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ビザンツ帝国の歴史を分かりやすく解説

ビザンツ帝国とは

ビザンツ帝国は、ローマ帝国の東半分が東ローマ帝国として独立した後継国家です。4世紀に東ローマ帝国として成立し、1453年にオスマン帝国によって滅びるまで、およそ1,100年にわたって繁栄しました。

ビザンツ帝国は、ヘレニズム文化の伝統を継承しつつ、キリスト教文化を中心とした独自の文化を築き上げました。ビザンツ帝国は、オスマン帝国との戦いで徐々に勢力を弱めていき、1453年にコンスタンティノープルが陥落し、ビザンツ帝国は滅亡しました。

ビザンツ帝国の位置

ビザンツ帝国の歴史の概要

ビザンツ帝国の歴史は長く、1100年もありますが、大きく分けると次の4つに分けることができます。

1.ローマ帝国後期(4世紀末 - 5世紀)
ビザンツ帝国は、元々はローマ帝国の一部であり、4世紀末から5世紀初頭にかけて、ローマ帝国東部の領土を中心に独自の発展を遂げました。395年には、ローマ帝国が東西に分裂し、ビザンツ帝国は東ローマ帝国として独立しました。

2.ユスティニアヌス1世の治世(6世紀)
6世紀には、ユスティニアヌス1世が治世を行い、東ローマ帝国は最大の領土拡大を果たしました。この時期には、ユスティニアヌス法典の制定や、聖ソフィア大聖堂の建設など、文化的な発展も見られました。

3.イスラーム勢力の台頭とテマ制度の確立(7世紀 - 8世紀)
7世紀から8世紀にかけて、ビザンツ帝国はイスラーム勢力との戦いを強いられました。この時期には、テマ制度が確立され、地方軍管区である「テマ」が設置されました。

4.マケドニア王朝の時代(10世紀 - 11世紀)
10世紀から11世紀にかけて、マケドニア王朝が治世を行い、ビザンツ帝国は再び文化的な発展を遂げました。この時期には、ビザンツ美術の黄金時代が訪れ、ビザンツ文化の中心地であるコンスタンティノープルが繁栄しました。

5.十字軍とラテン帝国の成立(12世紀 - 13世紀)
12世紀から13世紀にかけて、ビザンツ帝国は十字軍による侵略を受け、コンスタンティノープルは略奪されました。その後、ラテン帝国が成立し、ビザンツ帝国は弱体化しました。

6.パレオロゴス王朝の時代(13世紀)
パレオロゴス王朝は、13世紀半ばにコンスタンティノス・パレオロゴスが皇帝に即位し、1453年のコンスタンティノープルの陥落まで続いたビザンツ帝国の最後の王朝です。コンスタンティノープルはラテン帝国から奪還され、再びビザンツ帝国の首都となりました。この時期、ビザンツ帝国はオスマン帝国の台頭に直面し、次第に領土を失っていき、オスマン帝国との戦いに疲弊したビザンツ帝国は、1453年にコンスタンティノープルがオスマン帝国によって陥落し、ビザンツ帝国は滅亡しました。

1.ローマ帝国後期(4世紀末 - 5世紀)

ローマ帝国後期は、西ローマ帝国と東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の分裂期とも呼ばれており、4世紀末から5世紀にかけての期間を指します。この時期は、ローマ帝国内部で政治的・経済的・社会的な危機が発生し、さらに蛮族の侵攻によって帝国が衰退し始めた時期でもあります。

1-1.ローマ帝国の分裂

4世紀後半、ローマ帝国は政治的混乱と経済的困難に直面していました。395年に、ローマ皇帝テオドシウス1世は帝国を東西に分割し、東ローマ帝国の礎を築きました。この時点で、新しい帝国の首都は旧ビザンティウム市に置かれました。東ローマ帝国は、後にビザンツ帝国として知られるようになります。

ビザンツ帝国の創建期は、西ローマ帝国との関係や、外敵に対する軍事的対処法についての諸問題を抱えていました。395年の分割後、東ローマ帝国はしばしば異教徒の圧力に直面しており、その後、アリウス派やネストリウス派のキリスト教徒の信条に関する宗教的紛争にも巻き込まれました。このような状況の下で、東ローマ帝国は自らを防衛するために、軍隊を強化し、市民の監視体制を厳格化することを余儀なくされました。

2.ユスティニアヌス1世の治世(6世紀)

ユスティニアヌス1世は、6世紀初頭に即位したビザンツ帝国の最も偉大な皇帝の一人でした。ユスティニアヌス1世の治世は、ビザンツ帝国の黄金時代とも呼ばれ、その政治的、軍事的、文化的遺産は多岐にわたります。

2-1.ユスティニアヌス1世の内政

ユスティニアヌス1世の治世の最初の数十年間は、東ローマ帝国の国内問題に取り組むことが主な課題でした。彼は法律の改革を進め、ビザンツ帝国の法体系を統一し、法律を書き直した「ローマ法大全」を編纂しました。この法典は、その後の欧州の法律の発展に大きな影響を与えました。

ユスティニアヌス1世はまた、ビザンツ帝国の官僚制度を改革し、新たな法務官庁を設置するなど、行政機構の改革にも力を注ぎました。彼はまた、教育制度を改革し、学校を再編成し、新しい大学を創設し、哲学、法律、医学、神学、歴史などの学問を広めました。このような改革により、ユスティニアヌス1世の治世は、文化的な繁栄をもたらし、ビザンツ帝国の知識人たちの間で大きな発展をもたらしました。

2-2.ユスティニアヌス1世の外政

一方、ユスティニアヌス1世の外交政策も重要でした。彼は、イタリアの支配権を回復するために、ヴァンダル王国、東ゴート王国、フランク王国など、周辺の国々と戦いました。彼の軍事力は強大であり、帝国領土を広げることに成功し、彼の治世には、地中海世界全体が東ローマ帝国の支配下に置かれるようになりました。

ユスティニアヌス1世の治世は、その文化的、法的、軍事的な遺産から、ビザンツ帝国の黄金時代と見なされています。しかし、彼の後継者たちは、彼が残した遺産を維持することができず、帝国の危機を招くこととなります。

ユスティニアヌス1世の征服地

3.イスラーム勢力の台頭とテマ制(7世紀 - 8世紀)

3-1.イスラームの進出とテマ制

7世紀に入り、アラビア半島からイスラーム勢力が勃興し、徐々にビザンツ帝国の領土を奪っていきました。イスラーム勢力は632年にムハンマドが亡くなった後、アラビア半島全体を統一し、632年から634年にかけてビザンツ帝国のシリア地方を征服し、636年にはメソポタミアを制圧しました。その後、エジプトや北アフリカ地域に進出し、7世紀末にはイベリア半島に侵攻するなど、拡大を続けました。

イスラーム勢力の進出に対し、ビザンツ帝国はテマ制度を確立しました。テマ制度とは、帝国を地域ごとに分割し、各地の軍事責任をテマ(軍管区)と呼ばれる地域の総督に委ねる制度です。これにより、帝国内の軍事力を強化し、イスラーム勢力との戦いに備えました。また、テマ制度は地方行政や税制にも影響を与え、中央集権的な帝国を支える重要な制度となりました。

3-2.イスラーム文化との交流とビザンツ文化の発展

一方、イスラーム勢力の拡大はイスラーム文化の伝播にもつながりました。ビザンツ帝国内にはアラビア語を話すイスラーム教徒が多数存在し、アラビア語文化の影響を受けることとなりました。また、ビザンツ帝国側からも、アラビア語による著作物が多数残されています。

この時期には、ビザンツ帝国においても文化や芸術が発展しました。特に、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の首都コンスタンティノープルには、ハギア・ソフィア大聖堂をはじめとする多くの美術建築物が建設されました。また、学問や哲学、医学などの分野でも多くの業績が挙げられ、古代ギリシャ文化を継承しつつ、東ローマ帝国独自の文化が発展していきました。

4.マケドニア王朝の時代(10世紀 - 11世紀)

4-1.マケドニア朝とは

10世紀に入ると、マケドニア朝が成立し、ビザンツ帝国は再び盛期を迎えました。マケドニア朝の始祖は、ペトロス3世でした。その後、ニケフォロス2世フォカス、ヨハネス1世ツィミスケス、マヌエル1世コムネノスといった名君が治め、ビザンツ帝国は繁栄を続けました。

この時代、ビザンツ帝国はカッパドキア、キプロス、シリア、エジプト、イタリア半島南部など、広大な領土を支配していました。また、マケドニア朝は、文化や芸術にも力を入れ、ビザンツ芸術の黄金時代を迎えました。

4-2.東西教会の分裂とその影響

この時代の主要な事件としては、1054年に発生した東西教会の分裂が挙げられます。ビザンツ帝国(教皇レオ3世)とローマ教皇庁の対立が原因で、東西教会は分裂してしまいました。この分裂は、ビザンツ帝国の影響力が低下する一因となりました。

また、この時代にはセルジューク朝の台頭によりビザンツ帝国の東部領土が侵食され、ビザンツ帝国の弱体化が始まりました。

しかし、この時代には、ビザンツ帝国の国力を支えたテマ制度を強化しました。テマ制度は、各地に設置されたテマ(地方行政区画)を基盤に、兵士や土地の統制を行う制度で、帝国の防衛力を強化しました。

マケドニア朝は、ビザンツ帝国が最も繁栄していた時代として知られています。その後のビザンツ帝国の歴史は、再びイスラーム勢力の侵攻や十字軍遠征など、激動の時代を迎えることになります。

4-3.首都・コンスタンティノープルの繁栄

コンスタンティノープルは、この時代に世界で最も豊かで人口の多い都市の1つになりました。この繁栄は、皇帝バシレイオス2世によって始まりました。彼は、対外的には敵対勢力を退け、対内的には経済や文化の発展に注力しました。

マケドニア朝の時代には、ビザンツ帝国の文化的・芸術的な復興が起こりました。ビザンツ美術には、独特のスタイルがあり、金色や彩色されたモザイクが多用され、宗教的なテーマが描かれることが多かったが、マケドニア朝では、より自然主義的なスタイルが取り入れられるようになりました。また、哲学や文学、歴史学などの文化面でも、新しい発展が見られました。例えば、10世紀の哲学者フォティオスは、当時のキリスト教会の体制に対して批判的な立場から、プラトンやアリストテレスなどの哲学者の著作を収集し、保存するなど、文化復興に貢献しました。

経済面では、商業が発展し、コンスタンティノープルは東西の交易の要地として栄えました。イタリアや中東からの商人たちが集まり、さまざまな品物が取引されました。また、農業や手工業の発展もあり、生産性が向上し、物価も安定しました。これらの要因から、マケドニア朝の時代には、ビザンツ帝国は経済的な発展を遂げ、コンスタンティノープルは世界でも有数の都市の1つになりました。

5.十字軍とラテン帝国の成立(12世紀 - 13世紀)

5-1.十字軍との戦い

12世紀末から13世紀初めにかけて、キリスト教国家がイスラーム教国家との戦いを行っていた中で、十字軍が組織されるようになりました。十字軍は、聖地エルサレムの回復を目的として、西欧から出征しました。1096年に第1回十字軍が発生し、1099年にはエルサレムを占領し十字国家を建設しました。

その後、キリスト教国家とイスラーム教国家との争いは続き、1204年には、第4回十字軍が東ローマ帝国(ビザンツ帝国)に侵攻し、コンスタンティノープルを略奪し、ラテン帝国を建国しました。ラテン帝国は、コンスタンティノープルを首都とし、フランス・ヴェネツィアなどからの十字軍参加者によって支配されました。

しかし、ラテン帝国は支配層が小さく、ビザンツ帝国の支配者層はビザンツ帝国を復興するために、ニカイア帝国、トレビゾンド帝国、エピロス専制侯国などの地方政権が興りました。ビザンツ帝国の本拠地は、ニカイア帝国が占拠し、ビザンツ帝国の復興を目指しました。

5-2.十字軍による侵略の影響

その後、ニカイア帝国のテオドロス1世、ヨハネス3世、ミカエル8世パレオロゴスが、ビザンツ帝国を再興するための戦いを行い、1261年にビザンツ帝国はコンスタンティノープルを取り戻しました。

この十字軍の侵略により、ビザンツ帝国は大きな打撃を受け、一時的に弱体化しました。しかし、テマ制度により、地方の軍事力を強化し、それを中央政府が統制することで、徐々に再興されました。また、十字軍やイスラーム勢力との戦いを通じて、ビザンツ帝国は戦術や技術面での進歩を遂げ、ヨーロッパの文化や技術にも影響を与えました。

6.パレオロゴス王朝の時代(13世紀)

6-1.パレオロゴス王朝による再興

パレオロゴス王朝は、1259年にミカエル8世が皇帝に即位して始まりました。ミカエル8世は、ニカイア帝国のジョン3世ドゥーカス・ヴァタツェスからコンスタンティノープルを奪い返して帝国を再興し、パレオロゴス家を創設しました。この時期のビザンツ帝国は、ラテン帝国による占領後、弱体化しており、ミカエル8世はその状況を打開するため、財政の改革や外交に力を注ぎました。

ミカエル8世の後継者であるアンドロニコス2世は、文化的復興に注力し、大学の再建や教会の修復、芸術作品の制作を行い、コンスタンティノープルを再び文化的な中心地にしました。しかし、アンドロニコス2世の治世中には、西欧からのラテン帝国との対立や、東欧からのセルビアやブルガリアなどの脅威がありました。

アンドロニコス2世の死後、息子のマヌエル2世が即位し、ビザンツ帝国は再び勢力を盛り返しました。彼はセルビアとの戦争に勝利し、帝国の領土を拡大し、文化的な繁栄も続けました。また、マヌエル2世は西欧諸国との同盟関係を構築し、キリスト教世界の団結を目指しました。

6-2.オスマン帝国による滅亡

しかし、その後の帝国は再び外敵の脅威にさらされ、特にオスマン帝国の侵攻が深刻な問題となりました。14世紀半ばには、オスマン帝国のスルタン・ムラト1世によってアドリアノープルが征服され、ビザンツ帝国はますます弱体化しました。この時期、パレオロゴス王朝は、オスマン帝国に対する防衛に力を注ぎましたが、結局1453年にコンスタンティノープルはオスマン帝国のスルタン・メフメト2世によって陥落し、ビザンツ帝国は滅亡しました。

まとめ

ビザンツ帝国は、ローマ帝国の東部に形成され、東ローマ帝国とも呼ばれていました。その歴史は、330年にコンスタンティノープルが首都となり、ビザンツ帝国が成立したことから始まりました。その後、ユスティニアヌス1世の時代には、ビザンツ帝国は最盛期を迎え、領土を拡大し、法律や文化の整備を進めました。しかし、その後は、イスラム勢力の脅威や内部の政治的混乱により、帝国は弱体化し、十字軍によってコンスタンティノープルが略奪され、ラテン帝国が成立しました。その後、ビザンツ帝国は再び勢力を取り戻しましたが、再び内外の混乱により、帝国は弱体化し、オスマン帝国によって滅ぼされることとなりました。ビザンツ帝国は、ローマ帝国とともに、西洋文明の基盤を築いた重要な文化的、政治的な存在でした。

以下、ビザンツ帝国の勢力チャート(自作)を載せておきます。


勢力チャート

最後に

最後まで読んでくださりありがとうございました。
今後も歴史について発信していきますので、よろしくお願いします。

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