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あるときは捕手の後ろから、またあるときは投手の後ろから、一瞬たりとも白球から目を離さないのが野球の審判だ。誰よりも試合を見る役割を担い、最高峰のプロ野球で3000試合に出場したのは過去に19人しかいない。橘高(きったか)淳さん(60)は2022年にその節目に到達し、そしてグラウンドに別れを告げた。名物審判として知られた橘高さんに、選手とボールに目をこらし続けた40年近いアンパイア人生を振り返ってもらった。
プロとしてのキャリアを踏み出したのは選手としてだった。滋賀・瀬田工高を経てドラフト外で1981年シーズンに阪神に入団。捕手としてプレーしたが1軍の公式戦出場がないまま、83年に戦力外となった。
翌年はブルペン捕手などとして残り、もう一度支配下登録を目指すもかなわず退団した。退寮の際、当時の寮長から「審判になったらいい」と声をかけられたが、ひとまず滋賀の実家に戻った。親戚のつてを頼ってスーパーでアルバイトをしていると、寮長からもう一度、「審判になれ。銀座のセ・リーグの事務所に行ってこい」と電話があった。あまり乗り気ではなかったが、面接に行くとなぜか合格した。
85年に日本野球機構(NPB)審判部に入局。当初は先輩の審判とともに練習して、動作や判定の基準を学習。プロ球団のキャンプにも出向き、少しずつ経験を積んだ。初めて審判を務めたのは阪急(現オリックス)の2軍戦だった。グラウンドは、阪急の本拠地で兵庫県西宮市にあった西宮球場近くの西宮第2球場。もう取り壊されてしまったが、スタンドのない簡素な造りや遠くに名神高速道路が見える風景は今も、鮮明に覚えている。
「今思うと楽しかったな」と振り返りつつも、大変だった思い出も多いという。その一つが、選手や監督に退場を告げることだ。例えば…
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