写真特集

終戦直後の「食」 配給だけでは生きられなかった(2008年8月掲載)

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  • 壕舎の屋根に実る南瓜・東京麻布=1945年11月撮影
    壕舎の屋根に実る南瓜・東京麻布=1945年11月撮影
  • 農家へ買い出し=1945年11月撮影
    農家へ買い出し=1945年11月撮影
  • 超満員の買い出し列車=1945年撮影
    超満員の買い出し列車=1945年撮影
  • 家庭菜園のいも掘り=1945年11月撮影
    家庭菜園のいも掘り=1945年11月撮影
  • さつまいもの配給風景=1945年11月撮影
    さつまいもの配給風景=1945年11月撮影
  • 配給所を米軍が視察=1945年撮影
    配給所を米軍が視察=1945年撮影
  • 終戦直後、人々は食料不足に悩まされた。新橋駅前にトラックで野菜を運び込んでの安売りには長い行列が。回りにはヤミ市も=1945年12月撮影
    終戦直後、人々は食料不足に悩まされた。新橋駅前にトラックで野菜を運び込んでの安売りには長い行列が。回りにはヤミ市も=1945年12月撮影
  • 満員列車の屋根に上り窓から荷物の買い出し=1945年11月撮影
    満員列車の屋根に上り窓から荷物の買い出し=1945年11月撮影
  • ヤミ市・浅草の露店でうどんを食べる人たち=1945年12月撮影
    ヤミ市・浅草の露店でうどんを食べる人たち=1945年12月撮影
  • 日本の家庭ですき焼きを囲む米軍将校と接待の日本女性=1945年11月20日撮影
    日本の家庭ですき焼きを囲む米軍将校と接待の日本女性=1945年11月20日撮影
  • 朝鮮からの復員兵。無料乗車券で特別列車に乗り出身地へ。国鉄の輸送力は落ちて列車の発車時間は大幅に遅れ、ホームで食事=1945年10月13日撮影
    朝鮮からの復員兵。無料乗車券で特別列車に乗り出身地へ。国鉄の輸送力は落ちて列車の発車時間は大幅に遅れ、ホームで食事=1945年10月13日撮影
  • ヤミ市の焼き鳥屋=1945年撮影
    ヤミ市の焼き鳥屋=1945年撮影
  • 主食のいもの配給に長い行列=1945年11月撮影
    主食のいもの配給に長い行列=1945年11月撮影
  • 放出物資に喜ぶ子供たち=1946年撮影
    放出物資に喜ぶ子供たち=1946年撮影
  • 雑居住宅でスイトンをつくる=1946年5月撮影
    雑居住宅でスイトンをつくる=1946年5月撮影
  • 手製電気パン焼器でパンを焼く子供=1946年撮影
    手製電気パン焼器でパンを焼く子供=1946年撮影
  • 熊谷市議会が放出食糧でマ元帥に感謝状。日本各地で放出食糧に対する感謝決議が行われた=1946年8月27日撮影
    熊谷市議会が放出食糧でマ元帥に感謝状。日本各地で放出食糧に対する感謝決議が行われた=1946年8月27日撮影
  • 米国からの缶詰の陸揚げ=1946年7月3日撮影
    米国からの缶詰の陸揚げ=1946年7月3日撮影
  • 食糧営団で代替配給の飢餓突破パン=1946年6月20日撮影
    食糧営団で代替配給の飢餓突破パン=1946年6月20日撮影
  • 進駐軍放出の小麦の配給に並ぶ市民=1946年7月撮影
    進駐軍放出の小麦の配給に並ぶ市民=1946年7月撮影
  • ショーウインドのケーキにつばを飲む子供ら。敗戦の子供たちには高根の花だった=1946年6月撮影
    ショーウインドのケーキにつばを飲む子供ら。敗戦の子供たちには高根の花だった=1946年6月撮影
  • ヤミ市の雑炊にむらがる庶民。新円切替直前で、ヤミ値は公定価格の数十倍、うどん1杯10円(18銭)米1升80円(2円73銭)=1946年2月撮影
    ヤミ市の雑炊にむらがる庶民。新円切替直前で、ヤミ値は公定価格の数十倍、うどん1杯10円(18銭)米1升80円(2円73銭)=1946年2月撮影
  • 戦災孤児・板橋収容所で裸で食事=1946年撮影
    戦災孤児・板橋収容所で裸で食事=1946年撮影
  • 米よこせデモ。世田谷区民のデモが初めて赤旗を掲げ坂下門をくぐり決議文を手渡したが、この日回答を求めて約400名が夕方まで坂下門に=1946年5月14日撮影
    米よこせデモ。世田谷区民のデモが初めて赤旗を掲げ坂下門をくぐり決議文を手渡したが、この日回答を求めて約400名が夕方まで坂下門に=1946年5月14日撮影
  • 食糧メーデー・赤ん坊を背負った主婦の訴え=1946年5月19日撮影
    食糧メーデー・赤ん坊を背負った主婦の訴え=1946年5月19日撮影
  • 食糧メーデー・ボクタチハオナカペコペコ。お腹のすいた少年少女のプラカード=1946年5月19日撮影
    食糧メーデー・ボクタチハオナカペコペコ。お腹のすいた少年少女のプラカード=1946年5月19日撮影
  • 食糧メーデーに25万人参加・皇居前広場=1946年5月19日撮影
    食糧メーデーに25万人参加・皇居前広場=1946年5月19日撮影
  • 進駐軍放出のチョコレートに喜ぶ孤児=1946年9月撮影
    進駐軍放出のチョコレートに喜ぶ孤児=1946年9月撮影
  • 食糧危機について放送録音される陛下。食糧危機についてのご放送は5月24日、ラジオを通じて全国に流された=1946年5月23日撮影
    食糧危機について放送録音される陛下。食糧危機についてのご放送は5月24日、ラジオを通じて全国に流された=1946年5月23日撮影
  • 米の欠配は続き、夏の暑いさなか、栄養失調状態で、ただ寝ているだけの母子。昭和21年度の稲作は、戦前の平年作の半分余という不出来で、日本の戦後は飢えとの闘いから始まった。主食の欠配・遅配が続いたが、ヤミ市場では牛乳もバターも砂糖も手に入った。「1000万人餓死説」の流れる中、生きてゆくために、庶民はその糧を、買い出しとヤミ市に頼る「タケノコ生活」を余儀なくされた
    米の欠配は続き、夏の暑いさなか、栄養失調状態で、ただ寝ているだけの母子。昭和21年度の稲作は、戦前の平年作の半分余という不出来で、日本の戦後は飢えとの闘いから始まった。主食の欠配・遅配が続いたが、ヤミ市場では牛乳もバターも砂糖も手に入った。「1000万人餓死説」の流れる中、生きてゆくために、庶民はその糧を、買い出しとヤミ市に頼る「タケノコ生活」を余儀なくされた
  • 大きなリュックをかついだ買い出し部隊=1947年7月撮影
    大きなリュックをかついだ買い出し部隊=1947年7月撮影
  • ナベを持った主婦たちが配給の行列=1947年10月撮影
    ナベを持った主婦たちが配給の行列=1947年10月撮影
  • 家庭の厳しい食生活=1947年6月撮影
    家庭の厳しい食生活=1947年6月撮影
  • 食糧不足で閑散とした配給所=1947年撮影
    食糧不足で閑散とした配給所=1947年撮影
  • 進駐軍放出缶詰の展示会を見る子供=1947年7月撮影
    進駐軍放出缶詰の展示会を見る子供=1947年7月撮影
  • 少年の村、萩山学園で食事をする戦災孤児=1947年5月撮影
    少年の村、萩山学園で食事をする戦災孤児=1947年5月撮影
  • 風呂場から押収される闇米手入れ=1947年撮影
    風呂場から押収される闇米手入れ=1947年撮影
  • 上野駅前の都電線路わきの麦畑=1947年6月撮影
    上野駅前の都電線路わきの麦畑=1947年6月撮影
  • 名古屋郊外の農家の子どもたちは、親が市場へ出荷する大根を、オヤツに食べている=1947年11月26日撮影
    名古屋郊外の農家の子どもたちは、親が市場へ出荷する大根を、オヤツに食べている=1947年11月26日撮影
  • 配給所には主婦が長蛇の列。配給だけでは命をつなぐことが出来ないほど少量だった=1947年撮影
    配給所には主婦が長蛇の列。配給だけでは命をつなぐことが出来ないほど少量だった=1947年撮影
  • 壕舎の屋根に実る南瓜・東京麻布=1945年11月撮影
  • 農家へ買い出し=1945年11月撮影
  • 超満員の買い出し列車=1945年撮影
  • 家庭菜園のいも掘り=1945年11月撮影
  • さつまいもの配給風景=1945年11月撮影
  • 配給所を米軍が視察=1945年撮影
  • 終戦直後、人々は食料不足に悩まされた。新橋駅前にトラックで野菜を運び込んでの安売りには長い行列が。回りにはヤミ市も=1945年12月撮影
  • 満員列車の屋根に上り窓から荷物の買い出し=1945年11月撮影
  • ヤミ市・浅草の露店でうどんを食べる人たち=1945年12月撮影
  • 日本の家庭ですき焼きを囲む米軍将校と接待の日本女性=1945年11月20日撮影
  • 朝鮮からの復員兵。無料乗車券で特別列車に乗り出身地へ。国鉄の輸送力は落ちて列車の発車時間は大幅に遅れ、ホームで食事=1945年10月13日撮影
  • ヤミ市の焼き鳥屋=1945年撮影
  • 主食のいもの配給に長い行列=1945年11月撮影
  • 放出物資に喜ぶ子供たち=1946年撮影
  • 雑居住宅でスイトンをつくる=1946年5月撮影
  • 手製電気パン焼器でパンを焼く子供=1946年撮影
  • 熊谷市議会が放出食糧でマ元帥に感謝状。日本各地で放出食糧に対する感謝決議が行われた=1946年8月27日撮影
  • 米国からの缶詰の陸揚げ=1946年7月3日撮影
  • 食糧営団で代替配給の飢餓突破パン=1946年6月20日撮影
  • 進駐軍放出の小麦の配給に並ぶ市民=1946年7月撮影
  • ショーウインドのケーキにつばを飲む子供ら。敗戦の子供たちには高根の花だった=1946年6月撮影
  • ヤミ市の雑炊にむらがる庶民。新円切替直前で、ヤミ値は公定価格の数十倍、うどん1杯10円(18銭)米1升80円(2円73銭)=1946年2月撮影
  • 戦災孤児・板橋収容所で裸で食事=1946年撮影
  • 米よこせデモ。世田谷区民のデモが初めて赤旗を掲げ坂下門をくぐり決議文を手渡したが、この日回答を求めて約400名が夕方まで坂下門に=1946年5月14日撮影
  • 食糧メーデー・赤ん坊を背負った主婦の訴え=1946年5月19日撮影
  • 食糧メーデー・ボクタチハオナカペコペコ。お腹のすいた少年少女のプラカード=1946年5月19日撮影
  • 食糧メーデーに25万人参加・皇居前広場=1946年5月19日撮影
  • 進駐軍放出のチョコレートに喜ぶ孤児=1946年9月撮影
  • 食糧危機について放送録音される陛下。食糧危機についてのご放送は5月24日、ラジオを通じて全国に流された=1946年5月23日撮影
  • 米の欠配は続き、夏の暑いさなか、栄養失調状態で、ただ寝ているだけの母子。昭和21年度の稲作は、戦前の平年作の半分余という不出来で、日本の戦後は飢えとの闘いから始まった。主食の欠配・遅配が続いたが、ヤミ市場では牛乳もバターも砂糖も手に入った。「1000万人餓死説」の流れる中、生きてゆくために、庶民はその糧を、買い出しとヤミ市に頼る「タケノコ生活」を余儀なくされた
  • 大きなリュックをかついだ買い出し部隊=1947年7月撮影
  • ナベを持った主婦たちが配給の行列=1947年10月撮影
  • 家庭の厳しい食生活=1947年6月撮影
  • 食糧不足で閑散とした配給所=1947年撮影
  • 進駐軍放出缶詰の展示会を見る子供=1947年7月撮影
  • 少年の村、萩山学園で食事をする戦災孤児=1947年5月撮影
  • 風呂場から押収される闇米手入れ=1947年撮影
  • 上野駅前の都電線路わきの麦畑=1947年6月撮影
  • 名古屋郊外の農家の子どもたちは、親が市場へ出荷する大根を、オヤツに食べている=1947年11月26日撮影
  • 配給所には主婦が長蛇の列。配給だけでは命をつなぐことが出来ないほど少量だった=1947年撮影

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