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激しい暴風雨としけを乗り越えると目前に静かな海が広がった。「日の光によって色が変わる氷山が美しかった。でも船がぶつかったら一巻の終わりだ」。谷藤繁(85)は大洋漁業の捕鯨船乗組員として、南氷洋(南極海)を舞台にクジラを追った日々に思いをはせる。
敗戦によって、マルハニチロ前身の大洋漁業と日魯漁業など大手水産会社は大半の漁船と漁場を失った。その中で、大洋漁業創業者の中部幾次郎は「国民は食べ物に困っている。食料の生産こそ焦眉(しょうび)の急だ」と、終戦直後に大量の漁船建造を決断。1946年には南氷洋での捕鯨を再開した。戦後の食糧難の時代、谷藤にとって月1回程度配給される鯨肉は貴重なごちそうだった。「クジラを捕って腹いっぱい食べたい」。空腹を抱えていた少年谷藤は捕鯨船に乗る夢を膨らませ、57年に大洋に入社。希望通り捕鯨部に配属された。
11月になると、母船を中心に捕鯨船や冷凍船など約20隻で組織された大船団が全国各地の基地を出港し、南氷洋に向かう。乗組員は総勢約1500人。捕鯨船のマストの上から潮を吹くクジラを探して後を追い、大砲でもりを撃ち込む。捕獲したクジラは母船に運んで解体や加工をし、運搬船で日本に送られた。船上生活は翌年4月まで続く。
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