襲い掛かる「GDPショック」…しかし多くの日本人が知らない、「GDPが国の豊かさを示せない」理由

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「終わりのない成長を目指し続ける資本主義体制はもう限界ではないか」

そんな思いを世界中の人々が抱えるなか、現実問題として地球温暖化が「資本主義など唯一永続可能な経済体制足りえない」ことを残酷なまでに示している。しかしその一方で、現状を追認するでも諦観を示すでもなく、夢物語でない現実に即したビジョンを示せる論者はいまだに現れない。

本連載では「新自由主義の権化」に経済学を学び、20年以上経済のリアルを追いかけてきた記者が、海外の著名なパイオニアたちと共に資本主義の「教義」を問い直した『世界の賢人と語る「資本主義の先」』(井手壮平著)より抜粋して、「現実的な方策」をお届けする。

『世界の賢人と語る「資本主義の先」』連載第2回

『全人類は既に「資本主義の限界」にブチ当たっているといえるワケ…日本だけではなかった』より続く

G D P幻想との決別

ここではさらに、経済成長を図るほぼ唯一の尺度として用いられている国内総生産(GDP)の問題点についても指摘しておきたい。

GDP統計の歴史は、それほど古いものではない。米国が前身の国民総生産(GNP)を最初に発表したのは1942年。それまで経済活動量の推計は貨物列車の輸送量や株価といった断片的な情報に頼っていた。1930年代の大恐慌による影響の全容を把握し、第2次世界大戦の戦費を調達するためにもより正確な統計が求められた。

開発を主導した米経済学者サイモン・クズネッツは後にその功績に対してノーベル経済学賞を受賞する。だが、米政府が採用し世界標準となった姿は、クズネッツが思い描いたものとは大きく異なっている。

クズネッツは当初、経済的な豊かさを測るためには、軍事費や投機的な取引など、豊かさにつながらない支出を合計から差し引くべきだと主張したが、政府に退けられた。結果として出来上がった統計は、麻薬取引であろうと原発事故後の除染作業であろうと、政府が何らかの統計情報(推計を含む)を持つお金のやりとりである限り、GDPに含まれ、「経済成長」にカウントされるようになってしまった。今さらながら無茶苦茶な話である。

一国で一定期間に生じたすべての金銭取引を足し上げるというGDPの基本的な性質は、そうして生じた富がどのように分配されるかは完全に計測の対象外であることも意味する。GDPが大きくても、所得がごく一部の支配層に集中し、国民の大半は貧困にあえいでいるという事態も起こりうる。

フローとストック

また、これもよく誤解されるポイントとして、「GDP(あるいはもう少し厳密に、一人当たりGDP)が大きい国=豊かな国」と思われているが、これも限りなく間違いに近い。なぜなら、GDPとは四半期や年度など、一定期間に生み出される付加価値を示すフローの数値であり、その結果積み上がった(あるいは失った)富については何の情報ももたらさないからである。

この点については、英経済紙フィナンシャル・タイムズのデービッド・ピリングが著作『幻想の経済成長』で出している例が何より直感的にわかりやすいので、かいつまんで紹介する。

ゴールドマン・サックスで働き、年収20万ドル(約3000万円)を得ているビルと、庭師として年収2万ドルのベンがいるとする。どちらが恵まれているだろうか。年収で比べるならば、ビルはベンの10倍稼いでいる。これがGDPに相当するものだ。しかし、収入からは見えてこない事実はいくらでもある。実はベンは最近、1億ドル相当の巨大な地所を相続したばかりであり、庭師としての収入は、相続した庭園を週一回、趣味で手入れし、自分自身に名目上、払っている。一方のビルは借金漬けで、月収の半分を住宅ローンの返済に回しているほか、ポルシェのローンの支払いも残っている。言い忘れていたが、ビルは50歳手前で、もうすぐリストラされるかもしれない運命にある。一方のベンは19歳。さて、改めてどちらが恵まれているだろうか。

GDPの限界についての問題意識が伝わっただろうか。GDPの大小で国の豊かさを比べるということは、ビルとベンの年収(フロー)だけを比べ、資産(ストック)を無視してビルのほうが豊かだと結論付けるのに等しい。

GDPの利点を捉えなおす

フローだけを見ることのおかしさのもう一つの例としては、日本で生きる以上、永遠にそのリスクがついて回る地震が挙げられる。

大震災の「経済効果」など、考えるだけでも不謹慎だとお叱りを受けそうだが、フローで(つまりGDPで)見ている限り、家屋や建物の被害を計算に入れる必要はまったくなく、人命という文字通りかけがえのないものの損失ですら、せいぜい投入可能な労働力の減少というとらえ方でしか考慮されることはない。工場の操業停止などによる生産能力の低下を、家や工場、インフラの復興需要が上回れば、GDP上の効果はプラスになることもあり得るのである。

事実、1995年1月に阪神淡路大震災があったが、この年の実質GDP成長率(暦年)は2.6パーセントである。東日本大震災のあった2011年ですら0.0パーセントと前年比まったくの横ばいだ。2011年の成長率が低かったのは、前年に4.1パーセントというバブル期以来の高成長を記録していた反動とみられており、そうした特殊要因がなかったならばこの年もプラス成長を記録していた可能性が高い。

ただ、GDPという尺度がこれほどまでに広がったのにはそれなりに理由がある。

その最たるものは、国際比較を可能とする点だ。これは広く使われているからますます使われるというだけかもしれないが、世の中の標準など得てしてそんなものである。今のところ、GDPは経済の大きさを測る世界で唯一の共通の物差しになっており、国際的な比較にはこれを使うしかない。

また、経済規模に対してたとえばどの程度教育費や医療費がかかっているかといった、フローの支出を比較する上でも有用であり、本書でも繰り返し出てくる。

GDPはもう古い…日本がG7で提案した「新しい経済指標」のメディアが報道しない「革新的すぎる」中身』へ続く

GDPはもう古い…日本がG7で提案した「新しい経済指標」のメディアが報道しない「革新的すぎる」中身