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京城中学のころ

1933(昭和8)年3月、仁川の尋常小学校を卒業した礒永秀雄は、京城中学に入学します。京城=現在のソウルです。

1920年代の京城は、京城駅、朝鮮総督府、京城府庁舎など、主要な建物が次々と登場し、1930年代に入ると商工業が発達し、都市の人口が急激に増加。多くの観光娯楽施設が作られました。

京城中学は、朝鮮最古の伝統を持ち、朝鮮の高麗国の王宮の跡の広大な敷地に作られた朝鮮全土の小学校の成績優秀者のみが入学を許される名門校です。当時の旧制中学は5年制で、現在の新制中学1年〜高校2年の期間にあたります。
秀雄は自宅の仁川から京城まで1.5時間かけて汽車通学をしていました。
京城の周囲は鞍山・仁王山・北岳山・北漢山・南山などの山や、漢江という川に囲まれた天然の要塞の様な場所。さらに街の周囲の丘から街中にかけて城壁が作られていて、外敵を防ぐために昔は夜になると城壁の4つの門が閉じられたと言います。京城中学の敷地は城壁に接した丘にあり、春になるとなだらかな丘の一面が桜で埋まり、5月には校庭がアカシアの若葉で香りました。

京城中学

秀雄は京城中学で5年間級長を務めます。
京城中学の同級生の中には戦後「書肆ユリイカ」を創立した伊達得夫がいます。彼の著書『詩人たち ユリイカ抄』には京城中学時代の同級生だった礒永秀雄のことが次のように記されています。

「中学生よ。君たちの頬はスヰートピイのようだ。中学校の国語教科の巻頭第1ページ目にそんな行を持つ川路柳虹の詩があった。………クラスメートのうちで誰がそんな頬を持っているだろう。僕の疑問の前にたちまち一つの顔が浮かんだ。」

「満州事変は小学6年の春に満州帝国の建設をもって終わっていた。その国旗である五族共和の旗が、つかの間の平和を象徴するように例えば仁丹のケースにまでデザインされて『月が鏡であったなら』という歌とともに巷に氾濫していた。
そんな日ぼくは校庭の桜がその頬に染まったかと思われる美少年をはじめて中学の教室で見つけていた。
礒永であった。淡紅色のやわらかそうな頰。そして、目をふせると、長すぎるほどのマツゲのかげが、その頬にうつった......。」

「淡紅色のやわらかそうな頰をした少年は成績も優秀で、毎年僕たちの級長をしていた。アカシアの若葉の匂う校庭で、彼が背伸びしながらかける「キヲツケ!」の号令によって、ぼくの夢多い日課がはじまるのであった。
満州事変が終わって、やがて支那事変がはじまるまでの、儚い小春日和の様な歳月であった...。」

この頃、京城では旅行者用に案内本や パンフレット,それに絵葉書もたくさん出はじめていて、映画俳優のブロマイドなども販売され始めていました。
伊達得夫と親しくなった秀雄は、ある日一枚の写真を見せます。高峰秀子という少女スターの写真でした。
学校では過酷な軍事訓練、鉄拳制裁は当たり前の日々の連続。美しくて優しい眼差しの少女スターは秀雄の心をとらえたに違いありません。

5年の春、関西~東京、日光にまで至る、2週間ほどの修学旅行で、港の行商人から石川啄木の詩集を買った時、そして弁論部長を任され、弁論大会に出場した時。そばにはいつも伊達得夫がいました。

日本本土へは仁川駅〜京城駅〜釜山までを汽車で。 釜山〜本土を船で移動していたようです。

秀雄は5年の秋から体を壊し、高校進学が1年遅れてしまいます。人より1年多く中学に通っている間、秀雄を慰め、頻繁に便りを送り続けたのは旧制福岡高等学校に進んだ伊達得夫でした。萩原朔太郎や中原中也や梶井基二郎などの作品を読めと勧めてきたのも伊達得夫です。京城中学は秀雄が大きく文学の道へと傾き始めた時代になったと思います......。

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