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"試みる"とは、上手な「やってみないとわからない」の実践である

こういうものを書き始める時は、出だしが重要だ。何か歴史上のエピソードや格言なんかをテーマに絡めてみると格好いいに違いないーーなどと思い込んでいて、記憶の片隅にある歴史上の出来事や小説の一場面を思い起こしてみた。ネットで著名な発明家や偉人などの名前と、これから書くテーマのキーワードとを組み合わせて検索もしてみた。そんなことばかりに時間を費やしていた。しかし、気の利いた良い書き出しは思い浮かばなかった。

だから、とりあえず書き始めることにした。それが、この"試みる"論が伝えたいメッセージでもあるからだ。

もっとも、場末の珈琲店でPCを広げてエジソンを検索していたら、隣の席のおじさんがチラチラとこちらを見ていたから、私の考え込んでいる姿がよほど怪しかったのかもしれない。。そう、我に返ったからというのもある。そして、この顛末もまた"試みる"論が伝えようとしているメッセージのひとつだ。

「試す」と「試みる」

"試みる"について書いていくものだけれど、書きたいこともたくさんあってそれが何なのか簡単にはまとめられない。だから、それが何なのかについては追々書いていく、つまり、後回しすることにしても、【はじめに】で触れたように、まず「試みる」と「試す」の違いは書こうと思う。

同じ”試”の字でも、「試みる」は「試す」ではない。この二つの違いについてはベタかもしれないけれど、国語辞典の方が私が語るよりもよっぽど信憑があるので、引用してみる。

◇「試みる」は、どんな結果になるかわからないが、とにかくやってみるという意が強い。「被災地と連絡を取ろうと試みたが駄目だった」などと使う。
◇「試す」は「耐久性を試す」「恋人の心を試す」など、対象とするものの性能・実態を知るためにやってみるの意が強い。

出典:デジタル大辞泉(小学館)

まず、印象の違いもある。「試す」という言葉は時には人聞きが悪い。ドラマを例にするのは現実味がないかもしれないけれど、相手の気持ちを試すために時には意地悪な嘘をついてしまうシーンがよくある。ところが、同じ「試」の字でも「試みる」という表現になると、根拠はないのに何か未来への明るい可能性を感じさせる響きがある。ロケットを打ち上げるとか、洞窟に閉じ込められて出口を探していたら岩の割れ目から小さな光が差し込むのが見えて穴を掘り進める時などだ。勝算は低いがとにかくガムシャラに突き進む美しさのようなものさえある。

しかし、その印象以上に大事なこの2つの違いは、結論ありきの話かどうかということだ。

「試す」は、具体的に期待している結論とその仮説の様なものがまず存在していて、それを検証することである。時には、隠された結論もある。

しかし「試みる」には結論が用意されていない。もちろん、何かしらのキッカケはある。漠としたゴールの様なものもあるかもしれない。しかし、試みたとしてその先行きは「わからない」のが前提だ。結論がないこともある。

試食や試着といった「お試し」というものがある。響き的には「試す」の括りのようにも思えるが、お試しにも「試す」の側から見たお試しと、「試みる」側と二つある。

「お試し」での「試す」はその場限りの一期一会だけれど、「試みる」の場合は大抵は話の続きがある。その時、お試しは"試みる"の一連のプロセスの一過程に組み込まれている。

たとえば、トマトを試食するとする。「試す」の視点では、試してみて美味しければ買うだろうし、そこには美味しいという期待があらかじめある。だから確かめるために試す。美味しいという期待がなければ試食しない。

一方、「試みる」の視点での試食では、そもそもトマトを買う買わないがその時は頭にない可能性がある。美味しいという期待すらない時もある。そして、食べてみたら美味しかった。"試みる"の場合は、話がここからで、もちろん美味しくて買う時もあるし、違うものを試してみようと思うかもしれないし、美味しかったけどまたの機会にするかもしれない。美味しさのあまり、自分の家の庭で作ってみようと思うかもしれないし、それが興じて農業に転向するなどという意外な展開もありうる。

つまり、"試みる"とは「やってみないとわからない」の話なのだ。

「やってみないとわからない」

「やってみないとわからない」は読んで字の如くだ。当たり前と言われれば確かに当たり前の話だ。けれども、ココロミル論ではこの「やってみないとわからない」が鍵になる。

「やってみないとわからない」の言い回しは、たまに耳にすることがあるかもしれない。仕事で日常的に使う場合もあるかもしれないし、何か大事があった時に聞くこともあるかもしれない。シチュエーションが違っても意味そのものは変わらない。ただ、同じフレーズでも、重心が前半にあるか後半かでニュアンスは変わってくる。「やってみないと」に重心を置くか、「わからない」の方に反応するか。

前者の場合は、「まずはやってみよう」「一歩進もう」といった様に着手することが意識されている。他人からの着手の働きかけが主だ。みずからに言い聞かせることもある。さきほどの辞典の例の様に、一大事には不退転の覚悟や決意というようなこともある。

後者の場合は、結果の”不確実性”のことが主題になっている。これもどのタイミングで言うかによって意味合いが変わってくることがある。着手する前なら予測の困難さについてだ。やることはやるけれど、どういう結果に転ぶかわからないという風で、時には「見切り発車」のこともある。逆に完遂した後なら、だいたいは「当初の予測や見立てとはかけ離れた結果に終わった」というような話で、想定外の結果になったことを感嘆しているケースだ。良い結果の場合の方が多いかもしれない。見立て通りだったならば「言った通りでしょ」になり、言い当てた人は悦に入る。

「まずはやってみる」

「まずはやってみる」という様な言い回しがあることは、逆に言うと、人は”中々やってみない”性質だと言えなくもない。私なんかだと上司に何度となく「いいからやれ」と怒られてきたのでその部類だと思う。腰が重いとか難しく考え過ぎるとかあるが、世の中には、やってみない理由は色々とあって、そこを注目するのもこのココロミル論のひとつのテーマであるので、それは追々取り上げてみたい。

「やってみないとわからない」は、言い換えれば「やっていないからわからない」の時がある。全然やっていないのと少しでもやっているのとでは、「わかる」について0と1とのような違いがある。だから、まずは少しでもいい。はじめの一歩を踏み出して、知ろうということだ。

一歩前進の大切さは、全体から見て進捗率があがるとかゴールに近づくとか、そういうことではない。一歩進むことによって新しい情報を得られることが重要なのだ。それも自分の「体感」が生み出す自分限定のオリジナルな情報だ。やってみて良かった、という感想や感動も勿論大事な情報だ。次の行動の判断材料としても大きく資する。体感は当たり前や思い込みといったものをいつの間にか、打ち壊していることもある。

そして、情報だけでなく「勢い」もついてくるので、次の前進が生まれる。その小さな前進を積み重ねたところに結果や成功(時に失敗)がいつの間にかあるというのが、「やってみないとわからない」の根底にあるものだ。

noteもキッチリやろうと思うと、腰がというより、指が重くなるかもしれないが、とりあえず意味もなく当てもなく手を動かしていると気づきも多く、何となくその気になってきて手が動いている(かもしれない)。

一歩進んで困難な壁につき当たれば、その時は乗り越えるか別の道を通るか一休みする。あるいはやめるかを考えればいい。それもひとつの結果であり成果だ。失敗や損を恐れて一歩も踏み出さないことの方がもったいなく、損であり失敗なのだ。

それは「イチかバチか」ではない。

ただ、失敗や損を恐れるなとは言っても、失敗や損はしないにこしたことがない。「やってみないとわからない」の話は、時々「イチかバチか」とか「当たって砕けろ」と混同されることがある。

しかし、とりあえず一歩踏み出そうとは言ったけれど、損しろとは言っていない。私だって損は嫌だ。時には、取返しのつかないこともある。歴史上の大戦でも、イチかバチかの手を打つ様なことが間々あって、それは古今東西何度となく繰り返されてきて、失敗した時の痛手は相当に大きい。

実は「やってみないとわからない」にも、それなりのルールがある。さっき、あまり深いことは考えずに「まずはやってみよう」と言ったではないかと怒られるかもしれないが、「やってみないとわからない」にも予め押さえておくべき手法とか作法といったものはある。それによって、結果は不確実でも、変な方向に行かない様にある程度コントロールすることはできるし、それを踏まえた「やってみないとわからない」の実践は、結果や成果にプラスになるはずだ。大袈裟かもしれないけれど、"試みる"ことに伴う不確実性に対するリスク管理と、手間暇をかけることの費用対効果の向上と言っていいかもしれない。

このココロミル論は、その手法とか作法とか仕組みや構造についての話である。そして、ココロミル論における"試みる"とは、ある程度は戦略的で管理されたとでも言うべき、上手な「やってみないわからない」の実践である。そこに意味があると考えている。売り手にとっては上手な「やってみないとわからない」の舞台を提供することで効果的な販売を行うという様な話になる予定である。

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と、なんとなく仰々しくなってしまったので、2回目以降は"試みる"の趣旨に沿ってもっと程ほどに書いてみる。

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