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広島から臨む未来、広島から顧みる歴史(30)

版籍奉還と吉田藩

さて、このシリーズの初めのあたりで、『棚守房顕覚書』の中身を紹介し、その中で毛利氏と吉田との関わりについて見てきたが、その話の延長線上に、毛利氏の長州藩が主体となった明治維新というものを位置付けられるのではないだろうか。そこで、主語がなんとも言えないので少しわかりにくいが、吉田をどのように用いて明治維新というものを進めてきたのかを考えて見たい。

広島藩の動き

まず、吉田というのが、幕末に広島藩支藩の吉田藩の入封によって名前が浮かび上がるということはすでに述べた。これは、第一次長州征伐に先んじてのことであり、ある程度の動乱が起こるということが予測された上での入封であろう、ということは言えそうだ。さて、この広島藩の浅野氏、幕末維新期の行動が何ともはっきりしない。細かい話はおそらくまだ確定しておらず、それが広島における腰ダメのようになっており、そこで広島の政治力が増幅されて広島を政治ドーピングしようとしているのでは、という印象も受けるが、それにもかかわらず広島の人々がそれほど派手に政治的に踊っているということはないような感じを受け、だから浅野氏の幕末維新期の行動も未確定ということになっているのだと言えそう。その意味で、余計な推測を書くこと自体歴史確定作業に妙な形で関与することになるのでは、という危惧を持っているが、なるべく妙な影響が出ないようその境目にFictionの要素を厚くして、変な形で接続されたら足跡が残るように注意しながら書くことにしたい。

藩主家浅野氏

まず、全くの個人的な印象だが、浅野氏が江戸時代を通じて広島藩主であった、ということはどうも違うのではないか、という、証拠も何もない感覚から始めたい。だから、私の仮説では、少なくとも幕末の段階では浅野氏は広島にはあまり愛着を持っていなかったのでは、という印象を持っている。その上で、安芸吉田支藩のできた長州征伐前夜に時を同じくして広島入りしたのではないか、という仮説からその長州征伐、そしてその後の明治維新への動きを見てみたい。戦国大名としての浅野氏は、豊臣秀吉の相婿の浅野長政から始まると言えるが、長政自身母は浅野氏だが父は安井氏からで、そのほかにも非常にややこしい関係性がありながら、母系を重視することで秀吉との繋がりを確保し、その母系の話の言い間違いなどを利用することで太閤秀吉の文脈をいつの間にか自らのものにするという、いわば空気使いの非常に上手な氏族ではないかと考えられる。その意味で、秀吉の子の秀頼を討つことによって天下を固めた徳川に対して正当性を主張するには非常に使い勝手の良い家だと言える。実際、大坂の陣の時にも、大坂の隣の紀州藩主であった浅野氏は微妙な動きをしており、見張っていたはずの真田信繁(幸村)をむざむざと大坂城入させるなど、戦いに微妙な混乱をもたらしてキャスティングボートを握るということを得意とする家なのだとも言えそう。

戦場となった安芸で

そんな広島藩浅野氏は、長州征伐において、一応は幕府軍であったとされるが、自国領とされる安芸が戦場となっても積極的に戦おうともせずに、街が焼けたりするのを単に見過ごすなど、とてもではないが領主を名乗る資格があるとは思えない行動をとっている。とりわけ、安芸吉田藩は、第二次長州征伐の戦いが始まった翌日に吉田に歸陣しており、これは、もしかしたら、吉田の実効支配が済んでいなかったところ、長州の勢いを借りてそこの支配を固める、という、一体どちらの味方なのかわからないような日和見、もっというのならば火事場泥棒的行動をとった可能性もあるのではないか。そんなことがあったためか、明治維新後に藩主家が東京に移ろうとすると、それに反対する騒動が起きるという、非常に評価が難しいことになっている。

吉田藩と藩名変更

安芸吉田藩についてはこちらもすでに述べた通り、文久三(1863)年に支藩ができ、そして明治二(1869)年に版籍奉還によって消滅している。その二日後に三河吉田藩が豊橋藩と名を変えたこともすでに書いた。もう一つ、吉田の名を冠する伊予吉田藩の版籍奉還はさらにその翌日六月二十日だった。なお、同名が理由で藩名変更がなされたのは、三河吉田藩と同じく六月十九日に版籍奉還が行われた伊勢亀山藩と丹波亀山藩(亀岡藩)、そして伊予吉田藩と同じく二十日に行われた紀州田辺藩と丹後田辺藩(舞鶴藩)とがある。吉田と田辺に関しては、なぜかどちらも支藩の方が名前を残し、独立の藩の方が名前を変えている。なお、亀山というのは丹波の方を明智光秀が城主として治めたとされ、一方田辺は丹後の方を細川幽斎が治め、本能寺の変の後にその明智光秀の誘いを断り田辺城に籠ったとされており、それぞれの話の舞台となった方が改名に至っている。つまり、改名をした方が本当の名なのだ、と思わせようとしていることがわかる。そして、各藩、版籍奉還をした時に支藩もそのまま存続しているところが多いのにも関わらず、広島に関してはそうではないことがわかる。つまり、安芸吉田の実効支配については怪しい、ということが言えそうだ。ことによると、長州征伐の時に初めて広島入りし、あわよくば安芸吉田や備後北部である三次も勢力圏であったと主張して支藩領に入れようとしたがそれがうまくいかず、版籍奉還で一括して広島藩の所領として勅許を得て、突然領主面した挙げ句にすぐに東京に逃げ出そうとしたので領民が反発した、ということも考えられるのかもしれない。

伊予吉田藩

さて、伊予吉田藩であるが、明暦三(1657)年に宇和島藩の初代藩主・伊達秀宗の五男・宗純が本家より三万石を分知されて立藩したとされるが、宇和島藩自体の十万石にしろ、伊予吉田の三万石にしろ、その広さからして少し信じがたいような気もする。別項の別子銅山のところにも関わるが、伊予国は定府大名があったりして、幕末段階に本当に大名が実効支配していたところがあったのか、ということについて個人的には疑問に思っている。特に宇和島は伊予の中でも最南端であり、そしてそれこそ藤原純友にも関わる日振島のそばで海賊が拠点を構えたいたかもしれないところだ。そんなところに何の縁もゆかりもないどころか、四国征伐以降に秀吉に降った伊達家の支藩ができるということ自体全く説明がつけられない。つまり、伊予吉田藩なる藩が存在したのか、ということそのものが疑問が残るのだと言える。

吉田支藩主 浅野長厚

これは、版籍奉還の時に広島藩が安芸吉田藩を何とか立てようとしたがうまくいかず、その籍を三河吉田藩、ついで宇和島藩に売ったのかもしれない。というのは、基本的に版籍奉還をするというのは、華族の名跡を得るようなものではないかと考えられるが、安芸吉田藩の最後の藩主浅野長厚は華族となることを辞退しているからだ。それを考慮に入れると、実は浅野長厚は本藩の藩主長勲と同一人物であるという可能性もあるのではないだろうか。広島藩の幕末周辺の藩主の流れは非常に複雑で、広島新田藩、つまり安芸吉田藩からの本藩藩主就任が二代に渡って続き、そして維新後にも長厚の実の弟の長之が本家を相続している。それを考えると、第二次長州征伐での長厚の行動、開戦後に吉田へ向かうというのが、毛利元就の元の根拠とされる郡山の支配を目指したものであり、それがうまくいかなかったために版籍奉還を理由にして広島藩であったとした上で自らも名を長勲と改めることで、吉田への出兵の責任から逃れたのではないか。そんなことも藩主が東京に行く時の反対騒動に繋がったのかもしれない。

焼けた廿日市の街

これもすでに書いたことだが、個人的には現在の広島市域の開発は明治維新以降であり、それまでの中心地は廿日市だったのではないかと考えているが、廿日市が焼き払われたのが誰の責任かはわらかないが、そこはかなりの都市部であり、いずれにしても浅野氏がそこで江戸時代を通してずっと藩主であったと主張するのはかなり無理があったと思われ、それもあって今の広島に広島城があり、そこでずっと藩主であった、という虚構を主張せざるを得なくなったのではないだろうか。それを考えると、その虚構の辻褄を合わせるために、のちの原爆投下につながらざるを得なくなった一つの要素であったのかもしれない。

売られた吉田の名

いずれにしても、そんな状態で吉田という名が宙に浮いたので、それをまずは三河の大河内松平に売ったのではないかと考えられる。三河には豊橋の他にも西尾の吉良にも吉田という地名があり、そこは大河内氏の出身地だともされ、維新後には支藩の大多喜藩領の三河飛地が併合されている。ただし、大多喜藩領が現在のどこにあたるのかを正確に特定するのは難しく、Wikipediaによれば幡豆郡の吉田村は旗本領となっている。いずれにしても、大河内氏はここで得た吉田という名をてこにして三河への進出を図った可能性があり、そうなると、それ以前に大河内松平氏による三河支配の実態があったかというと、それは十分に疑うべき理由がありそう。なお、大河内氏は初代信綱が島原の乱の時に活躍しており、その息子輝綱が著した一次資料となる『島原天草日記』という記録を保持している。それは、江戸時代初期に日本にキリスト教が渡ってきていたのだ、ということを示す重要な証拠になるが、上記のような事情が事実だとすると、その記録は明治以降に作成された可能性が高まる。

吉田神道

そこで、吉田の名に関わる吉田神道というものの独自の性質に注目せざるを得なくなる。吉田神道は、反本地垂迹説を中心的な考えとしている。反本地垂迹については八坂神社のところでも少し触れたが、本地が仏ではなく神になるという考え方で、寺院に神を垂迹させるというやり方で、三河吉田への進出を図ろうとしたのかもしれない。三河吉田では、維新直後に神仏分離から廃仏毀釈が起きたのだと説明されるが、『豊橋市史』によると神仏分離に関わる命令が最初に出たのは明治二年十一月の豊橋藩社寺役所からの「社寺巨細取調べ」の通達であるということで、版籍奉還後、すなわち豊橋藩改名後であることがわかる。この辺り、三河吉田の江戸期における信仰風土は独自のものがあったと見られ、なかなか簡単には読み解けないが、いくつかの事実からその状況を想像してみたい。まずは、神仏分離の影響を受けたのは、「宗派としては大部分臨済宗・曹洞宗に属し、・・・真宗や日蓮宗系にはなく、浄土宗にも少ない。」ということで、神仏分離であるのにも関わらず、仏自体とはほとんど関係のない禅宗が影響を受けたということが挙げられる。一方、東三河地方には、神社としては祇園神社にも関わるスサノオを祀ったものが非常に多くみられる。これらの神社が元からスサノオ(漢字はさまざま)神社であったのか、あるいは天王社のような外来神信仰がスサノオとしてまとめられたのか、その様相はさらに検討する必要がありそうだが、その可能性の一部として、南方からの上座部仏教の名残が、禅と習合する形で残っており、新政府は神仏分離と称してその部分を狙い撃ちにした可能性もあるのではないだろうか。その第一段階として、吉田神道が反本地垂迹で禅的なものをスサノオ信仰に切り替えさせ、その上で神仏分離の動きで残った禅寺に廃仏を迫ったということになるか。ただし、東三河の、特に曹洞宗寺院は阿弥陀仏を本尊とするところが目立ち、廃仏なるものの本当の姿はまだ明らかになっていないようにも感じる。

江戸幕府史観の押し付け

また、吉田神道は密教的要素も含んでいるようで、それによって真言宗的なものを持ち込んだ可能性もありそう。いずれにしても、新たに、元から領主であったと称して入ってきたであろう大河内氏が、その創作歴史観を押し付けるために吉田神道を用いて、仏教も神道も、とにかく信仰的な部分から徹底的に破壊し、それによって自らの正当性、江戸幕府史観のようなものを押し付けたということが考えられる。そして、もしかしたら、それは西尾藩の大給松平と共同で行われたのかもしれず、そこで吉良吉田を大河内氏の主であったとされた吉良氏の拠点として家康と絡む部分の話を作りながら支配を固めていった可能性もありそう。ことによると赤穂騒動に関わる話も、この時点で作られた可能性も十分にある。それは、吉田という名前の取引の条件として広島においては不安定だったかもしれない浅野氏の江戸時代における正統性を補強するということが含まれていたということかもしれず、そして筆頭家老大石内蔵助という姓と、日蓮宗本山の大石寺の名を考えると、日蓮宗を絡めることでその正統性を裏書きしようとしたのかもしれない。日蓮宗は『曽我物語』の真名本最古のものを含め写本を多く持っているということもあり、江戸期以前の歴史を、人情に絡める形で解釈を一定方向に誘導するということを手がけてきたようにも見受けられ、その一環として『忠臣蔵』にも関わっていたのかもしれない。

伊予吉田

さて、三河吉田に多くを割いたが、それに対して伊予吉田はどのような位置付けで解釈すべきなのだろうか。まず、江戸時代における海外との絡みで、仙台の伊達氏は慶長の遣欧使節を太平洋を渡って送ったということになっている。条約改正の頃の話を考えるとこの話が同時代、もともとあった話であるとは到底思えず、事実関係の検証は必要になるのだろうと感じる。そして、東北地方からこのような話が出るということ自体不自然に感じ、そうなると、もともと伊達氏というのは、海外との交流が活発だった西日本にあるこの伊予宇和島藩の方が本家であった可能性もあるのではないか、という感じも受ける。つまり、当時まだ東北は新政府の勢力圏内にはなく、一応陸奥国はその一部が徳川の領土だということにもなり、勢力が及んでいるように形式は整えたが、伊達氏が仙台藩主だと称してもそれが本当に自分のものになるかはなんとも言えないので、先に確実に伊予宇和島を押さえておきたい、ということで支藩ができたのではないだろうか。東北の他の藩は、甲斐源氏を称する南部氏、同じく源氏の佐竹氏、室町幕府で関東管領を務めた上杉氏と、それなりに歴史的存在感があるが、伊達氏というのはそれらに比べると少し知名度も歴史的正当性も劣るということで、万が一のために確実なところを押さえる必要があったのかもしれない。そして、その存在を裏書きするのに、伊達氏が全国に繋がった秀吉の東北処分の話を繋げておくために秀吉の相婿である浅野氏との関係を確保して置く必要が出てきて、その浅野氏の吉田の話を買い、尚且つ紀伊田辺藩と同日ということで名前を変えた方が真実を含んでいる可能性があるということを示唆して大河内氏の吉田の話も裏書したということになりそう。そうすれば、伊予の支藩に改名を迫られたのはおかしい、としてその詮索の目が伊予吉田に向き、そうすることで安芸吉田の話に目が向きにくくなるということになる。

地名としての吉田は、ひとまずここまでとする。

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