。一つの素材といっても、その素材感の良し悪しで はなく、その部位のようなものを見ながら違うものと接続 していけるかという考え方は、建築にもアートにも共通す ることで、私達に通底することです。いかに世界を違うふ うに見られるかということを楽しんでやっています。

『house A / shop B』のカフェ・カウンター(上)と隠れ家のような店 舗の奥(下)大きな骨組みが大小様々な空間を包み込み、多様な振る 舞いを誘発する大らかさが特徴的。 (写真:大竹央祐)

31


INTERVIEW

house A / shop B(ba hutte) (写真:大竹央祐)

木村 ― 舞鶴で設計した 『house M』 という作品でも、 建って 設計後のストーリー

からしばらくして伺ったときに、横側の半屋外のがらんと した空間にコーヒーメーカーが置いてあり、もともとキッ チンに置いていたはずなのにいつの間に出てきていたこと

― 意味としても、行為としても、使う人に余白を与える

に気づき、僕は面白いと感じました。なぜここに置かれて

作品が多いですが、ある程度建築家側の想定や判断があり、

いるのかと聞くと、お施主さんは外に出てからコーヒーを

それがちりばめられている思います。それぞれの人生にお

淹れて飲むようです。そこでコーヒーを飲むという行為ま

いて多種多様な住経験があるなかで、良い意味で設計者の

ではあり得るなと思っていましたし、洗濯物を干したりす

期待を大きく裏切った建築の使い方をお施主さんがされて

るのだろうなと想定していたのですが、コーヒーを淹れる

いたり、住みこなしに驚かされたことはありますか。

行為ごとそこに持ってくることについては少しびっくりし ました。

木村 ―『house S / shop B』 (ba hutte)では窓の上の梁の

ところに文庫本が置かれているのを見て驚きました。

松本 ―『house A / shop B』 (ボルツハードウェアストア)

は手前が金物屋さんですが、お店の物量があそこまで増え 松本 ― あれは私たちも想定していなかった使い方でし

ていくとは思っていませんでした。使い方はそのままでも、

た。ちょうど、ぴったり文庫本が収まっていました。あの横

量が当初に比べてすごく増えています。前のお店の物量も

梁は、構造に効いているというよりかは、アルミサッシの

多かったですが、さらに増えているなかで、建築が絶妙な

受け材なので、本が置かれることによって構造部材ではな

バランスを保ちながらまだ耐えています。クライアントさ

いように見えました。使い方としてもよく理解していらっ

んのレイアウトももちろんですが、下の方が埋まっていて

しゃるという感じの使い方でしたね。ぴったりなサイズ感

も、上が空いていたらまだ余力があるなと感じさせられま

をクライアント自身が発見したりしますね。

すし、行く度にそこに圧倒されます。

32


'Kamae' - Structure, Attitude - the architecture tolerating ambiguity Yoshinari KIMURA / Naoko MATSUMOTO

house A / shop B(ba hutte)内観

house S / shop B(ba hutte) 梁部分は本棚として使われている

木村 ― オープン当時の写真と最近の写真とを見比べた

知らないと想像できないので、体感できるようにしたり、一

ら、大きく違っていて、今は洞窟のようになっています。

緒に見に行ったりして感覚を共有するようにしています。

あの雰囲気を見て、もともと北大路にあったかつてのボル ツハードウェアストアを思い起こしました。当時はすごく

― 住居観が違っていても共有できる概念などはあると思

小さく、ものに囲まれていて、洞窟のような空間でした。

われますか。

その当時の様子を知っている人は、現在の新しい店に来て も同じ場所だと感じてくださっているようです。それは建

木村 ― 基本的にうちの事務所に設計を依頼してくださる

築はではなくて、施主達が作っている空間のクオリティの

方々は僕たちが最適だと思ったことに共感してくれている

おかげであると思います。

と思います。僕たちは専用住宅も設計していますが、住居 兼店舗の方が数多く手がけているので、僕たちが設計した

― 大学の授業で、人は今までの住経験からその人独自の

建築空間を体験してから来たという人も多いです。例えば

「住居観」がつくられていると教わりました。その住居観の

『house A / shop B』を見て、自由を感じたのでお願いに来

違いにより生じる裏切った使われ方が、これらの話につな

たという人もいました。結局僕らが、環境的にも精神的に

がると感じました。

も快適で、自由になれる建築空間を作り、それがクライアン トだけではなくその向こうにいる見ず知らずの人にまで届

木村 ― なるほど、住居観。面白いですね。

いたというときに、僕たちはその人達と共有の状態に至っ たということなのではないかと思います。

松本 ― クライアントさんと打ち合わせをしていて、何か

通じないところがあるなと思えば、結局住居観の違いによ るものだったりします。人によってすごく違いますよね。お 互いをよく知るということは非常に大事であるといいます けれども、心地良さなどといったものはその人の住居観を

33


INTERVIEW

house A / shop B 店舗部分から入口へ (写真:大竹央祐)

34


'Kamae' - Structure, Attitude - the architecture tolerating ambiguity Yoshinari KIMURA / Naoko MATSUMOTO

観を変えていくことはこれからの京都のまちづくりに大き 木村松本から見た京都

く影響していくだろうと思っています。同時に大きな資本 的な力の流れもあり、このような背景では私たちができる ことを考えていくことは非常に難しいと思います。形やそ

― 京都らしさということをどのように考えていらっしゃ

の大きさ問わず京都に貢献できることを考えるのはすごく

いますか。京都で事務所を構え、建築の設計をしている木

難しいですよね。

村さんと松本さんにぜひ伺ってみたいなと思いました。 木村 ― これまでのような建築と街の使われ方をされてい 木村 ― 京都らしさというのは聞かれることはあります

ないために形骸化し、京都らしさを失ってきていることに

ね。建築の質はどこで建築をやっているかで決まると考え

危機感を覚えています。京都に来て面白いと思ったのは、例

ています。日頃僕らは京都で仕事をやっていて、京都とい

えば準工業地域において住宅と軽工業が混ざり合っている

う街の環境の中で考えているため設計にそれが反映されて

ように、街としての統一感がなく、街全体に軽工業がまば

います。例えば大正時代の築 100 年ほどの町家を扱うこと

らに分布している状態です。そのような所では人の営みや

がありますが、探していくと築 100 年以上の古い町家の多

ものづくりの様子も見られて、町全体の賑わいや人の活気

くが都市型の住居として残っています。このような古い町

が感じられます。今では、例えば町家に職人がいなくなっ

家を都市の資産、ストックとみなし、現代においても活用

て、代わりに民泊などが入り、そこに誰がいるのかがわか

していくことを考えていくことはすごく京都的だと思いま

らなくなっています。それはフォルムとしての町家であっ

す。大阪の長屋もそうですが、古い町家が今でも残されて活

て、使われ方としての町家では決してないと思います。

用されていることを間近で見ているので、質の良いものさ

このように、これまでの混在していた街の多様な魅力が

えつくればそれが 100 年後も使われていくことができる

単一化してしまうかもしれない状況を避けたいです。そし

ことを私たち京都の建築家は認識していると思います。そ

て設計をするときに、街、または京都の面白さを十分に心

ういうことを知っている建築家は、形としての京都らしさ

得て木村松本として街に還元していきたいと考えるように

を受け継いでいるというよりは、地域性を反映した考え方

しています。

を持っています。仮に京都以外の地で設計することになっ たとしても、自分たちの地域で養われた考え方が良い建築 をつくるときの力強い論拠になると思います。 ― 京都は将来どのような都市として変化を遂げていくの

でしょうか。そして、木村さんと松本さんは建築家として将 来の京都のまちにどのような貢献がしたいとお考えでしょ うか。 松本 ― 乾久美子さんなどが進められている京都市立芸術

大学について雑誌やお話を通して見ていて、中層建築は京 都ではあまり考えられたことがないものだなと思いまし た。町家や高層ビルとは異なり、3 階から 7 階ほどの規模 の建築についてはあまり深い議論がなされてきていない、 またはしにくい状況であり、このプロジェクトが実際の景

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INTERVIEW

「終わり」のない建築 Never-ending architecture 建築家

宮本佳明 インタビュー Katsuhiro MIYAMOTO / Architect

建築に欠落が生じた時、その建築は可能性を帯びる。 阪神大震災で生まれた「ゼンカイ」ハウスで設計活動を行っている建築家 宮本佳明氏。 建築に終わりはあるのか、終わらせないために何ができるのか。建築の欠落に挑戦的に向き合ってきた宮本氏に問う。

聞き手:谷重飛洋子、大橋茉利奈、阪口一真、宮原陸 2019.7.30 「ゼンカイ」ハウスにて

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Never-ending architecture Katsuhiro MIYAMOTO

いたので、今もそれら全部が一体の建築ですね。違う時代 「ゼンカイ」ハウス

のものが同時に見えているわけでしょう、そういう心地良 さはありますね。

― 阪神大震災のときの復興政策に対するアンチテーゼと

してこの『「ゼンカイ」ハウス』を建てたとお聞きしました

– 記憶の器 ‒

が、今ではどのように捉えていますか。 宮本 ― アンチテーゼというほどではないですが、修繕で

― 震災の記憶に関してはどう意識されていますか。

はなく解体を促進する政策に対する異議申し立ての意味は 込めました。公費解体制度はゴミ対策の制度なので管轄は

宮本 ― 誘われたこともあり、東北の震災の年の 4 月初め

国土交通省ではなく厚生労働省なんです。山のように出る

に被災地に行きました。見て歩いているだけなので、水平

震災ゴミは政府主導でないと片付けきれないので、解体費

に写真を撮っていると物見遊山感が出てしまうと思ったの

用を国費で出していくんです。修繕にはお金が出なくても

か、下を向いて基礎ばかり撮っていました。東北の場合は

解体には出るなら、解体する人が多くなりますよね。修繕

津波被害なので、上物が流されてコンクリートの基礎だけ

も支援すべきだという運動が当時行われた結果、当時制限

が残った建物が多くありましたからね。

が多くほとんど周知もされていなかった災害救助法に基づ

『基礎のまち』と名付けた提案は田老をモデルにしたも

く応急修理に対する支給も、現在ではかなり使いやすくな

のです。ここの住宅地はおそらく高台移転が行われて、法

りました。

律的・制度的に厚い手当のある港湾施設もすぐ復活すると

今は『「ゼンカイ」ハウス』をどう感じているかという

思いました。問題は低平地のもともと市街地があった場所

と、まあお客さんが来ない限り修復したことなど忘れるほ

です。残された基礎を撤去し、何もないまま放置するくら

ど馴染んでいて気に留めることはありませんね。自分が暮

いならば、基礎を花壇に見立てて鎮魂の場所として解体せ

らすというか、仕事をしている場所だから過激なことをし

ずに置いておいたらいいんじゃないかということで、この

ようと思ったわけではなかったんです。当初は鉄骨を錆止

ドローイングを描きました。実際に実現したのは釜石市鵜

めのまま残そうかというアイデアもあったのですが、最終

住居の根浜海岸で 1 軒の住宅の基礎を花壇にしただけです

的に白く塗ったのもそういう理由なんです。鉄骨の大きさ

が。

もあえて誇張するというニュアンスではなくて、自分自身

ここで震災の記憶の話になるのですが、その住宅の基礎

にとっての安心感を得るためには小手先の修繕では怖かっ

を最初に案内してもらったとき、 「ここが玄関、ここが居間

たので補強しすぎるぐらいしておかないとな、と考えまし

でテレビがここで、ソファがここで」と基礎を前にして結

た。そもそもこの住宅にはいろいろな改修が既に行われて

構嬉しそうに案内してくれました。そのときに震災自体の 記憶ではなく、その前の平和な生活の記憶を残すことはだ れも嫌がっていないことに初めて気が付きました。当時報 道されていた震災遺構の保存をめぐる議論のなかでは、震 災そのものの記憶のことばかりどうしても取り上げられて いましたが、これらは分けて考えるべきだとそこで気が付 き、生活の記憶を意識しはじめました。これは、『「ゼンカ イ」ハウス』を作ったときには全然考えていなかったこと

『「ゼンカイ」ハウス』 正面より

です。

37


INTERVIEW

― 宮本さんは「記憶の器」という言葉をよく用いられて

ります。家もいろいろな時代でいろいろな目に遭うわけじ

いますが、これはどのようなイメージなのでしょうか。

ゃないですか。阪神大震災という目に遭って、こんな鉄骨 を付けられてしまったわけです。この先、何が起こるかは

宮本 ―「記憶の器」という言葉は、記憶を積んで動いてい

わかりません。建築の姿も、変わっていっていいんじゃな

くイメージで、英語ではいつも「vessel」を使っています。

いでしょうか。基礎が無くなるともう何もなくなりますか

船、乗り物の感じです。「動く」というのは人間が「生き

ら、基礎というのが「記憶の器」の最後の拠り所です。

る」という感じです。「建築は『記憶の器』だ」と言ってい

英語で「vestige」という単語は通常、そんなにはっき

るのであって、「 『記憶の器』は建築だ」と言っているわけ

りしていないかすかな痕跡という意味で使います。その

ではありません。「記憶の器」の一つが建築なのであって、

「vestige」の状態が基礎なんです。東北の震災後の基礎は二

ランドスケープだってありえますし、風景全般がそうです。

次解体を免れて、かろうじて痕跡が残っていましたが、結

「記憶の器」は出来事の背景だから、下手したら消えてしま

局それも無くなってしまいました。低平地が使われないま

うと思っています。風景の中で生きている、生かされてい

ま荒れ地が広がっているくらいなら、本当に基礎だけでも

る感じがあるから、風景が消えるとアイデンティティも消

残しておけば良かったなって思うんですよね。

えてしまいますよね。これは東北で被災した多くの人が感 じていることだと思います。

― 被災後の風景に宮本さん自身は何か惹かれるものがあ

ったのでしょうか。またご自身が手を加えることで美しい ―「記憶の器」を大きくすることはできるのでしょうか。

ものに昇華させようという意識はあったのですか。

例えば『「ゼンカイ」ハウス』は、ただ壊れた部分を補修し て元の姿で維持するよりも、当時の震災の記憶がより強く

宮本 ― 1996 年の「ヴェネチア・ビエンナーレ」で、阪神

維持されている気がします。

の震災の瓦礫の現物をヴェネチアに運んで展示しました。 コミッショナーの磯崎新さんと当時まだ固定電話で話をし

宮本 ― なるほど、結果的にそうなっているというのはあ

て、ほぼ二人が同時に「瓦礫を運びましょうか」と言って、

『基礎のまち』

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Never-ending architecture Katsuhiro MIYAMOTO

一発で決まりました。ここでは基礎に対する意識はなく、

多くの説がありますが、ヴェネチアの島は森の死骸ででき

建築が壊れると何になるのかを考えていました。日本は木

ているんですよ。このヴェネチア本島の先端にあるジャル

造文化なので、壊れた建築は廃墟にならず木っ端(こっぱ)

ディーニという公園が「ヴェネチア・ビエンナーレ」の会

になります。瓦礫というよりそんな木っ端を使ってインス

場ですが、不思議なことに山になっています。食事のとき

タレーションをしたのですが、それはジオラマみたいに何

に磯崎さんが、真っ平らな島に山があるのは、1902 年に

かの再現ではないんです。こんな廃墟、というか被災地の

自然崩壊したサン・マルコ広場の鐘楼の瓦礫を運び込んだ

風景というものは実際には無いですから、やっぱり何かの

からだと教えてくれました。森の死骸の上に石を積んでで

表現を無理矢理しています。表現しないと伝わらないとい

きたヴェネチア本島の端に、サン・マルコ広場の鐘楼の瓦

うのもありますし、そうすることで結果的に美しいと感じ

礫が積まれ、その上に吉阪隆正の設計した日本館が乗って

たんですよ。皆、この展示を見て、きれいだって言うんで

いて、その中にわざわざ日本から運んできた瓦礫を積んで

す。

いるんです。このように重層しているのだと気が付いたと きは、ぞくっとしましたね。その頃から「都市の重層性」 を考えるようになりました。建築は地面の上に建っている

都市の重層性

のではなく、地面のもっと下から生えているということで す。阪神高速にせよ首都高にせよ、平気で川の上や海の上 を走っていますが、表面に水があるかどうかの違いで、ど

宮本 ― ファブリツィオ・クレリチの『水のないヴェネチ 1)

ア』

を知っていますか。この作品はあくまでイメージと

して描かれているのですが、ヴェネチアは干潟に松の杭を

ちらにしろ杭は打っているから同じだということです。そ ういう下地があったので、東北では自然と基礎に目がいっ たのかもしれません。

山のように打って、その上に石を置いて造られた島です。 その何十万本の杭のために森を丸ごと潰しています。森の 場所はヴェネト州の奥の方とかシリアとかノルウェーなど

第6回ヴェネチア・ビエンナーレ建築展 日本館床のためのインスタレーション

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INTERVIEW

1、鉄板に 3 分の 1 で、建築といえるのは残りの 3 分の 1 船 -土建空間論-

だけです。そうなると、どこまでがインフラでどこまでが インフィルかを考えると、まあほとんどインフラに住んで いることになります。全てはものの考えようであって、こ

― 宮本さんの作品にはインフラ(土木)とインフィル(建

ういった実例が重なっていくうちに、「Do-Ken marriage」

築)をそれぞれで設計している作品が多くありますが、そ

と呼んでいますが、土木と建築の幸せな結婚があるんじゃ

れらはどのように区別されていますか。残り続けるものと

ないかと思うようになりました。残っていくようなインフ

代謝していくものの線引きはどこにあるのでしょうか。

ラもあれば代謝していくようなインフィルもあり、その境 目は気持ちの持ちよう次第ですね。インフラ寄りかインフ

宮本 ― インフラとインフィルの線引きに決まりはなく、

ィル寄りかという方向性は間違いなくありますが、どこに

どこかに引けるということだけは確かで、それがどこかと

線引きをするかというのは自由じゃないかと思います。

いうのは相対的なもので、むしろ考え方の問題だと思いま す。 『SHIP』では生えるように作ることを考え、コールテン

― 一方で、 「インフラやインフィル」と地形の違いをどう

考えていますか。

鋼で斜面地に住宅を作りました。当初、『SHIP』は全部コ ールテン鋼で設計していたのですが、鉄がすごく値段が上

宮本 ―『bird house』がわかりやすいと思いますが、ここ

がる時期でコストが合わず、部分的にコンクリートに置き

でインフラといえそうなのは、断面図で色の濃い部分の基

換えたということがありました。竣工時に、敷地の裏側の

礎です。鳥の巣箱を斜面に置くと転がり落ちますが、木の

普段見えない所をカメラマンがたまたま見つけて、このよ

幹の股のところをうまく探してぽんと置いたら安定して乗

うなアングルの写真(右頁左上写真)を撮りました。僕に

ります。幹の股のところに乗った家型の鳥の巣箱のイメー

はこれが 4 階建て住宅に見えました。ここからが土建空

ジから、 『bird house』と名付けています。この股の役目が

間論の話になりますが、コンクリートの肌が土木の部分と

急斜面におけるインフラに必要とされていることだろうと

建築の部分とで一緒ですから、どこから下がインフラでど

思います。地形という「自然」と、建築という「人工」を

こから上がインフィルとみるのか、線引きは自由に動かす

いきなり隣接させてもうまくいかないので、間に入るのが

ことができるのかもしれないとこのとき気が付きました。

インフラです。

『SHIP』と名付けたのは、中間の層のところが抜けていて、

津波被害に遭って基礎だけが残った東北沿岸の風景は、

断面構成がフェリーボートのようだったからです。ところ

地形に近いように感じられました。境目は動かせるけれど

で、船には喫水線というものがあります。荷物があるとグ

も、少なくとも方向性があるので、建築本体よりは基礎の

ーと船が沈んで、船体に対して水面が上がり、逆に荷物を

方がより地形に近いということはいえますね。

下ろすと船体がぐっと浮いて水面が下がります。この喫水 線の上下とインフラとインフィルの境界線の上下が重なり ました。普段あまり見えないアングルの写真をきっかけに、 考え方次第で線引きは変わるなと思いましたね。この頃か ら土木と建築の距離ということについて考え初めました。 もう一つ事例があります。『クローバーハウス』という住 宅は、元々あった石積みの擁壁をくり抜いて鉄板を立てて 作りました。元々の地盤面が擁壁の上面ですから住宅はほ とんど半地下なんです。コストの配分は、掘るのに 3 分の

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Never-ending architecture Katsuhiro MIYAMOTO

『クローバーハウス』

『SHIP』

『bird house』断面図

『bird house』

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INTERVIEW

高龗神社(釜石市) 鳥居

諏訪大社下社春宮 御柱

― 建築の終わりはできるだけ引き延ばすべきだと考えて 建築に終わりはあるのか

いますか。 宮本 ― 引き延ばしたいと思うんですけどね、建築は「記

― 次に建築の終わりとは何か、建築の終わりをどう扱っ

憶の器」ですから。先ほどの東北の大震災での家の思い出

ていくのか、どう乗り越えていくのかについてお話をお聞

の話とかもそうですが、空間と体験は一体に記憶されてい

きしたいと思います。宮本さんの作品のなかに使用者がい

ます。昔、阪急今津線に乗って中学・高校に通っていまし

なくなったり、役目を終えたりしたものはありますか。

た。試験のときには単語帳をめくりながら電車に乗ってい ました。で、いざ試験のときになったら単語の意味は思い

宮本 ― 建築のなかでも解体されたものはありますが、そ

出せないのに、あそこの踏切を通ったときの単語というこ

れ以上にインテリアがすぐなくなりますね。インテリアは

とだけは覚えているんですよね。場所と記憶はセットなん

更新の周期が短いです。建築を終わらせない方法もあると

です。場所を消してしまうというのは本人の記憶が何らか

思うんですよ。『「ゼンカイ」ハウス』に引きつけていうと、

の形で棄損されるということです。だから、場所や建築は

木造の部分はやはり古いぶん朽ちていきます。それでも大

残すべきだと思います。

きな地震が来ない限り、木造だけでも多分まだ建っている と思います。今は木造と鉄骨、両方それぞれで建っている

― 最近建築をデジタルで保存しようという試みが行われ

んですね。だんだん木造がヘタってきて、鉄骨に頼ってい

ていますよね。形を保存して、場所と「もの」自体は無く

ったときに、だれかがまた将来改修してくれたら嬉しいで

なってしまうというのは、 「記憶の器」としての建築が本当

すね。今、日本の建築の寿命は人間の寿命よりも短いです

に保存されているのかという懸念があります。

から。世代を超えて継承していってほしいですね。北九州 の八幡の市民会館の保存改修に関わっているんですけど、

宮本 ― 同じ懸念を感じました。むしろ、基礎だけでも本

五十嵐太郎さんを呼んでシンポジウムをしたんです。そこ

物が残っていた方が良いのではないか。そこから、イマジ

で五十嵐さんはオルセー美術館について、 「使い道がわから

ナリーに上に空間を立ち上げることができますから。根が

なかったら一回封印しておけばいい。そして 100 年くらい

あったらそこからもう一回生える気がするわけですよ。記

経ってだれかが使い道を見つけるかもしれないから」と話

憶のよすがというか、そういう意味で基礎に気持ちがいく

していました。ただ、日本の場合は空き家になるとすぐ朽

のかもしれないなと思います。

ちていきますよね。そこに問題はあるのですが、ただなぜ 即解体するのかがわかりません。市民の方が解体を望んで いますからね。

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Never-ending architecture Katsuhiro MIYAMOTO

多久頭魂神社(対馬市) 鳥居

遠野市にある鳥居

いろいろな鳥居、特に東北とか対馬とか中央から離れた 形を変えて残るもの

場所のものを見ているうちにね、確信したんですよ。東北 の震災後に釜石市鵜住居の山の頂上まで行ったことがあり ます。そこで見た高龗(たかおかみ)神社の鳥居がとても

― 日本の伝統的な木造建築は、掘立柱が腐ってしまうよ

かっこいいんです。倉方俊輔さんに誘われて見に行った対

うに、欠落と更新を前提としてきた歴史がありますね。

馬にある多久頭魂神社の鳥居も同様です。これらを見れば もう一目瞭然、笠木がいちばん大事に決まっています。遠

宮本 ― 掘立柱の話が出たので関連して話します。法隆寺

野で見つけた鳥居も下はただの構造体ですよね。そして御

の五重塔に心御柱というのがありますよね。あれは空中に

柱の話に戻るわけですよ。多分元々は神様が宿る木を縦に

浮いていて、ふりこの働きをするといわれています。力学的

したか横にしたかだけの話だと思うんです。鳥居も今は本

には実際ふりこのように効いているのかもしれませんが、

来の意味が失われています。笠木はどちらかというと装飾

なぜ中心の柱が空中に浮く状態になったと思いますか。僕

のようになっていて、なかには笠木が省略されている鳥居

は諏訪大社の御柱を見ていて気づいたことがあります。御

だってあります。でも形を見たら確信できますよね。わざ

柱祭りという、山から木を切り出して行う 7 年に1度の祭

わざかっこ良くなるような木を選んで鳥居を建てています

りがありますよね。諏訪大社は神社なのですが、四隅に御

よね。

柱が立っていて神域を形成しています。おそらく塔の原型 が御柱のようなものなんだろうなと考えています。ここか

― 京都の町屋なども保存する動きがありますが、宿泊施

らは僕の説なのですが、鳥居というのは上の笠木がいちば

設などのように本来の使われ方から変わっている例もあり

ん重要で、そこが神様の座るような場所、宿る場所であり、

ます。それでも使っていく方が良いのでしょうか。

それを下の架構が持ち上げているだけなのではないかと考 えています。一方、御柱は丸太を持ち上げるのではなくて

宮本 ― どのような形であれ使われながらの動態保存の方

地面に挿して立てたものではないか。これも神様が宿る場

がいいですよね。原形がどうとかはあまり気になりません。

所。でも、これでは腐りますよね。だから裳階というか、

『「ゼンカイ」ハウス』もそうですけど、使われていること

屋根を何重にもかけて守ったわけですよ。それが塔の原型

がいちばん幸せなのではないでしょうか。よく学生に言っ

だと思います。意味も変わってしまっているのですが、そ

ているのですが、このことを考えるのに、 「資材性」という

れでもこうして残っていく残り方もあります。「神が宿る」

概念が有効です。これは元々レヴィ=ストロースが用いた

なんて今はだれも思いません。ふりこだと思ったり。それ

言葉です。中谷礼仁さんが何かの著書でこう例えていたと

でも構わないから、こういう残り方も面白いなと思います。

思います。バケツは通常水を汲む道具ですが、でも植木鉢 にもなり、だれかの頭にかぶせて上から叩くこともできま

43


INTERVIEW

す。これはバケツの形から導き出された資材性を示してい

とじゃないですかね。

ます。建築も同じで、よく見ると本来の使われ方ではない ですけど、うまい使い方があるという意味で「資材性」と

― その方が、部品は変わっても一つのものを大切にする

いう言葉を使います。3 回生くらいを対象にコンバージョ

ような、日本の古くからの精神に合っている気がします。

ンの課題を毎年出しているのですが、対象物は自分で見つ けさせています。そこでも新たな資材性をどう発見するか

宮本 ― そうそう。それはありますよね。一つ思い出しま

がポイントになるんです。

した。家を「解く」という言い方がかつてあったそうです。

村野藤吾さんが設計した北九州の八幡市民会館も耐震性

解体とはいわずに、家を「解く」。在来木造なので、ガシャ

が足りず壊されようとしていました。しかし劇場として使

ガシャと解体するのではなくて、一個一個部材を外してい

われていたときの大空間があることで耐震性が低いのなら

き、また建てなおして移築したり別の建物に転用したりす

ば、使われなくなったホール空間の中に新たな構造体をい

ることもできます。『「ゼンカイ」ハウス』も、確かどこか

ろいろ突っ込んでしまったらいいのではということを考え

で柱材が梁に転用されています。そういうことはありえる

て、提案しました。劇場を諦めたら途端に新たな可能性が

んですよ。英語で「解体」は、「demolish」と「dismantle」

生まれるんですよ。美術館はどうせホワイトキューブを置

があって意味が違います。「dismantle」の方が「解く」に

かないといけないですし、ホール空間内に箱をいっぱい入

近くて、「demolish」の方がグシャッというのに近いです。

れたら構造的に強くなると考えました。動態保存というこ

その二つの言葉は使い分けるといいのかもしれないなと思

とを考えるとき、コンバージョンもひとつのヒントになる

っています。部品にばらしてからもう一回作るのだって資

と思います。

材性ですから、資材性を空間に求めるのか部品に求めるの

空間のカスタマイズの他の例ですと、『クローバーハウ

かの違いです。

ス』は壁が鉄板でできているでしょう。施主が鉄板の壁に 磁石でものを貼り付けるんです。「この家は壁が散らかる

― それは日本特有ですよね。

んです」と言っていました。帰ってきたら服とかをぱちっ ぱちっと貼り付ける。そういう話を聞くと面白いなと思い

宮本 ― そんなこともないです。ローマのコロッセオは石

ます。

切り場でした。「解く」とはいわないんでしょうけど、石と いう物質に資材性を求めたのです。詳しいのが、ケヴィン・ リンチの『廃棄の文化誌』2)です。そういう事例がたくさ

建築を「解く」

ん出てくるのでぜひ読んでみてください。

― 日本でまだあまりコンバージョンが進んでいないの

廃墟の持つ余韻

は、依然として新築を望む声が多いからでしょうか。 宮本 ― いや、まだマシになりましたよ。かつては「コン

― 先ほど阪神大震災の後の「ヴェネチア・ビエンナーレ」

バージョン」なんて言葉もなければ「リノベーション」な

で、木っ端を積み上げた展示が美しいと捉えた鑑賞者もい

んて言葉も存在しませんでした。少なくとも『「ゼンカイ」

たという話がありましたが、ヨーロッパでは中世から廃墟

ハウス』のときにはそのような言葉はなく、あの頃は「リ

を愛でる文化があり、近年日本でも廃墟を巡るブームがあ

フォーム」という概念くらいしかありませんでした。「コン

ります。人はなぜ廃墟に惹かれるのでしょうか。

バージョン」という概念が登場したのは、そのしばらくあ

44


Never-ending architecture Katsuhiro MIYAMOTO

宮本 ― 西洋で廃墟を愛でるというのは教養の一つで、自

分がインテリであることをアピールしているような部分が

建築の未来を決める

間違いなくあります。それぐらい当たり前に廃墟を愛でる 文化があって、ヴェルサイユ宮殿の中にわざわざ廃墟を模 したものを作るなどしていますね。『死都-ネクロポリス 3)

― つくり手として、設計する段階においてどのような建

-』 という本があるのですが、死都とあるように広い意

築の終わり、もしくはその先を描いていくことができると

味での廃墟が取り上げられています。ピラネージからデル

感じますか。

ヴォーまで。『水のないヴェネチア』も確かこの本で見つ けました。 先ほども話したように、建築という人工物と地

宮本 ― そんなに終わりを意識する必要はあるのでしょう

形という自然の間には少なくとも方向性・軸があるという

か。東北の場合、たまに RC でも失われているものはありま

こと、廃墟の方が少なくとも人工物から自然に寄っている

すが、本当に消えて無くなったのはやはり木造です。『「ゼ

ということは、間違いないですよね。自然に近くなればな

ンカイ」ハウス』のときの公費解体もそうですが、地震な

るほど自由な想像を許されます。地形とか地形図、風景の

どの自然によって壊されたものより、その後に人間の手で

写真とかは結構飽きずに眺めることができるじゃないです

壊したものの方がかなり多いです。先ほどの東北の震災の

か。 それは様々な解釈ができるから。でも、「それなら純

基礎もそうですし、自然によってもかなりのダメージを受

粋な自然の方がいいんじゃないか」と言われると難しいで

けますけど、やはり人間の判断の方が大きいです。残した

すね。廃墟にはいろいろな感情が混じりあっています。時

いと思うかどうかという意思の問題でしょうね。コスト面

間軸のなかで、何か人間の営みのような過去のものが含ま

では壊して建てなおす方がやっぱり安くあがるのですが、

れているんでしょうね。廃墟を見ると考古学者のようにな

長い目で見たら、修繕した方がより価値が上がる場合が多

って、 「作った人はその時どう考えたんだろうか」と考えて

いと思います。だから僕は建築にそんなに終わりがあると

しまいます。建築家だからだというのはあるんでしょうけ

は感じていません。

ど。完成している建物よりも廃墟になった方が、構法とか

もちろん絶対終わらせないということじゃなくてもいい

も見えやすいので、そういう想像をする喜びもありますね。

と思うんです。しょうもないなと思ったら壊したらいいと

ある鉱山の跡を見に行ったときにも、使い道のわからない

思いますし、要はいいようにやりなさいということです。

構築物が残っていたのですが、よく見ると微妙に天端に勾

そこは理屈では判断できない場合や、人によって答えが違

配がついていて、 「これは水を使って何かが行われていたに

う場合もあるのでしょうけど、いいと思うものはいい、と。

違いない」とか、そういう想像をしてしまいました。例え

まず尺度は自分しかないから、自分で考えて、自分で感じ

ば現状で明らかにある方向に力がかかり過ぎている構造物

ろということです。ノートルダムの燃え落ちたあの木造の

があったら、これは巻き上げ機か何かのあとで、水平力を

尖塔だって、今まであの塔と共に生きてきたフランス人、

処理していたんじゃないかなと考えてしまいます。鉄など

パリの人達にとっては思い出が重なっていて大事なものな

は回収されていて残っておらず、力の痕跡だけが残ってい

のかもしれないですけど、別にフランス人だけのものでも

るわけです。廃墟には、 「これは」という気づきのようなも

ないですし、正直なところ「そういえばそんな塔建ってた

のがあるのでしょうか。普通の街を見ていてもそういう気

なあ」ぐらいです。時々言われるように新しいデザインで

持ちにはあまりなりませんね。

もいいと思いますしね。それこそあの土地の上には、東北 の震災の基礎よりはよっぽど多くのものが残っています。 あそこから何を生やせるのか、生やすのが良いのかという のを一から考えるべきです。復元にそんなに意味はありま せん。150 年前 4)に建てられた元々の塔は、明らかに合っ

45


INTERVIEW

てないですよね。よく見たら変ですし、とってつけたよう

までの資材性を見るのか、見抜くのかなんです。空間に見

なデザインです。一般に完全な復元といっても、どの時代

るのか、部材に見るのか。コンクリートのガラと鉄筋のく

のものに戻すのかわからないんですよ。イオ・ミン・ペイ

ずを分けて、鉄筋だけをスクラップとして回収してもう一

のルーブルのピラミッドだって建てたときに反対派がたく

回溶かすことはスチールという材料にしか資材性を見いだ

さんいましたけど、掘ってみたらローマ時代の遺跡が出て

していないということになります。いろいろな資材性のグ

きて、じゃあそっちを復元するべきじゃないかと皮肉を言

ラデーションがあって、材料そのものよりはまずは鉄骨と

う人もいました。オリジナルがどこなのかという話で、そ

いった部材に資材性を見出したいですし、できたらさらに

れも含めて新しいデザインは議論して決めていくしかない

空間に資材性を見出したいものです。それを社会状況やそ

んですよ。

れぞれの建築の置かれた立場を考慮しながら見出していけ たらと思います。 建築家はそういう空間的な資材性を見出すのがどちらか

建築を終わらせないこと

というと得意な職能なのではないかと思います。見えない 人には仕方がないですが、新たな資材性が見えてしまった らやはり残していく方向に生かしたいですし、自分の設計

― 例えば、最近では最終的に土に還る建築材料も発明さ

した建築に関しても次の世代の人に引き継いで、生かして

れていて、それは何か終わりを意識したからこそ生まれた

もらいたいですよね。この『「ゼンカイ」ハウス』とかも

ことなのかなと感じています。

ね。

宮本 ― 左官の土というのは本来そういう発想のものです

よね。木軸の部分は先に言ったように解くことができるけ れど、左官はそうはできません。だから砂に還してもう一 回ふるいにかけたりします。左官とは本来そういうもの。 だから土に還してもいいですし。 ― 今は日本の都市はスクラップアンドビルドを繰り返し

ていますが、 「解く」ことを想定した姿勢が作るときにもし あれば、作っては壊してというスタンスを変えていく可能 性があるのではと感じます。

1) ファブリツィオ・クレリチ:水のないヴェネチア,1951

宮本 ―「解く」前提ね。それは日本の伝統ですよね。伊勢

神宮も式年造替だけではなくて、20 年経ったら末社に材 料を細く切って供給したりもしています。あれだけ太い材 だから丸々駄目になっているわけはないので。これは供給 システムを含めてデザインされているということです。で も、ずっと形が変わっても使い続けるというスタイルもあ ってもいいと思います。特に鉄筋コンクリートなんてそれ

2) ケヴィン・リンチ:廃棄の文化誌-ゴミと資源のあいだ-, 有岡孝,駒川義隆訳,工作舎,1994

に向いた材料と構造だと思います。本来解きやすい鉄骨で

3) 谷川渥:死都-ネクロポリス-,トレヴィル,1995

さえ解かずに潰してしまうから不思議ですよね。要はどこ

4) 建築家ヴィオレ・ル・デュックの指揮による(1844 年)

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Never-ending architecture Katsuhiro MIYAMOTO

『「ゼンカイ」ハウス』 内観 階段下の模型は『「ゼンカイ」ハウス』の今後の野望をかたちにしたものである。

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INTERVIEW

失われるもの、遺すもの Lost and Inherited

建仁寺塔頭両足院 副住職

伊藤東凌 インタビュー Toryo ITO / Vice chief priest of Ryosoku-in

聞き手:菱田吾朗、中村文彦、野間有朝、渡邊雅廣、春日亀裕康 2019.7.30 於 建仁寺塔頭両足院

建築史家

井上章一 インタビュー Shoichi INOUE / Architectural historian

聞き手:菱田吾朗、中村文彦、野間有朝、渡邊雅廣 2019.8.2 於 国際日本文化研究センター

様々な歴史が重層的に堆積してきた京都。 変化し続ける都市のなかで何が失われ、これから何を遺していくべきなのか。 今後の京都について改めて考えるべく、伊藤東凌氏、井上章一氏の 2 人にお話を伺った。

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Lost and Inherited Toryo ITO / Shoichi INOUE

四条大橋から北を望む(写真:新 靖雄)

建仁寺塔頭両足院 副住職 伊藤東凌氏に聞く ― 鎌倉時代に遡るほどの歴史をお持ちですが、応仁の乱

建仁寺両足院の沿革

など数々の災害に遭っているなかで、現在まで残っている 建物はあるのでしょうか。

― 最初に、建仁寺全体や、その塔頭である両足院の建立

伊藤 ― 両足院にはありません。建仁寺全体で見ても勅使

の経緯、さらには現在に至るまでの流れをお話しいただけ

門だけが創建当初のものだったと思います。建仁寺は七つ

ますか。

のお堂が主要な建物として並ぶ、七堂伽藍という形式です が、寺領の大きさは創建当初から変化しています。初めに

伊藤 ― 建仁寺は京都でいちばん古い禅のお寺です。1202

与えられた七堂伽藍のエリアから、時代を追って塔頭など

年に建てられた当時は、禅を専門にしたお寺は許されてい

が次々と建立されるにしたがって寺領が拡大していき、い

なかったので、天台宗、真言宗、禅宗の三つを合わせて学

まの四条通のあたりまでが寺領でした。

ぶ、総合大学のような形で建てられました。それから 50 年 ほど経って、9代目の住職が入ったときに、純粋な禅のお 寺になりました。住職が 50 年で 9 人も入れ替わるほど昔 は任期が短かったのですが、位の高い僧侶を呼び寄せたあ と、その短い任期が終われば無関係になるわけではありま せん。境内の中にまた新しくお寺を建てることで、弟子た ちがその教えを継承していきます。これが建仁寺の塔頭で ある両足院のような、塔頭の起こりです。両足院の場合は 栄西さんが眠っており、修行の際には非常に神聖な場とし て拝まれていました。また、経蔵というお経の蔵もありま すが、ここも特別な役割で選ばれた人しか住めない所でし た。そのようにして、大寺院の中に小寺院が建てられ、住 まい、あるいは学問所のような機能を果たしていました。 両足院は建立当初、知足院と名乗っていましたが、あると きに知足院の全体を二つに区切って、護国院と両足院に分 けました。ですからこの時点で境内の区画が整理されてい ます。

伊藤東凌氏(右)を囲んで

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INTERVIEW

建仁寺の境内鳥瞰図1)

賑わう花見小路

― 明治維新のときに現在に近い規模にまで縮小したあ

周辺のまちの変化

と、それまで建仁寺の境内だった所では、どのようにまち づくりがなされてきたのでしょうか。

― 四条通あたりまでが境内だった明治維新ごろの状況か

伊藤 ― 花街はもちろん、寺町としても機能した要素があ

ら、周りのまちとの関係のなかでどのようにして現在の状

るので、草履屋さんや畳屋さんなど、いわゆる伝統文化に

況まで変わっていったのでしょうか。

関連するお店はひととおり揃っていました。お寺が品物を 注文しやすいこともありますし、お参りに来たお客さんが

伊藤 ― やはり明治時代になって、廃仏毀釈が行われたこ

ついでに買っていくこともあったでしょう。ろうそく屋さ

とが大きいです。住職が常駐していない寺院が取り壊され

んや花屋さんなども数多くありました。いまはそれらも経

たことから、江戸末期には 60 軒くらいあった塔頭寺院が、

営難に陥ったり後継がいなかったりで、残念ながら多くが

いまでは 14 軒まで縮小しています。そのなかには極めて

コインパーキングになってしまいました。

重要な文化財を持っているお寺もあったので、例えば両足

明治維新で一気にお寺が縮小してもなお、比較的広い境

院も何軒かお寺を合併しており、合併することで残せる文

内がありましたし、経済的な理由もあったのか、お寺の境

化財はできるだけ残しながら縮小していきました。

内でも空いている所を貸していたことがわかる明治時代の

京都市としても、お寺が土地を持っていると全く税収に

図面もあります。そこにも現在は民家が建っていることが

ならないのに対し、いわゆる繁華街なら税収が上がるとい

多く、西側や南側の道路からは、建仁寺を囲う塀は見えま

うこともあったでしょう。建仁寺と祇園や宮川町のように、

せん。その意味ではさらにもう一段階は小さくなっている

寺院と花街は立地的に近接していることが多いです。舞妓

といえます。境内のいちばん端になる部分の多くを譲渡し

さんに支払うお金のことを花代、線香代と呼んでいたこと

てしまったような形です。

からもわかるように、お寺参り、お墓参りとあわせて遊び に来ていたんです。やはりお参りが衰退していったなかで、 遊びとの連動で信仰を再び盛んにすることを、お寺側も受 け入れていた可能性はあります。

50


Lost and Inherited Toryo ITO / Shoichi INOUE

― 建仁寺を建築物として実際に修復していくときに、例

文化財としてのお寺の保存

えば伝統工法としてつくられたものが直せない、あるいは 壊れてしまった部分をどの時代のものでどう作り変えるか など、技術的な問題や時代性の問題はありますか。

― 建仁寺は伝統的建築や文化財の点で重要性が認められ

ているお寺だと思いますが、保存に関しては現代に何を残

伊藤 ― 例えば、建仁寺の本堂の屋根は、5年前に銅板葺

すべきか、それをどのように残すべきか、という問題があ

きから杮葺きに修復されました。私が子供のころから見て

ると思います。

きた景色は銅板だったのですが、やはり 400 年前は杮葺き だった、ということで直されました。銅板は戦後、いろい

伊藤 ― 99.9%変えずに残すべきなのは、両足院でいえば

ろなお寺で信仰のように流行り、とてもいい技術だと持て

本堂と正門だけかもしれません。建仁寺の 650 年の歴史に

はやされていました。でも結局穴が空いてしまったり、緑

おいて、最初からすべての建物が揃っていたわけではあり

青も完璧に美しい状態にはなかなかならなかったりで、い

ません。先に述べたように、時代の変化に伴って追加され

まはむしろ避けるべき素材になりつつある気がします。そ

たものや建て替えられたものもあります。それは今後につ

ういう修復のしかたのトレンドみたいなものはあります。

いても同じことでしょう。例えば、いまは朱印を求める人

建物が災害で壊れてしまったり、見えない部分がいつの

がかなり増えました。建仁寺にはありませんが、朱印を授

間にか老朽化していたりすることは昔からよくあります。

与する専門の場所を、プレハブなどで新しく用意している

そうした際にはある工務店一社に飛んできてもらって修理

お寺もあります。両足院でも、一般の人々が飲食できる場

してもらうのですが、これを繰り返していくと、応急処置

所を新たに設けることを検討しています。いままでお寺の

だらけになってしまいます。理想的には、30 年後、50 年後

なかにそのような場所はありませんでしたが、人々の食へ

どういう姿でありたいかを考えた上で、うまくお金を使っ

の関心が高まっている現代ですから、食を通じて禅のエッ

ていけたらいいのですが、そのように変えながら残してい

センスが感じられるような場になればと考えています。

くのはわりと難しいことだと思います。やはり、財政状況

やはり改めておもしろいと思うのは、建物と庭の関係で

はお寺の建物の保存に関して決定的な要因ではあります。

す。被災して建物が更新されても、庭はほぼそのまま残り ます。それが数百年繰り返されていくと、庭だけが重厚な 気配を孕んでいくので、更新される建物は、中から見る庭

お寺の社会的役割

の景色の印象を損なわないようなもの、具体的には同じサ イズ、素材のものになります。一方で、これを変えながら、 庭の景色の美しさを変えないというのはとても難しいと思

― 近代以前のお寺は社会にとって、どのような存在だっ

います。私もまだ考えが及びません。とりわけ現代におい

たのでしょうか。

ては、お堂のプロポーションと身体性の関係が問題になり ます。椅子に座って見る庭の景色は畳の上に座って見ると

伊藤 ― 昔は学校も美術館も博物館もありませんでした。

きとは変わってしまいますし、椅子に座るなら、天井をもっ

そんな時代にもお寺には芸術品や書物が蓄積されていたの

と高くしたほうがいいかもしれません。また、人間の体つ

で、文化や芸術や学問を学ぶために人々が集まってくる場

きも、現代と昔とでは少し違うはずで、参拝する人も日本

所だったといえます。例えば建仁寺は五条坂の陶芸家との

人だけではなくなってきています。そうした人間の身体性

やりとりが多く、お寺にある陶芸作品のみならず、張瑞図と

の変化にあわせて新しくつくると、これまで守られてきた

いう書道家の書を、ある陶芸家に貸したという記録が残っ

お堂特有のプロポーションが崩れてしまうんです。

ているなど、ジャンルを超えて関わりが生まれる場所だっ

51


INTERVIEW

たともいえるでしょう。

― 京都のお寺は特に、観光スポットとして見られること

また、建仁寺のような大きなお寺は、幕府のはたらきを一

が多いと思います。京都のまち全体も観光都市としての側

部担う役割も持っていました。昔の朝鮮通信使の応接係に

面が強くなってきていますが、これについてどのようにお

お坊さんが選ばれていたのは、当時もっとも漢文に優れて

考えですか。

いたのがお坊さんだったからです。学問に優れた僧は、政 府から碩学録という録を授与されることもありました。つ

伊藤 ― 人が来ることで、我々に新たな気づきが生まれ、改

まり意外ながら、民衆に開かれていたというよりは、きち

善されていく点も多いので、非常にいいことだと思います。

んと幕府や藩とつながってしかるべき仕事をしていたとも

現代人は何に悩んでいて何を求めているのかを、私もお寺

いえます。お坊さんを大名のもとに派遣して、漢詩や連歌

を案内しながら対話をするなかで見つけていき、現代での

などの指導にあたらせながらコネクションを強め、その大

お坊さんのあり方を見つめ直すチャンスを得ているといえ

名から金銭的に援助してもらうこともあったと思います。

ます。もちろん拝観収入を得られているという部分もあり ます。

― いまとは全く逆で、政治と宗教とがあまり切り離され

一方でよくない側面もあります。拝観人数をどのように

ていなかったということですね。武家をもてなすために庭

管理するのかなど、一般の会社と変わらないような仕事に

の文化が発達したように、お寺にはもともとなかった機能

労力をとられてしまうので、ストイックに一生涯かけて勉

などが、政治勢力との関わりによって生まれたものはあり

強し、力を磨いていくような昔ながらの文化は薄れてしま

ますか。

いました。その代わりに、いまは人々にきちんと関わる機 会があるという点ではいいと思います。

伊藤 ― 例えば、本堂は客殿とも呼びますが、方丈といっ

お寺は観光のために開かれていくべきだとは思います

て 6 つの部屋に分かれています。客人をお迎えする際には、

が、静寂や伝統を感じながら、普段とは異なる気分になる

最初は入口の間で全員荷物を置いて休んでもらい、主客だ

ための場所が、ただ開けるという形にしてしまうと騒がし

けを真ん中の部屋に案内し、少しもてなします。このとき

くなってしまうかもしれません。ゾーニングなど、特に建

のお茶のふるまい方が茶礼と呼ばれ、茶道の源流になって

築的なアプローチを含めながら、閉鎖性と開放性を丁寧に

います。そうしてさらに奥の方へ入っていくのですが、部

コントロールできると、静寂を保ちながらも、活気もある

屋ごとに移動していくことでそれぞれに意味付けができま

場所になると思います。

す。すると、例えばどの部屋のどの位置に絵を飾るかを決 めることを通して、部屋の設えが変わっていきます。このよ うに、やはり人々をお迎えすることで文化が生まれている といえます。困った人がただ駆け込むためだけのお寺だっ たら、お坊さんになりたいと思う人もあまりいなかったか もしれません。でも当時はそうではなくて、位の高いお坊 さんがしていたのは、賓客を招いて接待するという、外交 官のような華のある仕事でした。

方丈の平面図 1)

52


Lost and Inherited Toryo ITO / Shoichi INOUE

― 歴史建築物のハード面をどう残すか、どの年代のもの

観光都市とどう向き合うのか

を残すか、あるいは現代的にどう解釈するかといった話を 私たちは考えていたのですが、そこで営まれる生活の「丁 寧さ」という視点はとても示唆に富んでおり、本質を突い

― 花見小路など、建仁寺周辺のまちには伝統的な景観が

ている気がしました。

残っていますが、この景観はもともとあったはずの生活や 文化と切り離されてしまい、外側だけが残されているよう

伊藤 ― 丁寧さというときに忘れてはいけないのは、人と

にも見えます。こうしたなかで、どのようにまちを保存し

人とのコミュニケーションだと思います。便利になった現

ていくべきだとお考えですか。

代では、リアルなコミュニケーションは最低限になり、デ バイス上でのやりとりがメインになりつつありますが、人

伊藤 ― まちという単位では真剣に考えていなかったかも

と人とが顔を向け合って、人と人との距離感をきちんと取

しれません。でも、やはりいちばん残したいのは「丁寧さ」

れるような建築やまちの姿であってほしいんです。京都性

ですね。果たして何が丁寧なのかというと、例えばものづ

や京都らしさとはどこにあるのかと考えたときに、「丁寧

くりの丁寧さや、暮らしの丁寧さなどがあると思います。

さ」はひとつ言い当てているように感じます。

多くの町家がショップにリノベーションされています

これは禁止です、あれも禁止です、というようなサイン

が、町家のなかだからこそ、ハイブランドが入ってきても、

ばかりが増えていますが、今後もその傾向を止めるのは難

どんどん数を売ればいいという見せ方ではなくて、品物を

しいかもしれません。でも本当は、例えばお寺に足一歩踏

作る過程など、本質を見せるような構えになると思います。

み入れたときに、 「明らかに丁寧な場所だから、丁寧にふる

ただ、必ずしも町家がないと丁寧さが残らないわけでもあ

まわないといけないな」と自然に思えるようになるべきだ

りません。例えばマンションに住んでいるおばあちゃんで

と思います。お寺だけではなく、京都のまち全体がそうな

も、毎日料理を 3 食作るような暮らし方は、我々現代人か

れば本当にいいと思います。

らすると丁寧だなと感じます。

建仁寺北門から花見小路を見る

53


INTERVIEW

RYOSOKU 禅寺食堂・売店 これからの禅寺の景色を支える「器」 (写真:RYOSOKU pc: 奥山晴日)

― 現在、両足院で行われているお墓のプロジェクトは、ど

現代都市におけるお寺

のようなものでしょうか。お墓は亡くなった人のためのも のであると同時に、生きている人のためのものでもあると 感じます。

― 日本人の信仰心が薄れてきている現代、さらには今後

のお寺の存在意義について、どのようにお考えですか。

伊藤 ― お寺のなかには渾然として死と生があるべきだと

考えていて、そのモデルとして大昔の集落のようなものを 伊藤 ― どうしても私の場合は人に焦点を当てて話してし

考えています。集落では、埋葬場所が村の中心にあり、そ

まうので、現代の生活様式や現代人に対してどういうもの

こで皆で集会をしたり、祭りをしたりしながら生活してい

を発信するかという目線でお話しします。

ると、死がいつも自分事だと思えたはずです。いま、まち

「眺める」という作法を大事にしていて、この作法自体

を考えるときには、死を不浄なものだと見なし、とりあえ

が日本人もできなくなってきているように思います。スマ

ず端の方に置いておきます。まちを本当に集落化すること

ホを見てパッと判断するのではなく、ぼーっと景色を見て

は無理ですが、この両足院のなかだけでも、そうした集落

いる間に、その景色にだんだん自分を重ね合わせたり、過

モデルのようなものを取り戻そうとしています。例えば精

去の自分を思い出して勇気を取り戻したり、ささくれだっ

神修行は深い山奥で、食事は賑やかな派手な場所で、とい

た心が別の何かに繋がったり。そうしたときに人は、もっ

うようにバラバラになるのではなく、お寺に全てが混然と

と広い視点でものを見られるようになると思うので、眺め

入り混じっているほうが、気づきがあると思います。お寺

るという作法をきちんと実践できる場をつくっていかない

をまちなかにある集落のように機能させて、飲食のような

といけません。美術館や学校などでも、いい施設はできて

生に関することと、死に対する祈りや供養を、人々になる

いるとは思いますが、その中で枝や木々の移り変わりや光

べく近く感じてほしいと思います。どんな食べ物を出すの

の現象の変化を感じてほしい、まさに眺めてほしいんです。

かについては、まだはっきり定まってはいませんが、他の

そして、分厚い壁で区切られていたような自分が、そうい

レストランなどとは違うもの、いわゆる従来の精進料理を

えば自然の一部だったんだなと、溶け込むような感じで自

ベースに、それを食べながら自分の親や先祖のことを思い

分の感性を取り戻せるような場所として機能していくべき

出せるようなものがいいなと思います。

だと思います。 これは普遍的な話で、昔は上層階級だけが受け入れの対 象でしたが、やはり誰しもそういったものは普遍的に必要 でしょう。もう対象は日本人だけとも限らないと思います。

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Lost and Inherited Toryo ITO / Shoichi INOUE

― 両足院ではほかにもアーティストの方を呼ばれてイベ

て横というのは、まちのスケールが小さいので、例えば草

ントをされていますが、これはどのような考えで行なって

履屋さんはすぐそこにいるとか、数 km 先にいるとか、い

いるのでしょうか。

ろいろな技能を持った人たちがひしめきあうようにいるの で、何かやろうと思ったときに皆がすぐに会えてしまうと

伊藤 ― 現在のお寺が昔のものを保存するだけの場になり

いうような話です。

つつあるなかで、昔のような文化創造の場としての役割を

やはり、結局は納得して続けられることが大事だと思い

もう一度取り戻すべきだ、という意識がありました。例え

ます。続くことを大前提とした考え方がここまで強いのは

ばプリンターの技術も上がったので、掛け軸のレプリカを

やはり京都だけではないでしょうか。とりあえず3年間は

何幅か作ったりもしていたのですが、これでは新しい芸術

このビジネスで回しておいて、また立て直して、というよ

は生まれないと思いました。つまり、自分たちの哲学性や

うな発想はまずしないと思います。続くことで、人々に受

テーマを芸術家に表現してもらって教えを広めるための芸

け入れてもらえる、まちに溶け込んでいけると思います。

術なのに、数百年前のものの複製を重ねていくのは非常に

きちんとまちに根付かせようという狙いを持って丁寧にや

もったいないと思ったんです。できるだけ芸術家を招いて、

る。失敗することもあるとは思いますが、コンテクストを

きちんと対話を重ねて、様式にも縛られず、現代的に読み

しっかり丁寧に拾いながら、横のことも意識しておかない

替えていくことを心がけています。例えば、単純な掛け軸

とサスティナブルなものにはなりません。目先の話題性や

を作るのではなく、「かける」という概念だけは変えなけ

利益に気を取られることなく、縦横を意識して気持ちがい

ればいろいろなことができます。大事なのは対話の密度で

いようにつくらなければいけないと思います。

す。これがないと、芸術家に場所を貸してただ置いただけ

また、京都には丁寧な暮らし方をしている人が多くいる

の一時的なもので終わってしまうと思います。

ように感じますが、それをわざわざ自分では外に広めよう

これは建築にも通じていて、現代の建築家ときちんと話

とはしません。特にご高齢の方にとっては普段の生活の一

し合ってつくろうとはお寺もなかなか思いません。先ほど

部として当たり前に行なっているようなことが、海外の人

述べた食事を出す新たな試みについても、イベントでいろ

からしたら貴重な価値があります。新しいものに対しても

いろと試し、対話の機会を作ることでリサーチに磨きをか

あまり嫌がらず、聞く耳を持ってくれる人は多くいらっ

けていきます。仮設的に試さずにいきなり建物を建てた

しゃるので、まちに愛されることを前提にしながらも、海

ら、見た目としては綺麗でも、思想の伴っていないものに

外の方々を主なお客さんとしてもてなすような形で融合を

なってしまうのではないかと思います。お寺だから、もし

実現できると思います。まさにこれが横を意識するという

かしたら京都だからか、無理に急いでつくろうとせず、ど

ことだと思います。そして、さらに歴史的な調査も行ない

ちらかというとクオリティに対して意識が向くんです。こ

ながら、縦の意味も込めていければ素敵だと思います。

れは厳しくもあり、ありがたくもあります。きちんとクオ リティの高いものをつくることができれば受け入れてもら える。急いで適当にやってはなりません。 建築や芸術に関して、もう一点重視しているのは縦軸と 横軸です。まず縦というのは、場所の持っている歴史のコ ンテクストです。これが京都には相当蓄積されていて、ど の時代のものがベストか考えた上で、複数のコンテクスト を折り合わせられます。芸術作品をつくるときにも、例え ば 200 年前、400 年前、800 年前と三つのコンテクスト を盛り込むようなことが簡単にできるのは強みです。そし

55


INTERVIEW

1966 年の七条通と下京一帯 2)

建築史家 井上章一氏に聞く るということだったと思います。だから住友とか三井でも

日本の街並みの系譜

そういう制限の下で自分の店をこしらえたんですよ。今の まちなかでいちばん大きい建物を建てるのは間違えなくブ ルジョワジーです。金融オフィスなどがいちばん立派なビ

― 現在と比べると近代以前には、例えば京都では京町家

ルをこしらえます。こんなこと、江戸時代ではあり得ない

がずらっと並ぶような、統一感の強い街並みが維持されて

です。まちの金貸し風情がなにを傲慢な振る舞いに出てい

いましたが、これにはどのような要因があるのでしょうか。

るのだ、と江戸幕府なら考えたでしょう。決定的なのは、 明治維新の四民平等政策によって、身分秩序に関するこだ

井上 ― 江戸時代には、家作制限という決まりがありまし

わりがなくなったことです。そのおかげで商人たちは建築

た。幕府が設けていた、建築についての統制令です。まち

的な自意識に目覚めるんですよ。もう幕府の統制はない。

によって若干差はあったと思いますが、多くのまちで街並

自分はこんなふうに店を構えたい。そう考える商人たちに

みは事実上統制されていました。特にお商売をする町家や

よって、どんどん街並みの統一感は崩れていきます。この

町方は、2階建てより高いものを建てることが認められま

とき、ある種のブルジョワ革命が起こったんだと私は思っ

せんでした。その2階も、表側では虫籠窓にすることを強

ています。フランス革命の前後でこういう建築史の変化は

いられました。侍を商人風情が見下ろすなどということは

ありません。だからフランス革命以上に明治維新のほうが、

あってはならないという、一種の身分意識がそうさせまし

少なくとも建築の見た目を見れば、変革は急進的だったと

た。

私は考えています。

例えば直轄地の江戸では、ここは商人の居住区、ここは

武家の居住区と、街区が分けられたんですね。そのため、

― ヨーロッパの建物は石造が多いのに対し、日本の建物

ひとつの居住区には、いくらかズレはあるけれども、だい

は木造が多く、メンテナンスの文化とともに残ってきた部

たい同じデザインの建物が並ぶこととなります。幕府に美

分もあると思います。日本において建物の寿命が短い中で

しい景観をつくろうという意欲があったと私は思いませ

どう残していくかはやはり難しい問題だと思います。

ん。幕府にあったのは身分のわきまえを、身の程を知らせ

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Lost and Inherited Toryo ITO / Shoichi INOUE

井上 ― 石造と木造の問題にお答えします。確かに木造は

井上 ― 一般的ないわゆる町家は、お店を出すように想定

寿命が短いです。だけど 20 世紀に入った頃から、都道府

されています。でも、僕には西陣の職人住宅と、中京区辺

県庁舎はどこでも、石かレンガでこしらえるようになって

りにある商人の家とは、パッと外から見ただけでは区別し

いるんです。その初代の石かレンガの庁舎をいまだに使い

きれないです。もし職業によって、家屋が大きな影響を受

続けている自治体はほぼないです。東京都庁は4代目か5

けるところがあるとすれば、それは間取りじゃないかな。

代目じゃないかな。それはフィレンツェでパラッツォ=

家の中に入れば、これは機織り機のためにこういうふうに

ヴェッキオを 700 年保っている人たちと全然違うと思い

しているな、というのが見えてくると思うんだけれども、

ます。イタリアではけっこう地震が起こります。他人事なが

外から見る限り、そう顕著には見えないように思います。

ら心配でもあるんだけど、このあいだの地震でアマトリー

というか、いまでも外観で中の仕事ぶりが分かる建物はそ

チャのまちがほぼ全壊したんです。だけど、 アマトリーチャ

んなにないんじゃないのかな。パチンコ屋とラブホテルは

の人たちは前と同じものをつくりだしているんですよ。風

はっきり外側だけでわかるけれども、他に何かありますか。

景が変わることを嫌がっているんだね。 ― 統一された街並みには、木造で低層のものしかつくれ

京都人の精神性とまち

ないというような、当時の技術的な未発達さも影響してい たのではないかと考えているのですが、その点については どのようにお考えでしょうか。

― 井上さんが著書で述べられているような、京都人の精

神性とまちづくりの関係についてお聞きします。近代には、 井上 ― 豊臣秀吉が制圧していた大阪には3階建ての町家

番組小学校を住民でお金を出しあってつくっていたと聞き

がありましたし、比較的背の高い蔵がそう多くはないけど

ますし、三条通辺りにある近代建築なども、かなり上質な

ありました。豊臣秀吉は成長するブルジョワの勢いを無下

ものをつくろうという精神が感じられるのですが、これに

にはねつけようとはしなかったんだと思います。しかし、

ついてはどのようにお考えですか。

身分秩序を押し付けたのは、江戸幕府です。技術的に3階 建てや4階建ては可能だったと思います。安土城は7階建

井上 ― いまはだいぶ見る影がないと思うけど、1920、30

てです。明治 10 年代の終わり頃には、大阪に9階建の木

年代くらいまで、京都のブルジョワは本当にお金を持って

造建築ができています。技術的に木造だから2階建て以下

いたんですよ。よく大正時代にあんなものをこしらえたな

にしなければいけないわけではなかったと思います。もち

あと思うんだけれども、室町通の明倫小学校には、音楽の

ろん鉄筋コンクリートほどの強さはないんだけれども、2

授業用に、ペトロフのグランドピアノが置いてあったんで

階建てで抑えられてきた歴史を木造だからという事情だけ

すよ。私は京都の嵯峨の小学校を卒業しましたが、嵯峨小

で語るわけにはいかないと思います。

学校にはたぶん、オルガンはありましたけどアップライト のピアノもなかったような気がします。だからやはりお金

― 西陣には織物のコミュニティがあるように、地域ごと

を持っていたんだなと思います。町の会所に集まって、町

に特色ある産業があって、ある程度生業が統一されていた

のことを決めるという、市民自治の伝統はあったと思いま

ことが、街並みの統一感にも関わっているのではないかと

すし、それが働いたんでしょうね。

思いました。そのように当時は職人や商人の生業のために

京都人の精神について、祇園祭を例にとってお話ししま

あった町家が、現在は観光用にカフェやホテルなどに代

す。江戸時代の祇園祭をイメージしてください。ダークな

わっていくことがよくあると思います。

トーンの町家が並んでいます。その道の真ん中を、赤やら 黄色やら緑やら、原色と金色に彩られた、鉾や山が通って

57


INTERVIEW

いくわけです。いちばん背の高いものは鉾なんですよ。い ちばんカラフルなものも鉾であり山なんですよ。だけどい

伝統の保存と更新

ま、いちばん背が高いのは周りのビルですよね。いちばん カラフルとまではいわないけれども、つるつるしたピカピ カしたビルが周りに建っているわけです。かつてと風景が

― 江戸時代のものをそのままそっくり再現しても、現代

違う。町衆の人たちは、後の祭りを復活して、伝統により

では全く違うものになっているという話だと思いますが、

忠実にやろうという気構えを示しているけれども、もうあ

文化財などの修復についても、そのまま残していくという

のビル街ができた時点で、かつての祇園祭と同じ祭礼では

冷凍保存的手法では、テーマパーク化、オブジェ化してし

ないと私は考えます。鉾と山のいちばん輝いていた時代は

まう問題もあると思います。

偲べないわけじゃないですか。だけど、そのことを一切気 にしていないらしい町衆にあるのは、やはり利潤を求める

井上 ― おっしゃるような部分はあると思いますね。いま、

ブルジョワ精神なんだろうなと思います。保守精神、つま

パリで問題になっているノートルダム寺院の焼ける前の姿

り伝統を守ろうという気構えは、鉾と山とパレードにだけ

だって、19 世紀の終わりごろに改変されたものです。古

は向かうんだけれども、舞台背景である街並みに関しては

くからのノートルダム寺院がそのまま残っているわけでは

興味を持っていないと思いますね。

ないし、ヴィオレ=ル=デュクの思い描いた中世を投影し ている部分はあると思います。いまの祇園祭の鉾と山だっ て、最近よみがえらせたものもけっこうあるんだけれど、お そらくどれをとっても、江戸時代の鉾や山よりゴージャス になっていると思います。可能な範囲でいちばん立派そう なもの選んでいるんでしょう。だから、本当に数百年間冷 凍保存するという保存のあり方はあり得ないですよね。そ りゃ変わっていくもんだと思います。伊勢神宮だって、遷 宮ごとに変更はあると思いますよ。 京都の洛中の人たちは 300 年、400 年続いた商いを保っ ていらっしゃいます。しきたりや習わしにうんざりするこ ともあるだろうし、近所づきあいも煩わしいでしょうね。 古くからのお得意さんも扱いが大変なんです。そんな伝統 にがんじがらめになっているのに、建築に関してはけっこ う近代的なんです。うんざりした部分の捌け口が建築方面 に出ているのかもしれません。まちなかの織屋の跡取りが 高松伸に設計を依頼したり。あれは鬱憤晴らしなんじゃな いかなと思います。結局、建築文化を侮っているんだろう ね。 ただ、京都にはお寺がたくさんあるし、裏千家や表千家 をはじめとするお茶の家元もいらっしゃいます。例えば、 壁をつくるときに、竹で小舞をつくって、練り土をこねて いくという左官仕事は、京都があるから絶滅せずに済んで

祇園祭と四条通の街並み(写真:新 靖雄)

58

いるんですよ。いや、他のまちで絶滅したとは言わないけ


Lost and Inherited Toryo ITO / Shoichi INOUE

れども、こんな仕事を頼む施主はほぼいなくなっていると

ないですか。近代建築の保存運動なんかをやっている人に

思います。忠実な技術の伝承は本当に難しいし、ありえな

対して、京都の近代建築の一つや二つ保存して何の意味が

いことだと思います。正確な伝承ではないにしろ、とりあ

あるんだと思ってしまいました。一つひとつはそう大した

えず補修をする職人や業者が仕事を続けていけるのは、寺

建築でもないわけじゃないですか。あれは、連なって街並

や千家、御所、離宮なんかが京都にあるおかげだと思いま

みをなしているところに意味がある、と私は考えます。近

す。これは景観保存以上に、職人技術がかろうじて温存で

代建築の保存運動は、いまは知りませんが、私の学生の頃

きるというような意味を持っている、と私は考えます。そ

はほぼ連戦連敗でした。オーナーや企業に、維持し続けて

れが本質的に大事なことなのか、もっと介護老人施設を充

くれという要望書を出しても、大概ははねつけられるわけ

実させるべきだといわれたら、私は勝つ自信がありません。

ですよ。はねつけられて、敗北を余儀なくされた近代建築

それはもう建築方面の道楽でしかないといわれれば、その

の研究者たちが、あかんかったなあというふうに肩を寄せ

とおりであると思います。でもかろうじていえることは、

合いながら残念会をしている姿を見ると、そこそこ楽しそ

イタリアなんかは国を挙げてその道楽を続けているらしい

うなんです。彼らはひょっとしたら、敗北がもたらす惨め

よと、つぶやくぐらいですね。

な連帯感をエンジョイするのが趣味になっているんじゃな いかなと思いました。京都で保存して何の意味があるんだ という問題に本気で向き合おうとしている人はいなかった

美しい景観とは

と思います。 現在の景観条例に関していうと、確かに、いまどんどん建 ちだしているホテルもだいたいグレー系統で色を整えて、

― いまの京都には、古都のイメージがつけられて、景観

高さもややおとなしめにしてはいますよね。ゆくゆくはあ

デザインもそのイメージを目指しているのかわかりません

れで街並みができると考えているのかなとは思います。で

が、統一感のある街並みをつくろうという流れがある気が

もそうは、たぶんならないね。少なくとも、フィレンツェ

しています。

やシエナのような街には、ぜったいなりませんよ。 京都とは離れるけど、美しい街並みの一つだと思うもの

井上 ― 私、大学の 3 年生のときに地中海沿岸をまわった

に、関西学院大学のキャンパスがあります。建物はみんな

んですよ。そのとき、特にフィレンツェは衝撃で、700 年

ウィリアム=メレル=ヴォーリズの設計です。それ自体は

間使い続けている市役所があって、まち全体が博物館のよ

大したことないんです。別に私はヴォーリズという人、 そん

うになっていました。それで日本へ、京大へ帰ってくるじゃ

なに腕の立つ建築家だとは思っていないです。でも、キャ

関西学院大学のキャンパス

59


INTERVIEW

ンパスに同じデザイナーのほぼ同じ時期の建物が並んでい る様子は、日本の他の大学にない美しさがあるんですよ。

観光と街並み

あれは残す値打ちがあるなと思います。神戸女学院なんか もそうです。同志社も良かったけど、若干崩れだしている かな。でも京大に比べたら遥かに整っていますよ。京大は

― ひとくちに京都といってもいろいろな場所があるはず

どうしてああなってしまったんだろうね。

なのに、現在の景観条例では、どの地域にもほぼ一律して

神戸女学院ですが、経営状態はあまり思わしくないんだ

規制が定められています。これには観光客のような外部か

そうです。そこで、あるシンクタンクに経営改善のアイデ

ら来る人が、京都に対して古都のイメージを漠然と持って

アを求めたんですよ。そのシンクタンクは、並んでいるあ

いるのと何か関連がある気がします。

の既存の校舎を全部潰して超高層に建て替えろというんで す。これには減価償却の問題が関わっています。税務署の

井上 ― そうですね。必ずしも、住んでいる人の暮らしが

判断で建物の値打ちは最大 30 年、ものによっては 40 年

そのまま建物の外に現れているわけではなく、観光上の思

間くらいまで認めてくれるんだけど、そこまで来ると値打

惑でつくられようとしているんじゃないか、という指摘で

ちがなくなるんです。財産ではなくなるんですよ。鉄筋コ

すね。私としては、観光上の思惑でつくられている部分は

ンクリートでもたぶん 50 年くらいじゃないかな。これが

あっても、フィレンツェやベネチアなどに比べれば、そん

減価償却です。つまり、何年か経ったら物件は事実上ゴミ

なものは取るに足らないという反論をしたいような気がし

になるんですよ。少なくとも、経済に生きる人はゴミと判

ます。まちによってそれぞれ地域から醸し出される気配が

断するんです。私は神戸女学院の整ったキャンパスの景観

あって、これを具体化したいというような、そんなきめ細

を美しいと思うけれども、減価償却計算に立脚するエコノ

かな建築政策を京都市が持っているわけではありません。

ミストにしたら、ただのゴミ屋敷です。だから維持費だけ

持ちようがないです。本気でそんな対応を確認申請の窓口

かかる資産価値のない物件は撤去して、超高層ビルにした

がし始めたら、それはそれで大変ですよ。これは仏光寺で

ほうがいいというのは理にかなっているんです。現代日本

は成り立つけれども、松原では困る、とかいうような。そ

社会はそういう社会なんです。これは逆説的なんだけど、

れはすばらしいキメの細かさだと私も思いますけど、現実

社会自体が建築の文化的な価値をほとんど評価しないおか

的には無理だと思います。

げで、建て替えのチャンスに恵まれるんです。そのせいも あって、日本の建築家にはけっこう仕事があるんですよ。

― そういった景観政策によって、京大周辺独特のタテカ

ンの景観もなくなってしまいました。 井上 ― タテカンに関していうと、僕はあまり京大生に同

情的ではないんです。昔は良かったという話になりますが、 1970 年代の立て看板は美しかったんです。各セクトには それぞれのデザインがあって、ゲバ文字のレタリングが輝 いていたんですね。定規で線なんか引かずに職人芸で書い ていくんですよ。いま、あの職人芸を伝承する組織はもう 京大の中にはないと思います。いまは大勢の人に告知をす るときにパソコンが使える時代です。電脳媒体で人の勧誘 導員ができるにもかかわらず、あえて立て看板で訴えたい というのなら、それなりの美術心を見せてほしいと思うわ

60


Lost and Inherited Toryo ITO / Shoichi INOUE

けですよ。あんな下手くそな字なら、わざわざ立て看板に

あとは、1970 年に大阪万国博覧会があって、6500 万人

しなくていいだろうと思います。

を会場に動員したんです。半年で 6500 万人だから一ヶ月

どうしても出したいならキャンパスの中に限定しろ、と

で 1000 万人、一日で 33 万人。甲子園球場は一日4万人で

いう京都市に対しても違和感を抱きます。違和感があるの

す。この時期、当時の国鉄は本当に喜んでいました。新幹

は、別に京都市自体があの立て看板で壊されてしまうよう

線は常に満員でした。ところが万国博覧会が終わると、新

な美しい街並みを持っていないんじゃないかということで

幹線の乗降客は一気に減るんですよ。このときに国鉄が打

す。あのタテカンがあっても、そんなに街並みが壊れるわ

ち出したのが、ディスカバージャパンキャンペーンで、日

けじゃないと思います。百万遍や東一条あたりの景観は、

本を見つめ直そうとかあおりたてて、万博の穴埋めをしよ

そんなにデリケートじゃないですよ。京都を案内する英語

うとしたんです。その最大のヒット商品が京都駅だったん

のガイドブックには、街並み自体は大したことないアジア

ですよ。あの万国博覧会がなかったらそれほど劇的に変わ

の普通のまちだと書いてあると聞きます。だからたぶん京

らなかったと思うけれども。

都に行く人も、いわゆる街並みを求めているということは

それ以前の手工業がらみのおじさんたちは、室町通の呉

ないと思います。

服問屋と取引の話が終わると、晩は祇園に行ったり上七軒 に行ったり、ひょっとしたら島原に行ったり、要するに夜 はエッチな遊びを求めていたんです。お伊勢参りというの

観光地としての京都

が伝統的にあります。本当に伊勢信仰があって行った人も いたと思うけど、実際には伊勢神宮のすぐそばにある古市 の遊郭回りをしていたんじゃないかな。

― それにもかかわらず、京都がいま、ヴェネチアなどと

京都観光はおじさん用に組み立てられてたんですよ。だ

同じように観光で盛り上がり、ここまでもてはやされてい

けどそれ以降、ひとり旅の女の人を受け入れる施設がどん

るのは、メディアのイメージ戦略のせいなのでしょうか。

どん整っていきました。京都観光のおじさんくさいとこ

それがオーバーツーリズムの問題を引き起こしている部分

ろは、みるみるデオドラント化されていったと思います。

もあると思います。

『an・an』という女性雑誌が、70 年代は頻繁に京都特集を 組んでいました。『an・an』を持ちながら、京都観光をす

井上 ― もともと観光都市の側面はあったんだけど、20 世

るお姉さんがけっこういたんです。いまもそれが結局、国

紀の前半くらいまでは、京都へ来る人の多くは仕事のため

際化して続いているんじゃないかな。

だったと思います。京都もある程度、産業都市だったんで す。特に呉服が多かったんじゃないかな。染め、織り、塗 りとかいうような、いまから見れば手工業だけれども、そ ういう産業がきわだつ都市だったと思います。だから来る 人もおじさんが多かったんです。僕の実感でいうと、様子 が変わってきたのは 1970 年代です。僕が住んでいたのは 嵯峨なんだけど、目に見えて観光の若い女の人、ひとり旅 の女の人が増えたんですよ。そのころ、京都をうたった流 行歌がけっこうあったんです。失恋をした女の人が癒しを 求めて京都へ来て嵐山で夕日を見るとか、しょうもない歌 が多かったんだけどね。実際に社会の趨勢を反映していて、 少なくとも嵯峨では女の人が目に見えて増えましたね。

井上章一氏(左から2人目)を囲んで

61


INTERVIEW

あとがき

絶えず変化を続け何かが抜け落ちていく都市の中で、何が真

ニティによって形成されていた生活の型があった。例えば町家

に遺されるべきなのだろうか、という問題意識からこのインタ

の開口部は、格子などを用いて採光を必要十分に取り入れ、見

ビューは始まった。京都は歴史的な都市とされながら、その実

る/見られるの関係を高度に作り出す。これは密集都市におい

古くからの街並みが遺っている場所は少ない。中心部では中高

て、難解なコミュニケーションを必要とする生活文化と合わせ

層のビルが数多く建てられ、日本の他の都市とそう違わない景

て形成された生活の形といえるだろう。

観が広がる。また観光客の急増による変化も激しく、京都市内

ではなぜ「モデル」が必要なのか。それは現在の京都を強く

の宿泊者数は 2000 年の 942 万人から 2017 年には 1557 万人

支配しているのが「イメージ」だからである。観光向けにつく

3)

まで増加している 。至る所でホテルが建設され都市景観も大

られた「イメージ」を各人が都合よく解釈して、建物に限らず

きく変化してきた。しかし交通渋滞やゴミ問題など「オーバー

あらゆるものに当てはめてきた。その原因の一つは、京都の文

ツーリズム」の問題があらわれると、ホテルの誘致に積極的

化が時代ごと、場所ごとに複雑に根づいたものであり、それを

だった京都市も「市民の安心安全と地域文化の継承を重要視し

保てといわれても、正しく解釈し具現化することが非常に難し

ない宿泊施設の参入をお断りしたい」と宣言する

4)

に至って

いからだろう。ヨーロッパでは建築物に「変更を加えない」こ

いる。

とで都市固有のモデルを守ってきたが、京都ではむしろ都市で

そもそも京都の都市景観はどのようにつくられてきたのだ

営まれる文化を遺していく戦略として「モデル」を提示する必

ろうか。井上氏へのインタビューでは、イタリアなどヨーロッ

要があるのだ。

パの人々と日本の人々の、都市や建築文化に対する意識の違い

「モデル」を提示している例として、建仁寺塔頭両足院が実

が論じられた。日本における統一的な街並みは権力者による統

践している、ホテルや茶室を現代的に活用するプロジェクトが

制の結果であるために、その街並みを盲目的に遺そうとする意

まさにそうである。伊藤副住職は京都で遺されるべき生活の型

識は人々にはなく、あくまで経済性を優先する。そんな日本に

を、「丁寧さ」や「縦軸と横軸」といったキーワードを用いて

おいてヨーロッパの都市のように都市景観をコントロールす

述べている。彼は「京都」という都市の文化と歴史を身をもっ

ることは不可能に近い。現在、高さや色などについて景観条例

て理解し、その変化を許容しながらどのように現在に応用する

である程度の規制を敷いてはいるが、それでも都市景観は雑多

かを、ハード/ソフトの両面で我々に見せてくれる。

なものへと発散する方向に向かう。では、こうした状況の中で

どれだけ時代が過ぎ去っていこうとも、その都度応用しうる

建築や都市はどうあるべきか。両氏へのインタビューを通して

揺るぎない文化と歴史があるはずだ。何が遺されるべきか、こ

浮かび上がってきたのは、人々に共有された生活の型=「モデ

れは生活と「もの」をめぐる思想である。我々に求められてい

ル」というキーワードである。

るのは、失われつつある京都の生活を型として遺し、それが触

ここでいう「モデル」とは、従来の都市開発において画一的

発されるような建築を考えていくことではないだろうか。

に用いられてきたモデルではない。経済原理に基づくこのモデ ルは場所を問わずきわめて普遍的に適用され、「もの」として の建築や都市の形を定義してきたが、そこに景観条例で庇や格 子といったパーツ単体を取って付けても何の意味も持たなけ れば、高さや色を規制することがまちのアイデンティティを決 めるはずもない。我々が提示すべき「モデル」とは、都市にお いて共有され得る生活の型であり、それとともにあらわれる建 築や都市の形である。かつて京都には町家とその周囲のコミュ

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1) 秦恒平 , 伊藤東慎 , 監修 井上靖 , 塚本善隆 (1976)『古寺巡礼 京都 建仁寺』淡交社 より引用 2) 監修 白幡洋三郎 (2008)『京都市今昔写真集』樹林舎 より引用(写 真提供:南聿子氏) 3)『京都観光総合調査 平成 29 年(2017 年)』https://www.city.kyoto. lg.jp/sankan/cmsfiles/contents/0000240/240130/kyosa29saishu. pdf 4) 産経 WEST (2019.11.20)『京都市、宿泊施設の新規参入「お 断り宣言」 急増で誘致方針転換』https://www.sankei.com/west/ news/191120/wst1911200034-n1.html


研究室プロジェクト

竹山研究室

TAKEYAMA Laboratory

project

オブジェ・アイコン・モニュメント

64

O bjet d'Art / Icon / Monument

金多研究室

KANETA Laboratory

自分の仕事を好きにならな

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Do you like your job?

神吉研究室

KANKI Laboratory

神吉研究室プロジェクト P rojects of Kanki Lab

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PROJECT

竹山研究室 ― オブジェ・アイコン・モニュメント ― Takeyama Laboratory - Objet d'Art / Icon / Monument -

か つ て ア ド ル フ・ ロ ー ス は「 真 の 建 築 は 墓 と モ ニ ュ メ ン ト の う ち に し か な い 」 と 書 い た。 ネ ア ン デ ル タ ー ル 人 が 死 者 に 花 を 手 向 け、 現 生 人 類 が 音 の 出 る 楽 器 を 作 り、 洞 窟 に 絵 を 描 い た 時 か ら、 人 間 は 空 間 に 目 覚 め、 過 去 と 現 在 と 未 来 の 概 念 を 知 り、 共 同 体 の 結 束 を 意 識 し た。 や が て 身 体 を 超 え る ス ケ ー ル を 持 つ 建 築 と い う 空 間 芸 術 の 力 を 磨 き 上 げ る よ う に な っ た。 都 市 が 築 か れ、 都 市 の 要 に は 常 に 建 築 が あ っ た。 建 築 と い う 行 為 の 根 元 に は 記 憶 を 刻 み 込 む と い う 営 為 が あ る。 時 間 と 空 間 を 畳 み 込 む と い う 思 考 が あ る。 建 築 の 有 す る 力 を

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再 確 認 し、 そ の 上 で こ の 力 を 強 め、 歪 め、 弱 め、 消 し、

空間加工における新しいイメージを見つけ出していく。

きらめかせ、輝かせ、・・・そうした空間加工のイメー ジをのびのびと広げていきたい。

2019 年度竹山スタジオコースでは、 「オブジェ・アイコン・モニュメント」という言葉をきっかけとして、世界観に一石を投じるよ

うな建築をつくることを目指し、竹山教授、小見山助教授、竹山スタジオに参加する 9 人の学生でディスカッションを重ねた。

「オブジェ・モニュメント・アイコン」やそこから派生する概念を分析し解釈することで生まれた、都市や建築に対する各々の問題意

識を共有し議論したのち、京都の 15 km 四方のエリアを 9 分割し、それぞれ 5km 四方の区画を無作為に割り当て課題を進めていくこ

ととした。その区画の中から「オブジェ・アイコン・モニュメント」に関わる事象を取り出し、各自の問題意識と照らし合わせる中で、


Objet d' Art / Icon / Monument TAKEYAMA Laboratory

オブジェ・アイコン・モニュメントにまつわる言葉たち 「オブジェ・アイコン・モニュメント」およびその派生概念を

■『S・M・L・XL』( レム・コールハース )

分析し解釈することでうまれた都市や建築に対する各々の問題

本著の「ビッグネス」の章でレム・コールハースは、建築の

意識を学生間のゼミを通して共有し、議論した。以下を読書会

スケールがある閾値をこえた瞬間に獲得するモニュメント性に

で扱った:

ついて言及している。また、内部と外部、またその境界につい て大きな示唆を与えてくれるものであった。

■『にもかかわらず』( アドルフ・ロース ) 課題文内の「真の建築は墓とモニュメントのうちにしかな

■『もの派』

い」は本著から引用されている。ロースは手段そのものであっ

建築を軸にした議論だけでなく、戦後の芸術運動の「もの派」

た装飾が目的化している問題と並行して、建築家の役割が手段

も注目した。特に李禹煥と菅木志雄を扱った文章を読み、オブ

としての図面を引くことから、美しい図面をみせることに変わ

ジェ同士の関係性と観測者の立ち位置について考えることで、

ることで、その先がない中身のないものをつくる存在になって

単に輪郭をもつ物体がオブジェ性・アイコン性・モニュメント

しまっていることにロースは危機感を示している。ここで社会

性を形作っているのではなく、それを捉える観測者の関係性も

背景による合意形成のもとで作られたもの、即ちポリティカル

重要な要素であることを確認した。

コレクトネスに沿った建築では、プロセスが目的化されてしまっ ているのではないかという観点が議論によって引き出された。

以上の議論を元に、スタジオのテーマについての思考の枠組 みを組み立て、作品に落とし込むことに移って行った。

65


PROJECT

課題設定について 京都の 15 km 四方のエリアを 9 分割し、それぞれ 5 km 四

北山杉が大いに存在感を発揮する北西部または比叡山が聳

方の敷地を無作為に割り当てた。 学生は割り当てられたそれ

え立つ北東部をはじめとした山々が特徴的なのは北側、かつて

ぞれの敷地の中で「オブジェ・アイコン・モニュメント」につ

の御土居があり祇園、平安神宮、京都御所などの観光地に加え

いての議論から結論づけられた問題意識と照らし合わせ、空間

京都の伝統的な街並みが並ぶのが中心部である。そして南部に

加工における新しいイメージを構想していった。

は洛西ニュータウン、京都駅および京都タワー、伏見稲荷など

京都には、多くのオブジェ・アイコン・モニュメントが点在

があり、全体を見渡せばそれぞれの区画でオブジェ・アイコン・

している。以下は今回のスタジオで扱った敷地とそれぞれのブ

モニュメントが異なる密度で分布している。

ロックに分布している京都のオブジェ・アイコン・モニュメン

これらの場所の特異点となるであろうものが果たしてオブ

ト性を持つ文化財、伝統建築物、ランドマーク、自然景観をプ

ジェ、アイコン、モニュメントのどれに該当するのか、または

ロッティングしたマップである。

しないのかについては学生がそれぞれ異なる見解を持ち、作品

に色濃く反映されたといえよう。

本スタジオの敷地および各エリアに点在する主要建築物・自然景観等のプロッティング

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Objet d' Art / Icon / Monument TAKEYAMA Laboratory

オブジェ・アイコン・モニュメント分析 竹山教授・小見山助教を交えた研究室ゼミならびに研究室学

オブジェ・アイコン・モニュメントについて言葉で記述する

生有志で開催した読書会でオブジェ・アイコン・モニュメント

ことに止まらず、学生たちはそれぞれに割り当てられた敷地に

の定義の仕方、そしていかに空間加工のイメージにつなげるの

て観察した建築物、土木構築物、自然景観などの事象やオブ

かなどについて繰り返し議論を行なった。以上の議論を踏ま

ジェ・アイコン・モニュメントの定義および三者から派生する

え、9名の学生はそれぞれオブジェ・アイコン・モニュメント

空間加工のイメージをもとにビジュアライゼーションを行い、

についての見解を深め、この3つの言葉についての仮説的な定

以下のようなコンセプト・アイコンを制作した。アイコン・マッ

義を行なった。

プからもわかるように、各々が持った空間加工のイメージなら びに9つの対象敷地のそれぞれは異なる性格を持っている。

各自の敷地のイメージおよびオブジェ・アイコン・モニュメントの定義に基づいて制作したアイコン

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PROJECT

時間のモニュメント

“ICON” is just like a MAGNET.

オブジェ・アイコン・モニュメントは

建築は長いこと人間を魅了してきました。

その表皮によってのみ判断されており、

人々やさまざまな行為を強力に惹きつけ、

視覚に大きく依存している

常に新たな文脈を創り出してきました。

コミュニケーション・モデル

建築の内部から OIM 性を考えることはできないか 時間のズレによって生じる変化を

それはつまり、

光、音、風、匂いなどの変化に変換し

“ アイコンである ”

それらを内部空間に充満させる

ということです。

そこを歩くことで、空間の変化を体験し 時間の流れを知覚することができる装置を考えた。

建築における自己モニュメント

鏡の結界

モニュメントが表象する「時」や「出来事」は具体的であり、

聖域にとって、

その価値観を 定める文化や政治が変化すれば、必然的にモニュメ

自らの世界が全てである。

ントは失われてしまいます。 それならば、 「失われないモニュメント」 は存在しないのか ? これが、今回 私が定めた疑問です。 ...

俗域にとって、 聖域は認識できず、無いものとなる。

機的行為 という、一見矛盾する行為が同じものに対して行われ、 その有様が顕在化し ているという点にあると考えるのです。

オブジェ・アイコン・モニュメントは 物体に相対する人間の命名行為の産物である。 彼らは自らのイメージを物体に投影させようと試みる。 O・I・M はオブジェクトであることで同根である。 オブジェクトは寡言かつ雄弁である。オブジェクトは無辜だ。

自己モニュメントの本質は自ら ( 能動的に ) 生命を持ち始める点に あるのではなく、 「構築」なる無機的行為と「生命の付与」なる有

「ものそのもの」

しかし鏡の結界が歪んだり欠損したとき、 鏡はそれ自体の存在感を放ち、

...

向こう側の世界を垣間見させ、

建築における自己モニュメントとは、

結界を越えさせる。

文化的・社会的・時代的な文脈の複雑さにより、 投影されるイメージは常に揺れ動き不確定性に満ちている。 したがって「それは何であるか」という命名という試みは もはや全く意味のなさないものではないだろうかと疑う。 あなたは果たして「それ」を「それ」として見れているのだろうか。

一体どんな様相を成しているのでしょうか?

その「仮面」の裏側を暴いてみせよう。

未来モニュメント

アイコンの成熟

モニュメントは流れている時間を区切り、ある特定の歴史や出来事

“ アイコン ” とは “ 成る ” ものだ。アイコンは時間をかけて形成さ

などを可視化する装置である。未来の時間を区切り未来の出来事を

れるものなのだ。これをアイコン的熟成と呼ぶことにする。

可視化するモニュメントを「未来モニュメント」とする。

このアイコン的熟成の過程で建築には資産的価値が宿ってゆく。 しかし単に時間の経過がアイコン的熟成を進めるわけではない。

このモニュメントはその先に辿る未来によって性質を変える。

モニュメントとオブジェはいずれも自立的であり、 意味性の有無という観点から 同一線上に整理できるが、 アイコンはそれらとはパラレルな立ち位置であり、

未来モニュメントが示す未来が実現した場合、モニュメントから現

誰の目にも留まらないような潜在的あるいは普遍的なものは

アイコンであるモニュメント・

実物に「昇華」する;大きな発展がもたらされたとき、その軌跡を

アイコンにならない。そのものがアイコンに成るかどうかには、

示すモニュメントへと「飛躍」する;未来が実現しない場合、

人にどのくらい注意深く見られ、記憶されたかが大切なのだ。

アイコンでもあるオブジェがありえる。

半永久的に未来モニュメントとして「凍結」するだろう。 いずれかが示した未来そのものが想像できなくなってしまう場合、

アイコンとは、知覚・認知されることによって

モニュメントとアイコンはその形状だけで

未来モニュメントとしての力を失い「瓦解」するだろう

その場所の一面として成熟し、歴史を必ずしも反映しない。

決定されるのではなく、空間や風景、記憶によって

時間とともに変容する未来モニュメントの可能性を探った。

その未来の特性を方向づける指針となるものである。

アイコンは場所の過去を象徴するのではなく、

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決定要因

人々に認知される。


Objet d' Art / Icon / Monument TAKEYAMA Laboratory

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PROJECT

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Objet d' Art / Icon / Monument TAKEYAMA Laboratory

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PROJECT

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Objet d' Art / Icon / Monument TAKEYAMA Laboratory

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PROJECT

金多研究室 ― 自分の仕事を好きにならな ― 博士後期課程 3 回生 田村 篤

KANETA Laboratory - Do you like your job? -

京都大学金多研究室 研究生

吾川正明 インタビュー Masaaki WAGAWA / research student 金多研究室には御年 75 歳になる研究生、吾川正明さんがおられます。京都大学に在籍されてもう 10 年。吾川さんは高度経済成長期である 1963 年から 2007 年に退職されるまでの 44 年間、ゼネコンで活躍された歴戦の施工管理者でした。そんな吾川さんが会社を退職した後、何故研究員の道を選ばれた のか。今の若い学生にどんなことを伝えたいのか。日本の建設業の歴史と共に歩んできた吾川さんの人生を一緒に振り返っていきたいと思います。あな たは自分の仕事が好きですか。 聞き手:田村、中川、春日亀、多田 2019.9.2 京都大学金多研究室にて

いと考えていました。お客に向かって「いらっしゃい!」

幼少期:母の後ろ姿、父の寝姿

といって寿司を握る、ああいう威勢のいい仕事がしたいと いう願望がネアカな自分にはありました。ですが周りから 「せめて高校は出てほしい」と諭されて、だったらものづ

私の生い立ちからいうと 1944 年の京都・山科の生まれ

くりが好きだから、ということで奨学資金を頂いて広島県

でして、父がカネボウを定年になった年に故郷である広島・

立福山工業高校の建築学科に進学しました。入学した次の

尾道に家族全員で移住しました。兄1人、姉 2 人で私は一

日から実習服と大工道具を一式購入させられて、木造の継

番おとんぼ(末っ子)。帰郷した当初は家庭的にも経済的

手・仕口を墨ツボで墨付けして、鋸入れし、ノミでホゾ掘

にも非常に恵まれた状況だったのですが、退職金をもとに

るなどして組み立てていく実習の日々。最終的には木造一

父が始めた事業が、慣れない商売で騙され食い物にされ失

式が出来るように鍛えられたものです。鉄骨・鉄筋・コン

敗しまいました。幸い 3 人の兄姉たちは職に就いていま

クリートも同様でした。毎回のように製図の宿題が出るの

したから自活できる状況だったのですが、私だけまだ小学

で、休日は自作の製図版を使って自宅で製図を行っていま

校 2 年生でした。人間というのは弱いもので、仕事一筋の

した。専門過程をみっちりやるぶん、教養課程は単位数が

石部金吉のような人だった父は体を悪くして寝込んでしま

少ないため、大学に進学する学生はほとんどおらず、多く

い、そのあいだの働き手というのは誰かといえば傍にいる

は卒業後にゼネコン等に就職していました。私も最初は準

母と兄夫婦だけ。母は父の面倒を見つつ、重荷を背負って

大手ゼネコンを受けて、そこがダメだったのでコーナン建

の路店商や行商で一生懸命に早朝から深夜まで私のため、

設を受け、めでたくそこに就職することになりました。

生活のために仕事をしてくれました。とりわけ私は、働く

生涯忘れることのない心に残っている思い出が一つあり

母親の後ろ姿と病で床に伏す父の寝姿を見ながら育ったわ

ます。私がおとんぼでもあり貧乏な生活の中で不憫な思い

けです。

をさせた無念さと、明日から親許を離れていく寂しさも重 なったのか、いよいよ尾道から大阪に発つ前夜に母から「今 晩一晩だけ一緒に寝てくれへん」と頼まれました。一瞬恥

高校時代:板前になりたかった

ずかしさもありながらも否とも言えず、一つの布団で親子 一緒に寝た母の愛を感じた最後の夜でした。翌日は親戚一 同が駅のホームまで来て見送りをしてもらいました。母は

そうこうしているうちに中学校 3 年になったのですが、 私自身はあまり勉強も好きではなかったですし、家の事情 のこともありましたので、大阪に行って寿司職人になりた

74

大阪までは送れないので、途中の岡山まで送ってきてくれ ました。「そこから先は自分一人でいって」と。思えば貧 乏な生活体験の数々はその後の私の人生の宝となっており ます。


Do you like your job? KANETA Laboratory

1960

年代:現場仕事とおさんどん

1970

年代:変わり始める現場

大阪駅に出迎えに来た 2 人の先輩に連れて行かれた「宿

1970 年代に入ると近隣問題が発生するようになりまし

舎」は、コンクリートを打った後の型枠パネルを組み立て

た。それまではみんな働く姿に同情的で優しくて、近隣の

て、上に角材等を小屋組みしてトタン屋根を葺いた掘立小

方がごちそうにバラ寿司をつくったからとおすそ分けに

屋でした。夏は暑いし冬は寒い、隙間風もびゅうびゅう吹

もってきてくれたり、近所の皆さんとのコミュニケーショ

き込んできます。台風が来た時は宿舎が飛ばされないか心

ンもスムーズでした。しかし、建設工事に伴う近隣パワー

配していたものです。宿舎の中ではたいてい一番若い人が

が社会問題になると、自分の子供や孫が通うであろう学校

おさんどんをするんです。朝昼晩の買い物もするし、食事

の工事にクレームをかけて、「杭を打てるもんなら打って

も作るし、洗い物もします。仮設事務所の掃き清掃、拭き

みろ、機械の下に若い衆を寝さすから」なんて声を掛けら

掃除してから、上司を起こしたり、布団の上げ下ろしをし

れるようになりました。近隣説明会でも役所の担当者は怖

たり。多くのゼネコンの現場事務所兼宿舎の隣の棟には職

くて対応できず、ゼネコン側が対応せざるを得ませんでし

人の飯場(宿舎)がありましたので、夫婦で来ている職人

た。反面、休みはなくて当然だった建設業が住民パワーに

が賄い人役もしてくれてお金を払って三食お願いしていた

よって「朝は何時まで、夜は何時まで、日曜日はしたらあ

時期もありましたね。

かん」と言われ、ようやく日曜日が休めるようになった側

休日は良くて月 1 回か、2 ヶ月間無休のときもありまし

面もあります。

た。現場宿泊の現場だと 1 年間 365 日 24 時間一本勝負と

前向きな方向にも現場は変わっていきました。特に、

いう思いです。建前は 8 時から 17 時ですけどね。その時

1970 年代に入って労働安全衛生法が施行されてから、現

間帯は現場管理をしつつ、職人の「手元」をするわけです。

場の安全意識は大きく変わりました。いわゆる飲み会・親

たいていの場合、職人は中学校を出てすぐに仕事に就いて

睦会にすぎず、現場の安全につながるものではなかった安

いますから、 「こんなんも分からんのか、お前ら高校で何

全協力会が、改めて「安全衛生協力会」として組織され、

習ってきてん」と良く言われたものです。それが終わると

本来の意味を持ち始めました。現場での作業のありよう・

現場事務所で夜中まで施工図を描いていました。うまい下

やりよう・姿勢が変わったわけです。それまでの日本では

手もありますが「こんなもん使われへんわ」と目の前でビ

「怪我と弁当は自分持ち」と言われていて、「怪我したら自

リビリと破られることもありました。

分で病院行って治してこい」という雰囲気がありました。

それでも、自分の場合は現場の仕事についての不平不満

しかし、あまりにも建設現場での労働災害事故が増えてき

はありませんでした。ただ、他の同期とは違って最初の仕

たということで、他産業以上に「労災隠し」が目立つよう

事は改修工事が主でしたので、出遅れた部分はありました。

になります。労災隠しとは、ある現場で技能労働者が怪我

月に一回の社内報告会では「今日は何階のコンクリを打っ

をした場合に、本来なら元請責任で対応するのが本筋なの

た」といった自分には経験のない話が出てくるので、これ

に、専門工事業者がかけている労災保険から支払わせるよ

はいかんなあと思って裏で勉強をしていました。その甲斐

うに仕向け、事故を表に出さないようにすることです。実

もあって、1970 年代に入る頃には 2 級建築士を取る前で

際に事故に遭った人たちは十分な対応をしてもらえないと

したけど、会社の上司の届け出で実質的な現場代理人に

いうことで労基署に申し入れを行うようになり、同業他社

なっていました。頑張ったおかげで早く仕事ができるよう

では新聞沙汰になったことさえありました。こうしたなか

になりましたし、やっぱり、この仕事が好きやったから。

で、ひとつの現場で起こった事故は元請側の保険で対応し なければならない、というふうに皆の意識が変わっていき ました。

75


PROJECT

20 代のころ

30 代のころ

もちろん、それだけで事故が減ったわけではなく、全産

数字でものを考えるように変わっていきました。100t の鉄

業から見た労働災害率は高いままでした。それを目に見え

筋は延何人で組み立てられるのか、計算できる時代になっ

るように改善、改革したのが、各現場の日々の朝礼・昼礼・

たわけです。こうして、製造業では既に取り組まれていた

夕礼ミーティングの導入です。今は当たり前になった制度

TQC(Total Quality Control、全社的品質管理)が建設産業

ですが、これらのミーティングによる技能労働者への意識

でも導入されるようになりました。それまで品質管理はゼ

高揚・啓蒙によって事故率は大きく減少したと記憶してい

ネコン側のみが考えていることが多かったのですが、TQC

ます。まず朝礼は 8 時から行われ、現場に入場した全ての

導入後は実際にものをつくる一次・二次下請けの人たちも

人を対象に、ラジオ体操から始まり、各工種・工区別に作

巻き込んで、この工期、材料、手順で設計図書通りの品質

業範囲内での安全に関わる KY(危険予知)活動を行います。

が確保できるかを議論するようになりました。そうしたな

昼礼では 12 時 45 分もしくは 13 時からゼネコンの職員が

か で P/D/C/A(Plan、Do、Check、Act) の サ イ ク ル を 回

リーダーシップを執って、当日現場に来てもらっている全

していきます。工程表に関してもバーチャートからネット

職種の職長を集めて毎日打ち合わせをします。当日や翌日

ワーク工程表、CPM(Critical Pass Method)に変わってい

の工程説明と、それに伴う安全衛生のための説明やお願い

きました。これにより前者責任、つまり前の工程の人が工

をし、同時に午後の作業や翌日の材料・技能労働者の手配、

程通りに仕事を終わらせることが大事である、という考え

揚重計画の順番決めも行いました。夕礼では 17 時以降に

方も根付きました。こうした取り組みは成功し、ゼネコン

元請け側の職員のみで行われ、昼礼で出た様々な問題の解

と専門工事業者は共に成長したといえます。

決状況を元請け内で共有します。このように仕事の進め方

技術者としてこうしたことを活用するためにはただ漠然

が進化し、現場の意識が改善されたターニングポイントだ

と仕事をするのではなく、大工がどれだけの歩掛で仕事を

と理解しています。

してくれているのかを数字で考えて行くことが重要です。 これは、職人の「手元」をするなかで経験として歩掛が分 かるようになるという面もあります。手や服が汚れようと

KKD

から TQC への転換

やっぱり経験しないとわからない。つまりは、施工管理と いうのは段取りひとつなんです。段取り七分八分、乱暴な 言い方ですけれど、それだけ段取りができていたらあとは

安全第一という言葉が本当の意味でのお題目に変わって

放っといても建物はできるんです。

から、「安全はすべてに優先する」という言葉が使われる

一方で、現場は数字だけで見るのではなく、音、におい、

ようになりました。安全第一で作業をすれば、それに伴っ

触感といった五感を駆使して様々なことが感じとることも

て Q/C/D/E(品質、コスト、工期、環境)の良い影響につ

大切です。時には現場のただならぬ空気感を第六感的に感

ながるものとなる、という考え方です。それまで先輩たち

じ取って山留を確認したところ、重大災害につながる恐れ

の言い伝えに基づいて KKD(勘、経験、度胸)で現場を動

のあるほどの箇所を見つけ、有無を言わさず補強改善した

かしていたところから、蓄積した歩掛等のデータをもとに

こともあります。

76


Do you like your job? KANETA Laboratory

1980

年代:技術営業という仕事

1990

年代:米国への研究出張

1980 年代になると建設の冬の時代も終わり、内需拡大

1995 年、東京から大阪に帰ってきたころ、会社で若手

のブームで仕事もたくさん増えて来ました。私も施工管理

向けに海外研修制度というのができていました。若手の社

ばかりをしていたのですが、そのうち「技術営業」という

員がみんな出さなかったので、「しゃあないな、自分が出

職を兼任することになりました。営業というのはとかく口

すわ」と出したところ、なんと通ってしまいました。そこ

がうまく、お客さんを取り込もうという術には長けていま

からは自分でプランを立て、相手方に FAX でコンタクト

すが、いざ技術的なことを突っ込まれると「明日持ち帰っ

を取り、50 歳で初めて飛行機に乗って小 1 ヶ月アメリカ

てご返事いたします」というパターンが増えて発注者は不

にいかせてもらいました。何を勉強しにいったかというと

安がるケースがありました。ならば、実際に技術の分かる

CM(Construction Management)についてです。京都大学

人が一緒に行って説明すればよい、これが技術営業です。

の古阪秀三先生(現:立命館大学客員教授)を中心に導入

そんななか、多摩ニュータウンの工事で 1 年だけという約

が叫ばれていたころで、じゃあ上陸する前に助平根性で見

束で東京に赴任したところ、竣工検査の日に会社から「も

てこようというわけです。ニューヨークではアメリカ竹中

う 1 年残ってくれ」という話が来ました。宮仕えの身です

事務所、KPF 設計事務所を訪ね、シカゴではシャール・ボ

から拒否も出来ませんでしたし、性格的にもチャレンジし

ヴィス(現:レンドリース)が CM をした海軍桟橋のプロジェ

てみよう、という強いマインドもありました。

クトやシアーズタワー、ヒューストンでは GMP(Guarantee

しかし、工事の方は何とかなっても営業の方はど素人で

Maximum Price、最高限度確保証)を採用した病院のプロ

す。午前中は工事部長として業者さんに偉そうなことを

ジェクト、アトランタでは大林組が請け負っていたアトラ

言っていたのが、午後からは営業としてとってつけたよう

ンタオリンピックの選手宿舎の現場を見学させてもらいま

な挨拶をして、大阪流に手もみしながら「仕事貰えません

した。ワシントン DC では世界銀行の知人に銀行目線での

か」とお願いする立場になったわけです。その時に、「営

日本の CM や建築生産(Management)に関する動向につ

業というのは『飽きない(=商い)』、飽きずに相手に出向

いて意見を頂いたり、建設省の出先機関だった建設経済研

いて仕事を頂くのが大事だ」と、当時の PC 製作業者の営

究所の所長に面談をお願いしたり。アメリカで驚いたのは、

業の方に教えていただきました。多摩ニュータウンの現場

著名な人と会うのにお金を払わなければいけないことで

で PC 製作業者と値段交渉をするときに、大阪では数度ネ

す。「私の時間をあなたに売るのだから 10 万円払ってくだ

ゴして決めるところを東京では一度で決めてしまいたいと

さい」と言われ、退くこともできず自腹を切ることにしま

は知らず、その人と喧嘩してしまいました。「虎ノ門から

した。ところが対談時間が半分になったので、「半値にし

多摩まで半日かけていったのに、あの時の交渉はなんだっ

てくれませんか」と頼んだら快く理解していただけました。

たのか」と責められたわけです。2 年目になって技術営業

それからは毎年有給をとって自主的に渡米するようにな

になった時には一番にその人に会いに行って、営業につい

りました。1 年目とは違い、毎回飛び込みで現場見学を申

て教えを乞いました。その時に、相手が自分に情が移るほ

し出るようになりましたが、日本の会社は「所長の許可が

どに会いにいかなければ仕事は貰えないものだと教えても

いる」、「誰のつてですか」なんて構えるのに対して、アメ

らいました。大手だから仕事がもらえるのではない、「あ

リカの人はオープンで、名刺を見せたら快く見せてくれた

の人だから任せてみよう」、「あいつならやってくれるだろ

ことが印象的でした。その頃に勉強した CM の内容は今で

う」という信頼のもとで発注してくれる。そういうことを

も継続して研究しています。

技術営業活動をしていくなかで学びました。

77


PROJECT

50 代、米国渡航時

結果何が明確になったかというと、役割と権限です。そ

ISO9000s

の導入

れまでの日本の文化では 1 枚の文書に 5 人も 10 人もハン コを押して、自分の押す欄がなかったらグチグチいう人が いるくらいでした。それでいて何か問題が起こると責任を

そうこうしているうちに、当時の建設省(現:国土交通

取りたがらない。それが ISO では文書を起案する人(作成

省)が旗振りをして ISO9000s の導入が叫ばれるようにな

者)、審査する人(審査者)、承認した人(承認者) 、これ

りました。日本の国内においても建設ブームが盛んになっ

ら 3 人がいれば済む。だから印鑑を押す欄は 3 つで済みま

ていき、一方 WTO の関係で一定額以上のプロジェクト

す。こうすることで、今までは曖昧だった役割と権限を明

になると海外のゼネコンを参入させるようになりました。

確にしたうえで会社を動かしていくことができるようにな

1994 年の関西国際空港の管制塔はシャール・ボヴィスが、

りました。

1999 年の京都駅ではフルーア・ダニエルが参加していま す。海外の建設会社が日本に来る、日本の建設会社も技術 を持って海外へいく、そういう時代になりました。そうす

2000

年代:退職、研究生に

ると文化の違う人々同士のやりあいになるわけです。そ こで共通のルールとして作られたのが ISO(International Organization for Standardization)です。

2007 年の 6 月末日、株主総会の後に 44 年間勤めあげ

そもそも ISO というのは製造業から端を発したもので、

た会社を退職することになりました。しかし、その前から

文書主義に基づくものです。日本は ( 旧 ) 四会連合工事請

大学というところには興味がありました。入社当時は高卒

負約款にも記してある通り信義則で、相手を信用し、阿吽

が今の大卒みたいなものでしたので、中卒の技能労働者と

の呼吸で「いつまでにこれをつくってくれ」とお願いする

高卒のゼネコンの技術者がコミュニケーションをとって、

のですが、一方で「いったいわん、聞いた聞かん」で争い

KKD でものをつくっていたわけですが、それが学歴社会に

事が起こる。一方で、海外は不信義則であり、書いた文書

なるにつれて会社も大卒しか雇わなくなり、1970 年代に

に従って争いを解決しようとする。日本ではこういったこ

は新卒は最初は技術系 6 〜 7 人だったのが 60 人も 70 人

とが特に弱かったわけです。

もとるようになっていました。大卒の社員は皆自分たちが

そこでコンサルタントに頼むと 850 万から 1,000 万円

知らないような言い回しの言語を使ってものを言うし、確

程度で ISO 認証を取得できると社長に進言したところ、 「そ

かにプレゼンテーションは大げさすぎる程にうまい。初任

んなことに金を使うな」と一喝却下。「ならば自分たちで

給も最初は下かも知れないけれど、そのうち自分たちを抜

やってやろう」ということで若手を 5 人ばかり集めて ISO

いていく。「えらい世の中になるんや」と、正直ある種の

認証取得プロジェクトを立ち上げました。文書化は特に大

劣等感を感じました。でも、実行力やマネジメント能力が

変で、既成のものを会社独自のものに合うようにするため

なかったら現場も会社も動かない。「お前ら、大学で何習っ

には相当の手術をしなければなりませんでした。努力の甲

てきてん」という話でね。「大学ってどういうところなん

斐もあって、明確な文書体系を作成することができました。

やろな」と単純に好奇心もあり、現役を退いたら建築につ

78


Do you like your job? KANETA Laboratory

現在、75 歳 京都大学にて

いて再度復習してみたいという気持ちもありました。それ から誰にも言うことなく大学行きを決めて、会社の送別会

今、伝えたいこと

で初めてそのことを話したら皆に驚かれました。 最初は CM や ISO 導入の頃に東京の中央技術研究所のレ クチャーにお呼びしたご縁で古阪先生のところで学ばせて

勤めていた会社の理念的ワードとして「最初に人」とい

いただく予定でした。しかし実姉が認知症にかかって介護

うものがあります。ありきたりな言葉かもしれませんけど、

をするために、単身広島大学の地盤工学分野でマネジメン

人との出会いというのは大事なものなんです。それは打算

ト分野を研究されていた土田孝先生の研究室に研究生とし

という意味ではなく、ただただ真剣勝負でまともなことし

てお世話になりました。姉に回復の見込みがなくなってく

か言わず、細く長く繋がっていくことが大事で、それが無

ると関西に戻り、2009 年の前期から古阪研究室に研究生

ければ今はありません。古阪先生や金多先生も在職中から

として所属することになりました。しかし私は高卒で、い

存じ上げていて、今はこうしてお世話になっていますが、

きなり大学院に研究生として入ることができないので、大

周りの人はまさか吾川が京都大学に行くなんて想像もして

学の規則に基づき能力確認のために事前審査を受けること

いなかったでしょう。アカデミックと建設業なんてほとん

になりました。小論文を書き、それをパワーポイントに起

ど接点がありませんでしたから。こうして人とのつながり

こして、専攻長、学科長、担当教員の前でプレゼンと口頭

を持つことが出来たのは自分にとって宝でしたね。

試問を受ける。その口頭試問時にはアカデミックと実務で

学生のみなさんも、卒業したら何がしたい、という目

「品質」という言葉の定義が微妙に違い議論になりました

的・目標があるべきかと思います。その時に、自分の生い

が、古阪先生が上手く調整してくださいました。その事前

立ちと性格とを加味しながら、自分は何ができるか、何が

プロセスを通過し、その時初めて願書提出の許可が出まし

したいかを早く分かってほしい。もちろん、たまには寄り

た。こうして京都大学の学生さんたちとの出会いの機会を

道も良いんです。昔のような終身雇用の時代でもないです

得ることができたのです。

から、一生の間に 3 つ 4 つ仕事を変えることもあるかもし

京都大学に入ってから技術報告集など 13 本ほど論文を

れない。今はまだ経歴や履歴を見た時に「長続きできない

作成・投稿と発表もさせてもらいました。また、古阪先生

のか」というような色眼鏡で見られるかもしれないけれど、

からの奨めもあって、ICCEPM(International Conference

いずれ社会の見る目も慣れてくるでしょう。経歴の中で得

on Construction Engineering and Project Management)を

られた能力を相手に売る、値付けをしてもらえるものを自

はじめとする国内外の研究発表会にも参加させてもらいま

分で作っていくことができれば、どんどん転職したってい

した。在職中には論文なんて書く機会はありませんでした。

いじゃないですか。それでも、今自分がやっていることが

「そんなん書く暇があったら仕事せえ」と言われるのがオ

好きだ、とピタッと合っていることを悟れるようなある意

チでしたから。だから文章を書くと主観が入ってしまう。

味天職に就かないと、残された人生を楽しく過ごすことは

実務の経験からどうしても「こうあるべき」という断言を

できないんじゃないかなぁ。振り返ってみると仕事が好き

入れてしまう文体となりがちでした。だけど論文は客観的

だったから、つらいともやめたいとも思わなかった。だか

な表現であらねばならないと古阪先生から強く指導してい

ら自分の仕事を好きにならなあかんわな。

ただきました。

79


PROJECT

神吉研究室プロジェクト Projects of Kanki Lab.

設計課題Ⅴ 神吉スタジオ「場所の力」 敷地とプログラムアーカイブ 34

33 32 31 30 35

36

29

20km

広域図

(GoogleEarth より )

1

13

7

8 14 16

18

20

23 26 10km

80

25 27

24

21

17

65

4 2,3

9 10 11 12

28

22

拡大図

(GoogleEarth より )

1

沖島

artist in residence

2017 倭昂司

2

浜大津

湖岸,湖上環境再生

2012 小山実苗

3

湖岸再生と図書館complex

2019 高山夏奈

4

修学院

都市居住者のための離れ

2018 中村文彦

5

田中

collective house

2014 竹内和巳

6

養生市営団地

改良住宅団地オープンスペース再考 2017 浅田英亮

7

出町

複合公共施設

2018 新靖雄

8

烏丸蛸薬師

第三の場所と滞在機能

2019 佐古田晃朗

9

中京区

集合住宅

2013 南明日香

10 中書島

子供の遊び場を孕む地域の溜まり場 2014 山口直人

11 宇治

仮設空中歩道

2016 潮田紘樹

12 東城陽GC

ゴルフ場の環境再生

2015 吹抜祥平

13 嵯峨鳥居本

子供のための自然学習場

2016 角谷遊野

14 向日町競輪場

「すきまあそび」

2011 竹田美里

15 〃

「たて×よこのむこう」

2011 田中由乃

16 大山崎町天王山

子供のための施設

2013 中原祐亮

17 鵜殿のヨシ原

小学校

2019 雨宮美夏

18 茨木市上泉町

「ぬけみち都市」

2011 山川健太

19 〃

Memorial Memoirs

2011 木村公翼

20 千里ニュータウン 納骨堂と火葬場

2015 山本雄志

21 城東区森ノ宮団地 集合住宅

2013 田中哲

22 天王寺区夕陽ヶ丘 集合住宅

2016 伊藤純一

23 中津

高架上テナントビル

2015 林和希

24 中之島

sports complex & runnning course

2019 奥村拓哉

25 安治川沿岸

歩行者専用の橋

2017 山地崇博

26 大阪築港

住友レンガ建築群と中学校

2012 波多野あゆみ

27 西成区萩之茶屋

シェルターと納骨堂

2017 大橋茉利奈

28 奈良市椿井町

保育園

2016 原泉

29 みその商店街

保育園と農園を中心とした地域の場 2017 鈴木保澄

30 三宮駅

駅の建て替え

2014 田寺司

31 江井ヶ島皿池

遊歩道,マーケット,池水の攪拌機構

2016 作田隆之

32 長田区長田山麓

「石の記憶」

2011 田窪成貴

33 高尾台ニュータウン

2011 大田章雄

34 鳥取市

宿泊施設

2014 成原隆訓

35 倉敷市玉島

水辺の劇場

2018 中村友彦

36 福山城

駅の再生

2013 宮地茉莉


Projects of Kanki Lab. KANKI Laboratory

スタジオ課題「場所の力」敷地見学 大阪淀川・鵜殿のヨシ原にて (写真:新 靖雄)

「場所の力」に向き合うことを通して 助教 太田裕通 本学の 4 回生は卒業設計の前に、教員毎に異なるテー

げるところが鍵になってくる。最終的な提案では、都市・

マが設けられているスタジオ制課題に取り組む。約2ヶ月

地域の実空間に対して新しい価値の捉え方を空間的表現、

半のタフな演習である。開講以来、神吉スタジオの課題は

すなわち一つの形に決定する事を通して提示するという難

「場所の力」である。課題文にはこう書いてある。

しいハードルを超えなければいけない。

「これまでにない変化をみせる現代の都市・地域で、ど

課題が始まって最初は誰しも困る。場所へ赴いてさあ、

のようなランドスケープが受け継がれ創造され得るだろう

どうしようと。約2ヶ月、修士1年と教員とで一緒に考え

か。新しいランドスケープにむかうために、場所に潜む力

る。この対話(エスキス)の時間こそ重要で、毎回 4 回

を読み、その力を顕在化させる建築と都市・地域空間の提

生が持ってきてくれる思考の触媒に触れ、参加者全員に学

案をめざす」。

びがある。また本人の場所に対する生の感覚は、他の者に とって現地に赴いて話し合ってこそやはり腑に落ちること

敷地・テーマは自ら考えて欲しいというメッセージと共

が多い。その為全員で場所へ赴く日を設ける(だからこそ

に、唯一の条件が「全員参加でそれぞれの現地調査に赴く

の日帰りである) 。濃密な対話を繰り返す中で本人が自ら

ため、敷地は京都から日帰り可能圏内、自由に選択する」

つくり上げていくテーマは当然非常にバリエーションに富

ということである。その結果この 8 年で図のような 30 以

み、面白い。そのまま卒業設計、さらに修士研究のテーマ

上の場所が選ばれ、空間提案がされてきた。敷地の選び方

となる者もいる。つまりここで学んでいる事は、設計や研

は以前から関心があった場所を選ぶ者、偶然場所を発見す

究、都市・地域に関わる活動において必要な「場所の力」

る者と様々である。

への「構え」である。それは言葉で理解するというよりも、 神吉研での経験を通して身体で体得していくある種必修技

卒業設計では「空間の構想力」や「緻密な図面を引くこ

能といえるだろう。

と」は勿論、「敷地の選び方」と「その地におけるテーマ・ 枠組みの設け方」が問われると思われるが、それは本課題

次ページ以降のプロジェクトでもこの「構え」は一貫し

も同様である。特に場所に対しての気付きや発見から、自

ている。それぞれの表現から「場所の力」を感じ取って頂

分なりの価値付けや捉え方を言葉や図を駆使してまとめ上

きたい。

81


PROJECT

カンポン・アクアリウムにおけるフィールドスクール

写真1) カンポン・アクアリウムから臨む海の景色 * ジャカルタ北部スンダクラパ港付近に位置

修士課程 2 回生 小坂知世、修士課程 1 回生 大橋茉利奈

するカンポン・アクアリウムは、古くから続

2016 年 4 月、ジャカルタの「カンポン・アクアリウム」*( 以下 K.A.) という超

く海を望む漁村である。またインドネシアが

密集市街地が州政府による強制撤去に遭った。ある日の早朝から始まった約1ha・

インド会社の重要な貿易拠点だったため、カ

オランダ植民地だった時代、ジャカルタは東

230 軒におよぶ撤去はその日の夕方には完了、K.A. は更地となり、約 710 人が一

ンポン・アクアリウム周辺の旧市街地には現

日にして家を失った。

当時のジャカルタ州政府はオランダ近代建築

在でもオランダ近代建築が遺っている。撤去

カンポン(kampung)とは、インドネシア語でムラという意味の言葉。ジャカ

に関連した観光地整備計画を掲げ、土地の不

ルタには「都市カンポン」が点在しており、カンポンは自然発生的に形成される超

む周辺カンポンの強制撤去を断行したのだ。

法占拠を理由にカンポン・アクアリウムを含

高密な居住環境からしばしばスラムだと思われがちだが、実態は隣組制度や相互扶 助のシステムを持つれっきとしたコミュニティである。また路地にブルーシートの 「セルフビルド庇」がせり出したり、木にたくさんの鳥かごが吊り下げられていた りと、環境を自らのモノにする「住みこなし力」を至る所で感じることができる。 州政府の体制が変わり 2018 年 3 月には仮設シェルターが建設された。シェル ターそのものは簡素だが、壁の増設や軒下への溢れ出しなどに見られる住民の「住 みこなし力」は今でも健在である。

写真2) 撤去直後の様子

現在ジャカルタの都市・建築コンサルタント集団である Rujak を筆頭に、住民の ためのボトムアップ的な再建が動き出している。2018 年 9 月には Rujak と神吉研 究室で K.A. にてインターナショナルフィールドスクールを開催した。 参加者は K.A. の住民、Rujak のスタッフ、日本学生、一般参加など合計 20 人で あった。各グループに K.A. の住民、日本からの参加者が必ず加わるように 4 チー ムに分かれた。最終日の K.A. 住民達へ向けたプレゼンテーションを目標に、近隣 のカンポンのフィールドワークや関係者によるレクチャーが 6 日間行われた。

写真3) 従来のカンポンの様子

プレゼンテーションのテーマは与えられず、各チームがテーマを自分達で設定し た。テーマ決定に主催者側の意向が介入することはなく、参加者達が現地で肌で感 じたことや問題意識をテーマにすることができた。 チームでは K.A. の内部の人間と外部の人間が一緒に議論し、協働した。外部の 人間である私達は内部の人からカンポンに住むことの意味を学び、現実の問題に触 れることができる。外部から来た私達も与えられるだけではない。外の人間から見 たカンポンにある無数の魅力−カンポンを取り囲む海の風景、路地に現れる露店空

写真4) 現在の K.A. シェルターの様子

間、お手製の庇の下での井戸端会議−それらを言葉にすることで K.A. 住民達は自 分達の故郷の魅力と問題点に自覚的になっていくことができる。 最終プレゼンテーションではアイデアをデザインや図で示し、インドネシア語で 住民達に発表を行った。かたちになったアイデアを見ると住民達も意見を出しやす くなる。そこで気になる箇所に付箋を貼ってコメントをしてもらい、住民達の興味 がどこにあるのか、どんな意見持っているのか、を可視化することができた。 2019 年 9 月には第 2 回フィールドスクールが行われる。撤去から 3 年が経ち、 シェルターから恒久的な住居の着工準備が進む複雑な情勢の中、私達は住民達と一 緒にこの地に未来を描きにいきたい。

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写真5) プレゼンテーションの様子 2018 年 11 月には太田によるダイアログ 手法での K.A. 調査を行い、より解像度の高 い撤去前後の住民 1 人 1 人の主観的な思い 出や意見を聞き出すことができた。


Projects of Kanki Lab. KANKI Laboratory

写真1) 大岩の風景。写っているエリア(風 致地区)では以前までの事業所群は撤去され

違法開発地における祝祭の場づくり 博士後期課程 3 回生 清山陽平

資材置き場となっている。 写真左奥の約 40m にも及ぶ産業廃棄物の山 (通称:『岡田山』 )は、地元事業者によって 20 年かけて撤去される。

・大岩についての概要 大岩街道周辺地域 (以下、 大岩) は京都市伏見区にある 「違法開発集積地域」 である。 違法開発といっても、違法であることをよく知らぬままに土地を購入し生活する人 も多い。また市内の産廃処理を支える静脈産業等の事業者には余所に移ってまで事 業を継続することが困難なものも少なくなく、結果的に他での同様の違法開発を招 きかねない危惧からも、強制撤去は現実的ではない。公金投入も難しい中、住民や 事業者が主体となった環境改善を含めたまちづくりによる是正が進められている。 神吉研究室ではこれまで、2名の学生が大岩を対象に修士研究に取り組んだ

1)2)

今年度は筆者を含む院生数名が一部エリアにおける整備計画の立案に向けた住民ヒ 写真2) トラックの往来で凹んだ路面は雨天

アリングや、試提案の作成を行うことになっている。

時には川のようになってしまう

・大岩でのここ数年の動き 大岩には数年前から龍谷大学の学生が入り、コミュニティ活性化に向けた活動を 継続的に行っている。最近では国外の大学の訪問や WS 開催も多い。また京都市深 草支所職員は、鎮守池周辺(市所有地)の整備等を地元事業者の協力を得ながら進 め、環境改善を率先している。これらの活動もあり、数年前と比べても市職員や外 写真3) 畑や事業所群越しに稲荷山を望む

国人、学生を含む外の人が歩いていても、特段珍しくない雰囲気になってきている。 ・大岩のこれからに向けて 2019 年 11 月 30 日 ( 土 ) には整備された鎮守池周辺にて深草支所や龍谷大学、 住民らの協力による、地元野菜を用いた収穫+食事祭が開催される。昨年までは地 元向けの小規模なものであったが、今年は同日に行われる大岩山の一斉清掃の打上 げも兼ね、一般参加者も含め百人規模となる見込みである(「大岩がきれいになる 日(仮) 」 )。これに合わせ神吉研究室では、以前和知駅前で行った布屋根による休

写真4) 数年前まで竹藪だった鎮守池周辺は 整備され、広大なオープンスペースに

憩空間

3)

をより拡張し制作する予定である。参加者の労をねぎらいながら、大岩

全体にとっても祝祭性を感じられる場づくりができればと思う。また建築物でも工 作物でもない布屋根は、調整区域内でも常設できる可能性がある。夏の酷暑には日 陰が恋しくなる大岩における、住民や来街者の合法的な居場所づくりのトライアル ともしたい。 美観とは言い難いかもしれないが、高さ数十mにも及ぶゴミ山や事業所、住宅群、

1) 中原裕亮「市街化調整区域の違法開発集 積地域における土地利用設計に関する研究―

稲荷山裾の地形やきれいな湧水、 竹等の植生やこまごまとした畑の中を、 大型トラッ

京都市「大岩街道周辺地域」を事例としてー」

クと自家用車が往来する大岩の風景は独特である。一筋縄ではいかない合法化への

京都大学修士論文 2016

道のりを、いろいろな人に今よりもいくらか愛される風景、地域づくりの過程とし

2) 吹抜祥平「違法開発集積地域における改 善事業可能性から見た主体設計に関する研究 ―京都市「大岩街道周辺地域」を事例とし てー」京都大学修士論文 2018 3) 参考:traverse17

て、それ自体を楽しみながら進んでいければ素晴らしいと思う。「大岩がきれいに なる日」は単発的なイベントだが、これから続く大岩のそう悪くない将来を、みん なが薄布に透かし見るような一日としたい。

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PROJECT

写真1) 駅前広場から改修後の JR 和知駅舎 を眺める

和知駅プロジェクト、その後。 博士後期課程 3 回生 清山陽平 2017 年4月、JR 山陰本線和知駅の駅舎改修が完了した。 これまで本プロジェクトの概要や改修までの過程

1)2)

、 また具体的な改修内容

3)4)

については紹介してきた。本稿では改修から約 2 年半が過ぎた和知駅の 「その後」 を、 月一回ほどの頻度で和知に帰省する筆者の目線から紹介しようと思う。 駅内喫茶「山ゆり」の営業は続いている。改修では駅前広場や商店街奥の山々を

写真2) 駅内喫茶「山ゆり」のある夕方

見渡せるカウンターや、ホームと同じレベルで一時間に一本の電車を眺められるソ ファ席を設けたが、常連客はこうした新しい席をほとんど利用していないようだ。 それでも座席数の増加は午前のラッシュ時を中心に役立っているらしい。常連客以 外のお客さんには新しい座席を選ぶ人が多く、薄水色に明るくなった喫茶内の雰囲 気とともに気に入られているらしい。 改修以前から「山ゆり」は、高齢者を中心とした数十人の地元常連客による、ほ とんど毎日の貴重な溜まり場となっていた。若者など新しいお客さんが入りやすく するのと同時に、現状の環境を大きく変えてしまわないというのが改修の肝であっ

写真3) 多くの人がウッドデッキに腰掛け憩 う夏祭りの風景

た。常連客のとあるおじいさん(筆者のご近所さん)は、改修直後には雰囲気の変 化から足が遠のいたようだったが、最近では以前同様、昼間から赤ら顔でおしゃべ りする姿をよく見かける。このおじいさんの他にも、以前からの常連客はほぼ変わ らずに「山ゆり」を利用してくれているようで、一安心である。 喫茶内に新設した棚には住民提供の本や写真、手作りの小物がぎっしりと飾られ、 学生がデザインした喫茶店の新しいメニュー表も使われ続けている。筆者がコー ヒーを飲みに行くと、店員さんもお客さんも和やかに、昔のまちの様子を教えてく れたりもする。そのうちに別の常連客が立ち替りで入ってきて、また別の話をして

写真4) 改修後さっそく座布団が置かれた駅 待合室

くれて、というようなのが毎度の感じである。 駅舎前に新設した少し変わった形のウッドデッキは、改修直後から早速住民によ るカラオケ大会のステージに、また夏祭りでは多くの人が腰を落ち着ける場所に使 われていた。日常的にも電車で帰ってきた高校生が親の迎えを待つ姿が見られる。 駅舎内の小さな待合室でも、改修した腰掛けには直後から手作りの座布団が置かれ、 以前より広々とした室内にはのんびり電車を待つおばあちゃんの姿がある。

1 ) 清 山 陽 平「 和 知 駅 プ ロ ジ ェ ク ト 」 traverse17 2016.10 2) 清山陽平、 神吉紀世子他「駅再生プロジェ

筆者のいた頃は 30 人であった地元小学校の一学年の児童数は、最近では数名に

クト 地方におけるこれからの「駅」の役割」 日本建築学会大会デザイン発表梗概集(九州)

まで減ったらしい。筆者の同級生でも、地元に残っているのは数名だ。子どもも大

2016.08

人も少なくなる中、住民のささやかな日常が駅前にある大切さを改めて感じる。筆

点 和知駅待合空間改修プロジェクト」日本

3) 吹抜祥平、清山陽平他「小さなまちの拠

者は幼少期より和知に育ったネイティブだが、一家としては 20 年ほど前に越して

建築学会大会建築デザイン発表梗概集(中国)

きた余所の人である。そんな立場から疎住の農村地域における唯一中心的な場所を

4) 清山陽平、神吉紀世子「小さな駅を中心

設計することには不安もあったが、最近では子どもの頃から続く、何気なくかけが えのない風景を継げたような気もしている。

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2017.08 とした地域持続性への設計―JR 山陰本線和 知駅における待合空間改修」都市計画、都市 計画学会 2017.07


Projects of Kanki Lab. KANKI Laboratory

元西陣小学校活用プロジェクト2『西陣ベースメント TRIAL』 博士後期課程 3 回生 山口直人 ・京都市学校跡地活用問題 京都市の小学校は明治 2 年に全国に先駆け建設された。普通教育だけでなく学 区単位の自治のための空間として設計されており、地元の自治活動は少子化に伴い 廃校となった後も小学校を拠点に行われている。そのため、学校機能を失ったから といって、 安易に解体してよい空間ではない。小学校跡地の所有者である京都市は、 その活用を推進している。ここ数年でいくつかの学校跡地活用に民間業者が参入し たが、従来通りの地元住民の自治を尊重した活用案の提言は簡単ではない。 ・地元住民主導の学校跡地活用検討を目指して 神吉研究室の学生が西陣地域住民福祉協議会による学校跡地活用委員会に参与し て7年になる。京都大学学生メンバーは、「西陣ベースメント」を跡地活用の1つ の検討材料として提案したその翌年、平成 28 年度から、西陣ベースメント TRIAL と題した空間体験型活用実験イベントを企画・運営している。 「西陣ベースメント」は次の4つのコンセプトを持つ提案である。①現校舎は基 本耐震補強、補修をして活用、②地元の利用を継続させた展開へ挑戦、③「小学校」 としての空間に価値を置いた最小限の内装改修、④「学び」を基本とした教室単位 の多様な使われ方。西陣ベースメント TRIAL の目的は、学校跡地活用委員会の活 動や「西陣ベースメント」の考え方を、普段お話しできない地元住民の方々に向け て検討材料として発信し対話する場をつくることである。元西陣小学校の教室棟を 会場とし各教室の設えを実際に変化させることで、「西陣ベースメント」で述べる ところの教室棟の多様なモザイク的活用イメージの、体験を通した共有を図ってい る。 ・西陣ベースメント TRIAL の成果 西陣ベースメント TRIAL は昨年度4回目を迎えた。継続的に実施する中で、教 室の様々な活用イメージを実現することができている。地元住民をはじめ、京都市 内外の関心のある方々、ドイツドルトムント工科大学、バンコクタマサート大学の 教員・学生と跡地活用問題を共有し合う上で、実際の建築を会場としていること、 各教室の設えを実際に変化させることは効果的にはたらいている。 西陣ベースメント TRIAL#4 では、敷地内隣接の本館や教室棟他教室の地元利用、 グラウンドの少年野球利用等が会期と重なり、個々の教室単位に留まらない敷地ス ケールの活用イメージを垣間見ることもできた。 ・おわりに これらイベントは発信力があるため、跡地活用委員会の活動として大事なものと なりつつある。一方で、学校跡地活用委員会の主な活動は、定期的に積み重ねられ ている議論の場にこそある。今年度に入り、一部の役員に留まらない地元住民の積 現存する西陣小と、 過去 4 回で実現した活用の様子

極的な会議への参加も見られるようになった。元西陣小の将来を考える地元住民の 輪も広がりつつあり、これからの展開に目が離せない。

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PROJECT

かろんのうつろひ - 太秦の気配 修士課程 2 回生 成原隆訓 我が屋戸のいささ群竹ふく風の音のかそけきこの夕へかも(家持) 竹垣の足元に今年も乾いた笹が茂る。盆になるとこれを刈る。私は今、築 50 年 ほどの木造二階建の離れに住んでいる。枯淡な民家で、土地柄付近での映画撮影を しばしば目にする。すぐ側を線路が通り、毎朝踏切の音とともに起床する。夜には 電車の光が差し込み、漆喰の壁に木の影をつくる。春に見事な桜が咲く庭のある築 60 年の母屋には、大家のお母さんが住まれ、灯りが点くたび気配が感じられたが、 昨冬に亡くなった。私たちを心配してくれ、料理の仕方も教わった。生活の知識を 書き残すことなく人が世を去る所に居合わせ、日々失われる言葉を思い途方もない 虚空を垣間見た。近頃は息子で建築家の E さんと手入れについて話す。 ともに暮らすのは同期2人と四回生1人、そして私の4人だ。定員は3人なので、 僕の部屋を間仕切ったのが最近の面白い変化である。仕切りはベニヤで、さながら 寝殿造の室礼のように、存在は容易に感じ取られプライベートはあまりない。然し 乍ら、これから先どこに住むにせよ、この細やかな緊張に身をおくことはないだろ う。これも貴重な気配だ。僕の入居時の同居人は留学で退去し、一階に女の子が住 んだ時期もある。集まって中二階で飲んでいると、帰宅した住人が加わり宴会にな る。人が集い、離れて今日もかろんに気配が蓄積される。私は未だ立ち止まり、し ばしその溜りを見つめることになりそうである。

きよやまちやをめぐる縁 修士課程 4 回生 久保田匠慶 今、僕は研究の為にニューヨークを訪れている。ブルックリンの工場や倉庫の利 活用を調べ歩く中で、前々回の渡米から帰国した時のことをふと思い出した。 2017 年3月、研究室に NY 土産を持っていった帰り、ひょんなことから同期の 清山の住む「きよやまちや」でのパーティに飛び入り参加した。その縁から、度々 この町家で行われるイベントに足を運ぶようになった。1年後、留学前半年間の住

通りから覗き覗かれの普段のミセの間

1)

まいに困っていた折、空いていた離れに住まわせてもらうこととなった。そして留 学後の現在も離れに暮らしている。 庭の掃除や共通の友人の訪問時以外は各自で自由に暮らす、淡白な共同生活であ るが、常にお互いの在非は感じられる透明性がある。ミセの間の扉を開け放し、通 りの喧騒を感じながら過ごすのが心地良いため、在宅時は大抵ここにいる。しばし ば、清山と歓談するのもここだ。 この町家で出会った友人が結婚した際には、皆でミセの間でお祝いをした。「き

結婚を祝う会では共通の友人がつくったもの

よやまちや」を積極的に開いていこうとする家主の気構え 1) がこのような不思議

の上映を行った。

な縁を紡ぐのであろう。ミセの間よろしく、元倉庫であるカフェの大きく開かれた シャッター越しに街を眺めながらそんなことを考え、ここで筆を擱くことにする。

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をミセの間で売ったり、新郎新婦の紹介映像

1) 清山陽平「現代(いま) 、町家に住むと いうこと」traverse17 2016.10


エッセイ

essay

布野 修司 Shuji FUNO 「アジア」 の欠落 ― 世界建築史をいかに書くか? L ack of Asian Architecture: How We Write a Global History of Architecture? 竹山 聖

未完結の美 B eauty of the incomplete

大崎 純

建築構造設計のための機械学習 M achine learning for structural design of building frames

牧 紀男

― 今後の復興対策につながる新たな取り組み 東日本大震災からの復興雑感 W hat's new about the recovery projects in the Great East Japan Earthquake Disaster

柳沢 究

Kiyoshi Sey TAKEYAMA

Makoto OHSAKI

Norio MAKI

88

住経験論ノート(2)― 親の住経験をインタビューすること

94

100

106

Kiwamu YANAGISAWA

112

N ote for Study on Dwelling Experience 2: Interview with Parents about Their Dwelling Experience

学生エッセイ

清山 陽平

Yohei KIYOYAMA

跡形もなく、しないこと N ot completely to change

成原 隆訓

Takanori NARIHARA

― アニメーションにおける場所と風景 リアリティの欠落からの解放 Free from the Absense of the Reality: places and landscapes in animations

石井 一貴 Kazutaka ISHII 述語面としての「仮面」建築 " Masked" architecture as a predicate phase

118

120

122


ESSAY

「アジア」の欠落 ― 世界建築史をいかに書くか? Lack of Asian Architecture: How We Write a Global History of Architecture?

布野 修司

先ごろ『世界建築史 15 講』(彰国社、2019 年4月 10 日)という一冊の本(共

1) 本書のもとになったのは、 『世界建築史

著)を上梓した(図①)。タイトルが示すように、15 回の講義(Lecture01 ~ 15)

図集』あるいは『グローバル建築史事典』と

を想定した教科書のスタイルである。それぞれにコラム(Column01 ~ 15)を付 し、計 30 本(章節)の原稿(4~ 12 頁)からなる。編集委員会編というかたちを とったが、実質、布野修司、青井哲人、中谷礼仁の三人(幹事)で、全体構成、執 筆者を考えた。建築史の専門家は一般的に筆が遅い。一行を書くのにも裏付けが必 要で、時間がかかるのである1)。案の定、思うように原稿が集まらず、僕は、責任 をとるかたちで、30 本中 9 本の原稿を書く羽目となった。だけど、僕にはこの一 冊に拘る理由があった。

いった世界中の建築を網羅する資料集あるい は事典の構想である。しかし、そうした建築 史集成や体系的な建築史叙述は未だ蓄積不足 で、時間もかかることから、まず、グローバ ルに建築の歴史を見通す多様な視点を示すこ とを優先したのであった。 2) 京都大学には、建築学科一期生村田治 郎の学位論文『東洋建築系統史論』に始まる 「東洋建築史」という科目があった。しかし、

京都大学時代(1991 ~ 2005)に遡る。アジアを随分歩いているのだから「世界 建築史Ⅱ」を担当するようにと西川幸治先生に命じられたのである。「Ⅰ」が「西 欧」、 「Ⅱ」が「非西欧」である2)。当時、 『東洋建築図集』(1995)の東南アジアの 章の幾頁かを執筆したばかりであった。この際「アジア」の建築を勉強するか!と、 講義を続けながら、 『東洋建築図集』に取り上げられた建築を機会ある度に見て回っ た。現在までに『図集』に掲載された建築の 90%以上実見したのではないか?そし て、アジア都市建築研究会の仲間たちと『アジア都市建築史』(布野修司編、昭和 堂、2003)をまとめるにも至った。しかし、何故「アジア」に限定されるのか?、 何故「世界建築史」の「Ⅱ」なのか?、しっくりしてこなかったのである。

戦後、「東洋建築史」という科目は日本の建 築学科から―京都大学を除いて―なくなる。 日本の建築界は欧米一辺倒となるのである。 戦後、建築ジャーナリズムにおいてアジアの 建築に触れたのは、 「天壇」 「宗廟」について 書いた白井晟一ぐらいである。僕は、東京大 学で太田博太郎、稲垣栄三先生から建築史を 教わったけれど、「東洋建築史」については 聴いた記憶がない。京大隊の一員としてガン ダーラで発掘作業に携わってきた西川先生に は、 「東洋建築史」を「世界建築史Ⅱ」とし て存続させたい、という強い思いがあった。

図①『世界建築史 15 構』カヴァー

図②- c

図②- a

88

図②- b

図②- d


Lack of Asian Architecture: How We Write a Global History of Architecture? Shuji FUNO

図③- a

蘭領東インドの

図③- b

図③- c

H.P. ベルラーヘ

洋の東西を区別しない「世界建築史」の必要性を最初に意識したのは、スラバヤ (拙稿「ある都市の肖像― スラバヤの起源」『traverse19』参照)を訪れて、 「オラ ンダ近代建築の父」と言われる H.P. ベルラーヘの作品(生命保険年金協会 AMLL ビル Kantoor van de ‘Algemeene Maatschappij voor Levensverzkering en Lijfrente’、 1900) (図② abcd)に出会った 1982 年である。その建設は、代表作「アムステル ダム証券取引所」(1910) (図③ abc)に 10 年先立っている。 ベルラーヘとアムステルダム・スクールの建築家たちに惹かれて、堀口捨巳の 『現代オランダ建築』(1930)を片手に見て回ったのは 1976 年であるが、ベルラ 3)AMLL ビルは、オランダ領東インドで活

ーヘの作品がインドネシアにあることなど全く知らなかった3)。考えて見れば、オ

動していた M.J. フルスィット Hulswit(1862

ランダがインドネシアを植民地としたのは 17 世紀初頭であり、300 年以上、自ら

~ 1921)に依頼された設計案について意見

の「世界」であったのだから、オランダの建築家がインドネシアで仕事をするのは

を求められ、 「ヨーロッパの建築をそのまま 適用したもので拒絶せざるを得ない」と批判 したことから、結果的にベルラーヘの案が採 用されたのが経緯である。ベルラーへは、さ らに、本国で多くの支社事務所を設計してい たネーダーランデン保険会社 De Algemeene

不思議でも何でもない。調べてみると、インドネシアで活躍したすぐれた建築家は 少なくない。その代表がデルフト工科大学(T.H.Delft)卒業の同級生 H.M. ポント Henri Maclaine Pont(1884 - 1971)と H.Th. カールステン(1884 - 1945)で ある。少なくとも、この二人は、同世代の G.T. リートフェルト(1888 - 1964)や

Nederlanden van 1845 のバタヴィア本部の

J.J.P. アウト Oud(1890 - 1963)と同等に評価すべき建築家である。H.M. ポント

設計(1913)にも関わっている。いずれも

は、 「バンドン工科大学」(1918、図④ abcd)の設計で知られるが、 「ポサランの教

設計のみへの関与で現地での施工監理を行っ たわけではないが、現地の事情には通じてお

会」(1936、図⑤ abcd)が特にすばらしい。

り、東インドの若い建築家たちへの影響力は

H.P. ベルラーへは、1923 年に初めてオランダ領東インドを訪れ、後年『私の印

大きかったと考えられる。

度旅行― 文化と芸術に関する考察― 』(Berlage、H.P.、1931)を出版する。5 ヶ 月にわたる旅行の目的は、オランダ本国政府のアドヴァイザーとして、プランバナ

4)37 葉のスケッチが掲載されているが、

ン遺跡群の修復について報告書を作成することであった4)。H.P. ベルラーへは、そ

スラバヤについては、カリマス沿い、中国廟、

こで、プランバナンのロロ・ジョングランなどヒンドゥー建築の遺構を「死んだ伝

アラブ街の三葉のスケッチが掲載されている

統」として評価していない。そこには、当時のヨーロッパ人建築家のアジアの伝統

(図⑥ abcd) 。

建築に対する一般的見方をうかがうことができる。ベルラーヘが高く評価したのは、 H.M. ポントや H.Th. カールステンの作品である。東インドにおける伝統的建築の 「生きた」伝統とヨーロッパの新しい建築すなわち近代建築をいかに統合するかが、 H.M. ポント、H.Th. カールステン、そして H.P. ベルラーヘの共有するテーマであっ た。 その後、東南アジアから南アジアへ、さらにアフリカやラテンアメリカにも足を 伸ばし、「世界」を股にかけて活躍した建築家たちとその作品群を知ると、「世界建 築史」の必要性をますます強く意識するようになったのである。

89


ESSAY

図④- b

図④- c

図④- a

図④- d

5)ジャーミ・アッタヴァーリーフ Jāmi` al - Tavārīkh、Jāmi` al - Tawārīkh。この『集 史』による「世界史の誕生」をベースに、ユー

「世界史」の世界史

ラシア全体を視野に収めながら、遊牧民の視 点から世界史の叙述を試みてきたのが杉山正 明の『遊牧民から見た世界史』 (1997)『逆 説のユーラシア史』(2002)など一連の著作

人類最古の歴史書とされるヘロドトス(紀元前 485 頃~ 420 頃)の『歴史』に

である。

しても、司馬遷(紀元前 145/135 ?~紀元前 87/86 ?)の『史記』にしても、ロ

6)今日のいわゆるグローバル・ヒストリー

ーカルな「世界」の歴史に過ぎない。ユーラシアの東西の歴史を合わせて初めて叙

が成立する起源となるのは西欧による「地球」

述したのは、フレグ・ウルス(イル・カン朝)の第 7 代君主ガザン・カンの宰相ラ シードゥッディーン(1249 ~ 1318)が編纂した『集史』(1314)5)であり、「世 界史」が誕生するのは「大モンゴル・ウルス」においてである。しかしそれにして も、サブサハラのアフリカ、そして南北アメリカは視野外である。 日本で「世界史」が書かれるのは 1900 年代に入ってからである(坂本健一(1901 ~ 03)『世界史』、高桑駒吉(1910)『最新世界歴史』など)。明治期の「万国史」 (西村茂樹(1869)『万国史略』 、(1875)『校正万国史略』、文部省(1874)『万国 史略』など)は、日本史以外のアジア史と欧米史をまとめ、世界各国史を並列する かたちであった。西欧諸国にしても、国民国家の歴史が中心であることは同じであ る。そうした意味では、 「世界史」の世界史(秋田滋 / 永原陽子 / 羽田正 / 南塚信吾 / 三宅明正 / 桃木至朗編(2016) 『「世界史」の世界史』ミネルヴァ書房)を問う必 6)

要がある 。

の発見である。西欧列強は、世界各地に数々 の植民都市を建設し、それとともに「西欧世 界」の価値観と仕組みを植えつけていった。 すなわち、これまでの「世界史」は、基本的 に西欧本位の価値観、西欧中心史観によって 書かれてきた。西欧世界は、その世界支配を 正統としてきたのである。そして、西欧世界 では、世界は一定の方向に向かって発展して いくという進歩史観いわゆる社会経済(マル クス主義)史観あるいは近代化史観が支配 的となってきた。リン・ハント(2016)は、 第二次世界大戦後に歴史叙述のパラダイムと なってきたマルクス主義、近代化論、 「アナー ル学派」、「アイデンティティの政治」(1960 年代、70 年代のアメリカ合衆国で盛んに試 みられるようになった、排除され周縁化され ている集団の歴史に着目する一連の歴史叙 述)と、そのパラダイムを批判してきた文化 理論(ポスト構造主義、ポスト・コロニアリ

建築の世界史へ

ズム、カルチュラル・スタディーズ等々)の 展開をともに総括しながら、1990 年代以降 のグローバリゼーションの進行を見据えた新 たなパラダイムの必要性を展望する。秋田茂・

世界建築史もまた、古代、中世、近世、近代、現代のように西欧による「世界建 築史」の時代区分によって書かれてきた。そして、非西欧世界については、完全に

永原陽子・羽田正・南塚信吾・三宅明正・桃 木至朗編(2016)もまた、21 世紀を見通せ る「世界史の見取り図」の必要性を強調する ところである。

90


Lack of Asian Architecture: How We Write a Global History of Architecture? Shuji FUNO

図⑤- a

図⑤- b

図⑤- d

図⑤- c

無視されるか、補足的に触れられてきたに過ぎない。建築は、人類の歴史の時代区 分や経済的発展段階に合わせて変化するわけではない。すなわち、王朝や国家の盛 衰と一致するわけではない。 日本で書かれてきた建築史は、「西洋建築史」を前提として、それに対する「日 本建築史」 (「東洋建築史」)という構図を前提としてきた。 「近代建築史」が書かれ るが、ここでも西洋の近代建築の歴史の日本への伝播という構図が前提となってい る。そして、近代建築の日本以外の地域、アジア、アフリカ、ラテンアメリカへの 展開はほとんど触れられることはない。『日本建築史図集』 『西洋建築史図集』 『近代 建築史図集』『東洋建築史図集』というのが別個に編まれてきたことが、これまでの 建築史叙述のフレームを示している。 世界建築史のフレームとしては、細かな地域区分や時代区分は必要ない。世界史 の舞台としての空間、すなわち、人類が居住してきた地球全体の空間の形成と変容 の画期が建築の世界史の大きな区分となる。建築史の場合、建築技術のあり方(技 術史)を歴史叙述の主軸と考えれば、共通の時間軸を設定できるであろう。しかし、 建築技術のあり方は、地域の生態系によって大きく拘束されている。すなわち、建 築のあり方を規定するのは、科学技術のみならず、地域における人類の活動、その 生活のあり方そのものであり、ひいては、それを支える社会、国家の仕組みである。 世界各地の建築が共通の尺度で比較可能となるのは産業革命以降であり、世界各 国、世界各地域が相互依存のネットワークによって結びつくのは、情報通信技術 ICT 革命が進行し、ソ連邦が解体し、世界資本主義のグローバリゼーションの波が地球 の隅々に及び始める 1990 年代以降である。各国史や地域史を繋ぎ合わせるのでは なく、グローバル・ヒストリーを叙述する試みとして、『世界建築史 15 講』は、日 本におけるグローバルな建築史の叙述へ向けての第一歩である。

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ESSAY

神話としての歴史―「世界建築史」はいかに可能か? 建築の世界史あるいは世界の建築史をどう叙述するかについては、そもそも「世 界」をどう設定するかが問題となる。人類の居住域(エクメーネ)を「世界」と考 えるのであれば、ホモ・サピエンスの地球全体への拡散以降の地球全体を視野にお いた「世界史」が必要である。しかし、これまでの「世界史」は、必ずしも人類の 居住域全体を「世界」として叙述してきたわけではない。書かれてきたのは、「国 家」の正当性を根拠づける各国の歴史である。一般に書かれる歴史はそれぞれが依 拠している「世界」に拘束されている。すなわち、これまでの「世界」は、数多く の「欠落」を含んだものである。世界建築史のフレームとしては、細かな地域区分 や時代区分は必要ない。世界史の舞台としての空間、すなわち、人類が居住してき た地球全体の空間の形成と変容の画期が建築の世界史の大きな区分となるのではな いか。 いずれにせよ、叙述のための取捨選択が無数の「欠落」を含むことは明らかであ る。西欧における「世界建築史」嚆矢といっていい7)B. フレッチャーの『比較の方 法による建築史』8)は、現在に至るまで D. クリュックシャンクによって改訂9)が 続けられているけれど、フレームを固定したままで「欠落」を埋めるだけで、 「世界 建築史」というわけにはいかない。問題は、フレームであり、視点であり、切り口 である。近代建築批判が顕在化する中で、「W. モリスから W. グロピウスまで」を 軸とする N. ペブスナーの『モダン・デザインの展開』や R. バンハムの『第一機械 時代の理論とデザイン』などを「神話としての歴史」としてその見直しを迫る動き があったようにー N. ペブスナーは自ら『反合理主義者たち 建築とデザインにおけ るアール・ヌーヴォー』を書いたー、建築の多様な側面に視点を当てる「世界建築 史」が必要である。 インドネシアを代表する建築史家である J. プリヨトモ(スラバヤ工科大学名誉教 授)は、9 世紀のヨーロッパに「ボロブドゥールに匹敵する建築はない、西欧によ る「建築史」はアンフェアだ」というのが口癖である。少なくとも、アジアに軸足

7)フ レ ッ チ ャ ー に 先 だ っ て、Fergusson, James(1855), “The Illustrated Handbook of Architecture : Being a Concise and Popular Account of the Different Styles of Architecture Prevailing in All Ages & Countrie, Vol. Ⅰ and Vol. Ⅱ ”, John Murray、 Fergusson, James(1867), “A History of Architecture in All Countries, Vol. Ⅰ and Vol. Ⅱ ”, John Murray がある。

8)Fletcher, Banister(1896), “A History of Architecture on the Comparative Method”, Athlone Press, University of London(バニス ター・フレッチャー(1919)『フレッチャア 建築史』古宇田実 ・ 斉藤茂三郎訳、岩波書店)

を置いた「世界建築史」が必要だともいう。「西欧建築史」 「日本建築史」 「東洋建築 史」「近代建築史」の並立は論外である。「世界建築史Ⅱ」の「Ⅱ」も不要である。

9)Cruickshank, Dan(1996), “Sir Banister Fletcher's a History of Architecture”, Architectural Press(ダン・クリュックシャ ンク編(2012)『フレッチャー図説・世界建 築の歴史大事典 : 建築・美術・デザインの変 遷』飯田喜四郎監訳、西村書店)

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Lack of Asian Architecture: How We Write a Global History of Architecture? Shuji FUNO

『世界建築史 15 講』の構成 『世界建築史 15 講』は、大きく「第Ⅰ部 世界史の中の建築」「第Ⅱ部 建築の 図⑥- a

起源・系譜・変容」「第Ⅲ部 建築の世界」の 3 部からなる。 第Ⅰ部では、建築の全歴史をグローバルに捉える視点からの論考をまとめた。建築 は、基本的には地球の大地に拘束され、地域の生態系に基づいて建設されてきた。 建築という概念は「古代地中海世界」において成立するが、それ以前に、建築の起 源はあり、 「古代建築の世界」がある。そして、ローマ帝国において、その基礎を整 えた建築は、ローマ帝国の分裂によって、キリスト教を核とするギリシャ・ローマ 帝国の伝統とゲルマンの伝統を接合・統合することによって誕生するヨーロッパに 伝えられていく。ヨーロッパ世界で培われた建築の世界は、西欧列強の海岸進出と ともにその植民地世界に輸出されていく。そして、建築のあり方を大きく転換させ ることになるのが産業革命である。産業化の進行とともに成立する「近代建築」は、

図⑥- b

まさにグローバル建築となる。 第Ⅱ部では、まず、世界中のヴァナキュラー建築を総覧する。人類の歴史は、地 球全体をエクメーネ(居住域)化していく歴史である。アフリカの大地溝帯で進化、 誕生したホモ・サピエンス・サピエンスは、およそ 12 万 5000 年前にアフリカを 出立し(「出アフリカ」)、いくつかのルートでユーラシア各地に広がっていった。ま ず、西アジアへ向かい(12 ~ 8 万年前)、そしてアジア東部へ(6 万年前)、またヨ ーロッパ南東部へ(4 万年前)移動していったと考えられる。中央アジアで寒冷地 気候に適応したのがモンゴロイドであり、ユーラシア東北部へ移動し、さらにベー リング海峡を渡ってアメリカ大陸へ向かった。そして、西欧列強が非西欧世界を植 民地化していく 16 世紀までは、人類は、それぞれの地域で多様な建築世界を培っ

図⑥- c

ていた。建築が大きく展開する震源地となったのは、4 大都市文明の発生地である。 そして、やがて成立する世界宗教(キリスト教、イスラーム教、仏教・ヒンドゥー 教)が、モニュメンタルな建築を建設する大きな原動力となる。宗教建築の系譜と いうより、ユーラシア大陸に、ヨーロッパ以外に、西アジア、インド、そして中国 に建築発生の大きな震源地があることを確認する。 第Ⅲ部では、建築を構成する要素、建築様式、建築を基本的に成り立たせる技術、 建築類型、都市と建築の関係、建築書など、建築の歴史を理解するための論考をま とめた。さらに多くの視点による論考が必要とされるのはいうまでもない。

図⑥- d

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ESSAY

未完結の美 Beauty of the incomplete

月は隈なきをのみ見るものかは 兼好法師『徒然草』

心のなかで完成される美

岡倉覚三の『The Book of Tea』は 1906 年にニューヨークで出版されている。 当時岡倉はボストン美術館の東洋美術の責任者として、一年の半分をボストンに過 ごしていた。日本語訳は村岡博のものが嚆矢であり、1928 年から同人誌に連載さ れ、岩波文庫に収められたのが 1929 年。その間すでにフランス語やドイツ語に訳 されて欧米ではよく読まれていたという。つまり日本では 20 年以上経ってから日 本語でこの本に接する機会を得た、ということになる。 私は学生のころにふと手にとって以来、この本を折に触れて繙いては、そのつど 新しい発見があったり刺激を受けたりしているのだが、最初に最も頷かされたのが、 下記の、未完結であることの美を語ったくだりである。 しかしながら道教や禅の「完全」という概念は別のものであった。彼らの 哲学の動的な性質は完全そのものよりも、完全を求むる手続に重きをおい た。真の美はただ「不完全」を心の中に完成する人によってのみ見いださ れる。(村岡博訳) 2013 年に木下長宏による新訳が明石選書から出版されており、こちらには岡倉 覚三によるオリジナルの英文も収録されている。参考までに同じ部分を引いてみよ う。 しかし、道教と禅の完全性についての考えは、それと異なっていたのです。 道教や禅の哲学のダイナミズムは、完全であることそのものより、完全を 求めていく過程をより重要視するからです。真の美は、ただ、不完全を心 のなかで完全にする人間によってのみ見出されるというわけです。 (木下長宏訳) これは茶室を論じた章において、日本の住まいや美術の非対称性に言及している 部分の記述である。冒頭の「しかし」という逆接の接続詞は、その前の儒教の二元論、 北方仏教の三尊崇拝など、西洋と同様の対称性に貫かれた美学がすでにあったとこ ろに、 「道教の理想が禅を通して実現された結実」がもたらされ、それが非対称の美、 不完全、未完結の美となったのだ、と論じられる。 道教も禅もその思想のめざすところはスタティックな固定された美でなく、個々 の心のなかで躍動するダイナミックな美であって、「人生と芸術も、その生き生き とした力は、成長する可能性のなかにあります。茶室のなかでは、一人ひとりの客 が、自分自身との関わりのなかで、想像力によって全体の美を完成させるに任せま

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竹山 聖


Beauty of the incomplete Kiyoshi Sey TAKEYAMA

FUKKURA

す」ということになる。未完成であるがゆえに、完結しない状態であるがゆえに、 心のなかで、想像力を通して、美は完成される。それが未完結の美だ。日本の住ま いや美術が、そして茶室が、非対称を好む所以である。

未完結と不連続

日本文化の特質である非対称への愛は、そもそもまっすぐな軸線や地平線が得難 い地形的特性によるのではないか。大陸からもたらされた寺院や宗教施設の形式も、 当初は左右対称でも徐々にそれが非対称へと崩されていく。それは海が入り組み、 山が迫り、盆地が点在し、急流が峡谷を削り、島影の重なり合う日本の地形と、地 震や津波や噴火や台風や洪水に襲われ続けた列島の風土が、完成された美の理想の 実現を拒んできたのではないか。実はずっとそのように考えてきた。変化こそが常 態、破滅消失こそが真実、永遠の相など瞬時の煌めきのなかにしかない。逆にその 刹那にこそ永遠の憧れを込める。木材や紙など儚い素材をもって建築するのも、そ の完全性への、完結への諦観でしかない。そういうことなのではないか、と。 しかしそこに、未完結の美、想像力の働く余地を肯定する哲学が入り込み、日本 なりの成熟を遂げて、たとえば茶室や日本の住まいのありようにも影響を与えたの だ、という解釈を知った。とするなら、非対称への愛は、仕方のないものではなく、 むしろ積極的に形成された愛であり、未完結への憧れである、ということになる。 現代の都市や現代美術のありようを眺めながら、現代人にはもはや総体を完全に 理解する世界像など持ちようがなく、断片が浮遊し衝突し絡み合うのみ。部分から 全体を推し量るしか手はなく、そもそも全体という概念がなりたたない。共同体に 閉ざされて全うする人生など、ありえない。未完結な出来事が不連続に連続すると ころ以外に、現代の世界観を育む場所はなく、新しい美学の生成する土壌はない、 と直観していた学生時代の私にとって、この『茶の本』に説かれた思想には、全く 別の側面からではあったけれども、大いに共鳴するところがあったのだった。 誰もがスマートフォンで世界の断片的情報を取得しつつ、刹那的に繋がり合う SNS も、いまだ存在しなかった頃ではあった。ただ、当時私が認めた文章の多くに、 この認識が姿を見せていた。1990 年に出版された初めての作品集、というより、

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ESSAY

図1 不連続都市ゲーム

折に触れて描かれたスケッチや図面や作品の写真、それも断片的なもの、そして 文章のかけらなどが散りばめられた本、『RIKUYOSHA CREATIVE NOW 006 竹山聖 KIYOSHI SEY TAKEYAMA』の、そのあとがきのタイトルは、「未完結な出来事が不 連続に連続している、そんな本をつくりたいと思った・・・」というものだ。 未完結であること、そしてその先にありうべき、構想さるべき美学は、私にとっ ては直観的に把握した世界像に基づく仮説的な美学であり、異物の共存する世界観 であり、自由な異邦人たちの出会う世界であった。そこに完璧であることは似合わ ない。ベルサイユ宮殿やクラシシズムや紫禁城や軸線や左右対称は美しいが、現代 の美学ではない。現代美術を見よ、音楽を聴け、演劇を、そして映画を味わえ。未 完結と不連続に満ち満ちているではないか。そう感覚し、直観し、なるたけ論理的 な分析を試みていたのだった。 茶室、禅、道教の思想は、そのようなわけで、現代の美学を求めようとしていた 私の試論に思いがけない方向から光をあててくれることになったのである。

イオンの状態

あくまでもメタフォアであるが、イオン化傾向の高さ、ということに、当時の私 は建築の可能性を見ていた。イオン化傾向の高い建築。あるいは建築的エレメント。 それは完結した状態でなく、未完結な状態であるべきだ、と。一つひとつの建築的 エレメントが未完結であれば、それを補完するべく関係の触手とでもいった引力斥 力の作用状況が生み出され、ひいてはそれが都市における建築の予定調和なき調和、 実り多い関係のネットワークが生まれるのではないか、と。一つひとつが完結した 建築が、ブツ切れで立ち並ぶ風景でなく、お互いに関係の触手を伸ばしあって、あ るいは余白を共有しあって、緩やかな連帯を、それも各自の自由は保持されたまま の連帯を、実現しうるのではないか、と。 他者と他者が共存しうるのは、さらには結びつき合えるのは、お互いに欠落があ ればこそだ。原子が結びついて分子となるには、原子が一つ二つ電子を失ったり得 たりして不安定な状態になるからであり、その電気的なプラスとマイナスによって 結びつく。イオンの状態となってはじめて比較的安定した関係が生まれる。 単体の建築は、欠落を持たねばならない。あるいは大規模な建築は、欠落や余白に よって関係づけられねばならない。どこにも属さぬ場所、領域を超える場所によっ て結び合わされる部分の集積、重合としての総体、「超領域構想」はそうした空間 認識から生み出されたものだった。槇文彦の「グループフォーム」を知ったのもそ のころで、意を強くしたものだ。そして私は私で 1989 年に東京の「ギャラリー間」 で開いた個展において、「不連続都市ゲーム」という模型によるプロジェクトを製

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図2 未完結なオブジェ


Beauty of the incomplete Kiyoshi Sey TAKEYAMA

​思考の風景

作して、都市における、変わるもの/変わらないもの、移動するもの/とどまるも の、の関係を構想してみた(図 1 不連続都市ゲーム)。たとえばベース、ボディ、トッ プという三つの建築的エレメントにより構成された建築模型が、マグネットにより 鉄板の地にくっつけられる。それらは移動可能で、いわば変わるもの、移動するも の、だ。それらを載せる大地は、緑と水という自然的エレメントによってあらかじ め条件づけられ、そこに大規模な土木的スケールの建築的エレメントが介入し、分 割されつつ連結される。鉄板に転写された下図は東京中心部を切り取ったものだっ たから、その分割は山の手と下町であったり、連結は隅田川の西と東であったりす る。自然的エレメントは、変わらないもの、とどまるもの、だ。海沿い川沿い緑沿い。 円という完璧な形をあえてスライスして用いる、という試みもそのような仮説的 な展望に根ざした設計であって、OXY(1987)や D-Hotel(1989)など、初期の 作品の多くに見られる。2003 年に完成した北野高校の同窓会館では、円どころか 球体をスライスする、という立体的な試みを行っている。 欠けた月への想像力を暗示するような「未完結なオブジェ」と題されたコンセプ トモデルは、円という完璧な形への憧れと断念、むしろ積極的な断念を表現してい る(図 2 未完結なオブジェ)。欠落に、余白に、想像力は感応する。

抵抗の形式

建築は世界を構想したり収容したりすることができるスケールを有するメディア だが、そこを訪れる他者の介在は排斥できない。というよりむしろ積極的に導入す べきであるし、応答すべきでもある。他者の訪れを祝福するところにこそ、建築の 喜びは、ある。 この他者というのは自然である。光であり風であり雨であり雪であり、月であり 花であり、そして地形である。建築は他者に対する抵抗の形式だ。いうまでもなく、

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ESSAY

図3 WINWINWIN SUKITOORE

この抵抗というのは、電気回路の抵抗のようなもので、主体は流れる電気である。 建築の場合、自然的エレメントであり、光、風、水、風景であって、さらには人だ。 建築はそうした流れを制御する抵抗の回路だ。そのような意味で抵抗の形式、と言っ ている。排除の形式では、さらさらない。 そうした他者たちを喜びをもって受け入れるためには、欠落が要る。孔が、開口 部が、窓が、扉が要る。呼吸が止まれば生命体は死ぬ。建築は生命体ではないけれ ど、生命体のメタフォアは意味があると思う。生命体のような建築でありたいとも 思う。そして、生命体は、他者との関係を絶たれれば、死ぬしかないのだ。 生命は循環の中にあってはじめて生存する。循環が絶たれれば、死だ。流れのな かにあって、生命活動は継続する。生命体を維持し、形成する諸器官は、流れに対 する抵抗の形式として働く。食道は咀嚼された食べ物を方向づけつつ運び、胃はこ れを一定期間とどめつつ消化に努める。小腸、大腸などを経て、最終的に排泄され る流れは、それがすみやかにすこやかに遂行されてはじめて、活力は維持される。 見事な建築群ではないか。血液や神経系を走る情報や、呼吸器系なども、同様。生 命体もまた、流れのなかにあってこれを整序する抵抗の形式である。流れるものと とどまるものが一体となって生命現象を誘導している。

生命体

折に触れてコンセプトドローイングを描いてきた。2006 年に東京の青山で個展 を行なったときメインテーマを表すドローイングは、三つの不定形な孔の空いた青 い形が互いの関係を意識しつつ浮遊している。展覧会は「WINWINWIN」と名づ けられ、このドローイングは「WINWINWIN SUKITOORE」と命名された。孔は欠 落である。孔が空いているから、孔は感覚器官でもあり管でもありうるから、つま り循環を促しているから、この形は生命体を表していて、ひとつが WIN、ふたつ

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Beauty of the incomplete Kiyoshi Sey TAKEYAMA

​DOKIDOKI

NYOKINYOKI

で WINWIN、みっつなら WINWINWIN。それらが単体でなく集合して生存する。 つまり他者との関係のさなかに競合と依存と連携を紡ぎ出す(図3WINWINWIN SUKITOORE)。つまるところ、世界は要素と関係でできている。要素の多彩と関係 の無限とによって、世界の豊饒と多様がもたらされる。私たちの喜びと驚きの源泉 である。 生命体が世界を認識し始めた時、その意識および無意識に投影された空間的欠落 が運動を生み、心理的欠落が欲望を生み、生命体の物理的欠落が感覚を司り、循環 をもたらし、成長を促した。世界は不均質な傾斜と変化に満ちていて、私たちはそ のさなかに、そのつどなんらかの美のありようを見出しては心の安寧と生命の活力 を得てきた。変容は常に訪れ、その都度私たちの祖先たちは新たな美学を見出して きたのだ。そのことによって歴史もまた可能となった。変化のないところに歴史は ない。完璧な存在に歴史は必要ないのだ。 地球にとって人類という生命体がいてもいなくても、何らその存在形式は変わら ないだろう。地球の営みは太陽の活動とエネルギーの放射によって、そして宇宙か ら訪れるさまざまな物体や波によって、決定されている。地球自体の質量と運動に よって、その生涯は決定されている。人間はそんな地球のそこここを掘ったり削っ たり積み上げたりしながら、鉄にせよ石にせよ木にせよ土にせよ、地球にある素材 によって、自らの居場所を作っている。しかしそれは地球に欠落をもたらす行為で はない。そのようなおこがましいことはできない。 欠落を喜ぶのはむしろ人間である。生命である。生命体は常に傾斜のなかにある からである。不均質の流れと傾きのなかにあるからである。気候の変動のなかにあ るからである。 宇宙や地球という傾斜と変化と運動と不均質のさなかに、すなわち欠落の集積の さなかに、人間は生の営みを続けている。そのことの喜びと怖れと驚きをこそ刻み 込み、味わう美学を、生み出してゆかねばならない。

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ESSAY

建築構造設計のための機械学習 Machine learning for structural design of building frames

はじめに

建築構造物の構造設計の過程は,与えられた材料を用いて,設計条件を満たす最 も望ましい解(節点位置,部材配置や部材剛性)を求める問題として定式化される [1]。設計条件の中で,建築基準法やさまざまな規準で指定されて満たさなければな らない力学的条件は,設計問題において制約条件(hard constraint)として定式化 される。設計荷重に対する変形や応力に関する条件は数式で表現できるので,節点 位置や部材断面積を変数とした最適化問題を解いて,制約条件を満たす解(許容解) を得ることができる。一方,設計において考慮することが望ましい非力学的制約や, 材料や施工のコストなどの制限値が曖昧な設計条件(soft constraint)は,最適化問 題の制約条件として定式化するのが難しく,設計の評価指標と考えて多目的最適化 問題の目的関数の 1 つとするのが望ましい。構造設計は,このようなさまざまな設 計条件や評価指標を考慮して,最も望ましい解を見出す過程であり,構造設計者の 知識や経験が重要な役割を果たす。一般に知識や経験を数式で表すことは困難であ るため,機械学習を有効に用いることができる。 機械学習は人工知能(artificial intelligence, AI)の基礎となる技術であり,構造最 適化への適用については,以下のようなアプローチが考えられる。 1.

弾塑性解析や時刻歴応答解析などの多くの計算量を必要とする構造解析によ って得られる応答量を予測するために,機械学習を用いる。この方法は,1990 年代からニューラルネットワーク(artificial neural network, ANN)を用いて行 われてきた応答予測や,構造最適化で用いられる応答曲面法や Kriging による 応答近似モデル(surrogate model)と同様である。最近になって,多層ニュー ラルネットワーク(deep neural network, DNN)や畳込みニューラルネットワ ークが実用化され,再度注目されるようになった。

2.

遺 伝 的 ア ル ゴ リ ズ ム(genetic algorithm, GA) や 焼 き な ま し 法(simulated annealing, SA)などの発見的最適化手法において,構造解析を実行すべき(あ るいは実行する必要がない)解を選択するために,機械学習を用いて特徴分析 を行う。この方法は,2000 年頃から実用化されているデータマイニングでの クラスやカテゴリーの分類問題を解く方法と同様であり,二分木 , サポートベ クターマシン (support vector machine, SVM), 相関ルールなどを用いることが できる。これらの学習方法は,教師あり学習に分類される。データマイニング はビッグデータ処理の基礎となる方法であるが,最近は AI の枠組みで議論さ れることが多い。

3.

最適化アルゴリズムを用いず,機械学習のみによって最適化する。例えば連続 体のトポロジー最適化問題において,最適解の一般的な特徴を学習できれば, 個別の荷重条件や構造規模(有限要素分割数)に対応する最適化問題の解を学

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大崎 純


Machine learning for structural design of building frames Makoto OHSAKI

習せず,一般の荷重条件や構造規模の最適化問題の解を求めることができる。 しかし,一般の最適化問題の解の特徴が,限られた数の最適解に含まれている わけではないので,教師あり学習に分類される手法をこのレベルで適用するこ とは極めて困難である。一方,構造設計の過程を逐次的な意思決定プロセス (マルコフ決定過程,Markov decision process, MDP)としてモデル化して強化 学習(reinforcement learning, RL)を用いて学習することも可能である。RL は 一般に教師なし学習に分類され,ロボットの制御で実用化されている。また, DNN やモンテカルロ木探索と組み合わせて,囲碁などのゲームの分野で画期的 な成果を挙げている。 以上のように,機械学習の利用にはいくつかの方法(レベル)があり,構造最適 化において適用されている機械学習の手法のほとんどは,従来から知られている関 数近似やデータマイニングなどの手法である。 最近になって,ディープラーニングと強化学習の発展により,画像処理,テキス ト・音声処理,ゲームなどの分野で,AI が画期的な成果を挙げている。その他の分 野で AI や機械学習を効果的に利用するためには,上記の問題と類似の形式に問題を 変換することが重要である。構造最適化では,連続体のトポロジー最適化において, 画像処理と同様の方法が提案されている。しかし,建築構造の最適化では,画像と しての問題設定が困難であるため,独自の方法が必要である。

機械学習と焼きなまし法を用いた鋼構造骨組のブレース 配置の最適化

トラスや骨組の最適化において,部材断面のみならず,部材の配置を最適化する ことを,トポロジー最適化という [1, 2]。トラスのトポロジー最適化は,断面積最 適化の一部と考えることもでき,トラスの断面積を最適化し,断面積が 0 になった 部材を削除すれば,最適トポロジーが得られる。しかし,応力制約を考慮する場合 は,除去された部材では応力制約が存在しないため,許容領域が不連続になり,最 適化が極めて困難になる。このような制約を,設計依存制約条件という。例えば, 図 1(a) のような骨組に水平荷重を作用させて,応力制約を与えて最適化すると,図 1(b) のような部材配置が得られる [3]。

(a) 図1:骨組の応力制約を考慮したブレース配置最適化

101


ESSAY

(b) 図1:骨組の応力制約を考慮したブレース配置最適化

このような不連続性をもつ最適化問題は,GA などの発見的手法を用いて解くこと ができる。しかし,中規模以上の建築骨組ではブレース配置の組合せ数は膨大にな り,最適化の際に必要な計算量は非常に多くなるため,計算量を可能な限り削減で きるような最適化アルゴリズムを用いる必要がある。本節では,平面骨組のブレー ス配置最適化における計算量低減のために機械学習を用いる著者らの研究を紹介す る [4 − 8]。 例えば図 2 のような水平荷重が作用する骨組の耐震改修の過程を考えて,ブレー スを設置したときの梁と柱の付加応力が最小になるような配置を求める。図 3 に示 すような 5 種類のブレース(ブレースなしも含む)を考え,各構面に配置するブレ ースの種類を変数とし,層間変形角の最大値に上限値を与える。また,1 つの層に ブレースを設置可能な構面は 2 つまでとする。

図2:5層3スパン骨組

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Machine learning for structural design of building frames Makoto OHSAKI

図3:ブレースの種類

骨組のブレース配置の最適化問題は,組合せ最適化問題に分類されるため,整数変 数を容易に扱うことができる SA を用いる。SA による最適化では,近傍解の評価の ために多数回の構造解析を実行する必要がある。したがって,機械学習を用いるこ とにより,優れた配置(以下優良解)の持つ傾向や特徴を学習し,劣った配置(以 下非優良解)であると予測される解について構造解析を行わないようすれば,最適 化に要する時間を削減できる。 まず,変数をダミー変数を用いて 2 値化する。すなわち,構面 i の 5 種類のブレ ースを表す変数 を,0-1 変数 に変換し,それらのうち 1 つは 1 であり,他の 4 つ は 0 とする。ところで,ブレースの配置を定める際には,その構面単独ではなく隣 接する構面との関係が重要である。そのため,図 4 に示すようなフイルターを用い て畳込み処理を行う。縦方向,横方向,斜め 2 方向,合計 4 方向のブレースの組合 せをそれぞれ 1 つのフィルターとして用意する。ブレースの種類は「ブレースなし」 も含めると 5 種類なので,フィルターの種類は 5 × 5 × 4 = 100 種類であり,15 構面に対して合計 1500 個のフィルター変数(特徴量)が存在することになる。フ ィルターと一致する組合せが存在する箇所には 1 を,存在しない箇所には 0 を与え て,1 つのフィルターにつき 15 個の特徴量を抽出する。画像処理と同様に,プー リングを用いて変数の数を削減することも可能である。この問題では,同一層の 3 つの構面の変数を 1 つの変数に削減することができる。しかし,梁と柱の応力はス パン方向のブレースの位置に大きく依存するため,このようなプーリング処理は有 効ではない(詳細は文献 3 を参照)。

図4:畳込み演算のイメージ

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ESSAY

学習のため,10000 個の許容解をランダムに発生し,上位 1000 個を優良解,下 位 1000 個を非優良解として SVM および二分木を用いて学習する。通常の SA およ び機械学習を用いた SA による最適化の結果をそれぞれ表 1 および図 5 に示す [4]。 機械学習を用いて得られた最適解の目的関数値は,SA のみの場合と比べて少し大き いが,ブレース配置の傾向は,図 5 に示す通り類似している。学習と最適化に要す る合計の計算時間は,SVM と二分木ともに,SA のみの場合の 2/3 程度となってい る。以上より,機械学習を用いることにより,少ない計算時間で近似最適解が得ら れることがわかる。 通常のSA

学習

SVM

二分木

データ作成時間 ---

通常の SA

2093 sec.

2093 sec.

学習時間

12.4 sec.

6.1 sec.

---

最適化

予測の合計時間 ---

483.7 sec.

360.5 sec.

解析回数

67368

35710

27819

解析時間

14314.3 sec.

学習と最適化の合計時間 14314.3 sec. 目的関数

84.83 N/mm2

7961.6 sec.

7162.6 sec.

10550.7 sec.

9622.2 sec.

87.08 N/mm2

87.51 N/mm2

表 1:最適化における計算時間の比較

SVMを用いたSA 図5:最適化結果

ところで,最適化の対象とする骨組それぞれについて学習するのは効率的ではな く,小規模の骨組で学習した結果を大規模な骨組に対して用いることができれば効 率的である。分類問題に対する機械学習の精度は,偽陰性(FN, false negative)お よび偽陽性(FP, false positive)の割合によって評価される。ブレース配置の最適化 問題では,FN は優良解を非優良解と判断した場合,FP は非優良解を優良解と判断 した場合であり,近似最適解を求めるためには,優良解を見逃してしまうような FN が小さいことが望ましい。5 層骨組を SVM を用いて学習した結果を用いて 10 層骨 組の解の優劣を予測したとき,FN および FP の数はそれぞれ 178 個および 181 個 である。10 層骨組に対して学習を実行して予測した場合,FN および FP はそれぞれ 135 個および 133 個であり,それぞれの差は,優良解および非優良解の数(1000 個)の 5% 以内である。したがって,高い精度で予測できていることがわかる。 SA を用いて 10 回最適化を行った中で最も良い結果を図 6 に示す。ここで,機械 学習を用いた場合と用いない場合で同一の解が得られている。10 層骨組の解析回数 (学習のための解析を含む)は,SA のみでは 223840 回,5 層の学習結果を用いて 予測した場合 147737 であり,35% 程度削減できている。以上より,小規模骨組の 学習結果を用いることで,大規模骨組の優良解・非優良解を予測して最適化を効率 化できることがわかった。 図6:10 層3スパン骨組の最適解

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Machine learning for structural design of building frames Makoto OHSAKI

まとめ

近年のディープラーニングの画期的な成果により,建築でも AI の適用研究が行わ れている。しかし,AI で成果が得られたのは,画像処理,テキスト処理,ゲームな どの一部の分野であり,その他の分野では,従来の関数近似や分類のような従来か ら存在する機械学習の手法の適用にとどまっている。しかし,建築の設計行為が, 設計者が過去に経験した,あるいは学んだパターンで構成されるデータベースから, 最も望ましいものを選択する行為と考えられるならば,建築の構造設計に機械学習 の手法を有効に用いることができる。また,構造設計者の思考過程を強化学習によ って学習できれば,構造設計ロボットの開発も夢ではない。しかし,大局的な判断 をすることが設計行為の本質であるとすれば,構造設計者の役割が失われることは なく,逆に煩雑な計算から解放されて,真の意味での設計行為に専念することが可 能となると期待される。 このような観点から,建築構造設計では,ディープラーニングのような高度で複 雑な AI ではなく,小規模な応答予測や分類問題に対して機械学習のさまざまな手法 を適用することを検討するのが望ましい。例えば,構造最適化は 30 年前は特殊な 手法であったが,現在は 3D-CAD とも連携して簡便に利用できるようになった。機 械学習についても,数 10 年後には,最適化と同様に,建築のさまざまな分野で設 計者や技術者をサポートするための簡便なツールとして有効に利用されるものと期 待される。

<参考文献>

1. M . O h s a k i , O p t i m i z a t i o n o f F i n i t e D i m e n s i o n a l S t r u c t u r e s , C R C P r e s s , 2 0 1 0 . 2. T . H a g i s h i t a a n d M . O h s a k i , T o p o l o g y m i n i n g f o r o p t i m i z a t i o n of

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3. 萩 下 敬 雄 , 大 崎 純 , 発 見 的 手 法 と 非 線 形 計 画 法 の 統 合 に よ る 離 散 構 造 の 位 相 最 適 化 , 日 本 建 築 学 会 構 造 系 論 文 集 , Vol. 73(633), pp. 1959 − 1965, 2008. 4. T. Tamura, M. Ohsaki and J. Takagi, Machine learning for combinatorial optimization of brace placement of steel frames, Japan Architectural Review, Vol. 1(4), pp. 419-430, 2018. 5. 阪 口 一 真 , 大 崎 純 , 木 村 俊 明 , 機 械 学 習 を 用 い た 大 規 模 鋼 構 造 骨 組 の ブ レ ー ス 配 置 の 性 能 予 測 , 日 本 建 築 学 会 近 畿 支 部 研 究 報 告 集,Vol. 59, 構 造 系,pp. 585-588, 2019. 6. 田 村 拓 也, 大 崎 純, 木 村 俊 明 , 高 木 次 郎, 機 械 学 習 を 用 い た 鋼 構 造 骨 組 の ブ レ ー ス 配 置 の 性 能 予 測 と 組 合 せ 最 適 化 , 日 本 建 築 学 会 大 会 学 術 講 演 梗 概 集 ( 東 北 ), B1, 2018. 7. 大 崎 純 , 機 械 学 習 に 関 す る 基 礎 か ら 応 用, 機 械 学 習 と 深 層 学 習, 第 3 回 知 的 情 報 処 理 技 術 習 得 セ ミ ナ ー, 日 本 建 築 学 会・ 情 報 シ ス テ ム 技 術 委 員 会, 知 的 情 報 処 理 技 術 応 用 小 委 員 会,pp. 1-13, 2018. 8. 大崎 純 , 構造最適化のための機械学習 , 第 3 回デザイン科学数理知能シンポジウム : デザインの 実装 , 日本建築学会・情報システム技術委員会,デザイン科学数理知能小委員会,pp. 51-58, 2019

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ESSAY

東日本大震災からの復興雑感 ― 今後の復興対策につながる新たな取り組み ― What's new about the recovery projects in the Great East Japan Earthquake Disaster

写真 1 岩手県大槌町町方地区(盛土の上に新たな住宅地が建設される)

牧 紀男

写真 2 昭和三陸地震後の高台移転地(岩手県山田町田の浜)

復興を見る基本的な視座 1)牧 紀男、明治・昭和三陸津波後の高台移

東日本大震災から来年の 3 月 11 日で 9 年を迎える。住宅基盤整備は概ね完了し、

転集落における東日本大震災の被害、地域安

高台・盛土の上に整備された住宅地では新たな住宅が建設されている(写真 1)。東

全学会梗概集、pp.109-112、No.30、2012

日本大震災の復興では、防潮堤を建設した上で、市街地では盛土、漁業集落では高 台移転(写真 2)で住宅地の整備が行われている。しかし、この方法は、昭和三陸 津波の復興と同じ手法 1)であり新しいものではない。災害直後には復興についての 斬新かつ意欲的な提案が行われる。1666 年のロンドン大火ではクリストファー・レ ンによるバロック都市的な復興計画案(図 1)が提出された。ただし、実際に建設 されることはなく復興の成果として実現されたのは火災に強い都市であった。1906 年のサンフランシスコ地震では「都市美運動」で有名なバンハムによる都市計画案 が用意されていたが、実現されたのは一部だけである一方、地震時にも利用可能な 消防用水システム(AWSS)が整備された。 このように災害復興において実現されるのは、災害に強い都市をつくるための対 策であり、復興のために使われる技術はそれまでに使われていたものであり、新た なアイディアを試してみるということはほとんどない。しかし、震災復興の取り組 みは、新しいものを何も産み出さないのではない。災害は災害前から地域が抱えて いた課題をあぶり出し、復興の取り組みの中で、地域が解決を先送りにしていた問 題に取り組まざるをえなくなる。阪神・淡路大震災では多くの高齢者が公営住宅に 住むこととなり LSA・シルバーハウジングといった高齢者支援の仕組みが大々的に 導入された。東日本大震災から 8 年を迎え、被災地での復興の取り組みの中から、 次の社会の問題を解決するいくつかの新たな取り組みが生まれている。その中から 筆者が興味深いと考える 3 つの取り組みを紹介してみたい。

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図 1 クリストファー・レンによるロンドン 復興計画 Christopher Wren's Unexecuted Plan http://archsoc.westphal.drexel.edu/New/ ArcSocIIISA4.html


What's new about the recovery projects in the Great East Japan Earthquake Disaster Norio MAKI

シャッター商店街への処方箋―

キャッセン大船渡―

地方都市では閉店した商店がつづく、いわゆるシャッター商店街が問題となって いる。私が育った和歌山でも、以前賑わっていた商店街がシャッター商店街となっ ている。閉店した場所に NPO の事務所を誘致したりした結果、かつての商店街は NPO 街の様相を呈している(写真 3)。これは英国での中心市街地活性化の手法を 参考にしたものだと思われるが、英国では商店街の NPO は古着やフェアートレード 商品が扱うのに対し、和歌山の場合は事務所として利用されており商店街としての 賑わいは取り戻せていない。 跡取りが地元に帰ってこないことが、シャッター商店街化することの元々の原因 である。実家が商店を営んでいた同級生も、大学の進学するため地元を離れ、その 後、民間企業につとめるなどで帰ってきていない。商店を引き継がないのであれば、 土地を売る・商売をしたい人に貸す、などすれば良いのであるが、手間がかかる・ 先祖伝来の土地を売るのは忍びない・忙しいといった理由で実現されていない。「そ のままにしておく」のが一番楽なのである。そういう私も、少し前まで和歌山に誰 も住んでいない家があった。 東日本大震災の被災地の中心市街地も、災害前、同様の問題を抱えていた。津波 によりシャッターを閉じていた商店街の建物は失われてしまった。しかし、元の所 有者に土地の権利を戻す土地区画整理事業で市街地を再建したところでは、シャッ ター商店街は、新たに盛土の上に建設された街の中で今度はぽつぽつと残る空き地 として出現することとなった。災害前に営業していた商店は、震災復興事業が完成 するまで待つことはできず、中小機構が整備した仮設商店街に入った商店以外は、 すでに別の場所で商店を再開しており、また災害を契機に商店を畳む人も多く、商 店の数は災害後さらに減少している。

写真3 NPO 街(和歌山市)

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ESSAY

写真4 キャッセン大船渡

地方都市の商店街への処方箋

災害復興事業ではあるが、地方都市の商店街をどうするのかという観点から興味 深いのはキャッセン大船渡(写真 4)である。大船渡市の大船渡駅周辺の中心市街 地は津波で大きな被害を受け、盛土の上に市街地が再建されることとなった。商業 エリアについては、東日本大震災後に新たなつくられた津波防災拠点整備事業を用 いて再建が進められた(図 2)。この事業の特徴は、行政が土地を買収してまちの再 建を進めることにある。まちの商業機能は市が買収した土地を借地して建設される 商業施設の中にテナントとして入ることとなる。商業施設の運営主体として大和リ ース・大船渡市・地元企業が出資するまちづくり株式会社キャッセン大船渡が設立 され、商業施設の運営に加えて、この地域の活性化・まちづくりについて中心的に 考えていくエリアマネジメントの役割も担う。

図 2 大船渡市中心市街地の復興計画(出展:大船渡市)

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What's new about the recovery projects in the Great East Japan Earthquake Disaster Norio MAKI

キッセン大船渡の試みを、シャッター商店街への処方箋と考えるのは、商店を更 新していく仕組みが担保されていることである。地元商店もテナントとして入居す ることとなるため、商売を止めた後も家賃を払いづけるということは考えられず、 空いた店舗には新たな商店が入ることが可能になる。中心市街地の商店街の悩みの 1 つである駐車場の確保も商業施設を集約化する中で確保された。しかし、地方都 市の商業施設に、果たして新たなテナントが入ってくるのか、という疑問も湧いて くる。その問題について取り組むのがエリアマネジメントの仕組みである。従来の 商店街の場合、商店主が自分たちだけで考える必要があったが、まちづくり株式会 社が専門家として取り組みを進める。津波で被災したから土地の集約が実現された という面はあるが、大船渡の取り組みは今後の中心市街地のあり方を考える上で非 常に重要であり、この仕組みが上手く機能しなければ、地方都市の中心市街地の問 題の解決は、ほぼ困難なのでは、と思われる。

堤防+建築

津波防災対策の現在の考え方は、現地で再建する場合、堤防でまちを守る、堤防 で防ぎきれない津波は、盛土の上にまちをつくるというものであり、土木構造物で まちを守ることを基本としている。東日本大震災の復興を考える中では、下層階を 駐車場等で利用し、上層階を住戸とするような中高層建築物でまちを再建する、堤 防も兼ねる人工地盤上にまちを再建するアイディアも存在した(図3)。しかし、初 めに述べたように復興時に斬新な考え方は採用されることはなく、従来通りの方法 で復興事業がすすめられることとなった。数十戸単位での高台の移転地をつくるの であれば、元の場所に中層住宅を建設して再建する方が時間・コストの面で優れた 解決策であったように思うし、市街地の再建においても住宅と小堤が入る高層建築 物でまちを再建し、元の場所は緑地にするのも魅力的な気がする。

図 3 人工地盤・中高層建築物による復興(出展:第2回東日本大震災復興構想会議河田委員資料)

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ESSAY

写真5 堤防と一体となった建築物(気仙沼「迎(ムカエル)」)

中高層建築物に被災した元のまちを格納するというアイディアは実現されること はなかったが、人工地盤、具体的には防潮堤と一体で建築物を整備するということ は実現されている。気仙沼内湾地区に建設された商業・公共施設である「迎(ムカ エル)」(写真 5)は防潮堤の上に建設された建築である。1階部分の海側の壁は防 潮堤であり、防潮堤の内側に防潮堤の管理用道路があり、通路のさらに陸側を駐車 場・商業スペースとして利用する形式となっている。防潮堤の上の2階部分には海 が見える飲食店や公共施設が設けられている。海側には土を盛ったスロープが設け られ、できるだけ防潮堤があることが分からないようなデザインとなっている。気 仙沼内湾地区に住む人の防潮堤の無いまちにしたい、という復興に対する思いを実 現するために防潮堤と建築物が一体となったまちづくりが行われることとなった。 堤防と建築物が一体となったまちづくりということでは「かわまちてらす閖上」 (写真 6)も興味深い事例である。名取市閖上地区の復興事業地区の河川堤防上に建 設された商業施設であり、一般的に建物の敷地として使われることがない堤体の上 に建てられている。復興事業で盛土が行われたため堤防と市街地のレベル差が小さ くなり、市街地とほぼ一体で堤防の上を使うことが可能になり、水際もふくめて一 体的な整備が行われている。 気仙沼内湾地区、名取市閖上地区も復興事業の進捗としては遅いと評価される地 域であるが、復興に時間がかかるということは悪いことだけではない。時間をかけ て議論をすることで新たな試みが実現されている。

写真6 河川堤防用の商業施設(名取市閖上地区「かわまちてらす閖上」)

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What's new about the recovery projects in the Great East Japan Earthquake Disaster Norio MAKI

下駄ばき公営住宅ができた

下駄ばき公営住宅とは1階に商店が入り、商店の上に住宅がある形式の公営住宅 のことである。以前は多く建設されていたのであるが、近年、建設事例が減少して いる。気仙沼の内湾地区でいくつか下駄ばき公営住宅が実現され、これまでの災害 復興の中では見られなかった面白い仕組みで建設されているので照会しておきたい と思う。東日本大震災の復興では事業者の再建を支援する目的でグループ補助金と いう制度が設けられた。その仕組みは、事業者がグループを構成し、共同で事業を 再建することに対して国・県が補助金を支給するというものである。水産加工業者 がグループで工場を再建するなどの事業で使われているが、気仙沼が被災した商店 がグループを構成し、商店の建物を再建する仕組みとして利用された。商店1階に あり上層階に住宅が入るビルをグループ補助金も利用し、優良建築物等整備事業を 用いて建設し、上層階の住宅部分を公営住宅として行政に売却するという仕組みで 下駄ばき公営住宅が建設された(写真 7) 。グループ補助金の制度は東日本大震災以 降に発生した熊本地震、西日本豪雨災害でも継続して利用されているが、果たして いつまで継続されるのかは不明であるが、商店と公営住宅を一体として整備するの にも利用されているのは興味深く、ここで紹介することとした。 東日本大震災から 8 年が経過し、長い時間をかけた復興の取り組みの中で、災害 復興だけではなく、平常時のまちづくりを考える上でも有用な新たな事例が生まれ てきている。災害復興の苦労から生まれたこういった取り組みを、今度は通常のま ちづくりの中で活かしていくことが重要である。 本原稿は牧紀男「事前復興の取り組みー東日本大震災に学ぶ」(ベース設計資料 № 183 建築編 2019 年後期版)の一部について加筆を行ったものである。

写真 7 気仙沼内湾地区の下駄ばき災害復興公営住宅

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ESSAY

住経験論ノート(2)― 親の住経験をインタビューすること ― Note for Study on Dwelling Experience 2: Interview with Parents about Their Dwelling Experience

柳沢 究

〈これまでにどのような家でどのように暮らしてきたか〉という住経験を扱う従前 の文献や研究は、前稿で見たように、建築家や研究者などの建築の専門家が、自身 の住経験について自叙伝的に述懐する形式のものがほとんどであった。その大きな 理由は、住まいの空間やそこでの生活を客観的に把握し描写することが、空間や生 活行為を対象化することに慣れていない人にとっては、容易ではないためであろう。 それに対して、筆者の住経験研究で現在採用している手法の特色は、第一に、ある 人物の住経験を対象とする際に、その本人が記述するのではなく、その人物への半 構造化インタビューを通じて住経験を聞くという方法を採用していることである。 第二には、そのインタビューを親子の間において行うこと、すなわち語り手(イン タビュイー)が親、聞き手(インタビュアー)がその子という設定である。

インタビューという形式

まず、ある人の住経験にアプローチしようとする時、なぜ本人による記述ではな く、インタビューという手法を用いるのか、簡単に整理しておきたい。 少し試みると分かることであるが、自身の経験を思い出しながら記述するという 行為は、かなり難しいのである。日記が三日坊主になりがちな人(筆者もそうであ る)には、大いに心当たりがあるだろうが、そもそも無数にある経験のどこに焦点 を合わせるべきか戸惑う。なんとか書き始めても、適切な語彙を探すところで迷い が生じ手が止まる。手が止まれば記憶の方も渋滞する。思考と手の動きがうまく一 致してくれない。過去の出来事や感情を思い出す作業と、それを適切な言葉で記述 する作業とを同時進行することは、実に難易度が高くまた負担の大きいタスクであ る。さらに重要な問題は、普段思い出すこともないような記憶の底にある事柄は、 ペンを握って唸っている時には、なかなか意識の表層に浮かんできてくれないこと である。 これがインタビューという形式で、聞き手の質問に答えるやり方だと随分と楽に なる。話し言葉であれば、語彙の正確さに拘泥することなく、連想のままに発話し やすい。人に話をしているうちに芋づる式に関連した記憶が浮かんでくるという経 験は、誰しもしたことがあるだろう。心理学者のやまだようこは、 「私たちは、外在 化された行動(behavior)や事件の総和として存在しているのではなく、一瞬ごと に変化する日々の行動を構成し、秩序づけ、『経験』として組織し、それを意味づ けながら生きている」とし、経験の組織化とそれを意味づける「意味の行為」こそ が「物語」であるとする。 その意味で住経験インタビューとは、住まいを軸とした 「物語」を紡ぎ出す行為にほかならない。そして一般に「物語」とは、「語り手」だ

1)やまだようこ「人生を物語ることの意味:

けで完結するものではなく、その語りを「受け手(聞き手・読み手)」が受け取った

なぜライフストーリー研究か ?」教育心理学

1)

時に意味生成が行われる、一種の共同行為である 。記述の場合、少なくとも書い

年報、vol.39, p.146-161, 2000。やまだは、

ている時点では一方通行の発信であり、読み手が不在の未完の語りとならざるをえ

あくまで書き手と読み手を想定して論じてい

ない。自叙的記述が難しい理由の一つはここにあろう。しかしインタビューであれ

るが、語り手と聞き手におきかえても同様の

ば、語りを受け生成された意味について、承認や疑問などの応答を即座に提示して

ことは成り立つだろう。

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Note for Study on Dwelling Experience 2: Interview with Parents about Their Dwelling Experience Kiwamu YANAGISAWA

くれる聞き手が眼前にいる。語り手はその感触をたしかめながら、語りを進めるこ とができるのである。

住経験の対象者の拡大

インタビューという手法を採用したより実用的な理由は、本人が記述する方法に 比べ、より多くの住経験にアクセスできる潜在的な可能性があるためである。もと より住経験は人の数だけ存在するが、前述のように、住経験のアウトプットに空間 把握や作図、文章表現力などの一定の素養が必要であるとすれば、実質的にアクセ ス可能な住経験はかなり限定されることになる。この場合、単純にサンプル数が減 るということ以上に、対象が一定の専門的能力を持つ人、つまり建築の専門的教育 を受けた人の住経験に偏りかねない点に懸念がある。 しかしインタビューという形式であれば、聞き手がそのような能力を備えてさえ いれば、語り手のスキルには依存せず、これまで建築専門家に限られていた住経験 の対象範囲を、より広範に拡げることが可能となる。一人の聞き手が複数人にイン タビューすることもできるし、複数人の聞き手がそれぞれインタビューを行う共同 研究として実施することも可能である。聞き手が複数化する場合、聞き取りの質や 表現のばらつきに対する別途の考慮が必要になるが、アクセス可能な住経験の数は 原理的には制限がなくなることになる。

なぜ親の住経験か

住経験にアプローチする試みは、もともと建築学を専攻する大学院の授業におけ る演習課題として構想されたものである。建築を数年学んだ学生であれば、住経験 インタビューの聞き手として必要な素養は当然十分に備えている。では学生が聞き 手になるとして、誰を語り手として選ぶのが適切だろうか。 住経験インタビューで注意すべき点の一つは、住経験について聞くと、もれなく その人の人生やプライベートな事情にも踏み込んでしまうことである。聞いてみれ ば隠すほどのことではなくとも、本人にとっては他人に話しにくいことはある。も ちろん趣旨を説明し理解を得れば、語り手は誰であっても構わないのであるが、で きれば語り手と聞き手はある程度気心の知れた関係であることが望ましい。 当初は学生同士が互いにインタビューするという形式も検討したが、二十歳そこ そこでは如何せん住経験の総量が少ないし、住まいにおける立場も一貫して扶養さ れる子供であり変化に乏しい。学生にとって身近でインタビューしやすく、なおか つ人生経験の豊富な対象者は誰かと考えた時に、その両親がよいのではないかと思 いあたった、というのが着想の経緯である。

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ESSAY

父の住経験を聞く

親の住経験を聞くとは、一体どのような情報や体験をもたらす行為なのか、筆者 自身が行った父親へのインタビューを例に紹介したい。以下は 1943 年に生まれた、 筆者の父の住経験の概要である。

1943 年

東京都台東区浅草の【住居 1】にて 4 兄弟の末子として出生。父2)

2)対象者の父=筆者の祖父。本年表中の続

は電気工事店を営む。両親+子4人。

き柄は対象者を視点とする。

1945 年

東京大空襲により焼け出され、父の郷里である長野県北佐久郡川辺

村(現・小諸市)の農作業小屋【住居 2】に転居する。父死亡。

1947 年

母が川辺中小学校(現・小諸市立千曲小学校、芦原中学校)の公仕

(用務員)となり、校内の一室【住居 3】に住む。母+子4人。

1962 年

大学浪人となり、東京都大田区糀谷の下宿【住居 4】に住み予備校

に通う。隣の家に兄の一家が住んでいて食事はそこでした。

1963 年

大学入学。宮城県仙台市太白区鹿野の寮【住居 5】に住む。

・・・(中略。住居 6 〜 11 は学生・独身時代の寮と下宿)・・・ 1970 年

神奈川県横浜市金沢区泥亀の公務員宿舎【住居 12】に入居。結婚。

1971 年

1男 3)誕生。

3)住経験インタビューの記録では、対象者の

1975 年

2男(筆者)誕生。

子どもの出生順や性別を明確にするために、

1979 年

徳島県徳島市の公務員宿舎【住居 13】に転居。

出生順+性別という表記を用いている。例え

1981 年

東京都世田谷区野毛の公務員宿舎【住居 14】に転居。

ば、1人目の子が男子/2人目が女子/3人

1984 年

神奈川県横浜市戸塚区に中古戸建て住宅【住居 15】を購入し転居。

目が男子の場合、それぞれ「1男」 「2女」 「3 男」となる。

筆者が生まれた 1975 年以降については概ね知っていたが、それ以前の暮らしに ついては、断片的に耳にしたことはあったものの、系統的に話を聞くのは初めての ことであった。特に印象的だったエピソードがいくつかある。 一つは、1945 年 3 月 10 日の東京大空襲により浅草の家を焼け出された後に身 を寄せた、郷里の農作業小屋(住居 2)にまつわる話である。祖父4)の生家は既に その兄が継いでいたため住むことができず、そこから数 km 離れた山中の畑にあっ た、土間と一部屋だけの小屋に住むことになったという。ある時、隣村でドラム缶 が貰えるという話を聞き、祖母は小学6年の長男を連れて貰いに行った。ドラム缶 はその場で7:3の大きさに切ってもらった。大きい方を風呂桶として、小さい方 をタライとして使うためである。帰りには祖母タライを抱え、風呂桶を背負った長 男の泣き言をなだめながら、7~8km の家路を歩いたという。このドラム缶風呂 とタライは住居 3 でも使われた。

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4)筆者の祖父=対象者の父。以下同。


Note for Study on Dwelling Experience 2: Interview with Parents about Their Dwelling Experience Kiwamu YANAGISAWA

対象者属性:1943 年生・♂ 居住期間 :1949 〜 1962 年(5 〜 18 歳) 住居概要 :長野県小諸市・木造平屋建 ・築不明・職員住宅 居住者構成:母・兄 3・本人 図 住経験インタビューに基づく住居3の様子(1950 年頃)

もう一つは、その次に住んだ学校の用務員室(住居 3)での生活である。祖父は 郷里に戻ってほどなく、45 歳ほどの若さで没する。死因は不明だが胃癌だったろ うという。育ち盛りの男子4人を抱えるシングルマザーとなった祖母(当時 42 歳) は、その2年後にようやく学校用務員の職を得て、校内の用務員室に一家で移り住 む。インタビューを元にその当時の状況を表したものが図である。小学校と中学校 を結ぶ渡り廊下に面した、土間と八畳二間からなる用務員室、裏は校舎に囲まれた 中庭である。壁には始業と終業を告げるベルがあり、土間には給食用の味噌汁を炊 く窯が2つ並ぶ。当時の給食は味噌汁だけ学校の用務員室で用意し、おかずやご飯 は持参だった。煮炊き用の薪炭と並んで、先程のドラム缶の風呂桶とタライも置か れている。廊下を挟んだ向かいには宿直室があり、当直の教員がよくこの風呂を借 りに来ていたという。四男の父は高校卒業までの 13 年をこの用務員室に暮らした。 子供の頃には校内のプールでよく泳いだという。長男・次男は高校卒業後に東京で 就職し、三男は大学卒業までここから通った。祖母は三男の就職を機に 58 歳で退 職しこの住まいを去り、以後次男家族と同居、76 歳で亡くなる。 実は、父が子供の頃に小学校に住んでいたとは何かの折に聞いた覚えがあったの であるが、その時はよく意味がわからないまま聞き流していた。このインタビュー を行って初めて、それを用務員室での住み込みの生活としてビジュアルに理解する ことができ、今さらながら驚いたものである。ドラム缶のエピソードでは、わざわ ざ風呂桶とタライに分割し、またそれを母子で担いで持ち帰ったという具体的なデ ィティールが、当時の状況や心情を生々しく想像させる。 戦時中に生まれ、空襲で焼け出され、田舎での貧しい生活を経て、家族の援助の もと大学へ進学、就職、結婚、団地住まいを経て、東京の近郊に戸建て住宅を購入 する。そのような半生は同時代において決して珍しいものではなく、むしろ典型的 といってよい部類かもしれない。祖母の苦労も含め、同様の経験をもつ人は数えき れないほどいるだろう。しかしながら、歴史的な事件も日常の出来事も、当事者の 肉声を通して音・匂い・温度・感情などの込もったエピソードとして聞くことは、 戦争や災害の体験者の語りを聞くことと同様に意義深く、文献や映像資料で触れる こととは異なる、実感・共感を伴った深い理解に繋がりうる。まして身近な縁者の 経験として聞けば、たとえ同じ話であっても、響きがまた違うのが人情である。

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ESSAY

住経験が住まいの捉え方に与える影響

学校に住み込む用務員さんがいることはもちろん知っていた。用務員にも家族が あることは、考えてみれば当然である。しかしそれでも、学校の用務員室に家族で 暮らすという情景を思い浮かべたことは、一度もなかった。筆者の世代にとっては、 風呂も便所もない山中の農作業小屋での生活も、想像が及ぶ範囲の外にある。もち ろん現代においても同様の状況はあり、必ずしも過去の話ではない。しかし、筆者 個人の経験においてはこれまで触れる機会のなかった、また身近にあるとも想像し なかった住まいの存在に気づかされたことは、素朴な驚きとあわせて、自らの経験 に基づく視野の限界を強く感じさせるものであった。 同時に頭をもたげてきたのは、一体このような住まいや生活を経験した人は、その ような経験を持たない人(例えば筆者)と同じような感覚で住まいを捉えているの だろうか、という疑問である。食に例えて考えれば、戦時中から終戦直後の厳しい 食糧事情を体験した人と、高度経済成長以後に生まれ育った人とでは、同じ食べ物 に対してまったく異なる評価を与える可能性があることは想像に難くないだろう。 普段われわれは、ある建築や空間が人に与える効果や印象は、同じような身体と文 化的背景を持つ人であれば、多少の個人差はあれど基本的に同じであると考えてい る。たとえば重力や熱が等しく人体に作用するように、およそ 1 〜 2 mの身長で二 足歩行する人であれば、空間が与える広さや狭さ、あるいは密度や距離の感覚など は、人間工学的に均された個体をベースに、ある程度共通するものと考える。それ は建築計画学の前提でもある。 しかし、快適な温度の好みや許容範囲が、その人の出身地や生活履歴によって少 なからず異なるように、生活行為と密接に結びついた住居のプランニングや造作に 関する評価には、その人の好みや習慣、ひいてはそれを育む住経験に基づく個人差 が、無視できない影響を及ぼしている可能性があるのではないだろうか。そのよう な差を考慮しないままに、住まいの計画や設計について考えることができるのだろ うか。この疑問は、筆者が住経験研究に取り組むことになった動機の一つである。

子が親に聞くことの意義

「親の住経験インタビュー」という課題を大学の授業で実施してみて驚いたこと は、受講している学生も、協力者であるその親も、実に熱心に住経験インタビュー に取り組んでくれたことである。数十年前の住まいや生活の記憶を掘り起こし図面 や言葉で描出することは容易ではなく、インタビューは短くて数時間、長ければ数 日にわたり、語り手・聞き手ともにかなりの負担がかかる。しかしそれにも関わら ず、毎年提出されるインタビューをまとめたレポートは、これまでのどの授業のレ ポートよりも分厚く熱が込もっていた。読んでいて目頭が熱くなるレポートさえあ

116


Note for Study on Dwelling Experience 2: Interview with Parents about Their Dwelling Experience Kiwamu YANAGISAWA

る。インタビューの課題に感謝し、完成したレポートを家に保管するように言った 親もいる。なぜそのようなことが起こるのかと考えてみると、このような親子間で の住経験インタビューには、語り手と聞き手の双方にとって一定のインセンティブ (語りたい/聞きたい理由)があるらしいことがわかってきた。 ある人の住経験に触れることの面白さの一つは、その人の理解に繋がることであ る。これまでどんな家に住み・誰と・どのように暮らしたのかを語ることは、個人 史を物語ることとほぼ同義だからである。まして対象者が親であれば、それは自身 のルーツを探ることでもある。一般に親は、できれば子に自分の人生を語り経験を 伝えたいと思っているが、自分から話せば説教臭いと嫌がられることも分かってい る。子は子の方で、自身のルーツとしての親の人生(ライフヒストリー)に実は少 なからず興味があるものの、思春期を過ぎれば、あらたまって親に人生を尋ねるこ との気恥ずかしさが勝ってしまう。しかし話題が「住まい」であり、研究や課題と いう大義名分があれば、双方とも気楽である。このような背景の元、住経験インタ ビューは両者の秘められた関心に格好の名目を提供し、親が子に人生を語るという 貴重な機会を実現せしめていたのである。

住経験とプライバシー

前述したように、住経験は人生と深く結びついているため、時に他人に話しにく いプライベートな事情にも触れざるを得ないのであるが、親子間でのインタビュー であれば(親子特有の話しにくさは別にあるにせよ)、このことが問題となることは 少ない。その一方で、親子間だからこそ語られた内容を、このようにテキスト化し て研究対象とすることは、親子関係を利用していて不適切ではないか、との疑問を 呈されたことがある。しかし、どのようなインタビューであれ、そこで語られる内 容は、語り手と聞き手の関係性に規定されることを免れない。親子関係だから問題 があれば、友人関係でも問題があろう。また、語り手と聞き手の関係性によってこ そ語られる事柄があることと、その事柄をオフレコ(非記録または非公開)にする ことは、必ずしもイコールではない。たとえば、筆者の父の事例における小学校の 用務員室に暮らしたエピソードは、わざわざ他人に話す類のことではなく、親子関 係だからこそ語られたという側面もあろう。とはいえ、一旦語られたその内容をこ のように記載することについて、特段の抵抗感があるわけではない。重要なのは、 匿名性の確保や公開・利用に関する、当事者のインフォームド・コンセントに基づ くかどうかである。 もちろん、語り手が話したくないことを話す必要はないし、聞き手が親の情報と して記録したくないことを記録する必要もない。そのような、自己に関する情報を コントロールする権利としてのプライバシーは、最大限に配慮されなければならな いことは言うまでもない。

117


ESSAY

跡形もなく、しないこと Not completely to change

清山 陽平

一方本稿では写真のスナックに見るような、具体的な機能 や役割を持たないため特別な不都合はなくとも消されること が多く、にもかかわらず現在でも残っている跡を『跡形 ( あ とかた )』と呼んでみようと思う(これは通常「跡形もない」 という否定の慣用句でのみ用いられる言葉である)。というの も本稿では、過去への手がかりとしての痕跡の意味を超えて、 こうした跡が残っていることで現在の建物や風景が獲得する ある種の質について考えてみたいからだ。その際には、例え ば「店舗を改修した跡」や「看板を取り外した跡」のように、 変更による跡(痕跡)が残っているという見かたは、どうも しっくりこない。むしろ「以前の店舗を上書きし切らなかっ た」、「看板をきれいに取り外し切らなかった」というように、 変更し切らなかったことで以前の状態が残ってしまっている、 京都市内のとあるスナック店舗。看板建築化したファサード に様々な跡形が集積する。 (入り口のテントにはうっすらと かつての店名も残っている)

という見かたの方が合っているように思える。すなわち、以 前の状態が「跡形もなく、されてない」(=跡形が残っている) と、あえて二重否定的に捉えてみようと思うのである。

早がけの客を送り出した店員がスナックに戻っていく (写真)。見ると建物には、以前あった店舗の入り口や袖看

跡形の物語る切実さ

板の部材の一部が残ったままになっている。このように何 気ない建物や風景のなかに、以前の状態(跡)がささやか

なぜならまず大切なこととして、これらの跡形は決して積

に残っているのを、ぼんやりと眺めることが好きだ。

極的に残されたわけではないだろうからだ。おそらくは以前 の状態から上書きしてキレイにしたかったところが、つくり

『痕跡』と『跡形』

変えの際の費用や、もしかすると権利の事情から消し切られ ず、仕方なく残ってしまったのだろう。その意味で乏しさや

建物に限らず、足跡や汚れ等、環境のなかに付けられた色々

不足、しがなさの象徴ともいえるのだが、だからこそイミテー

な跡は、それを残すに至った過去の出来事やその順序を示す

ションや装飾と違い、嘘がなく生々しい感じがする。

手がかりとして、主に『痕跡(trace) 』という言葉で注目される。 例えば港 (2000) は存在でありながら不在(欠落)でもある

またしがなさの象徴といったが一方で、おそらくはこれで

痕跡の、いわば物質と過去の記憶を行き来するようなその性

十分なのである。店にとって大切なのは、多少奥まってはい

質について、考古学において何らかの痕跡が発見され、分析、

るが古びたタイルと対照的な白さで客の目を惹く店がまえで

推論を繰り返される認識論的なプロセスに重ねて論を展開す

あり、新しい店名を主張する変わった形の置き看板であり、

る 1)。また小郷(2012)、小松(2012)らはより直接的に、

入口の隅をささやかに彩る植木鉢の緑である。この店のエク

例えば棚に空いている穴が何度も道具を引っ掛けられて汚れ

ステリアはこれらによって満足されていて、ちょっとくらい

る、といった痕跡に注目し、人の行動が誘導されたり逆に躊

跡形があっても困らないし、そもそもそれほど気にされてい

躇されることを示す情報として捉えることでデザインへの応

ないかもしれない。もちろん話を聞けばいろいろな不満や要

2) 3)

。建築の分野においても歴史的建築物

望もあるのだろうが、跡形が残りながらも使われている状態

を中心に過去の変更による痕跡が着目され、つくり変えの内

からは、一般には必ずしもキレイと言われそうもないこの建

容や年代、翻ってオリジナルの状態の把握がなされる。

物を楽しみ切る、使い手のたくましさが感じられる。それを

用可能性を示唆する

118


Not completely to change Yohei KIYOYAMA

裏付けるように店からは、しばしば楽しげなカラオケや合い

もいえるだろうか。スナックのような跡形を嫌味なくつくり

の手が漏れ聞こえてくる。

だせるのはある意味、必ずしも大きな資力や権力を持たない 庶民が逆説的に得た、しがなさ(選択不可能性)に保証され

しがなさと十分さを同時に象徴するアンビバレントな存在

るパワーといえるのかもしれない。

(あるいは不在)としての跡形は、この建物そのものやそのつ くり変えが、過不足のない、この上なく切実なものであるこ

<跡形もなく、しないこと>への思考

とを物語る。これは一般的な評価を度外視して、すなわち様々 な普遍性から免れて、店主や常連客によってのみ共有される

デザインし得ない跡形による質を、それでもあえて目指す

局在的な感覚や論理に基づいた切実さのようである。

ことは、どのような思考へとつながっていくのだろう。

結果、このスナックは独特の質を湛えているように見える。

一つは建物の改修において、使い手の要望をより狭域なつ

それは超然とした、あらゆる外力から自由に、ただそこに在

くり変えで実現しようとすることかもしれない。建物を丸々

るものの質、とでもいうようなものである。筆者を含めた部

つくり変えるより、部屋を丸々つくり変えるより、とある一

外者はそれをまるで異国の風景のように眺めることしかでき

角のほんの一片をつくり変えることが、時に使い手の要望を

ず、だからこそきっと心動かされるのだろう。

最も切実に実現するようなデザインへの思考となる。それが 狭域なほど結果的に後年の跡形への余地も残り、経年による

跡形をデザインできるか

集積が許容される。各個では最小限な操作の追求が、かえっ て全体では冗長で、不統一で、かつての気配をどこか引きずっ

このような質があるとした上で、気になるのは果たしてそ

た建物や空間をその都度つくりだしてしまう。それを回避し

れをデザインによってつくりだせるのかということである。

ようとつくり変える範囲を広げる(選択可能性を拡げる)より、

このスナックのような建物を設計できるだろうか。

むしろ範囲外の非選択による不具合や可笑しさを楽しむオー

例えば新築の際、あたかもかつて掲げられていた看板が取

プンな構えが大切であろう。これは単に時間(時制)や目的

り外された跡のような模様を施すことは、なにかとてもいや

の異なる痕跡群のコラージュというだけではない、デザイン

らしいことに感じられる。あるいは古民家を喫茶店に改修す

の思考へつながるだろうか。

る際、以前からの土壁の一部等を内装としてあえてそのまま

あるいはやはり跡形はデザインできない、市井の人々によっ

残しておくのはどうだろう。前者が以前にあったわけではな

て意図せずに残されてしまうものなのかもしれない。その場

い跡を外観的に虚構しようとするのに対し、後者は少なくと

合、跡形を生み出す、あるいは無くし切らないための、計画

も本物であり、そこまで違和感はないようにも思える。むし

論的なアプローチはいかにあり得るだろうか。

ろ昨今の改修においてはよく行われる方法でもあるし、以前 の仕上げを剥がした跡が店内の荒壁に残っているのを改修に

── 何気ない建物や風景に感じられる、実はそこにしかない、

よる痕跡と呼んでも差し支えはないだろう。しかしあくまで

ただそこにあるものの質。とてもささやかで容易く失われて

意匠として残すことを選択しているという点で、積極的に残

しまうかもしれないこうした質を浮かび上がらせ、愛してい

されたわけではないであろうスナックの跡形とは異質なもの

くために。設計、研究者として<跡形もなく、しないこと>

にも感じられてしまう。

への思考を続けていきたい。

つまり跡形とは、デザインによって意図して生み出される ものではなく、あくまで意図の外側に、副産物として残って

1)栗原彬、小森陽一他「越境する知 [2] 語り:つむぎだす」東京大学出版会(2000)

しまうものといえる。跡を「ポジティブに残す」選択可能性

2)小郷直言「痕跡から見える社会情報学 (< 特集 > 社会情報学からの発信 (2))」

にではなく、「図らずも残ってしまう」非選択性や、「どうし

3)小松研治他「痕跡学序説 : 痕跡を読み、痕跡に語らせる」富山大学芸術文化学

ようもなく残ってしまう」選択不可能性に基づくもの、とで

社会情報学 , 1(2), 1-9(2012) 部紀要 7, 70-85(2013-02)

119


ESSAY

リアリティの欠落からの解放 ─ アニメーションにおける場所と風景 Free from the Absense of the Reality: places and landscapes in animations

成原 隆訓

アニメーションは、画面に映る一切を描かねばならぬとい

が行われた。細田は高畑作品『セロ弾きのゴーシュ』(1982)

う事実によって、リアリティの欠落を宿命づけられている。

の日本の田園を元にした椋尾篁による背景画に見られる油絵

ならば、その呪縛からの解放は、いかなる術によってなされ

のようなタッチを示し、写実的でないアニメーションの自律的

るのであろうか──

方法でいかにリアルに迫るかを説いた。また近年 CG 作品の実 写への接近など、客観的な描写へのシフトについての危惧を述

八月の暑い日の朝、竹橋の東京国立近代美術館を訪れ、『高

べ、まさに客観的視覚偏重の中で作家の主観的風景を重視する

畑勲展─日本のアニメーションに遺したもの』を鑑賞した。

私の態度と関連が認められた。さらに細田の映画『時をかけ

映像作品における風景とロケーションの関係を思考する私に

る少女』(2006) を鑑賞した高畑が山本二三による背景美術に

とり、後半の背景美術の資料群は実在の場所の抽象化の観点

「書き込み過ぎている」と苦言を呈したとの発言からも、リア

から示唆的な展示であった。特に 4 章の『となりの山田くん』

リティ獲得に際した客観的写実性と主観的自律性の狭間の葛

(1999)・ 『かぐや姫の物語』(2013) における簡素化されたタッ

藤が垣間見えた。つまり、アニメーションは表現の特性に起因

チの背景表現は、それ以前の作品群とは一線を画すことが誰

するリアリティ欠如の回復のため、第一線で活躍する監督まで

の目にも明らかであり、アニメーションという表現形式の自

も今現在模索を続ける状況なのだ。

律性への意識が全体を通して感じ取れる内容であった。 非親和化のリアリズム 芸術に表れる風景

—新海誠の人間と風景

—映像作家の主観的風景 ここからさらに他のアニメーション作品を例に、風景のリ

ここでまず芸術における風景の変遷と、映像作品に表れる風

アリティを考えたい。柄谷 3)はロシア・フォルマリズムの理

景とその問題に触れたい。古くから和歌あるいは山水画におい

論家シクロフスキーの「リアリズムの本質は非親和化にある」

て、作家が実在の場所に主観的に宗教的・歴史的意味を重ね見

との言葉を引き、 「リアリズムとは単に風景を描くのではなく、

ることで風景は描き出された。近代化以降、自然科学の発展に

常に風景を創出しなければならない。それまで事実としてあっ

よりロマン主義や写真が場所の客観的捕捉を行う。⻄田

1)

たにもかかわらず、だれもみていなかった風景を存在させる

現代美術の一潮流である地域のアートプロジェクトに、作家

のだ」と述べた。言い換えれば、作家が日常の何気ない様子

の主観的風景の回復の兆しを読取り、客観的な「視覚の風景」

を風景として発見、顕在化させることで風景は認識されるの

から、作家の主観に拠る「意味の風景」への回帰を見た。

だ。

客観から主観への回帰的文脈の中、現代の芸術のうち風景

加藤 4)はアニメーション監督の新海誠の映画『秒速五セン

に関わる分野に映像作品がある。ロケーション撮影と呼ばれ

チメートル』(2007) において、風景は単なる物語の背景でな

る実在の場所で撮影された実写作品では、撮影の瞬間の風景

く、「人間と風景はあくまでも切り離しえないものとして一体

が作家の意図に関わらず収められるため、重視した点が見失

論的に創造される」と述べ、監督がドラマと同等に風景描写

われる問題がある。本来場所の文脈を主観的に描いた作品が

を重視したと指摘する。また「新海誠が利用するものは、新

客観情報に頼り鑑賞された結果、撮影地を観光する「聖地巡

奇で雑多な風景ではなく、より伝統的で、日本的で、日常的な、

礼」に代表される視覚的同一性を志向する評価が発生し、作

しかも甘美な風景」であり、風景が「遠方へのまなざしや空

品の表層に依拠した短絡的な風景の改変の危険性をも孕むこ

間移動によって、すなわち旅発ち ( 距離の産出 ) や遠方への憧

ととなる。こうした状況の中作品の客観的な側面を注視せず、

爆による日常の非日常化のなかから産み落とされる」とした。

作家の主観的風景を捉え直すことが喫緊の課題となっている。

これこそ、まさに日常の風景の「非親和化」である。新海 はこの構図を用い種子島という実在の場所を主観的風景とし

主観と客観のリアリティ

—細田守の模索

て描き出し、登場人物に発見させることを通じて実際の風景 体験と同様の構造を組み込み、作品のリアリティを構築した

2)

さてこの日、アニメーション監督の細田守氏によるトーク

120

のだ。


Free from the Absense of the Reality: places and landscapes in animations Takanori NARIHARA

ロケーションの意味

—高畑勲『三千里』の港町

しかし、撮影行為が日常化した今日、カメラがもたらした 安堵は未だ有効といえるのか、果たしてカメラが捉える風景 は未だ発見され続け得ているだろうか。

では再び高畑作品に話を戻そう。『アルプスの少女ハイジ』 (1974) 製作時、高畑は宮崎駿などとともに、日本のアニメー

主観と客観の往還

—アニメーションと実写の風景

ションで初めてのロケーション・ハンティングをスイスで行な った5)。その後『母をたずねて三千里』(1976) の際にも、イ

ここまで述べてきたアニメーション作家たちの営みと実写

タリアとアルゼンチンへの取材旅行を行ない、そのクオリティ

映画を比較すると、「非親和化」が風景のリアリティの本質な

6)

に及ぼす影響の大きさと不可欠性について言及している 。高

らば、いつしか客観性に安住し事態の変化に無自覚だった実

畑は物語の舞台となる実在の場所にどのような意味を見出し

写映画は、自らの主観的風景の逆説的喪失の危機を感知せず、

たのか。

アニメーションにおける作家の主観に基づく風景のリアリ

高畑は著書7)の中で、日本は「典型的な街並みをつくりだ

ティに先を越されつつあるのではないか。視覚情報に頼り切

すことができていない」とした上で、ヨーロッパは景観が「自

ることで失われるものを無意識的に感じ取るからこそ、人は

立している」と述べ、⻄洋の風景が絵になりやすくパターン

昨今アニメーションに心惹かれてはいまいか。我々はいま一

化して扱いやすいと語っている。また『三千里』の舞台であ

度、カメラが捕捉する風景の受容を見直すべき時にいるのか

るジェノバの港町の傾斜を例に挙げ「高さの違い」を「景色

もしれない。風景はもはや撮影されるだけでは風景たり得な

としての変化に富んだ、立体感」としての客観的性質として

い。さらにいえば高畑は、アニメーションの風景がリアリティ

だけでなく、「人物を活躍させるのも非常にうまくいく」とし

を獲得することで現実を美化しすぎる危険性にも触れ、その

ている。具体的には「上のお屋敷町に住んでいる人たち、下

先をも見据えていた7)。我々は実在の場所と作家の手によっ

の港町に住んでいる人間、そういうものがどう関係してくる

て芸術として立ち現れる風景の関わりを常に観察し続けなけ

かということを、具体的に、視覚的に表現することができる」

ればならない。

というのだ。『ハイジ』でもこの上下関係を生かし「人間の営 みが具体的な形をとってあらわれてくる」と記す。この具体

──さて、こうしてリアリティ希求の先端に躍り出たアニメー

性こそがロケーションハンティングによって高畑監督が実在

ションは、この絶え間ない主観と客観の往復運動に自らを投

の場所に対して見出した主観的な風景といえよう。場所はた

げ打ち、さなから『アルプスの少女ハイジ』の峰を駆け上が

だ物理的に捕捉されるだけでなく、そこに刻まれた人々の生

る少女や、 『かぐや姫の物語』で大路を駆け抜ける姫のように、

活を読み取る過程で風景が見出されたのだ。

リアリティの欠落という宿命の衣を鮮やかに脱ぎ捨て時代を 先駆けていくのである。

リアリティの充溢

—カメラの生来的客観性 0) 本 稿 は ア ニ メ ー シ ョ ン に お け る 作 家 の 主 観 的 風 景 に 焦 点 を 当 て た が、 高

では一方で、客観的写実性への欲求の根源はどこにあるの

畑 の 風 景 に 関 わ る 演 出 技 術 に つ い て の 以 下 の 論 に 多 大 な る 示 唆 を 得 た。 鈴

か。アンドレ・バザン8)は、絵画作品において、錯視による

畑 勲 展 ─ 日 本 の ア ニ メ ー シ ョ ン に 遺 し た も の 図 録 』NHK プ ロ モ ー シ ョ ン

「外的世界を複製によって置き換えようとする純然たる心理的

木 勝 雄 (2019)「 高 畑 勲 の 演 出 術 ─ ア ニ メ ー シ ョ ン に お け る 風 景 の 美 学 」『 高 1) ⻄田正憲 (2011)『自然の風景論 自然をめぐるまなざしと表象』清水弘文堂書 房 ,p.261

願望」が、「象徴主義によってモデルを超越する精神的現実の

2) スペシャルトーク 細田守が語る監督「高畑勲」2019 年 8 月 3 日 於 東京国立近

表現」としての本来の美学的願望を飲み込むようになったこと

3) 柄谷行人 (2008)『定本 日本近代文学の起源』岩波現代文庫 , p.35

を遠近法の「原罪」として批判し、写真がそれを贖ったと述

店 ,pp.132,134,140

代美術館 https://www.momat.go.jp/am/exhibition/takahata-ten/#section1-2 4) 加 藤 幹 郎 (2010)『 表 象 と 批 評 ―― 映 画・ ア ニ メ ー シ ョ ン・ 漫 画 』 岩 波 書

べ、「錯覚を求める私たちの欲求が、人間を除外した機械的再

5) 小田部羊一 (2013)『「アルプスの少女ハイジ」小田部羊一イラスト画集』廣済

現によって完全に満たされた」とした。写真、すなわちカメラ

6) 高畑勲 (1991)『映画を作りながら考えたこと』徳間出版 , p.74

の誕生によって、画家たちは⻑年の苦悩の解消に安堵した。

8) アンドレ・バザン (2015)『映画とは何か ( 上 )』岩波文庫 , pp.12-14

堂出版 ,pp.81-83 7) 高畑勲 (1999)『映画を作りながら考えたこと II』徳間出版 , pp.102,106-110

121


ESSAY

述語面としての「仮面」建築 "Masked" architecture as a predicate phase

石井 一貴

述語面としての「仮面」

ヴェンチューリの「仮面の再発見」

「仮面」と聞くと現代の感覚を持つ人にとっては何かネガ

「仮面」を持つ建築を考える中でまず思い浮かんだのが、ロ

ティブな印象を受けるかもしれない。しかし、本来「仮面」

バート・ヴェンチューリによる「デコレイテッド・シェッド」

というものは、「自己同一的な自我の上に蓋をするように隠す

の概念である。

もの」という意味は持ち合わせてはいなかった。

近代建築はその自己同一的な存在であることを追求した結

哲学者の坂部恵は『仮面の解釈学』の中で、 〈おもて〉 (=仮面)

果、都市へのあらわれを欠いた建築物となっているというこ

についてこのように述べている。

とを、ヴェンチューリは『ラスベガス』において指摘している。

その反対にラスベガスの大きな看板が、都市を移動する人々

〈おもて〉とは、〈主体〉でも〈主語〉でもなく、〈述語〉

に対してメッセージをもつものとしてあらわれていることを

にほかならないのだ。〈おもて〉のかたどりの統一とは、

積極的に捉え、箱もの建築物に大きな看板が都市に向けて取

西田哲学の言い方をかりていえば、「主語となって述語

り付けられたような建築のダイアグラムである「デコレイテッ

とはならない」のではなく、反対に「述語となって主語

ド・シェッド」を発表した。これはいわば、「ポシェ」をもつ

とはならない」根源的な〈述語面〉のかたどりの統一で

建築物と同様に、都市に対しての表れ方の論理(「仮面」)を

ある。(中略)述語は、具体的場面におかれ、ひとの口

もつ。このダイアグラムによって建築はファサードを取り戻

にのぼることによって、完全なものとして生きる。〈仮面〉

した。すなわちそれは「仮面」を取り付けたような建築であ

もまたこのような〈述語〉にほかならない。

るといえるかもしれない。 しかしここでは、あくまでモチーフは看板である。それは

近代的自己同一性のもとに成り立つ主語面としての「仮

一つの意味に読み込めるある種の記号であり、どちらかとい

面」は、何かを示すもの、である。その「仮面」と対面する人は、

うと近代的な「仮面」と言えそうである。実際ヴェンチュー

意識の中でその「仮面」との間に距離があり、完全な他者同

リのいくつかの建築物や設計案の中には、そのように記号的

士としてコミュニケーションを成立させる。

でわかりやすいファサードをもつものがある。一方でヴェン

一方で述語面としての「仮面」は、先ほどの坂部恵の文章

チューリは、述語面としての「仮面」建築もつくっている。

のように、単体では「欠落」をかかえた存在であり、人々の

例えばイェール大学数学教室のコンペ一等案においては、周

口にのぼることによってはじめて成立する。「仮面」はそれ単

囲の街並みとの調和を図るだけでなく、普段意識されること

体として意味を含む記号ではなく、なにかしらのかたどりを

のないそれらを強調するように建築物をつくっている。ここ

持っているが、それは接する人々によって捉えられることで

でも内部空間の論理と外部の都市へ向けたファサード(立面)

初めて成立するものである。その「仮面」は対面する人にとっ

の論理を切り離して操作を行っているが、その時に単に周り

て、意識の中では時間的にも空間的にもゼロ距離であり、「今

の建築物を模倣するのではなく、少しエラーを起こしその文

=ここ」におけるあらわれとして、自己と他の境界を乗り越

脈から脱臼を生じさせることで、周りの建築物を浮き立たせ

えるものである。そこでは「今=ここ」で行われていること

る効果を生んでいる。例えば東北側立面には、既存の街並み

が重要であり、それは様々な関係性の中に対面する人自身が

にはないような大開口が設けられ、そこに十字状の柱梁が入

置かれることにより、はじめて現象として見出されることで

れられている。こうした周囲とのズレを演出することで、普

あるといえる。

段意識されない周囲の建築物が逆説的に浮かび上がってくる

この捉え方は、自己同一的な存在を目指してきたモダニズ

のである。また、周囲の建築物の ” 部分としての建築 ” にな

ム建築に対抗して生まれてきた建築にも、同じことがいえる

るだけでなく、この建築はそういったエラー的な要素を持つ

のではないかと考えている。

ことで、周囲の建築物との関係性の中で語られる。そこでは じめてこの建築が完全体として ” 全体性をもつ建築 ” として

122


"Masked" architecture as a predicate phase Kazutaka ISHII

飯田市美術館内観(レイヤー状のシーン構成)

飯田市美術館外観(正面のジグザグのガラス面)

も成立することを意味するのである。これは、述語面として

である。ここでは、一部のファサード面をジグザグのガラス

の「仮面」建築であるといえるのではないか。

面にすることで、内部からそれを一つの面として捉えた時に、 先述のレイヤー状のシーンが散在して外の風景と重なって見

飯田市美術館における「仮面」

えるようになる。また光景は観測者の動きの中で異なって見え る。また、観測者の興味などによって焦点が変わることで、見

原広司がつくる多くの建築も、僕は述語面としての「仮面」

えるものやシーンが異なってくる。この様々なシーンを含む反

建築であると感じている。以前、原広司の故郷である飯田市を

射と透過のオーバーレイ効果を持つガラス面は、その特徴的な

訪れたことがある。飯田市は南アルプスと中央アルプスという

形状であるギザギザ面が意識されることはない。そこに写る現

急峻で高い壁のような山に挟まれた、幅の狭い谷間に位置す

象が問題となるのである。まさに述語面としての「仮面」建築

る。そのそそりたつ壁のような山は朝・昼・夕方・晩と一日の

を体現するための一つの要素であると考える。

中でも太陽の角度によって表情が変化していく。山の存在感は

このように、人々の心情などによって異なるようにあらわれ

圧倒的で、その表情の変化はそのまま飯田市の風景において大

る建築は、訪れる度に新しい発見を与えてくれる。また従来の

きな影響力を持っていた。そのため、山と平行にレイヤー状の

機能的な建築のように、単に用意された世界を第三者として味

風景としてのシーンが重なっているように感じた。

わうのではなく、自分が主人公である一種のファンタジーの世

原広司は飯田市に美術館を設計している。この美術館は、ま

界に誘われるような感覚にもさせてくれるように思う。こうし

さにこの地形と同じように、大きな壁に挟まれた細長い谷のよ

た効果は、機能的で一義的なあらわれ方しかもたない建築には

うな建築物となっている。この細長い建築に対して、原広司は

不可能である。

舞台幕のようにレイヤー状にシーンを並べている。つまり、建

これらの試みが行われた少しあとの時代には、多くの場面で

物の正面だけでなく内部にも同じように表情の異なる面がい

建築の記号性がクローズアップされることになった。しかしヴ

くつか設けられている。短辺方向に移動すると、シーンのレイ

ェンチューリや原広司の例のように、記号としてとらえること

ヤーを横断することになり、同じ建築の中で多くの表情を経験

のできない〈おもて〉のあり方を想定することで生じる、建築

することになる。しかもこの横断は体験者によって思い思いに

の可能性について今後考えていきたい。

なされる。これは、原広司が『ディスクリート・シティ』で語 っている ” エレクトロニクスの効果 ”、つまり様々な場面がヒ エラルキーのない形で並置され、そこに人が興味のあるものに ついて瞬間的にスイッチングできる面白さを含んでいる。した がって、この建築は来訪者によって様々に表情が読み取られ、 読み替えられていく建築となっている。これは、面がはっきり とした形で並んでいることで、より分かりやすい形となって認 識されることが大きな要因であると考えている。加えて、虔十 公園林フォリストハウスでもなされているようなガラスの反 射と透過のオーバーレイという試みはこの建築の重要な要素

参考文献: 『仮面の解釈学』坂部恵(東京大学出版会) 『建築の多様性と対立性』ロバート・ヴェンチューリ 伊藤公文訳(鹿島出版会) 『ラスベガス』ロバート・ヴェンチューリ 石井和紘、伊藤公文訳(鹿島出版会) 『ディスクリート・シティ』原広司(TOTO 出版)

123


Contributors

布野 修司

Shuji FUNO

Born in 1949, Dr. Shuji Funo graduated from the University of Tokyo in 1972 and became an Associate Professor at Kyoto University in 1991. He is currently a Project Professor at Nihon University. He has been deeply involved in urban and housing issues in South East Asia for the last forty years. He is well recognized in Japan as a specialist in the field of human settlement and sustainable urban development affairs in Asia. His Ph.D. dissertation, "Transitional process of kampungs and the evaluation of kampung improvement programs in Indonesia" won an award by the AIJ in 1991. He designed an experimental housing project named Surabaya Eco-House and in his research work, he has organized groups on urban issues all over the world and has published several volumes on the history of Asian Capitals and European colonial cities in Asia. Apart from his academic work, he is well known as a critic on architectural design and urban planning. p.88-

竹山 聖

Kiyoshi Sey TAKEYAMA

Kiyoshi Sey Takeyama, born in 1954, received his undergraduate degree from Kyoto University and both his master’s and doctoral degree from the University of Tokyo. He was awarded the Andrea Palladio International Architecture Prize in 1991. He has been pursuing poetical imagination in architecture examining the themes of “Incomplete Object”, “Trans-territory”, “Discontinuous City” and “Counterpoint of Sky and Earth”. He is a Professor of Architecture at Kyoto University, Principal of AMORPHE Takeyama & Associates, and Chairman of Architectural Design Association of Nippon. p.64- , p.94-

大崎 純

Makoto OHSAKI

Makoto Ohsaki is a professor of Department of Architecture, Hiroshima University. He received undergraduate degree in 1983 and master 's degree in 1985 from Kyoto University both in the field of architectural engineering. He has been an associate professor of Department of Architecture and Architetural Engineering , Kyoto University until 2010, and has visited The University of Iowa for a year from 1991. He received The Prize of Architectural Institute of Japan in 2008 , and his current interests include various fields of structural optimization, analysis and design of spatial structures, and high performance computing for seismicresponse analysis. p.100-

神吉 紀世子 Kiyoko KANKI

Kiyoko Kanki, born in 1966, is a Professor at Graduate School of Architecture, Kyoto University. She received her Ph.D. from Kyoto University in 1997, and has held academic positions in Kyoto University and Wakayama University. Her research at RWTH Aachen, Germany in 1992-93 concentrated her focus on cultural landscapes with urban and rural planning, as well as community development. Some of her contributions to landscape heritage conservation in Japan and Indonesia have been awarded the AIJ Prize for Specific Contributions Division in 2013 and Association for Rural Planning Prize for Practice Division in 2016. p.80-

124


金多 隆

Takashi KANETA

Takashi Kaneta was born in 1970 in Kyoto, Japan. After graduating from the University of Tokyo in 1992, he received his master's degree from Kyoto University in 1994 and his doctorate in engineering in 1997. He was awarded the Encouragement Prize (Diploma) from the University of Tokyo in 1992 and the AIJ Encouragement Prize in 1999. Following a JSPS Research Fellowship, he joined Kyoto University as a Research Associate in 1997. He was appointed as a Senior Lecturer in 1998-2001, before moving to the Office of Society-Academia Collaboration for Innovation as an Associate Professor. Currently he is an Associate Professor at Department of Architecture and Architectural Engineering, Kyoto University. p.74-

牧 紀男

Norio MAKI

Born in Kyoto, Japan in 1968, Norio Maki is a professor of Disaster Prevention Research Institute in Kyoto University. He studied post disaster housing, receiving his master's in 1993 and Ph.D. in 1997 from Kyoto University. During his time as a Senior Researcher at the Earthquake Disaster Mitigation Research Institute in Kobe between 1998 and 2004, he also spent a year at the University of California, Berkeley as a visiting scholar, to study disaster management. He mainly studies recovery planning from natural disasters. p.106-

柳沢 究

Kiwamu YANAGISAWA

Kiwamu YANAGISAWA, Born in Yokohama, Japan in 1975, Kiwamu Yanagisawa is an associate professor at Graduate School of Architecture, Kyoto University. Receiving his bachelor's degree in 1999, his master's degree in 2001 and his doctoral degree in 2008 from Kyoto University, he held academic positions in Kobe Design University and Meijo University, and also established his design office, Q-Architecture Laboratory. He mainly studies on the contemporary transformation of traditional urban space in asian cities, as well as architectural design for houses, renovation, community development and so on. p.112-

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Back Number Issue

19

2018.10

l

112p

特集:「顔」

interview 米澤隆 workshop 池田剛介 , 大庭哲治 , 椿昇 , 富家大器 , 藤井聡 , 藤本英子

バックナンバーは以下の Web サイトにて公開しています。

discussion 倉方俊輔 , 高須賀大索 , 西澤徹夫

project 竹山研究室 , 平田研究室

https://www.traverse-architecture.com/

その他、各種お問い合わせは下記メールアドレスにご連絡ください。

竹山聖「都市の相貌/建築の顔」

info@traverse-architecture.com

金多隆「出面―建築生産の労働生産性を考える」

essay 布野修司「ある都市の肖像―スラバヤの起源」

牧紀男「『建物の解体』」 柳沢究「住経験論ノート (1)―住まいの経験を対象化するということ」 小見山陽介「 『鉄とガラス』のクリスタル・パレスにおいて木材が果たした役割」

16

2015.10

l

96p, 16p in color

インタビュー:石山友美

15

2014.10

l

112p, 16p in color

特集:建築を生成するイメージ

interview 中野達男 , 石山友美 ,TERRAIN architects

interview ホンマタカシ , 八島正年 + 八島夕子 , 高橋和志 , 鳥越けい子

project 竹山研究室「コーラス」 essay 竹山聖「コーラス / コーラ、あるいは形なき形をめぐって」

project 竹山研究室「ダイアグラムによる建築の構想」 essay 竹山聖「形を決定する論理」

布野修司「大興城(隋朝長安)の設計図―中国都城モデルA」

布野修司「殺風景の日本―東京風景戦争―」

大崎純「建築形態と構造形態」

大崎純「建築形態と構造形態」

古阪秀三「躯体図考―躯体図から BIM へ」

古阪秀三「シンガポール・建設産業界との交流」

牧紀男「災害・すまい考」

平野利樹「試論―タイムズ・スクエア、エロティシズム」

上住彩華「フランス歴史建築考」

12

2011.11

l

96p

インタビュー:深澤直人

11

2010.11

l

128p

インタビュー:平野啓一郎

interview 深澤直人

interview 平野啓一郎 , 森田一弥

essay 布野修司「建築少年たちの夢:現代建築水滸伝」

project 竹山研究室「ユートピア / ランドスケープ」

井関武彦「形態から状態へ―Parametric Datascape の実践」

高濱史子「見るちから、伝えるちから」

対談:イワン・バーン×高濱史子

project 竹山聖「柏の葉 147 コモン物語」

上田信行「学びのメタデザイン」

essay 布野修司「オンドルとマル、そして日式住宅」

伊勢史郎「自己ミーム」 石田泰一郎「照明新時代と光の色」

8

2007.10

l

7

96p

座談会:大学教育の問題点

2006.09

l

96p

座談会:耐震偽装問題の背景と課題

interview 森田司郎名誉教授

interview 西川幸治名誉教授

discussion 「 大学教育の問題点

discussion 「耐震偽装問題の背景と課題」

―プロジェクトマネジメントとそれに関連する諸問題―」

essay 大崎純「最適化のための反最適化」

essay 伊勢史郎「音と身体」

大崎純「重複座屈荷重の不整感度解析」

竹山聖「フェニキアからギリシアへ」

竹山聖「建築的瞬間の訪れ」

布野修司「景観・風景・ランドスケープ 景観論ノート 01」

布野修司「『インド・イスラーム』都市論ノート」

牧紀男「移動する人々―災害の住宅誌―」

古阪秀三「得する建築をつくるために」 青木義次「カラフル都市の4色問題」 大森博司「構造力学の眺望」

4

2003.06

l

3

112p

座談会:ゼネコンの経営者に聞く

2002.10 l 112p

座談会:外部評価を終えて

interview 森田司郎名誉教授

interview 巽和夫名誉教授

discussion 「ゼネコンの経営者に聞く」

discussion 「外部評価を終えて」

essay 加藤直樹「計算幾何学と建築」/ 大崎純「曲線の滑らかさと力学」

essay 布野修司「発展途上地域の大都市における居住地モデルに関する研究」

高橋大弍 / 高橋良介「周期的構造を持つ反射面による音揚と聴感上の影響」 平岡久司「植栽内熱・水分・二酸化炭素収支のモデル化に関する考察」 石田泰一郎「都市景観の視覚的印象評価と色彩分布の特徴量」

大窪健之「地震火災から木造都市を守る環境防災水利整備に関する研究開発」

竹山聖「他者に対する抵抗の形式」

伊勢史郎「ミームは快楽主義」

布野修司「オランダ植民都市研究」

鈴木博之「建築における評価」

古阪秀三「建築生産の現場でどんな現象で起こっているか」

西澤英和「知られざる名作―もう一つの閑室を巡って」

中嶋節子「1930 年代・大阪市建築課のモダニズム建築」

古阪秀三「日本における CM 方式の普及過程」

三浦研「外山義-軌跡と建築-」

竹山聖「遊び / 建築というゲーム」


18

2017.10

l

112p

特集:「壁」

17

l

2016.10

128p, 16p in color

インタビュー:野又 穫

interview 三谷純 , 奥田信雄 , 魚谷繁礼 , 五十嵐淳

interview 松井るみ , 石澤宰 , 柏木由人

project 竹山研究室 essay 竹山聖「脱色する空間」

project 竹山研究室、平田研究室、神吉研究室 essay 竹山聖「『無何有』をめぐる建築論的考察」

大崎純「耐震壁のデザインと最適化」

平田晃久「『生きている建築』をめぐるノート」

小椋大輔「壁―建築環境工学、特に熱湿気の視点から―」

山岸常人「オーバーアマガウの受難」

布野修司「壁のない住居―タイ系諸族の伝統的住居―」

布野修司「アレクサンドロスの都市」

古阪秀三「日本の建設活動の参入障壁と進出障壁」

三浦研「コミュニケーションと環境」

牧紀男「津波ゲーティッド・コミュニティ」

牧紀男「建築の『がわ』と『み』」

Galyna SHEVTSOVA“Beam-pillar and blockhouse wooden construction systems in the world: the areas of domination and mixing zones”

14

2013.10

l

120p

特集:アートと空間

interview 松井冬子 , 井村優三 , 豊田郁美 , アタカケンタロウ

project 竹山研究室「個人美術館の構想」 essay 竹山聖「建築設計事務所という「場」をつくる」

古阪秀三「東南アジアで考える日本の建築ものづくり」 川上聡「メキシコと建築」

13

2012.11

l

128p

インタビュー:名和晃平

interview 名和晃平 , 高松伸 , 前田茂樹

essay 石田泰一郎「都市の色彩分布の形成シミュレーションと視覚的印象評価」

大崎純「建築デザインの数理的手法」

布野修司「『周礼』「考工記」匠人営国条考」

竹山聖「 『陰影礼賛』考-対比と階調」

小室舞「現在進行形バーゼル建築奮闘記」

布野修司「グリッド都市」

中井茂樹「ロベール・ブレッソン論-生きつづける関係-」

鈴木健一郎「歩きながら都市を考える」 伊勢史郎「音響樽の構想」

10

2009.11

l

project 古阪秀三「タイの鉄骨ファブリケータとの共同研究」

9

112p

インタビュー:川崎清

2008.11

l

96p

座談会:これからの建築ジェネレーション

interview 川崎清名誉教授

interview 金多潔名誉教授

discussion 齊藤公男「構造設計者の夢と現実」

discussion 高松伸 / 布野修司 / 竹山聖 / 平田晃久 / 松岡聡 / 大西麻貴+百田有希

essay 松隈章「建築家・藤井厚二が求めた「日本の住宅」の美意識」

「これからの建築ジェネレーション」

竹山聖「超領域 あるいは どこにも属さない場所」

渡辺菊眞「建築にさかのぼって」

伊勢史郎「身体のリアリティ」

essay 田路貴浩「堀口捨己 自然と水平の超越」

伊勢史郎「知の場の原理」

布野修司「ハトとコラル―非グリッドの土地分割システム―」

大崎純「建築構造物の非線形解析と形態最適化」

竹山聖「思考の可能性としての建築」

布野修司「条理と水利」 古阪秀三「建築コストと技能労働者の労働三保険について考える」

6

2005.09

l

interview 伊東豊雄

5

96p

インタビュー:伊東豊雄

2004.06

l

112p

座談会:快感進化論書評

interview 川上貢名誉教授

essay 石田泰一郎「環境への科学的アプローチ―光環境の心理評価」

discussion 「快感進化論書評」

竹山聖「世界はエロスに満ちている」

大崎純「テンセグリティ入門」

竹山聖「可能世界の構想」

essay 布野修司「アジアにおける都市変化のディレクター」

吉田哲「建築学生考」

金多隆「建築から産学官連携を考える」

古谷誠章「建築家の国際相互認証と JABEE」

瀧澤重志「対話型進化計算法を用いた事例の探索と学習による設計支援」

布野修司「ミャンマーの曼荼羅都市 インド的都城の展開」

甲津功夫「鉄骨造構造物の耐震性能と加工」

古阪秀三「プロジェクト発注方式の多様化」

古阪秀三「建設業における流通の多段階性」 大崎純「建築計算工学とは」

2

2001.06

l

1

112p

座談会:大学論

2000.06

l

140p

座談会:大学論

interview 松浦邦男名誉教授

interview 横尾義貫名誉教授

discussion 「大学論」

discussion 「大学論」

essay 布野修司「タウンアーキテクトの役割と仕事」

essay 高橋康夫「室町幕府将軍御所の壇所―雑談の場として」

高田光雄「大阪における「裸貸し」の伝統と次世代住宅「ふれっくすコート吉田」」 山岸常人「神社建築史研究の課題」 竹山聖「都市発生論」/ 山岸常人「杵築大社本殿十六帖説批判」

大崎純「トラスの形状最適化」

大崎純「建築構造物の座屈と最適化」

布野修司「植民都市の建設者 計画理念の移植者たち」

石田泰一郎「色による人と環境のインターフェイス」

古阪秀三「京都駅」/ 竹山聖「不連続 都市空間論 2000」

井上一郎 / 宇野暢芳「摩擦面の破壊機構と高摩擦鋼板の開発」

鉾井修一 他「 密集市街地におけるエネルギー消費および温熱環境の解析と

古阪秀三「シンガポールの建設事情」 伊勢史郎「大学論再考2」

蓄熱水槽を利用した地域熱供給システムの提案」 石田泰一郎「色彩の心理効果の意味を考える」 他


編集委員

<『traverse――新建築学研究』創刊の辞>より

石田 泰一郎

布野 修司

京都大学「建築系教室」を中心とするメンバーを母胎とし、その多彩な活動を支え、表現す

伊勢 史郎

古阪 秀三

るメディアとして『traverse――新建築学研究』を創刊します。『新建築学研究』を唱うのは、

大崎 純

牧 紀男

金多 隆

三浦 研

小見山 陽介

柳沢 究

年 156 号まで発行されます。数々の優れた論考が掲載され、京都大学建築学教室の草創期より、

竹山 聖

山岸 常人

その核として、極めて大きな役割を担ってきました。この新しいメディアも、21 世紀へ向けて、

言うまでもなく、かつての『建築学研究』の伝統を引き継ぎたいという思いを込めてのことです。 『建築学研究』は、1927(昭和2)年5月に創刊され、形態を変えながらも 1944(昭和 19) 年の 129 号まで出されます。そして戦後 1946(昭和 21)年に復刊されて、1950(昭和 25)

京都大学「建築系教室」の活動の核となることが期待されます。予め限定された専門分野に囚

平田 晃久

われず、自由で横断的な議論の場を目指したいと思います。「traverse」という命名にその素朴 な初心が示されています。

学生編集委員 M1

2000 年 4 月 1 日 The Beginning of "traverse" as the Rebirth of "Kenchikugaku Kenkyu"

大橋 茉利奈

西村 佳穂

春日亀 裕康

野間 有朝

阪口 一真

菱田 吾朗

菅野 拓巳

松原 元実

Studies", is derived from "Kenchikugaku Kenkyu", the former transactions of the School of

谷重 飛洋子

宮原 陸

Architecture at Kyoto University, that started in May 1927 and continued to be published until

中村 文彦

渡邉 雅廣

Now, we, members of the School of Architecture at Kyoto University, start to publish the "traverse---Shin Kenchikugaku Kenkyu" magazine, which will support our activities and represent our research work. The name of "Shin Kenchikugaku Kenkyu", which means "New Architectural

1950 in spite of interruption during the wartime. "Kenchikugaku Kenkyu" had played important roles to develop the architectural knowledge in the early period of the School of Architecture at Kyoto University. We hope to take over the glorious tradition of it. This new magazine is

M2

石井 一貴

早川 健太郎

河合 容子

三浦 健

expected to be a core of various activities towards the 21st century. To discuss freely beyond each discipline is our pure intention in the beginning, as is shown in the name of"traverse". 1st of April, 2000

編集後記 『traverse――新建築学研究』は今年度で記念すべき創刊 20 号を迎え、特別企画として創刊 当時の編集委員による座談会を開き、「traverse」の志を再確認することができました。 本号では「欠落」というテーマのもと、様々な分野の第一線で活躍する先生方にインタビュー やエッセイの執筆をお願いいたしました。「欠落」という言葉を起点とした本号の内容は多岐に 渡り、「欠落」がもたらす様々な視点や活動を掘り下げる内容となっております。 本号を持ちまして書籍としての出版は最後となります。次号以降は電子書籍として出版する ことを予定しており、ますます多くの人々へ発信することを目指しています。 最後になりますが、本誌を刊行することができたのは、編集委員の先生方と寄稿者の方々の ご支援とご尽力によるものです。学生編集委員を代表して、ご助力いただいた関係者のみなさ まに心より感謝申し上げます。

学生編集長 宮原 陸

traverse 20 © 2019 Traverse Editional Committee 編集・発行 traverse 編集委員会 School of Architecture, Kyoto University, Kyoto, Japan 〒 615-8540 京都市西京区京都大学桂 京都大学建築系教室 www.traverse-architecture.com traverse 編集委員会 2020 年1月 30 日


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