孫に語る日本国の建国の物語 目次
2、天未だ明けざる時に出でて政を聴く
週刊やすいゆたか再刊13号16年2月19日
絵里:お爺ちゃんさ、6世紀末に太陽神信仰があったとか、なかったとか直ぐ神様の話持ち出すでしょう。私達、あまり宗教に関心ないの、別に古代の人がどんな神を祀っていようが、そんな大した問題じゃないような気がするわけ。だいたいが神様に手を合わせて頼んだって、それでどうなるわけでもないでしょう。雨乞いなんてしたって、雨が降る条件にならないと、いくらお祈りしたって降らないものは降らないんだから。
やすい:そりゃあそうだね。ところで太陽神の名前は知ってるの?
弘嗣:天照大神だったかな?
絵里:ピンポン、正解よ。ところで弘嗣は天照大神を見たことがあるの?
弘嗣:ええ?お姉ちゃんは見たことあるの?僕はみたことないよ。太陽を見ても天照大神なんてみえやしないもの。
平原遺跡出土品の八咫鏡、円周は八咫(約一四六センチ)
ご神体は見たらいけないんだって、だから天照大神はだれも見たことがないそうよ、ああ、伊勢神宮で説明では明治天皇がご覧になったけれど、これは子孫の天皇は見てはいけないと仰ったそうよ。
やすい:じゃあ、絵里ちゃんも天照大神は見たことがないのかい?爺ちゃんはあるよ。
絵里:嘘でしょー、天皇陛下でも見てはいけないというのに、どうしてお爺ちゃんが見れるのよ。
やすい:毎日、お天道様を見ているだろう、あれが天照大神なんだよ。
弘嗣: お天道様って、太陽のこと?あれは天体でしょう。恒星の一つだよね。神様じゃないでしょう。
やすい:それじゃあ、天照大神が太陽の中に太陽の霊として入っていると思っているんだね。
絵里:ええ、古代の日本人は信心深くて、いろんなものに神の霊が宿っていると信じていたんでしょう。それをなんていうか知ってる?
弘嗣:八百万の神々だろう。全ての物に霊が宿っているというのをアニメーションじゃなかった、何て言うんだった。
絵里:それは惜しいわね。アニメーションというのは動く絵のことでしょう。霊魂を意味する古代ラテン語の「アニマ」に由来するのよ。元々霊魂というのは「活気」「動性」の意味だったのね。だから磁石だってアニマがあると言われたの。それで万物に霊が宿っている捉え方を「アニミズム」言うらしいわ。物と霊がいつもセットになっているので万物霊有説とか物心二元論とかいうのでしょう。それが 日本の古い伝統だって教わってきたんだけれど。
本居宣長
やすい:その常識が実は大きな間違いなんだ。『古事記』の本文には「霊」という言葉 は一度も出てこないんだよ。たしかに霊が巫女に降りるような沙庭という憑霊儀礼は出てくるけれど、万物に霊が宿っているという表現はないんだ。むしろ神は人間にとって凄いもの、大切なもの、恐ろしいもの、どうしようもなくて、手を合わせるしかないものなんだ。江戸時代の国学者の代表格の本居宣長は『古事記伝』でこう説明している。
「さて凡て迦微とは、古御典等に見えたる天地の諸の神たちを始めて、其を祀れる社に坐す御霊をも申し、又人はさらにも云わず、鳥獣木草のたぐひ海山など、其余何にまれ、尋常ならずすぐれたる徳のありて、 可畏き物を迦微とは云ふなり、(すぐれたるとは、尊きこと善きこと、功しきことなどの、優れたるのみを云に非ず、悪きもの奇しきものなども、よにすぐれて可畏きをば、神と云なり、さて人の中の神は、先づかけまくもかしこき天皇は、御世々々みな神に坐すこと、申すもさらなり、其は遠つ神とも申して、凡人とは遥に遠く、尊く可畏く坐しますが故なり、かくて次々にも神なる人、古も今もあることなり、又天の下にうけばりてこそあらね、一國一里一家の内につきても、ほどほどに神なる人あるぞかし、さて神代の神たちも、多くは其代の人にして、其代の人は皆神なりし故に、神代とは云なり、 又人ならぬ物には、雷は常にも鳴る神神鳴りなど云へば、さらにもいはず、龍樹靈狐などのたぐひも、すぐれてあやしき物にて、可畏ければ神なり、(中略)又虎をも狼をも神と云ること、書紀万葉などに見え、又桃子に意富加牟都美命と云名を賜ひ、御頸玉を御倉板擧神と申せしたぐひ、又磐根木株艸葉のよく言語したぐひなども、皆神なり、さて又海山などを神と云ることも多し、そは其の御霊の神を云に非ずて、直に其の海をも山をもさして云り、此れもいとかしこき物なるがゆゑなり、)」
絵里:なるほど「其の御霊の神を云に非ずて、直に其の海をも山をもさして云り、此れもいとかしこき物なるがゆゑなり」とあるから、自然物がそのまま神ということね。ということは太陽がお天道さまと呼ばれるように、天照大神と呼ばれて拝まれていたわけね。
弘嗣:そういえば、初日の出を拝むとかいう場合に、太陽自体を拝んでいるんで、そこにいる太陽霊を区別して拝んでいるなんて感覚はないものね。
二見が浦夫婦岩の日の出
絵里:そういえばグアムなどで、夕陽が沈むのを見て涙が出るっていうけれど、太陽自体を神と感じているのかもね。じゃあどうして神は物に宿る霊だと思っていたわけ、それはひょっとして仏教やキリスト教の影響なの?
やすい:仏教で絵里ちゃんが霊魂といえば、生まれ変わる輪廻転生のことを連想していると思うけれど、仏教自体は不滅の実体として霊魂の存在は否定しているんだよ。つまり生きとし生けるものを含めてすべての事象には不滅の実体であるアートマン(我)なんて存在しないというのがお釈迦様の考え方だ。これを諸法無我とか、「無我の真理」と呼んでいる。だから輪廻転生は、仏教が否定した考えだとも言える。でも実際には仏教はいろんな人がいろんな説き方をしていて、生まれたり死んだりするのも大いなる生命が姿を変えていると捉えれば、輪廻転生も言えなくないし、地獄も極楽も修羅や畜生だって、生きている人間の精神状態として説明されないこともないんだ。
絵里:試験で欠点とったりしたら地獄だし、桜満開を見たら極楽の気分というやつ、いつもプリプリ腹が立っていたら修羅だし、がつがつしたたら餓鬼だし、どら焼き食べたいという衝動で理性のコントロールが利かなくなったら畜生というわけね。ところで輪廻転生の思想は、元々はアートマンは不死だってバラモン教やヒンドゥー教の思想にあって、それがギリシアにも伝わったのでしょう。
弘嗣:不死の魂があって、それが死体から出てきて災いをもたらさないように、縄文時代の屈葬があったと説明されたんだけれど。
やすい:不死願望は強いからね。肉体が滅んでそれでおしまいでははかなすぎる。そこで肉体の一部は不死だという発想が生じたんだ。それが霊とか魂とか呼ばれる。それらは大八洲では、物と対極の精神として捉えられていたのではなくて、命の塊としての物なのだ。むしろ純粋な物質だな。もしさ、霊魂が肉体から抜けだしたら体重は減ると思う?
絵里:もし魂が非物質的な精神的実体だったら、質量はないので減らないけれど、肉体の不死の部分として魂が捉えられていたら、霊魂が抜けると体重は減っちゃうわね。
弘嗣:ややこしいな。つまりこういうことかな、整理してみるよ。物質と精神を対極に捉え、霊を精神に分類しちゃうと、霊が物質にとりつくアニミズムになるということだね。お爺ちゃんが日本の古代はアニミズム的傾向は少ないというのは霊が肉体の不死の部分としてむしろ純粋な物質として捉えられていたということになるわけだね。そして日本の古代の場合に対象が神であるかどうかは、霊が宿っているかどうかだけでなく、信仰する人にとって、大切なものとかすごいもの、恐ろしい物、頼らざるを得ないもの、手に負えない物みたいな物のあり方で決まっているので、その点もアニミズムとはいえないということだろう。
やすい:弘嗣君、なかなかやるねえ。見事な整理だよ。日本では縄文時代から異界信仰はあったといわれている。つまり身体には不死の部分があって、心肺停止になっても、その部分だけは生きていて、屍から抜け出し、蝶や鳥に変身して異界に向かうという信仰だ。天で面対称になっていて、高い山から天に至ると今度はこの世と同じような世界があって、そこでまた生まれるということになっている。それで異界で死んだらまたこの世界に戻ってくるという信仰だな。
絵里:漁民などでは魚になって異界に行くというとらえ方もあるのでしょう。でも異界に行って戻ってきた記憶がきちんとある人がいたわけじゃないから、そういう説話があるだけで、死んだら霧になったり雲になったり風になったりして、あるいはそれこそ土になったり水になったりする形で自然に戻ると受け止められていたわけね。それで『千の風になって』という歌が多くの支持を集めたって聞いたことあるわ。
弘嗣:それじゃあ、不死じゃない肉体が死んだら分解されて土や水にかえるのと同じことになっちゃって、不死の霊や魂といった不死信仰にはならないね。
盤古開天
やすい:弘嗣君、その批評も鋭いな。まあ人間の霊が霧になったり、雲になったりして いるということで、自然を人間の霊によって作られていると捉えることになるだろう。つまり宇宙の根源に人間の霊を置くことになるね。これは古い宇宙生成説話で、プルシァ(原人)型なんだ。つまり巨人が先に存在して、その巨人が解体してそれが太陽や星や大地になったとか、人々になったとかいう説話が世界各地にあるわけだ。
弘嗣:へぇ~、宇宙の根源に巨人がいるってどういうことなんだろう。
絵里:人間が宇宙の根源にあれば、人間の願いや祈りが宇宙に届くということだから、お呪い祈祷も効き目があるといういうことでしょう。人間は全能でありたいという願望があって、そういう説話を作ったということでしょう。
弘嗣:ところでさ、天照大神は太陽なんだけれど、その天照大神は神話ではどのようにして誕生したの?
絵里:それはね伊邪那岐神(いざなぎのかみ)の左目から生まれたのよ、伊邪那岐神が奥さんの伊邪那美神(いざなみのかみ)が亡くなって寂しいから黄泉の国に取り戻しに行ったんだけれど、見ちゃあいけないと言われていたのに、伊邪那美神の 変わり果てた醜い姿を見てしまって、恐ろしくて逃げ出して、黄泉の国の入り口を岩で塞いでしまったの。そして黄泉の国の穢れを河口で洗い流したの、その時にいろんな神が生まれたのだけれど、最後に三柱の貴い神つまり三貴神(みはしらのうずみかみ)を生んだわけ。左目を洗った時に太陽である天照大神が、右目を洗った時に月である月讀命が、そして最後にハックションと大きなくしゃみをされた時に嵐である須佐之男命が生まれたのよ。
弘嗣:じゃあさあ、それまで太陽はなかったということ、明かりはどうしてたの?それに熱がないから地上は氷の世界だよ。
やすい:弘嗣君、ア、痛、痛いとこ衝くね、そこはうまく説明できていないところだ。ただ天体の太陽が天照大神なんだけれど、天照大神が人間になって国造りをしなければいけないので、人間として誕生する神話が必要になったわけで、伊邪那岐神の黄泉帰り神生み伝承が作られたわけだ。
絵里:ええ、天照大神って人間なの、神でしょう。天照大神が人間だなんて言ったら、笑われちゃうわよ。お爺ちゃん、ボケてきたんじゃないの?人間の姿で神になる現人神というのは神武天皇とか何々天皇とか支配者を神格化してそういうのじゃないの。
やすい:天皇が何の神格化が大問題なんだが、『古事記』や『日本書紀』では初代天皇はだれだか知ってるかい?
絵里:そりゃあ神倭磐余彦命(かむやまといわれひこのみこと)つまり神武天皇だったってことになってるのでしょう。
やすい:どういう資格で大和政権を建てたことになっているの?
弘嗣:漫画日本史で読んだところでは、天照大神の孫である邇邇藝命の曾孫ということになっているからだろう。
やすい:じゃあ、神武天皇が人間だったら、その曽祖父の邇邇藝命も人間だし、その祖母ということになっている天照大神も人間ということになるじゃないか?
絵里:一般庶民だったらその理屈でいいけれど、これは神話だから、天皇家だけは特別で祖先が神だから特別尊い家系だということにしているのよ。天皇家の支配の正統性をそういう神話を作って訴えているの。
弘嗣:じゃあさあ、邇邇藝命が天降りしたことになっているのでしょう。その時は人間の姿をしていたの?
絵里:邇邇藝命というのは「にぎわう」ということで穂が多く実る豊穣の神でしょう。高千穂峰に降りてきて、宮をつくり筑紫(九州)を支配したということだから、その時は人間の姿をした現人神だったことにしたんじゃないの。
弘嗣:じゃあそのお父さんは人間の姿をしていなかったの?
やすい:忍穂耳命(おしほみみのみこと)のことだね。彼も穂がたくさんできるという豊穣の神だけど、邇邇藝命のお父さんとしては人間の姿だったんじゃないかな?
弘嗣:じゃあ天照大神だって太陽だけれど人間の姿をしていたのじゃないの?
やすい:そういうことだな。つまり倭人の信仰は自然を神とする自然信仰なんだけれど、その神の力で人々を支配し、歴史を形成するときは自然神は人間の姿をとって現れて現人神(あらひとがみ)になるんだ。
絵里:でも天照大神は高天原という天空にいるのだから、人間の姿をする必要はないのじゃない。
やすい:確かに天体としては、太陽は空を回っているのだけれど、この前に言ったように、大和政権では西暦六世紀末までは主神は天照大神ではなかったので、高天原という現人神が住んでいるところには天照大神はいなかったことになっていたんだ。
弘嗣:ええ!じゃあ天空と高天原はまた別なんだ。
絵里:お爺ちゃん、大丈夫?頭のネジ外れてない?『古事記』でもちゃんと伊邪那岐神は天照大神に「高天原を知らせ(支配せよ)」と書いてあるし、『日本書紀』では地上にいると眩しすぎるから天上にあげると書いてあるじゃない。
やすい:だからそれは天照大神を主神・皇祖神に格上げしたので、最初からそうだったように七世紀のはじめに説話を改変したんだ。
絵里:嘘、弘嗣、それは嘘よ、お爺ちゃんのいうこと信じちゃダメよ。そんな重大なことだったらちゃんと歴史の教科書や研究書に書いてある筈でしょう。
やすい:もともと伊邪那岐神が三貴神を生んだ時に大八洲と当時呼ばれていた日本列島を支配させるために三貴神を生んだということになっていたんだ。その名残が『古事記』や『日本書紀』や『先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)』などにあるんだ。
『古事記』では「此時伊邪那伎命大歡喜詔。吾者生生子而。於生終得三貴子。この時伊邪那伎命いたく歡喜(よろこば)して詔(のりたまは)くに、私は子を生み生みて、生みの果てに三柱の貴(うず)御子を得た」となっている。「大歓喜」しているんだ。
弘嗣:どうして特別の三貴神なのかってことが問題なのでしょう。
やすい:いい勘してるじゃない、さすがだね。『日本書紀』にはこう説明しているんだ。
「既而伊弉諾尊・伊弉冉尊、共議曰『吾已生大八洲國及山川草木。何不生天下之主者歟。』
既にイザナギ・イザナミの尊、共に議して曰く『吾は既に大八洲国および山川草木を産めり、何ぞ天の下の主である者を生まざらんや』」
つまりさ、イザナギ・イザナミの夫婦神は陰陽の和合で大八洲や自然を生んだことになっている。これは倭人の祖先であるイザナギ・イザナミが壱岐・対馬を拠点にして、朝鮮半島南端にあった高天原と大八洲を仲介して、未開の大八洲に文明をもたらしたということなんだ。それでその仕上げとして、大八洲の人々をまとめ上げて支配する「天の下の主(あるじ)である者」つまり三柱の神に建国させようということだな。
『日本書紀』にはこうも書いてあるんだ。「一書曰、伊弉諾尊曰『吾欲生御宇之珍子。』」一書に曰く、イザナギ尊曰く『吾は天之下を治めるべき立派な子を産まんと欲す」これは『先代旧事本紀』で「御寓之珍子」となっているが同じ意味だろう。
絵里:なあに「御宇之珍子」とか「御寓之珍子」って?これでも日本史や漢文では学校ではトップクラスなんだけど。
やすい:宇宙の宇だから、「宇」は「天下」つまり地上の世界だ。「寓」は「寓居」 の寓で仮の住処という意味で、仏教ではこの世界は仮の宿と捉えているから、やはり「天下」という意味だ。「御」は「御者=馭者」の「御」でコントロールする制御し、支配するという意味なんだ。「珍」は「貴」と同じ意味で、「珍子」は「貴子」つまり貴い子、「うづみこ」という意味だな。
絵里:それで三貴神を大八洲に派遣するということだから、天空には上げられていないということね。じゃあ天空を回る天照大神と、大八洲に派遣される現人神の天照大神と同時に二つあることになるじゃない?それって矛盾しているでしょう。
弘嗣:太陽という天体と天照大神だという人物がいて、そのどちらも天照大神という一つの存在ということでしょう。しかも天照大神の場合は「八咫(やた)の鏡」もご神体なので、三つの別々の姿の神が一つの神だってことになりますね。
やすい:科学的には確かに矛盾ですね。あり得ないのですが、宗教心理学では同一視という心の働きで説明されます。例えば陽子ちゃんという明るい性格の子がいて、その子がいるとそのクラスの雰囲気がパッと明るくなるような子が急に引っ越していなくなるとクラスの皆が沈み込んでしまい、日が消えたみたいだということってあるでしょう。あっそうだ倍賞千恵子の『下町の太陽』というのをかけてみよう。
絵里:つまりだれかがその地域にやってきて、熱と光をもたらすように人々を指導し、信頼を集めると、自分たちの太陽として崇められ、天照大神として信仰されるということね。
草香(孔舎衙)津
やすい:そのためには太陽をイメージさせるような鏡をもって光の儀礼を行い、太陽の運行によってどの山から日が昇ると田植えをするとか暦をつくって指導すればいいわけだ。それがうまく行けば頼られて天照大神として信仰を集め、収穫の何割かを貢ぐようになれば、神政政治のミニ国家が出現して評判次第で広がっていくことなる。
弘嗣:それじゃあ、三貴神が建国神なら、その筆頭の天照大神が海降って河内湖にやって来たんだね。それは高天原から来たの?
やすい:伊邪那岐神は壱岐・対馬を中心に海原の国を作っていたので、壱岐・対馬から来たのだろう。対馬にアマテル神社があるから対馬からかもしれないね。それで河内湖の辺りに草香津という船着場があり、その近くに宮を構えたらしい。