大学院進学と指導教員

大学院生の最強の味方は指導教員である。しかし,皮肉なことに,指導教員が最大の敵になることも,ままある。「馬鹿な大将,敵より怖い」と言うではないか。

このコラムを読めば,指導教員を選ぶ,という視座が,大学院進学において極めて重要であることがわかるはずである。これから大学院(特に筆者が想定するのはいわゆる人文系と呼ばれる分野の大学院)に進学しようと考えている者にぜひ読んで欲しい。また,自身が誰かの指導教員であるという研究者も,自問自答しながら読んでみて欲しい。

なお,私自身は,修士・博士ともに指導教員に恵まれ,そのおかげで研究者として自立できるようになったと信じている。とりわけ修士課程時代の指導教員は,私の研究者としての基礎を作ってくださった方で,この人のようになりたい,と日々考えながら,研究や勉強を続けていると言っても良いほどである。以下に書くことは,誰もが言いたいけれどなかなか言えないことを代弁しているだけで,個人的な怨念に基づくものではないことを,念のために断っておく笑。


指導教員を選ぶ,という視点

大学院生の指導教員は,一方で研究者としての優秀さを持ち,他方で教育者としての自覚をもっている。そして,素晴らしいリーダーシップで学生のポテンシャルを開花させていく。

これが理想である。

しかし残念ながら,現実に目を向けてみると,自分は研究者としての研鑽を怠りながら,ただ漫然と学生を引き受け,その学生がうまくいかなかった原因を学生の資質や最近の学生の風潮などに求める教員がいかに多いことか。

だから,あなたが学生なら,これから進学しようとしている先の指導教員が果たして指導教員に値する人間かを真剣に考えるべきである。同じ大学にいて研究分野が似ているから,あるいは,自分の卒業論文の指導教員だったから,などという理由で選んでいないだろうか?修士入学前の段階で抱いている研究上の興味は,全く当てにならないほど変わっていくし,教員の視点からすれば,卒論指導と修論・博論指導は必ずしもつながってはいない。だから,修士の時点で指導教員を変えることなど,学生が考えるほど大したことではないのである。

今いる環境を変えるのは経済的に負担になる可能性がある。仮に経済的コストを何とかできる場合は,今手近にいて研究分野が似ている「どうしようもない教員」を選択するより,別の大学にいる「優秀な教員」を求めて移動した方が得策である。経済的に移動するのが困難な場合,同じ研究分野の他大教員の力を借りて,脱出をすることもできる。例えば,修士課程の時点では「仮に」現所属に残り,その上で後述する学振に申請して,博士進学と同時に他大に移籍する。この際,受け入れ教員を当該の他大教員にするという感じである。

さて,重要な問題は,優秀な/ダメな指導教員をどう見抜くか,という点だろう。指導教員としてこの人物は危険なのではないか,と考えられる兆候はいくつかある。それを以下に挙げてみたい。これを読んでいるあなたが学生で,自分の先生にその兆候が当てはまれば当てはまるほど,あなたはその指導者のもとを離れ,別の優秀な指導者を探すべきだということになる。

一方,これを読んでいるあなたが教員で,その兆候が当てはまれば当てはまるほど,あなたは指導者には向いていないということである。

兆候1:はじめから優秀な人間を欲しがっている

大学院は,研究者になりたいと考える(多くの場合,目立って優秀とは言えない)学生が,優秀な研究者になっていく過程をサポートする機関である。不思議なことに,大学院を「最初から優秀な学生だけが進学する機関」である,と考えている研究者・指導者はとても多い。そのように考える者たちにとって,当の大学院と,そこで教える指導教員の存在は,最初から「形だけ」である。ならば,大学院の存在価値などないではないか。この,少し考えればわかる矛盾に気付けない研究者は,一層複雑な研究のロジックなどわかるはずもない。

研究者を多く輩出するような研究型大学(有り体に言えば旧帝大)ほど,その大学院生の研究生活において指導教員の存在が殊更過少に評価される風潮がある。そのような大学院をサバイブしてきた優秀な人間が,その過去を語る際,まともな指導を受けてこなかったことを過少に評価し,「お前が優秀ならなんとかなる」(「お前が生き残れないとしたらお前のせいだ」)と結論づけてしまう。そのような「生存バイアス」に傾いた言説に耳を傾けてはいけない。

本当に優秀な指導者は,入学時点でのずば抜けた能力に関心を示すのではなく,以下のようなポテンシャルに関心を示す。

・考えることを諦めない思考の強靭さ
・新たな視点を取り入れていく柔軟さ
・知りたいこと・やりたいことが(具体的でなくても)ある

つまり,「頭が強く,柔らかく,熱い」人間。こういう荒削りなポテンシャルさえあれば,あとは適切な指導で優秀な研究者に育て上げることができる。

兆候2:「背中を見て学べ」と考えている

指導教員として師事したい先生,及びその先生が属する研究室全体を見渡して,「背中を見て学びとる」ことに師弟関係の真髄を見る文化があるなら,そこに進学するのはやめた方が良い。明示的な教育は無粋だ,と無意識に(師弟双方が)了解している可能性が高いからである。このような態度は,上で述べた「優秀な奴だけがうちに来い」という態度と親和性が高い。

背中を見て学んだと信じている人は,実は「指導教員の背中」を見て学んだわけではないことが多い。その人は何も見ずとも,ハナから優秀だったのである。こんな特殊な例にシステムの成功を委ねるのは教育ではない。

「背中を見て」学んだ学生たちが教員になった時,当時の自分の指導教員の「放任」ぶりを面白おかしく語ることがある。たとえば「〜先生は演習では学生の発表を聞かず,寝ていたなぁ」などと武勇伝のように回顧することがあるだろう。そして,「学生たちは自分で勉強して賢くなった」と結論づける。これは,生存バイアスによる偏った意見である。そのような武勇伝は,大学院教育においてはただのネグレクトである。

優秀な指導者は,とにかく全てが明示的である。何が間違っているのか,何をすればどのような効果がありそうか。どこにチャンスがあるか。どのような文献をまず読むべきか。お金をとってくるにはどうすれば良いか。さらに,「ここは難しい問題なので,私も自信がない」「私はここが苦手で,今勉強中である」などと言うこともある。

考えてみて欲しい。これらを学ぶために,あなたは学費を納めているのである。確かに,教員が明示的に示す事柄だけを盲目的に学ぶことで成長することはできない。自ら自問自答し,試行錯誤する学生でなければならないだろう。しかし,この自問自答・試行錯誤は,適切で明示的なインプットがあって初めて意義のあるものになるのである。

なお,「背中を見て学ぶ」システムは典型的な縮小再生産のシステムである。いわゆる劣化コピーの連鎖を生みやすい。時代が遡るほど大物の先生がいて,時代が下るにつれて「しょうもなくなっていく」一連の学閥を,見たことがないだろうか?

兆候3: 無給で雑用させる

これが問題であることは言うまでもない。しかし,これを問題とも思わない教員はいる。自分の指導を受けることを「弟子入り」のようなものだと思っているのだろう。あなたは学費を払っているのであって,弟子入りしているのではない。

兆候4: 研究のアップデートが疎か

良い指導者は,自ら研究の最前線に居続けようと常に考えている。もし,指導教員が最近書いた論文の中に引用した最新文献の年代が,当該の教員が一番勉強していた時期(博士課程在学時)の年代と一致しているなら,研究のアップデートの関心がないか,ついていけなくなってしまっているかのどっちかである。また,自説をサポートするために自説(過去の自著論文)を引く者も要注意である。そしてこれは,参照文献に自著文献が多い,という事実で大体わかる。

兆候5: 学術振興会特別研究員への申請をサポートしない

人文系の大学院生は,多くの場合,研究者を目指している。研究者への登竜門として誰もが認めるのが学術振興会特別研究員制度である。まともな指導教員なら,この制度に自分の学生が挑戦できるだけの力をつけるように指導するし,少なくとも関心がある。すでに述べた,「優秀な人間だけが生き残れ」という態度が大好きな指導者は,学振についても,優秀な奴だけが取れ,(=俺は指導しない)と考えるだろう。

しかし,優秀な指導者は,学振の申請というプロセスそのものが成長の機会と考え,積極的に申請を促す。そして,どうすれば受理されやすいかを,自身の学術スキルを総動員してアドバイスするだろう。学振の申請書は,その後に研究者がほぼ一生付き合うことになる競争的研究費(科研費)の申請書とそっくりである。つまり学振がチェックしているのは,端的に言って,今後の研究者人生における重要なスキルとしての科研費取得のスキルがあるかどうかである。だから,優秀な指導者は,学生が早めにこのスキルを身につけられるよう,学振に申請するという機会を通して,指導しようとするのである。

学振の申請をうまくサポートしない(できない)教員は,きっと科研も取れないし,実際取れていないと思われるので,科研費のデータベースに名前を入力し,チェックしてみるといいだろう。人文系にありがちだが,研究内容が「流行らない」といって研究費獲得の失敗の原因をマーケットに求める研究者もいる。しかし,マーケットは自ら切り開くものであり,そのような言い訳をする指導教員のもとでは,研究内容を魅力的にする能力は育たない。

自分が師事しようとしている指導教員が自分の学生を継続的に学振に採用させているかどうかを調べてみよう。ほぼ毎年,採用させているようなら,その人の指導力は間違いなく高い。

一方,最悪な指導者は,上記のように「優秀な奴だけがとれ」という態度で,学生のサポートを全くしないか,あるいは学振の申請書をチェックすることを面倒だと考える。チェックしたとしても,誰でも指摘できるような誤字の指摘を延々とされたり,全体を読んでいないなどの理由で頓珍漢なアドバイスをしてくる。さらに,修正をお願いしてもろくに返事もくれず,本提出の直前に慌てて返してくるに違いない。

あなたが今修士の学生で,学振に申請しようと考えてるなら,優秀な指導者を求めてこれを機に鞍替えを考えてみても良い。学振(DC)は月に20万円もらえるので,大学を移る生活的なコストを考えたとしても,環境を変えるメリットの方が大きい。

兆候6: 推薦状を面倒くさがる

奨学金や就活,そして上記の学振の申請の際に,指導教員の推薦書を書いてもらう機会がある。これを書くことを面倒に思う教員は実に多い。そのような指導者は,文面作成を学生自身に任せ,自分は出来上がったものを形式的にチェックして提出するだけの「事務方」レベルの貢献しかしない。そのような教員に指導者としての力は全く期待できないので,別の指導者を求め,大学を移った方が良い。真に優秀な指導者は,(優秀であるために多数の人間から推薦書の執筆を求められることから)推薦書を書くという仕事に慣れており,推薦書の重要性を自覚している。そして,とても印象的で説得的な,審査員の心に残る推薦書を書くものである。

余談だが,私は最初のテニュアの就職の際,博士課程の指導教員と,研究分野の近いある研究者の推薦状があまりに素晴らしかったので,審査員たちが気になってしょうがなくなり,面接に呼んでもらえた,と後で同僚に聞いた。

兆候7: 博士課程学生を3~4年で修了させることができない

博士号を持っていない教員の場合は,自ら経験したことがないので言うまでもないが,博士号を持っている教員であっても,自分の学生の学位取得に関して無関心だったり,指導が頓珍漢だったり,マイルストーンを明示できずにダラダラとした指導を続ける教員はいる。これは,博士号を取ること(研究者として一定の評価を得ること)と指導者としての資質が別であることを端的に示している。もし,ある指導教員のもとで博士論文を書いている学生が3〜4年で学位を取れず,5年もかけて取得しているようなら,その指導者は能力不足である。

兆候8: 学生の発表に対する態度がひどい

学生が演習などで発表した時,事前に資料を配布してあったのに読んできておらず,頓珍漢な質問をして時間を無駄にする教員がいる。また,意味もなく不機嫌な態度でコメントをしたり,論旨と無関係なことで噛みつく(例えば,分析に用いた理論が,その教員が好む理論や学派と違っていた,という程度のことで噛みつく)教員も要注意である。このような兆候が見られる教員は,指導がどのようなものかを理解しておらず,おそらく早期の改善は見込めないので,早急に離れた方が良いだろう。

優秀な指導教員なら,事前配布の資料を読み込み,時には事前にコメントをしておく。また,質問やコメントはあくまで論旨に関することにとどめる。さらに,教育的な意味で,学生が自信をもって自説を展開する環境を整えようとする。学生が「怒られないように」と考えて,科学的コミュニケーションとは無関係な部分を動機とした論の展開を行なってしまうのを防ぐのである。ここで,そのような「打たれ弱い学生」のことを考える必要はない,と言う人がいる。そのような人は,ハラスメントというものがどのような状況で起きているか,考えた方がいいだろう。

終わりに

もし,上の8つの兆候のうち3つ以上当てはまる教員なら,その人を指導教員とするのは危険である。5つ以上当てはまるなら,他の教員を探すことを強く勧める。

大学院に進学するという決断には,「果たしてやっていけるのか」という学術面での大きな不安が伴い,またそれは在学中も事あるごとに襲ってくる。この不安は,学生自身が向き合っていかねばならないものだが,適切な指導者を見抜くことで,安心感が得られたり,解決することもできる。良い指導者は,学術面での不安を一緒に引き受け,目の前を光で照らしながら,一緒に進んでいくものである。

学術面の不安に対し,ろくに指導もせず,しまいには自己責任論をちらつかせて,サポートどころか叩く側に回る「指導者」も存在するのが,世の中の不条理なところである。学生たちにできることは,そういう指導者を見抜き,可能ならそのもとから離れ,より優秀な指導者を探すことである。



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