西郷隆盛と土佐

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西郷隆盛と土佐

坂本龍馬とのつながり

坂本龍馬が薩摩藩出身の西郷隆盛と初めて対面したのは元治元(1864)年8月のことでした。これは、龍馬の師匠・勝海舟が西郷隆盛を称賛していたことに、龍馬はどんな人物だろうと興味を持ち、勝に願い出て実現しました。龍馬はその時の様子を勝に「西郷というやつは、わからぬやつでした。釣り鐘に例えると、小さく叩けば小さく響き、大きく叩けば大きく響く。」などと大胆な言葉遣いで報告したそうです。
慶応2(1866)年、龍馬や中岡慎太郎は幕府に対抗する勢力を作るため、激しく争い合っていた薩摩藩と長州藩を結びつけることを目指して動きます。薩摩藩の西郷と小松帯刀の両名と長州藩の桂小五郎(のちの木戸孝允)を会談させ、『薩長同盟』という偉業を達成しました。しかし、その2日後、龍馬は京・寺田屋で襲われ、手に大きなケガを負いました。のちに、龍馬と西郷はこの事件の様子を2人で大笑いしたことが龍馬直筆の書簡で残っています。西郷は龍馬に対して、京にいては命を狙われることや傷の養生も兼ねて、妻のお龍とともに薩摩へ向かうことをすすめました。龍馬らは霧島山や塩浸温泉などを巡り、ここで1か月ほど滞在し、後にこれが日本最初の新婚旅行と言われるようになりました。
その後、龍馬は薩摩と土佐で倒幕に向けた「薩土盟約」や、将軍徳川慶喜に対して政権の返還「大政奉還」をすすめるなど奔走し、時代は一気に進みました。
ところが、慶応3(1867)年11月、龍馬は京・近江屋にいるところを何者かに襲撃され、33歳の生涯を閉じました。龍馬の死を知った西郷は「土佐屋敷に入れておけばこんなことにならなかった」と残念がって泣いたといわれています。
龍馬と西郷の関係はわずか3年という短いものでしたが、2人の出会いと尽力は明治という新しい時代へ向かう大きな原動力になったのは間違いないことでしょう。

龍馬・西郷人間関係図

龍馬・西郷人間関係図

西郷隆盛が訪れた土佐

西郷は生涯に2回土佐を訪れています。最初は慶応3(1867)年2月で、薩摩藩主の父・島津久光の命を受け、土佐藩の前藩主・山内容堂と会見するためでした。山内容堂の別邸「散田邸」の中にあった「此君邸」で、西郷は薩摩藩が中心となって京で立ち上げる「四侯会議」への参加を容堂に依頼し、無事に約束を取り付けることができました。
この会見の地は、現在の高知市鷹匠町の旅館「三翠園」の敷地内にあります。当時に思いを巡らせながら園内を歩いてみてはいかがでしょうか。

【散田邸】高知市鷹匠町

【散田邸】高知市鷹匠町
もともとは土佐藩の家臣7人の屋敷があった所を山内容堂が家臣を移転させて設けたもので、約4,800坪もの広大な敷地を誇った。散田邸は明治期に拡充され山内家の本邸となったが、戦後は売却され、うち約3,000坪は三翠園の敷地となっている。

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