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エイコ・マルコ・シナワ著『悪党・ヤクザ・ナショナリスト』

原著2008年の本の邦訳(藤田美菜子訳)。大学の演習の輪読テキストとして読んだ。

演習参加者は2年~4年生。比較文化学類のカリキュラム上、必ずしも日本研究を専攻しようという学生たちだけではなかったが、そのことが色々な切り口の発想に繋がっていたらよいと思う。

「難しかった」という感想もちらほらあったが、何より、そのような難しい内容の日本政治についての専門的説明が、英語圏でなされているという事態を知らずに日本研究と称するなかれ、というのが課題図書設定の狙いだったので、ある程度成功したといえるかもしれない。

近代日本においては様々な暴力があったわけだが、見落としてはならないのは、本書は、民主主義と暴力という主題を立てつつ、政治史における暴力に記述を限定していることだと思う。これを外すと、的外れな批評になってしまう。

自由民権運動、選挙干渉、政党の院外団・・・1940年代になると暴力は政治の場ではなく、むしろ軍隊に吸収されてしまう。戦後は暴力を民主主義の敵とみなす考えが強調されるようになるが、それでも浅沼稲次郎暗殺事件のようなことは起きてしまった。

似た主題を扱った本で藤野裕子『民衆暴力』がある。こちらは、どちらかといえば、社会史における暴力について記述したものといえそうな気がする。

同書の読解においてはかつて「壮士」の表象を分析された木村直恵さんの書評が参考になるはず。

受講者が多くて発表だけで授業時間が終わってしまい、活発な討論ができなかったのは運営上の課題ではある。ただ、受講者は折角なので、本文だけでなく引用されている文献にも目を通し、そこから関心を広げていって、「こんな本も図書館にあるのか」と驚きながら学んで欲しい。

本書の意外な影響?と思ったところでは、最近読んだ小林道彦『山県有朋』のなかで、山県は政治的暴力に反対していた、というはっきりした記述がある点。

同書p.98以下に書かれている山県の人間観によれば、人は自尊と自制の心を持つものであって、自分の説を尊重してもらいたい人は他人の説をも大事にするようになるものである。もちろん利害が異なれば、異説は起こるが、他人の説を攻撃しているだけでは紛争が止むことは無い。それを調停するのが「憲法制度」であって、そこで政治的暴力を行使していたら社会の分断がもたらされるだけである。

そのうえで

政治では意見を異にする人々の間でも、宗教上、道徳上の所見や身の周りのことなどで、親密な関係が成り立つことも珍しくない。政治上の問題のみを重視して、人との多様な交わりを断ち、党派の競争に狂奔するのは人生の不幸である。ましてや政治上の争議のために暴力を行使することは理性に背き、法治に反し、「憲法制度の精神」にもとる行為である。

小林道彦『山県有朋』(中公新書、2023)p.98

この山県の考えも興味深いし、このように政治はどこまでも私的な利害の衝突と捉えられる以上、山県のなかで政党政治が容認されるはずがない。

政治上の暴力が政治史の重要な主題に出て来たからこそ、その後の政治史でもこの問題に触れられるようになった、というべきか。

来年度は何を読もうか、今から考えている。

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