長崎は、1571年の開港から450年という歴史があり、日本初、発祥のものが数多くあります。その一つ、ちゃんぽんの発祥地「四海楼」の前に 「わが国ボウリング発祥の地」の記念碑があります。長崎県ボウリング連盟の事務局から200m程の距離です。
長崎県ボウリング連盟の事務局は、以下の場所にあります。
この記念碑から大浦天主堂の方に70m程上ったところには、もう一つこんなものもあります。「ボウリング日本発祥地」と刻まれた石碑です。
いったい、なぜボウリングの発祥地が2か所もあるのでしょうか?
佐世保市出身の髙田 誠さんは、グラバー通りの「ボウリング発祥の碑」に疑問を抱き、永年、独自に研究を進められてきました。
2017年12月13、14、15日、長崎市を訪れ、本連盟理事で長崎県トップアドバイザーの山下知且氏とともに、長崎歴史文化博物館、長崎大学付属図書館、 出島、松が枝町・大浦周辺、広馬場通り周辺を調査。また、長崎史談会の村崎春樹氏、長崎出島歴史スタッフの中村俊郎氏に面会、指導を受けるなどの 取材を行われました。
取材中の髙田誠氏と山下知且氏
そして2020年9月、その成果を「ふるさと長崎『ボウリング発祥の地の謎』第一次ボウリングブームは幕末の長崎だった」 という一冊の本にまとめられました。
髙田誠氏のご厚意により、以下にその内容の一部をご紹介します。
表紙イラスト:幕末明治の『長崎ボウリング倶楽部』想像画 山口英昭氏
※ 著者紹介
髙田 誠さんは、日本人初のドリラーとして有名な方で、千葉県松戸市でプロショップを経営。 JOC日本オリンピック委員会 情報・戦略 強化スタッフも務めておられましたが、残念ながら令和3年9月5日逝去されました。
このホームページの中には「ボウリング発祥の地の謎」の他、興味深いお話がたくさんあります。 ぜひご覧ください。
・・・・インターナショナル・ボウリング・サルーン・・・・
ボウリングが日本に最初に伝わってきたのは幕末の長崎だったことは 間違いない。しかし、本当の最初のレーン設置は、 いったい長崎の何処だったのだろうか・・・・・・? 疑問がある。
従来の歴史上ではインターナショナル・ボウリング・サルーンが最初。場所は英字新聞の挨拶広告にあるようにナガサキ・ ヒロババ・ストリートとされている。現在の籠町である。その規模や正確な番地は不明。 開業挨拶は文久元年(1861年)6月22日。経営者アメリカ人のヘンリー・ギブソン氏。 調査の結果、ヘンリー・ギブソン氏は、後にエクスプレス・ホテル(下り松36番地)という小規模ホテルのオーナーでもあった。
日本最初のボウリング場を撮影したと云われてきた古写真。
中央のバルコニー付きの建物が、ボウリング場だと云われてきたが、これは間違いだった。
ここは大浦11番地サガリマツ橋。
撮影時期1870年(明治3年)撮影・上野彦馬(長崎大学付属図書館所蔵)
筆者が研究している、ボウリング日本渡来の歴史について、NHKで既に半世紀前に放映されていることを突き止めた。
ところが取材を続けているうちに意外な事実が判明。
今まで、昭和49年(1974年)に放映されたNHK『文久元年のボウリング』を原点として、日本ボウリング振興協議会から出版された 『日本におけるボウリング30年の歩み』や『THE BOWLING』をはじめとする多くの出版物やインターネット上に引用されてきた 日本最古のボウリング場として発表されている古写真は間違っていたのだ。実は、この古写真は明治3年(1870年)に、日本最初の写真師と言われている 上野彦馬が松ヶ枝突堤の税関方向から初代の下り松橋(昔はサガリマツ橋と呼んだ)を撮影した写真であり、 ヒロババではないことを長崎大学附属図書館の膨大な写真資料の中から発見した。
この間違い点は、4名の学者の確認も頂いた。この写真の場所は大浦11番地。英字新聞広告に記載されているヒロババ・ストリートとは数キロ離れている。
1870年、上野彦馬がこの初代下り松橋の完成を記念して撮影したのであろう時期の居住者を長崎居留地外国人名簿の中から発見した。 橋の背後の右側にある洋館は、大浦11番Aの三角地であり、1870年4月の居留人名簿によると、リンガー商会。 その頃フレドリック・リンガー氏は、この三角地の事務所で商売を始めていた。 大浦11番地Aは、海岸通りと大浦川の端にある三角形の土地で、海岸通りの高価な借地料から免れながらも海岸に面し、 港に直接アクセスできる好都合な場所であったと長崎市史にも明記されている。
この件に関しては、ブライアン・バークガフニ博士も、その著書(リンガー家の秘録)の中で明確に記されている。
三角地には現在高層マンションが建っている(写真参考)。
長崎居留地の区画番地図 1868年(慶応3年頃)
古写真と同じ方角から撮影した現在の大浦11番地と新松ヶ枝橋
(髙田 誠 氏 撮影)
古い地図・写真と見比べて、150年前の長崎外国人居留地を想像して頂きたい。この写真より時代は少し遡るが、 文久・元治・慶応の頃、勝海舟、坂本竜馬、高杉晋作たちも、この辺りのホテルと称したギャンブル用のボウリング・レーン付きの安酒場で杯を酌みかわし、 9本のピンを狙って木製の球を転がしながら、日本の将来を憂いて、倒幕を思案していたのだろうと思うと、 日本が大きく成長変化した文久・元治・慶応・明治時代のふるさと長崎にロマンを感じる。
今までインターナショナル・ボウリング・サルーンと間違えて伝えられてきた中央の大きなバルコ二ー付き2階建て洋館は、大浦11番地で、 当時はテキストル商会(ドイツ)だと判明した。後のドイツ領事館である。
インターナショナル・ボウリング・サルーンのオープン広告は1861年(文久元年)ヒロババ・ストリート、 古写真は1870年(明治3年)松ヶ枝方角から撮影した大浦地区(上野彦馬撮影)。 両者の間は数キロ離れている。年代もずれている。従ってこれは大きな間違いであったことが判った。
(注)調査中に次のような記録も残っていた。
パケ・スミス著『徳川時代に於ける日本と台湾』1867年版 付録・長崎居留異人住居員数書の中に、 11と11半にヘンリー・ギブソンが居住していた記録が示されている。
この記録が表題の写真の間違いに繋がったのだと考えられる。念のため大浦11番地と11番地Aの2か所の居住者を膨大な史料本(長崎県立長崎図書館発行) 『幕末・明治期における長崎居留地外国人名簿』から1861年(文久元年)から1870年(明治3年)までの10年間をほぼ毎年毎月を追跡してみた。 結果・ヘンリー・ギブソン氏がこの地区に居住したり借地した記録はなかった。したがってこの件はパケ・スミス氏の間違いだったと考えざるを得ない。
このパケ・スミス氏の間違いが、後々の勘違いの大きな原因なのかもしれない。
ヒロババとは、古地図でも解るように、江戸時代中期、唐人屋敷と、海を埋め立てた新蔵所(現在の新地中華街)を結ぶ150メートル程の 1本の通りの両側を指すものだった。
現在のグーグルマップです。広馬場はこの地図の右上、新地・籠町の方で、ボウリング発祥の地記念碑からは1km程離れています。
下の地図では、右端に長崎県ボウリング連盟事務局、左上がボウリング発祥の地記念碑、その下に「ボウリング日本発祥地」の石碑があります。
その左側が南山手甲の10番地「ゲルマニア・ボウリング・サルーン」、後の「ナガサキ・ボウリング・クラブ」の跡地です。
○長崎県ボウリング連盟事務局
幕末の文久元年(1861年)7月10日付の英字新聞ナガサキ・シッピングリスト・アンド・アドバタイザーの4号1面中央に僅か9行の記事広告が掲載されている。 念の為7月6日発売の同紙3号・さらに5号・6号・7号をすみからすみまで拡大鏡を使って読んでみると『アッタ・アッタ』 全く同じ原稿が掲載されているのを発見した。(1号・2号は国会図書館にもない)
おそらく第1号・2号にも掲載され同じ原稿を連続して使ったのだと推測する。 したがって、6月22日は開業の日ではなく、挨拶した日であったと考える方が自然ではなかろうか。
インターナショナル・ボウリング・サルーンの開業挨拶広告
ナガサキ・シッピングリスト・アンド・アドバタイザー紙上に掲載されているこの開業案内広告掲載紙の現物は所在不明だが、 広告文の複写が長崎図鑑(国立国会図書館所有)に収録されている。
《該当部分を抜粋》 |
INTERNATIONAL BOWLING |
SALOON. |
Hirobaba Street. |
The undersigned respectfully begs leave to inform the Community that hir Bowling Saloon is now open for the reception of visitors.
A fresh supply of the best description of Wines,Spirits, wilbe seld at very moderate prices. The Proprietor trusts that by strict attention to business he will merit and receive a share of Patronage. |
HENRY GIBSON. |
Nagasaki,22nd June,1861. |
《和訳》 |
インターナショナル・ボウリング |
サルーン. |
ヒロババ ストリート. |
謹んでボウリング・サルーンの開設をご通知申し上げます。 |
最高級銘柄のワインと様々な種類の酒を販売いたす予定で御座います。 |
従業員一同、誠心誠意お客様へのサービスに努める所存でございますので お引き立てのほどよろしくお願い申し上げます。 |
ヘンリー ギブソン |
1861年 6月 22日 ナガサキ |
日本ではこの開業挨拶の日をボウリングの日と定めている。
ヒロババ・ストリートとは現在の長埼市籠町・福健通りの150メートル前後のごく小さな通りの両側を指し、 現在の地図の上では町名は消滅しているが通りの名として広馬場通りと云う愛称が残っている。
広馬場自治会館もあり、地元の人達はこの通りをヒロババと親しみをこめて呼び、長崎くんちには広馬場の名で神輿も担ぐようだ。 この地区では何故か、殆どの看板文字が昔風に右から左に向かって書かれている。
歩き回って、幕末の番地表示らしい石柱を駐車場の片隅に道を挟んで2本発見したが、肝心のボウリング・サルーンの番地が解らない。
日向ぼっこをしていた数人の年配者や、昔から広馬場に在る吉田や酒店にも取材を試みたものの、その番地はおろかボウリング・サルーンの存在さえご存知なかった。 そこで山下知且氏と長崎史談会の村崎春樹氏のご協力により、手に入れた古地図の上で、消去法で塗りつぶした結果の推測ではボウリング・サルーン跡地は、 多分この辺りだっただろうと云うところまでは突き止めることが出来た。現在の籠町の一角だと思われる。
このインターナショナル・ボウリング・サルーンがいつまで営業していたのかは不明だが、 居留地指定後の文久3年(1863年)のリストにはもうその名が出てこないところから推測すると、 明治の声を聴かずして、わずか数年の営業で終わったようである。
〇印の中が幕末のヒロババ・ストリート 店名は明治時代か・・・?
この中の何処かにインターナショナル・ボウリング・サルーンがあった
(長崎史談会 村崎春樹氏 提供)
現在と同じく、レーン60フィート+アプローチ15フィートの長さを頭に描いて、そのくらいの長さがとれる土地を探してみたが、 ヒロババ・ストリートの道の両側には奥行きとして80フィートも取れるような区画は見あたらない。 したがってここでオープンしたレーンはおそらく20フィート前後のスキットルズまがいの小型のものだったのだろうと気が付いた。 その広告から推測してもおそらく江戸時代からあった日本家屋を改装した建物で、メインは洋風居酒屋。 ワインや洋酒の販売コーナーがあり、ボウリング・レーンはギャンブルの道具として併設されたもののようで、 一杯飲みながらプレイしたのだろうと推測されるが確証はない。
1700年後半から1800年代にかけて、英国の酒場で人気のあったスキットルズは、 レーンの長さが20フィート前後のものが多かったと歴史上に記されていることから考えても、 その当時オランダ船によって長崎にもたらされた初期のボウリング・レーンは20フィート前後(6メートル前後) スキットルズだったと考えて間違いないだろう。
幕末の1861年7月10日付の英字新聞ナガサキ・シッピングリスト・ アンド・アドバタイザーの1面中央上段、 ボウリング・サルーンの広告の真上に、コマーシャル・ホテルの広告が掲載されている。
Commercial Hotelとは長崎の歴史に出てきた最初のHotelである。この広告をよく読むと、下方にボウリング・アレイが設備されていると書かれている。 一般的に考えると、インターナショナル・ボウリング・サルーンがオープン挨拶広告をした時点で、 もう既にボウリング・アレイを備えたコマーシャル・ホテルが存在していたようだ。
上 コマーシャル・ホテル 広告
下 インターナショナル・ボウリング・サルーン開業挨拶広告
(国会図書館所蔵)
昭和63年中央公論社から発行された『維新の港の英人たち』ヒュー・コータッツイ著 の中に次のような一節を読むことができる。
『娯楽の面では、ボウリング・アレイを備えたコマーシャル・ホテルがあった。 その近所に、H・ギブソンが経営するインターナショナル・ボウリング・サルーンという名の競技場があり、 常連の客に対する広告によれば、サルーンでは割安価格の最高級ワインが入荷して販売されている』
現代の住宅難に悩む日本の都市のように、『便利な場所に、"1名か2名の紳士に適する居間兼用の1部屋だけのアパート"が貸し出されている』等と書かれている。
江戸時代からの日本家屋を改装したのであろう当時のヒロババ・ストリートの街並みが目に浮かぶようだ。
何せボウリング・サルーンの正確な所番地が無いので確証はないが、現地には今だに旧町名と新しい町名の看板が2枚並んで掲示されているのも面白い。
インターナショナル・ボウリング・サルーン跡とコマーシャル・ホテル跡はこのストリートの何所かだったのに違いない。
レーンの付帯設備があったと言われているコマーシャル・ホテルも、おそらく居留地の洋風建築ではなく、広馬場界隈の改装された日本家屋であったと思われる。 また、その広告から推測しても宿泊施設というより、ボウリング・レーン付きの洋風居酒屋だったとも伺える。 きっとこちらの方が先にオープンしていたはずだと思うのだが・・・・謎につつまれている。
長崎総合科学大学のバークガフニ研究室に、長崎の外国人居留地の研究に関する第一人者 (グラバー園名誉園長)ブライアン・バークガフニ博士という教授がおられる。 その博士に長崎のボウリング発祥に関する何か資料や研究はないでしょうかと質問したことがある。 先生からの回答は以下のような丁寧なものであった。(原文のまま)
文久元年インターナショナル・ボウリング・サルーンの開業地広馬場町は江戸時代中期、唐人屋敷と、海を埋め立てた新蔵所 (現在の新地中華街)を結ぶ1本の通りで、唐人の密貿易を監視するため広馬場には大きな建物を建てることができなかった。 広馬場町が大きく姿を変えたのは幕末。
1858年(安政5年)の安政5か国条約により開港した長崎は大勢の外国人の訪問を受けることになった。 ヒロババは、大浦・松ヶ枝・南山手・東山手・梅香崎などの居留地の完成を待つ間の一時的借家として欧米人向けの施設が設けられた。
つまり居留地としての指定を受ける前に『インターナショナル・ボウリング・サルーン』がオープンしていたことになる。
東西わずか150メートル前後の通りの両側の何所かに江戸時代から残る日本家屋を改造して、ヘンリー・ギブソン氏が開業した インターナショナル・ボウリング・サルーンが存在したことは間違いない。
大正時代の古地図を見ると、広馬場に1か所だけ大きな区画が存在する。
『広馬場町4番地』現在の十善会病院から道を挟んだ向かい側だ。 ひょっとするとこの場所がボウリング・サルーンかコマーシャル・ホテルが存在した場所だったかもしれない。
しかしながら、明治初期に外国で発行された長崎案内書にはもうその名を見ることが出来ないところから推測すると、 ヒロババのインターナショナル・ボウリング・サルーンはわずか数年で消滅してしまったことになる。
長崎居留地研究の権威 姫野順一先生(長崎外国語大学副学長)に指導を受けているうちに判明した事がある。
江戸時代の長崎には町名は有ったものの番地は無かったのだそうだ。幕末の長崎では、居留に借地権の区画番地が振り当てられ、 居住者が誰であるかを明記したのは、保安上の理由もあり、外国人居留地に限られていたのだそうだ。
文久元年インターナショナル・ボウリング・サルーンがオープンした時期はヒロババはブライアン博士の手紙にも記されているように、 未だ居留地に編入されておらず町名だけで無番地だったことが判った。
反面、外国人居留地区内にあっては、毎年毎月の居住者の家族構成から使用人に至るまで克明に記録が残されている。
これは前にも述べた通り保安の目的がその大きな理由だったのであろう。
インターナショナル・ボウリング・サルーンがオープンした文久元年(1861年)当時は無番地の地域だったのだ。
いくら探しても所番地が見つからなかったはずである。
確証はないが、ヘンリー・ギブソン氏経営のボウリング・サルーンが短命に終わった原因の一つとして、 ヒロババに欧米人が仮住まい出来る条件は、居留地完成後の1862年(文久2年)4月までに居留地に戻ることであった。 ギブソン氏がこの条件を守ったとすると1年足らずで閉店したと思われる。
ギブソン氏は、1864年(元治元年)3月には妙行寺下手36番地(後の下り松36番地)にエキスプレスホテルを開業、 隣接してビリヤード&ボウリング・サルーンが開業していることから推測すると、安政条約に従い条件通り居留地に移転したのではないかと思われる。
ご存じ、ANAクラウンプラザホテル長崎グラバーヒル(旧ベルビューホテル跡・南山手11番地)を左手に見ながら、 大浦天主堂への石畳みをちょっと登った右側の土産物屋横、コカコーラの自動販売機の陰に隠れるように ボウリング日本発祥地 と彫刻された1メートル強の石碑がある。
いったい誰が、いつ頃、何のために建てたのか・・・・謎だった。今回、その石碑の裏側(柱があり見にくい)をよくよく調べてみると
昭和57年4月 東栄商事株式会社 寄贈 諌早 増田 石村
との彫刻が読み取れた。(発見者 髙田光世)
現在のこの土地(駐車場)のオーナー 長崎エステートマネージメント(株)の井川さんを探し出し、そのいきさつを取材してみた。 1982年(昭和57年)頃まで残っていた長崎ボウリング倶楽部の建物を解体するとき、 当時の土地所有者が記念のために547坪の道路側の隅に記念碑を立てたものと判明した。
これは大発見だった。
いろいろの説があったが、この石碑は、ブライアン博士も言われている通り、
長崎ボウリング倶楽部跡地の記念碑だったのだ。
誰が何時加工したのか不明だが、ボーリングがボウリングに修正されている。そのままでもよかったのに・・・・
紛らわしいのは、南山手12番地の奥にあったと言われているシーメンズ・ホーム(水兵休息所)にもレーンが設置されていたらしいのだ。 その跡地は現在セトレ・グラバーズ・ハウスがある場所だと思われる。 しかし現在の梅香崎中学のグランドの一部がシーメンズ・ホームだったという説もあり、これは小生の推測では前者が移転したものではなかろうかと思う。
長崎ボウリング倶楽部と坂道を挟んで南山手11番地には2レーンを併設したベルビュー・ホテルもあったことが判ってきた。
1864年オープン当時のベルビュー・ホテル 入口付近
(長崎大学附属図書館 所蔵)
1870年(明治3年)4月9日発行のナガサキエキスプレス紙の、べルビュー・ホテルの広告にファーストクラスのボウリング・アレイ を併設しているむねの記事を見つけ出した。
ベルビュー・ホテルの広告(国会図書館 所蔵)
長崎では、規模の大きさもあり、インターナショナル・ボウリング・サルーンより数年遅れてオープンし、 以後60年間にわたり営業していた長崎ボウリング倶楽部の方がヒロババのインターナショナル・ボウリング・サルーンより知名度が高かったようだ。
もう一つは日本ボウリング振興協議会が建てた立派な記念碑だ。
わが国ボウリング発祥の地と記されている。松が枝町にある長崎ちゃんぽん発祥の店でスペシャルオリンピックスで大変ご協力を頂いている老舗 四海楼さんの前だ。(四海楼創業の店舗はヒロババ通りだったことも判明した)
日本ボウリング振興協議会が建てた記念碑
長崎松ヶ枝町 四海楼前
2か所の記念碑の間は直線距離にして70メートル前後だ。
この記念碑は、日本ボウリング振興協議会の名誉のために、まあこれはこれで良いとして大切にしておこう。
ヒロババとはかなり離れてはいるがこの記念碑の周辺には、少し時代はずれるが長崎ボウリング倶楽部やベルビュー・ホテルなど3軒か4軒の ボウリング・レーンを持った大型西洋式ホテルと、レーンを併設した10数軒の洋風居酒屋(ホテルと称していた)が現実には存在したのだから・・・
昔から松ヶ枝町に わが国ボウリング発祥の地 は何かの間違いではないのか・・・? 何故隣接して2本の記念碑があるのか・・・?
長崎県出身の小生としては長い間気になっている事の一つだった。
従って、小生の今までの著書やテキストの中にはこの件については一切触れていない。触れたくても真相を究明するまでは触れられなかったのだ。
40数年前に、古い石碑が立っているその角を右に曲がった左側の階段を昇った小さなお店 土産物屋さんだったか・・・? の長老に詳しく昔話を聞かせてもらったことがあった。
『そこんとこの崖下の今は空き地になっとっ所にさあ~ ムカ~シ ビリヤード台を備えたレストランや洋風居酒屋とかホテルのあったとよ、 そのそばにさ長崎ボウリング倶楽部ちゅう会員制のボウリング場の出来たとさ、バッテンここはあんたたちの云うさ、 ヒロババ・ストリートのボウリング・サルーン跡じゃなかとよ、広馬場は向こうの方たい』
『そいから、そこんとこの角に、ムカ~シからあっ石碑はさあ~ たしかシーメンズ・ホームのもんじゃなかったろうかと思うとよ』
『この奥にさあ~ ムカ~シ、シーメンズ・ホームちゅう外国の水兵さん達の休息所のあったらしかもんね~。 そこにもボウリング・レーンの有ったっちゃなかろうかと思うとよ』
と、わざわざ店先まて出て来て、空き地を指さしながら流ちょうな長崎弁で話してくれた。その時その石碑も空き地もこの眼でしっかり確認したし、 2020年3月現在その跡地は駐車場となっている。
その後の調査で、歴史上の事実は長老の話とは少し食い違っているところもあったが、その石碑は長崎ボウリング倶楽部跡の記念碑であったことが判明した。 この長崎ボウリング倶楽部は、オーナーが別人だった頃(ゲルマニア・ボウリング・サルーン時代)、長崎奉行所に賃金未払でシナ人大工に訴えられたり、 後々競売になったりしている歴史がある。
長崎奉行所への訴状も見つかった。
時を同じくして、文久元年には、ナガサキ・クラブ(大浦31番地)と云う実業家とその家族のためのメンバー制による立派なクラブも発足している。 長崎ボウリング倶楽部と名称も似ており場所も近く、両方ともにレジャー施設であったため、この2つを混同して発表した歴史上の記述もあるようだ。
『長崎ボウリング倶楽部』の前身は、ドイツ人ヨハネス・ウムランドとハインリッヒ・ショーンネッケの2人のドイツ人によって開設された 《ゲルマニア・ボウリング・サルーン》である。ウムランドとショーンネッケは長い間、下り松甲の41番地にレーン付きの洋風居酒屋を経営していたが、 明治6年(1873年)に南山手甲の10番地に上記のボウリング・レーン兼洋風居酒屋を移転し、 ゲルマニア・ボウリング・サルーンとしてボウリング場をオープンしている。
この時初めて現在の長さ・巾に近いナインピンズが設置されたようだ。(長崎奉行所の訴状より推測)
2人が1881年(明治14年)に相次いで他界したため、後に南山手甲の10番地の施設は《長崎ボウリング倶楽部》として生まれ変わった。 この倶楽部はスウェーデン人のニールス・ルンドバーグが買い取りトーマス・コーエンが管理した。 明治36年(1903年)ルンドバーグが他界すると、フレドリック・リンガーが翌1904年の3月に、パウルス商会を通じて競売で落札し、新しい所有者になっている。
1904年6月4日、新装された新たな施設の発足を祝い、また帰国する前管理者のトーマス・コーエンを見送る宴会のためにクラブメンバー達が集うことになった。 クラブの新会長ジョセフ・デインティや幹事のロドニー・H・パワーズを含む総勢40人が集まったと長崎市史に記録されている。
この長崎ボウリング倶楽部には壁に日本初の電話が試験設備されている。
この長崎ボウリング倶楽部こそ
日本初の競技性のある本格的ボウリング・レーンではなかったかと推測される。
長崎ボウリングクラブの競売広告
(東洋日報日の出新聞)
当時この場は居留地の重要な親睦の場となっていたようだ。
お客は居留地の外国人、船舶や領事館関係の外国人たちで、ドイツ・イギリス・フランス・オランダ・アメリカのほかデンマーク人が多かったらしい、 当時ここでピン・ボーイをしていた山田武治氏はこう言い残している。
『長崎ボウリング倶楽部は会員制で、一般の日本人が混じってプレーをできるような雰囲気ではなかった。 営業も毎日ではなく週4日、男性メンバーと女性メンバーが、それぞれ10名くらいのグループで夕方から、ワインやサンドウイッチを食べながら楽しむ様子は、 一般の長崎市民の生活とはかけ離れた、別世界の姿であった』(表紙参考)『入場者にはドレスコードがあったようで全員が正装で来場していた』と。 坂本龍馬は故人となり、勝海舟も上野彦馬など日本人はこの倶楽部には入館できなかったのが真相のようだ。 当時はまだ冷房設備はなかった為、7月20日から9月中旬までは休館していたらしい。
山田武治氏の記憶から書かれた長崎ボウリング倶楽部周辺図
(ボウリングファン誌より)
この長崎ボウリング倶楽部は、昭和5年(1930年)頃まで経営が続けられていた記録が残っている。 昭和7年富田 進氏がリンガー商会に入社した頃には同社の倉庫として使われていたようである。 明治初頭に建築された長崎ボウリング倶楽部はオーナーは転々としながらも60年間にわたり居留地の人々に愛され続け昭和5年にその幕を閉じたのである。 富田氏の話では、昭和7年倉庫の整理を命じられた時に、ボールを5~6個、ピンを12~13本もらったが、ピンは戦時中に燃料にしてしまったという。
ボールの実物は2020年現在行方不明。レプリカは日場協にある。
レーン数 | 2レーン |
ボウリングの種類 | ナインピンズ |
レーン | 長さ90尺 幅4尺 厚さ約5センチ |
ボール | 大 重さ22ポンド 直径28センチ 木製穴なし |
中 紛失 | |
小 重さ13ポンド 直径12.5センチ 木製穴なし |
言い伝えでは、大は男性用、中は女性用 小はスペアー用だったらしいが、
大は重く、とても片手では投げられず、両手で転がしたもののようである。(当時・富田氏所有) レーンの長さ90尺には疑問が残る(出典 長崎奉行所訴状より) |
世界でただ1人、この実物ボールを投げた生き証人、杉本勝子プロの証言
昭和49年(1974年)NHKテレビ『文久元年のボウリング』の録画で実際に投球した杉本勝子プロの言葉。 『指穴は無いし、ザラザラの木製、重くて、大きくて、とてもコント ロールなどできない。転がすのが精いっぱいでした』。 |
ボール・リターン | 初期は人間が手で持って運んできたと記録されているが、明治時代後半には傾斜のついたボールリターンが取り付けられた。 | ピン・セット | ピンボーイが行った。 |
ピット・カーペット | 熊の皮を使用していた。 |
レーン・メンテナンス | 油雑巾でよく拭いていた。 |
リサフェイス | 年に1回三菱造船所から木工工員が来て凹凸を削りなおした。 |
チップ | ハイゲームが出ると50銭~1円のチップが貰えた。 |
長崎ボウリング倶楽部の前身、ゲルマニア・ボウリング・サルーンの工事に関わる面白い事件があったことを発見した。
下り松41番地より、南山手甲の10番に移転するときに発生したトラブルと思われる。1869年(明治2年)2月25日、3人の大工が 工賃未払につきゲルマニア・ボウリング・サルーンからその工事を請負った大北電信のデンマーク人を訴え出ている。
デンマーク人より3人の大工が銀88枚で移設を下請けしたが2レーンの工事代金のうち銀43枚が支払われていないので 長崎奉行所に訴え出たと云う記録書類が残されている。細かくその訴状を読むと、
玉投げ場の玉を転がす二筋の球道は90尺余り、幅4尺。滑らかに削って充分平らにすることを条件として この工事は洋銀88枚で請け負われたが、洋銀45枚は支払われたが残り43枚が未払だ
と、レーンを作った職人たち3人が訴え出たものである。
支那人大エから長崎奉行所に提出された、ボウリングレーン普請に関わる賃金未払いの訴状の一部
(長崎県立図書館所蔵)
表現の言葉に時代をしのぶことが出来て大変面白い。
この件は、その後デンマーク領事館の仲介で無事解決している。
この事件から、ゲルマニア・ボウリング・サルーンの開場まで3年かかっている事が何故だか解らない。
南山手甲の10番地の旧長崎ボウリング倶楽部の土地建物547坪はリンガー家の息子たちに受け継がれた。戦時中に敵国財産として没収されていたが、 長男フレディは昭和15年に死亡。次男シドニーは太平洋戦争勃発直前に上海に逃れ、苦難に満ちた10年間後にやっと長崎に戻ることが出来た。 その後シドニーは実家の南山手2番地(現・旧リンガー住宅)で過ごし、財産を取り戻す手続きを取った。
旧・長崎ボウリング倶楽部の建物は、戦地からの引揚者や身寄りのない人々150人あまりに不法占拠されており、修理も不可能なために、 建物は土地とともに売却され、その跡地は現在駐車場として使われている。
建物そのものは昭和57年頃まで存続していたようだ。
戦時中に没収されていたリンガー家の財産に関する調査時に進駐軍が撮影した貴重な1枚の写真。
この建物こそ、真の日本近代ボウリング発祥の地 南山手甲の10番地『長崎ボウリング倶楽部』である。
ボウリング愛好者の1人としては、大切にしておきたい写真である。
終戦後進駐軍が撮影した、南山手甲の10番地旧・長崎ボウリング倶楽部
米国国立公文書館 所蔵(ブライアン・バークガフニ博士 提供)
梅香崎・大浦・下り松・南山手・東山手・出島の102,350坪と新地・広馬場の6,900坪くらいしかない狭い外国人居留地の中に
インターナショナル・ボウリング・サルーン | ヒロババ・ストリート |
コマーシャル・ホテル | ヒロババ・ストリート |
ゲルマニア・ボウリング・サルーン | 南山手甲の10番 |
コックス・ホテル | 大浦12番地 |
コマーシャル・ハウス | 大浦25番地 |
オリエンタル・ホテル | 大浦26番地 |
ボウリング&ビリヤード・サルーン | 下がり松35番地 |
エキスプレス・ホテル | 下り松甲36番地 |
シーメンズ・ホーム | 南山手12番地 |
長崎ボウリング倶楽部 | 南山手甲の10番 |
ベルビューホテル | 南山手11番地 |
クリフ・ホテル | 南山手10番地 |
長崎・ホテル | 松ヶ枝 |
インター・ナショナル・ホテル | 梅香崎6番地 |
その他に西洋式ホテル数件
ホテル(洋風居酒屋) 大浦川沿いの10数件
その殆どが1レーンの設備であったことを考慮したとしても、1870年(明治3年)の長崎居留地の人口総数約553名プラス外国人水夫を考えても、 こんなに軒並みにレーンが存在したことを考えると、昭和47年日本最盛期3,697センター、121,021レーンあった頃より遥かに比率は高く、 幕末の長崎外国人居留地は、間違いなく日本の第一次ボウリングブームであったと云ってもいいだろう。
和暦 | 西暦 | できごと | |
元亀 | 2 | 1571 | 長崎開港(ポルトガル船の長崎湾入港) |
寛永 | 13 | 1636 | 出島完成 |
安政 | 2 | 1855 | 日蘭和親条約締結 オランダ人の長崎市街出入り自由となる |
安政 | 5 | 1858 | 5か国との間に修好通商条約を締結(アメリカ・イギリス・フランス・ロシア・オランダ) 長崎・神戸・横浜・函館等6港を開港し、外国人居留地(一定区域内の借地等)が認められた |
万延 | 元 | 1860 | 第1次外人居留地造成完了(大浦地区) |
文久 | 元 | 1861 | 第2次外人居留地造成完了(下り松埋め立て) 広馬場地区および新地を外人居留地として、中国人向けのサービス産業を中心とした商業地区として開放 日本最初の英字新聞「The Nagasaki Shipping List and Advertiser」創刊 ・7月10日付の第4号(Vol.1 No.4)に下記の広告が掲載されている ・コマーシャル ホテル(ボウリング設備敷設) ・ヒロババ ストリートにインターナショナル・ボウリング・サロン開業 |
文久 | 2 | 1862 | 上野彦馬 長崎に写真館開業 |
元治 | 元 | 1864 | ベル ビューホテル オープン(現在のANAホテルの場所) THE NAGASAKI EXPRESS 1867年4月9日の広告紙面の中央上段に ベル ビユーホテルがボウリングレーンを併設していることを記している |
慶応 | 2 | 1866 | 出島を外国人居留地に編入 |
明治 | 元 | 1868 | 外国人居留地は幕府から明治政府に引き継がれる。 |
明治 | 2 | 1869 | 出島新橋・新大橋・梅香崎橋の3橋架設 |
明治 | 3 | 1870 | 下り松橋架設 上野彦馬が「下り松橋」の写真を撮影(「日本最初のボウリング場」と言われてきた写真) |
明治 | 6 | 1873 | ゲルマニア・ボウリング・サルーン。2人のドイツ人が下り松甲の41番地で経営していたが、南山手甲の10番地に移転オープン この移転に関わると思われる件として、明治2年2月25日頃、数件にわたり数人の大工他が工賃未払につき、大北電信のデンマーク人を訴えている デンマーク人より請負った大工は、銀88枚でシナ人に下請けさせたが2レーンの工事代金が支払われないので、長崎奉行所に訴え出たと云う記録書類が残されている 細かくその訴状を読むと、 玉投げ場の玉を転がす二筋の溝を作った職人 (2レーンを作った職人の意味らしい)などと表現され、時代をしのぶことが出来て大変面白い ただ、この事件からゲルマニア・ボウリング・サルーン開業まで3年以上かかっている理由は不明 |
明治 | 14 | 1881 | 長崎ボウリング倶楽部オープン(南山手甲の10番、元ゲルマニア・ボウリング・サルーン) |
明治 | 26 | 1893 | 第1期港湾改良工事終わる 出島は条約改正により、外国人居留地制度は撤廃され内外雑居となる |
明治 | 37 | 1904 | 長崎ボウリング倶楽部が競売物件になった記録が、東洋日の出新聞(長崎地元新聞)の5月9日付紙上に掲載されている この競売公告物件の所在地は南山手甲の10番で、初代のインターナショナル・ボウリング・サロンとは異なる 長崎ボウリング倶楽部は、リンガー氏が落札し、新装オープンした この長崎ボウリング倶楽部は、昭和5年頃まで経営が続けられていた記録が残っている この地は、現在 駐車場 |
昭和 | 47 | 1972 | インターナショナル・ボウリング・サロン開業広告の挨拶の日を記念して、社団法人 日本ボウリング場協会が 「6月22日はボウリングの日」と制定 |
昭和 | 57 | 1982 | 長崎ボウリング倶楽部の建物が解体される 「ボウリング日本発祥地」の石碑建立(東栄商事株式会社 寄贈) |
平成 | 2 | 1990 | 「わが国ボウリング発祥の地」の記念碑建立(日本ボウリング振興協議会) |
平成 | 15 | 2003 | 「わが国ボウリング発祥の地」の案内板設置(社団法人 日本ボウリング場協会、社団法人化30周年記念事業) |
○以上、髙田 誠 氏著「ボウリング発祥の地の謎」より
グラバー園名誉園長 ブライアン・バークガフニ氏は、 グラバー園公式ウェブサイト 南山手秘話 「EPISODE 23 日本初のボウリング場」の中で、「インターナショナル・ボーリング・サルーン」と、南山手甲10番地に開設した酒場兼ボウリング場である 「ナガサキ・ボウリング・クラブ」について記されていますが、「実際の発祥地はやはり、広馬場商店街である。」と述べられています。
「日本ボウリング史料館」(東京・田町ハイレーンビル6階=2015年3月閉館)にあった木製のボールです。
昭和7年、当時リンガー商会に入社した、富田 進 氏が、倉庫の整理を命じられた折にもらい受けたもの、又は、そのレプリカです。
展示プレートには「長崎出島・日本最古の木製ボール 当時のボウリングで使用していたと思われる木製のボール。長崎・富田進氏所蔵」と記載されています。
髙田 誠氏は、「ボウリング発祥の地の謎 第3章 幕末の長崎とボウリング 6 長崎ボウリング倶楽部」の中で、 「 ボールの実物は2020年現在行方不明。レプリカは日場協にある。」と書かれています。 下の写真は、「第1章 ボウリングの世界史 10 ボウリング・ボール進化の歴史」の中で紹介されているものです。
上の写真のものが現在、日場協にあるレプリカなのかもしれません。
1870年代 長崎ボウリング倶楽部で使用されていた木製ボール2個
昭和50年頃の所有者 富田 進 氏
中央のボールは、比較のための現在のハウスボール
(写真 旧・長崎エースレーン 提供)