ことばの疑問

「分かる」と「知る」はどう違いますか

2018.08.29 砂川有里子

質問

集合写真を友達に見せながらその中の一人を指さして「この人だれか分かる?」と聞くようなときは、「分かる」の代わりに「知る」を使って「この人だれか知ってる?」と言うことができます。一方、顔の区別ができないくらいピントがぼけた集合写真を見せて「私がどれだか分かる?」と聞くようなとき、「私がどれだか知ってる?」と言うのはどこかおかしいと感じられます。それはなぜでしょうか。

「分かる」と「知る」はどう違いますか

回答

「分かる」の基本的な意味は、不明瞭な状態から明瞭な状態へと認知状態が変化することです。つまり、「分かる」は過去の経験やすでに持っている知識に照らし合わせたりすることによって、不明瞭な認知状態が明瞭な状態に変化することを表します。

一方、「知る」の基本的な意味は、知識のない状態から知識のある状態へと認知状態を変化させることです。つまり、「知る」は今まで持っていなかった知識を人から聞いたり自分で調べたりなどして新たに得ることを表します。

分かると知るの違い
図: 「基本動詞ハンドブック(http://verbhandbook.ninjal.ac.jp)」から

なお、「分かる」は「分からない状態から分かる状態になる」という変化を表すこともできますし、「現在すでに分かっている」という状態を表すこともできます。しかし、「知る」は「知らない状態から知っている状態になる」という変化しか表せず、「現在すでに知っている状態」を表すことはできません。「この人だれか分かる?」のように言うことができるのに、「この人だれか知る?」と言えないのはそのためです。こういうときには「この人だれか知ってる?」のように「〜て(い)る」の形にしなければなりません。また、「知る」に関してもう一つ面倒なことは、「知って(い)ない」という否定の形がないということです。「この人だれか知ってる?」という質問に対して否定の答えをするには「知ってない」ではなく「知らない」と言わなければなりません。この点は日本語を外国語として学ぶ人にとって注意しなければならない問題です。

さて、集合写真の中の一人を指さして、「この人はだれか」を友人に尋ねる場面に目を向けましょう。このようなとき、友人がすでに持っている知識に照らしてその人物を特定するよう求めることもできますし、その人物がだれそれであるという知識を友人が持っているかどうかを尋ねることもできます。「分かる」は前者、「知る」は後者の場合に使われます。

一方、ピンぼけの集合写真の中から「私」がどの人物かを特定するよう求めるときは、写真の中のどの人が「私」であるかという知識を友達があらかじめ持っているわけではありません。それなのに「知ってる?」と言って知識の有無を問うのは大変おかしなことです。この場合、友達は、「私」の顔立ちや背の高さなど、「私」に関してすでに持っている知識を動員してどの人物が「私」であるか判断するのですから「分かる」を使わなければなりません。

「分かる」は主体が内在的に持っている識別力や判断力を働かせることによって不明瞭な認知状態が明瞭なものへと変わることを表すのです。そのため、途中の変化の過程に焦点を当てて「日本語がだんだん分かるようになってきた」などと言うことが可能です。一方、「知る」の方は、知らない状態から知っている状態への一瞬の変化を表すものなので、変化の過程に焦点を当てて表現することはできません。「徐々に分かるよ」とは言えても「徐々に知るよ」とは言えないし、「ようやく分かってきた」とは言えても「ようやく知ってきた」と言えないのはそのためです。

また、「分かる」の否定形は、次のように、明瞭な状態であったものがなんらかの事情で不明瞭になってしまうことを表せます。

(1) 頭が混乱して何が何だか分からなくなってしまった。
(2) おばあちゃんは私がだれかもう分からないみたいだ。

しかし、「知る」の否定形は、知識がないことを表すのみで、知識を失うことは表せません。そのため、次の文は日本語として許容できないおかしな文となります(※の印は許容できない文であることを表します)。

(3)※考えれば考えるほど、何が何だか知らなくなった。
(4)※以前は知っていたが、今ではもう知らなくなった。

すでに述べたように、「分かる」は、主体が内在的に持っている識別力や判断力によって不明瞭な認知状態が明瞭なものへと変化すること、それに対して、「知る」は外部から知識を取り込むことによって知識のない状態からある状態へと変化させることを表します。一方、否定形の「分からない」は、認知状態に変化が起こせないこと、「知らない」は知識がない状態であることを表します。「いくら考えても分からない」とは言えるのに、「いくら考えても知らない」と言えないのは、一生懸命考えることと分からないことは条件と帰結の逆接的な関係で結びつきますが、一生懸命考えることと知識がないことはそのような関係で結びつけることができないからなのです。

書いた人

砂川有里子

砂川有里子

SUNAKAWA Yuriko
すなかわ ゆりこ●国立国語研究所 日本語教育研究領域 客員教授。筑波大学名誉教授。
専門は日本語教育のための文法研究、談話分析。
趣味はスキー、水泳、料理、読書、飲むこと、食べること、寝ること。
主要著書に『教師と学習者のための日本語文型辞典』(1998、くろしお出版、共著)、『文法と談話の接点─日本語の談話における主題展開機能』(2005、くろしお出版)、『日本語教育研究への招待』(2010年、くろしお出版、共編著)、『新日本語教育のためのコーパス調査入門』(2018、くろおしお出版、共著)がある。

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