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写真は「真を写すもの」か

こないだお花を見に出かけた時に張り切って一眼カメラを持ち出したんです。小さい子連れの出先だと大体手が回らず、カメラを構える余裕すらないことがほとんどなので、写真はスマホに任せて最近はあまり持ち出してなかったんですが、さすがに花は綺麗に撮りたいなあと思ってカメラを久しぶりに引っ張り出したのです。

最近のスマホ写真は十分に綺麗と言えど、さすがカメラの写真はまた一味違いますね。

チューリップ畑

ど素人の江草が撮ったにしては思ったより雰囲気が出ています。(被写体がいいとも言う)

江草のうろ覚えの耳学問によれば、一眼カメラの方が被写界深度が浅くフォーカスが一部に限定されるので人間が実際に見てる光景に近いのだとか。ほら、スマホの写真って写ってるもの全部にピントが合いますでしょ。(絞りにもよりますが)一眼は被写体の前後がボケるので「見たいものに注目してる」という人間の眼の機能と似てるんだそうです。

しかし、どちらが「写真」として世界を「真に写しとっているか」は意外と奥深い話になるんですよね。

「人間が見るように見る写真」って、つまりは主観的じゃないですか。好きな人が輝いて見えたりするし、だまし絵の錯視にもやられますし、人間の目は日常的に盛ったり勘違いしたりしています。

一眼のボケも、世界にボケがそのように存在しているわけではなく人間が勝手にそう見てるだけと言えばそうなわけです。全てをボケなくそのまま記録しているスマホの写真の方が世界を客観的に見ていると言えばそうなのかもしれません。

実際、普段、メモ代わりとかの気軽な参照用に写真を撮りたい時ってスマホでパシャッとやりますよね。わざわざ一眼では撮りません。一眼はもっと専門性の高い記録や、表現力や芸術性を求めてる時に出てくるものになってると思います。私情を挟まない客観的な記録はスマホで済ませて、自分の「こうしたい」「こう見たい」を出したい時に一眼が出てくる。

プロはもちろん一眼みたいなちゃんとしたカメラを基本に据えて業務を行ってらっしゃると思うんですが、江草みたいな一般ピーポーのレベルではスマホが「世界をそのまま写しとるためのカメラ」であり、一眼は「世界をこだわって綺麗に写すためのカメラ」になってると思うんですね。そして、私たちの普段使いのシェアは圧倒的にスマホのカメラになっているわけです。


この「そのままを写実するスマホ写真」が世を席巻するのって、絵画業界を写真が変容させた歴史と重なって非常に面白く感じます。

江草も美術史に詳しいわけではないのでうろ覚えなんですが、どこかで読んだか聴いた耳学問によると、かつて写真がまだ普及してない頃、絵画は「リアルにそのまま写実的に描く」のが優勢だった時代があったそうなんですね。写真がないから人や風景といった映像的な記録を撮るのは絵画がその役割を担っていたと。肖像画もそういう意味で描かれてたと聞きます(とはいえ、肖像画はその性質上やっぱり盛ってそうではありますが)。

ところが、写真が普及すると状況が一変します。世界をそのまま描く絵画の役割は写真に取ってかわられて、その役割を担っていた画家たちは一気に仕事を奪われてしまったわけです。

画家はもはや「世界をそのまま写実的に描いても」しょうがなくなった。それで、思い思いに形をデフォルメしたり、普通の世界にはあり得ない色使いや線を使ったりする、非現実的な表現で世界を描くのが絵画の主流になったんだと。いわゆる印象派がそういう流れで勃興したもののようです。

つまり、客観的な絵画から、主観的な絵画へと変貌を遂げて、それが今の絵画の多様な表現力や芸術性に繋がってるわけです。「自分にはこう見える」とか「自分はこう描きたい」として主観的に世界を描く絵画の時代が花開いたと言えます。


で、話は戻って、スマホ写真と一眼カメラ写真。

今やスマホの爆発的な普及によって、客観的にそのままを記録的に写しとる写真はもはや万人にとっていつでもどこでも得られるものになりました。これだけ「万人の写実写真ツール」が普及したからこそ、逆にその反動として(印象派絵画がそうであったように)写真に対して「こう表現したい」という想いが載せられることが増えて来てるのかもしれないなと感じます。

スマホ写真も結局はそのまま撮って出しするのではなくって、いろんな加工をすること、すなわち盛ることが当たり前のようになっています。インスタ等々で活躍されている、世の写真系(映像系)インフルエンサーたちもRAWデータ(生データ)からどれだけ調整できるかに腐心してらっしゃるのはみなさまもご存知の通りです。

なんなら、現実世界というリアルにすら立脚してないリアリスティック写真風の画像がAIがプロンプトという文字列の呪文から生成されたりもしているのが昨今です。これは「あえて非現実的な手法で現実を描き出してる」という意味で皮肉が効いた表現方法と言えましょう。

「現実をただ撮るスマホカメラ」が万人の当たり前のツールになったからこそ、「客観的」とか「現実」とかの枠組みから脱却した「自分好み」で「自分らしい」「非現実的な」表現を求める文化が花開いたと。

そういう風に、過去の絵画史と重ねて見ると、なかなか今の写真を取り巻く現象も趣深いなあと思ったわけです。


ほんというと、スマホ写真だって内部で情報処理をして出力してるという噂もありますし、人間の眼球だって所詮は可視光線の波長しか認識できてないわけですから、そもそも「世界をそのまま見ることはできるのか」「世界をそのまま写しとることなんて可能なのか」という話ではあります。

その意味で言うと「写真」という日本語は非常に面白い構造になってるなと思うんですね。

「真を写す」と書く。「真」とあるから真に迫るものでありそうです。しかし、「写」の意味はどうしたって「コピーである」「偽物に過ぎない」という要素から逃れられません。

結局はコピーかもしれない、偽物かもしれない。でもそれでもなお我々が「真」に対する憧れや追求心を持って写し取ろうとする営みだからこそ「写真」であると。

これがなんとも、人間が常に「主観」と「客観」の狭間で揺れ動いてる存在である様をありありと描き出してるようで、「写真」とはすごく面白い言葉だなと、個人的には感じております。



……えっと、で、なんの話でしたっけ。

あ、「こないだお花の写真撮りに行ったよ」という、ただの日記なのでした。

ただの写真日記が気づいたらこうなってしまうの、我ながら苦笑してしまうのですが、これが江草の「自分らしさ」なのでみなさんお許しくださいませ。

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