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実験と理屈

ふと「実験とは何か」について頭でぼんやり考えていました。

実験とはそもそも何を前提としているか。正確に言えば「なぜ実験をすることが必要と考えられているのか」。

思いついたのが、「現実には、理屈では到達できないブラックボックスが存在していると認めているから」かなあと。要するに「理屈では分からんから実際にやってみよう」という態度ですね。

例えば、既知の法則やら観測データなどから、現実で起きることが確実かつ正確に計算(シミュレート)可能であるならば(あるいは可能であると信じているなら)、実験など要らないわけです。しっかりきちんと計算することさえ考えれば良い。

でも、そうではなくって、理屈ではわからないことがある、現実は理屈通りにいかないことがあると認めているからこそ、私たちは実験をするわけですね。

よく「科学者は実験で理屈通りに行かなかったときこそ喜ぶ」とか「大発見につながるセレンディピティである」とか言われますが、それは「現実は理屈通りにいかない」ということを受け入れてる姿勢だからこそでしょう。(まあ、業績作りに日々追われてる現代の科学者たちが皆それで喜ぶ余裕や気持ちを残せてるかは別の問題ですが)

そして、このブラックボックスを受け入れる態度を採用した場合、ブラックボックスをブラックボックスのまま扱える度量をももたらします。つまり「どうしてこれが機能するのかよく分からんけどうまくいってるからいいわ」的な態度ですね。

このパターンで有名な例は全身麻酔ですね。全身麻酔がどうして効くのかのメカニズムの全貌は未だ解明されてないのですが(不勉強の江草が追っかけれてないだけで最新の麻酔学の知見で実は解明されてたらすみません)、ご存知の通り全身麻酔はそこら中の病院で日常的に行われてる技術です。「どうして麻酔が効くのかはよく分からないけど実際に効果面でも安全面でもうまくいってるからいい」というわけですね。ブラックボックスをブラックボックスのまま活用してる実用主義(プラグマティズム)的な態度です。

新薬の効果を比較する臨床試験も同様に「実験の精神」が背景にあります。新薬を創る時にはもちろんあれやこれや理屈を考えながら生み出されるわけですが、最終的な評価は「実際に投与してみて効くかどうか」に託されます。理屈がどうあれ効かないんだったら(あるいは副作用が強すぎるなら)ダメだし、効くんだったら良い薬とみなされるんですね。理屈通りにいかない事を認めた割り切った態度と言えます。

もちろん、実験で得られた結果を踏まえた上で、未知なるブラックボックス、すなわち未知の自然法則(理屈)の解明に繋げていくという流れもありますから、実験と理屈が必ずしも対立しているわけではなく、むしろ相互作用的に行きつ戻りつして発展していくというものになっています。しかし、だからこそ実験には理屈と対峙する存在として「ブラックボックスの存在を認める」、すなわち「理屈の限界を認める」という言わば「理屈を懐疑する態度」が含まれているわけです。


したがって「実験することをとにかく拒む態度」というのは裏を返すと「理屈を信じ込んでる態度」ということになります。「この理屈で正しいはずなのだからわざわざ実験するまでもない」というわけですね。もっと言えば「我々は現実のことを十分によく分かっている」という態度です。

科学実験の現場でもこうした態度が問題になることはありますが、さらに厄介なのは社会実験の場面でしょう。

社会問題に関しては、往々にして状況が複雑すぎて要素が調整しきれず理想的な対照(コントロール)が置けないことや、再度同一条件を得られることがないためにやり直しが効かないこと(再現性の確認不能性)、成功するにせよ失敗するにせよ影響が大きすぎるために「実験」どころかぶっつけ本番の「実践」レベルになること、などなどの理由から実験に不利なジャンルとなっています。

実験が不利な舞台であるがために、だからこそ社会の問題については理屈が大手を振って歩いているところがあるんですね。「そんなの常識だ」とか「そんなことできるはずがない」とか「馬鹿なことを言ってないで現実を見ろ」だとか、「(実験するまでもなく)我々は現実を理解している」とする態度がそこかしこに見られます。

なにせ、理屈通りにいってない事態を目にしても、デュエム-クワインテーゼよろしく後出しジャンケン的(アドホック)な言い訳で簡単にスルーすることができるのです。なんなら荒唐無稽なイデオロギー(理屈)であってもいかに社会を容易に席巻しうるかは歴史を見ても分かるでしょう。

つまり、現実に違和感を抱いて「現行の理屈が間違ってるかもしれないから新たな手法を試した方がいいんじゃない?」と思ったとしても「理屈が間違ってるはずはないから実験する必要はない」と跳ね返されることが多いのが社会問題という舞台なんですね。


で、江草が今具体的に何を想定してこの話をしているかというと、それは毎度お馴染み「ベーシックインカム」になります。

江草としては、現実のさまざまな側面から「No work, No pay」や「働かざるもの食うべからず」などの現行支配的な理屈(常識)はおかしいんじゃないかと違和感を抱いており、そうした常識からは導き出せない実験的な対応策としてベーシックインカムを実施してもいいんじゃないかと考えているんですが、皆様もご承知の通り、なかなかこの社会がそれを受け入れる雰囲気がまだまだ見られないのが実情です。

言説としてはそこそこ巷で人気は博しつつありますけど「じゃあ実際にやってみよう」という雰囲気は正直まるでないですよね。

この理由として、実験をするための前提となる「理屈のブラックボックス」の存在を受け入れられてないからなのではないかなあと思ったわけです。つまり、皆「現実のことを我々は十分によく分かっている」と信じていると。

確かに、実際にうまくいってるならそれでも構わないのですが、本当に私たちの社会はうまくいってるんでしょうか。別にベーシックインカム論者でなくとも、働き方改革なり経済低成長なり、少子化問題なりで、社会が大きな課題を抱えてることは認めているはずです。すなわち、どうもうまくいってない。

なら、「現実のことを我々はよく分かっている」という前提をまず疑ってみるのは行ってみるに足るステップじゃないでしょうか。すなわち「常識を疑う」ということです。

「常識を疑う」と言うと、何でもかんでも逆張り的に常識に反発するトンデモ活動家のイメージで語られがちですけど、それこそ偏見的な誤解です。「常識を疑う」という言葉が指す態度は、「常識が間違ってる」と断定する態度ではなく「常識が間違ってる可能性」を想定する態度というのが正確な意味合いになります。

うまくいってない時に、「常識を疑うこと」すなわち「我々の現実理解が足りてない可能性がある」と認めること、それは実際の科学実験の現場にも備わっている正統で健全な態度なのです。

だから、現状のうまくいってなさを「これが現実だから」と見てみぬふりをして、ベーシックインカムなどの実験的手法の可能性を考えもしない、議論の俎上にもあげないのは、結局は現行の常識に固執してるだけの態度のように江草は感じてしまうのです。

もっとも、先ほども書いたように社会実験というのはなかなか実行のハードルが高いものがあります。ラボでの科学実験のようには「失敗してもいいか」というノリで気軽にできるわけではありません(まあ実際はそこまで気軽でもないですが)。なんでもいいから適当な実験的手法を採用するというわけにもいかないんですね。

それゆえに、新しい実験的手法には説得力が求められることになります。つまり、「現行の理屈(常識)はこういう点で現実と矛盾しているから実はこういう理屈(仮説)の方が妥当なんじゃないか、それを確かめるためにもこの実験をしてみよう」という理屈が要るわけです。

「実験をするために理屈が要る」というのは、理屈を疑う役割として実験を描いてきた本稿の流れからすると逆の話のようで困惑されてしまうかもしれませんが、むしろこうした複雑で相補的な関係性こそが「実験と理屈」という二者関係の醍醐味なんですね。なんというか「喧嘩するほど仲が良い」そんな関係なんです。

なので、現状でできることは、実験の実現のために理屈を繰ることになります。「確かに実験した方がいいな」と多くの人に思わせるだけの説得力がある理屈を提示するのです。

とはいえ、ここで、実験が「理屈では分からないブラックボックスの存在を前提している」ということを忘れてはいけません。

つまり、どうしてもどこまでいっても「絶対うまくいく」という保証は得られないと言うことになります。「絶対うまくいく」が分かっていたら、それはもはや実験ではないですから。

「絶対うまくいく」という保証を求める気持ち、それこそ「実験の精神」を受け入れない「現行の理屈(常識)に固執する態度」の象徴です。言ってしまえば、実験を永遠に行わなければ(正確には実験の必要性を永遠に無視し続ければ)、「自身が抱いている理屈が否定されることが永遠にない」、このことをもって永遠に「自分たちが失敗したと判定されうる事態」から逃避し続けている。そういう態度です。でもそれは決して「うまくいってる」とか「正しい」のではなくって「自分たちがうまくいってない(正しくない)可能性を認めたくない」という卑怯な態度でしょう。

さて、「絶対うまくいく」という保証が得られないということは、つまりは私たちが実験をするには最終的にどうしても勇気が必要になるということです。「確かに現状には違和感があるしうまくいってない気がする。だから失敗するかもしれないけど新しい試みをやってみよう」そういう覚悟です。

「違和感」「気がする」「かもしれない」「勇気」「覚悟」。理屈とは程遠い主観的感覚的な言葉のオンパレードですが、理屈を語り尽くした後に人間に残る最後の領域がこうした心の領域なんですね。

結局は、頭で考えた「理屈」が及ばないブラックボックスの代表例たる私たちの心が、最後「実験」を行うかどうかを決める。すなわち「実験」とは私たち自身が私たち自身の心を信じるかどうかが試される営み。そして「理屈」とはその正しさのビートで本来「圏外」にあるはずの心を鳴り響かせてこそ。そういうことなのでしょう。





※なお、「実験」と対置させるなら「理屈」より「理論」とか「論理」の方が良さそうにも思ったのですが、なんかそれらだと固すぎる感触で、科学色が強く話を社会問題に繋げるイメージにもなりにくそうかなと思って、「理屈」という表現を選んでみました。


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