見出し画像

「共創」とは何かの定義を試みる

こんにちは、西村歩です。株式会社MIMIGURIでリサーチャー(研究職)をしています。MIMIGURIメンバーが以下のキーワードでリレー記事を書いていくMIMIGURI AdvetCalendar2022(11日目)の一環で執筆しています。

いやぁ・・前回の塙さんの記事が本当に良かった。。

次にどんな記事が見られるんでしょうか・・!
今回のテーマは、theme③の「葛藤」です。


自己紹介から。

西村歩と申します。会社では名前の真ん中をとって「ラー油」と呼ばれています。Twitterのアカウントもラー油(@a_praxisnohito_)です。ラー油はチャーハンの味変に絶大な力を発揮してくれるので好きです。お勧めのラー油は八幡屋礒五郎の七味ごま辣油です。

今年大学院を修了して、新卒でMIMIGURIに入社した研究職です。合併後のMIMIGURIにおいては初の新卒です。もし新卒だけどもMIMIGURIに興味あるよ~って人はぜひともお声がけください!

またMIMIGURIの傍らですが、東京大学大学院情報学環の佐倉統研究室にて客員研究員をしています。そちらでは科学コミュニケーションや科学哲学、科学社会学などに関する研究です。

一応ですがResearchmapを掲載いたします。

この秋からは「研究機関本部」「組織探究本部知識創造室」という二つの部門を兼務しています。研究面では「探究の方法論」と「多角化経営」に関する研究に従事しており、論文を書くことや連載記事を書くこと、学会で発表することなどを生業としています。知識創造室ではMIMIGURIにおけるナレッジマネジメントにも取り組んでいます。

今日のテーマは「共創」について。

2022年12月3日、4日の二日間をかけて、福岡県大牟田市で開催された「共創学会」の年次大会に参加してきました。共創学会は2017年に設立された若めの学会であり、言語化困難な「共創」という行為の中に働く論理を掴もうとしている学会です。すなわち「共創」とは何か、「共創」の本質とは何かを探りあっていくことが趣旨となっています。

共創学会の看板。今年のテーマは「どうしようもなくなる(・・・と!)」

今回MIMIGURIメンバーからは以下3報の研究が発表されました。とはいえ自分が主著の発表は、MIMIGURI内の研究プロジェクトではなく、副業で行っている宮城県気仙沼市での調査の内容を語ったものになっています。サウナに関する研究ですが、この内容についてはまだMIMIGURIの社内でも開けていないので、別の機会にでも語られればと思っています。

○富田誠,瀧知惠美,夏川真里奈,西村歩,小出瑠,南斉規介:研究者の「探究のメガネ」の共有がもたらすもの –国立環境研究所における協働研究ワークショップを例に–
○夏川真里奈, 西村歩,瀧知惠美:「創造性教育の4段階モデル」の形成 – 創造性教育に 23 年間関わり続けた学習者の一人称的視点を基に-
西村歩,田中惇敏,佐藤慶治:宮城県気仙沼市でのサウナDIYを通した共創の場のものがたり

さて今回の記事では直近の学会参加に照らし合わせて「共創」について考えてみます。今回は記事ということもあり、論文とは異なり、考えたことや思いついたことを生煮えで書いています。何なら今散歩しながら自動販売機の前で立ち止まって書いてます。本当にゆるっとした記事で申し訳ございません!

昨今では「共創」という言葉が注目を集めています。ビジネス上においては部署間連携や企業間協働の文脈で語られたり、平成30年には九州大学にて「共創学部」が設立されたりしました。しかし「共創」とは何かを問われたときに合意された定義があるわけではありません。共創ってなんでしょうか。

皆さんは「共創とは何か」と聞かれたら何と答えますか?

「共創」の捉えどころのなさは、対応する英訳がはっきりしていないことからも伺えます。例えば九州大学共創学部の学部名称の英訳は「School of Interdisciplinary Science and Innovation」となっています。直訳すると「学際科学とイノベーション」ですが、この表記からは共創とは多様な人々との協働を通じた専門性の統合に「共創」の定義を見ていると考えられます。

最も有力な英訳は「Co-Creation:コ・クリエーション」とする見方です。ここのCoとは共同性を指す言葉であり、Creationは創造にあたります。先ほど述べた共創学会の英語名称も"Society for Co-creationology”でした。この定義に準拠するならCo-Creationは「共同で創造すること」を指すといえそうです。しかしそれだけでは直訳的であり、共創の全体性のうち半分しか捉えられていない気がします。

そもそも英訳から迫ると日本語表記での「共創」独自のニュアンスも捉えられない気がしてきました。大塚(2019)によれば日本での「共創」概念は後にシャープの副社長になる佐々木正が1964年に早川電機に入社した際に用いられた言葉に源流があるとしており、また三輪は共創の根底には日本文化ならではの「場の論理」の影響があると論じた清水の著書を紹介しています(三輪 2019b、清水 2000など)。そこで今回の記事は日本における共創の考えかたや用法について考察してみます。

共創とは「複数名が一緒に創ること」?

前の段落でCo-は「共同性」を示すものと紹介しましたが、これに基づき「複数名が一緒に創ること」を仮置きの定義としてみましょう。確かに個人による創造と比較して、複数人であるという特徴は含まれそうです。しかしそれだけを「共創」の条件と見なすと違和感が生じます。

なぜなら「複数名が一緒に創ること」については、共創という言葉が誕生する遥か昔より行われてきているからです。例えば家族での晩御飯の準備や、旅行の予定表を作りあったり、寄せ書きの色紙を書きあうことだって「複数名が一緒に創ること」に該当します。でもこれらは「共創」とは無理やり言えるかもしれないですが、それらを「共創」と言ってしまうのは大袈裟な気がします。

昨今において「共創」というワードが新たに与えられ、また「共創」が名詞として浸透している状況を踏まえると、「共創」にはもっと特別なニュアンスが内包されているような気がしないでもありません。そこで次の定義を新たに加えてみます。

共創とは「①背景の異なる存在が、②共通の達成目標を掲げ、③共に創作活動を行う活動」?

では複数人での関与だけでなく、「(異なる立場の人々が)参加していく(participation)プロセス」という見方を共創の定義に加えたらどうでしょうか。堀田(2019)はPrahalad、清水、上田らの先行研究のレビューをもとに「背景の異なる人々が、共通の目標の達成や課題の解決のために、共に創造活動を実施すること」と共創を定義しています。私の中では非常に納得できる定義であり、なるほど確かに、この定義ならば企業内で新規事業開発をめがけて行われるワークショップやハッカソンも、部門や立場関係ない、多様な属性の人々が参加してアイデアを創造したり、具現化していくプロセスが内包されるため「共創」として説明できそうと感じました。

おもに経営学において「価値共創」と呼ばれる場合は、企業組織のみならず、企業および消費者の交流に基づく創造についてを「共創」と呼ぶことが多いです。この概念はサービスデザインの研究で語られる「サービスドミナントロジック(S-Dロジック)」、すなわち商品の価値を作り出すのは企業のみではなく、企業と顧客の相互作用の中で価値が創出されるのだという考え方(藤川 2012)にも通ずるものがあります。またデザイン思考や人間中心設計なども企業と消費者の相互交流が内包されている価値共創の試みといえそうです。

このように企業のイノベーション戦略として用いられる「共創」は、①背景の異なる他者同士(部署間・顧客-企業間などコンテキストは様々)が、②共通の達成目標を掲げた上で、③共に創造的活動を行うという三つの要素が内包された、堀田(2019)に見られるような定義が用いられることが多いです。ビジネス上では比較的納得度できる定義ではないでしょうか。

ただしこれらの共創はあくまで「今まで分断されていた部署間同士」や「作り手と使い手で区別されていた企業-顧客間同士」などが共同で価値創造(たとえば新規事業開発)に取り組んでいくいくことによって「イノベーション:競争優位性」を確保するという明確な前提があります。すなわちあくまで企業にとって競争優位性を確保すること(大塚 2019)を目的とした「共創」戦略といえそうです。

しかし「②共通の達成目標を掲げ」が行き過ぎた結果、今度は息の詰まりそうでギクシャクするような共創空間が発生することも想定されます。実際にこういう新しい価値を生み出したり、イノベーティブなアイデアを発案しようとするワークショップやイベントに嫌な思い出がある方や抵抗感のある方もいらっしゃるのではないでしょうか。その抵抗感は参加者同士やメンバー間での能力差が歴然となったり、全体目標に自分が貢献できていないような感覚がある時に起こりがちです。例えば次のようなケースにおいてです。

  • 新規事業開発を共通の達成目標としたチームに参加していたとして、チームが「新しいビジネスを創出する」ことに合理的に突き進むうちに、徐々に自分の能力不足を抱いたり、チームが前提とする目標に共感できなくなったりします。その際に「自分は(合理性に)貢献できていないのではないか」という不安感を抱きはじめることがあります。その結果、そのままの自分ではこの場に貢献できないと自責し、チームからドロップアウトする場合もよく見られます。

  • チームメンバーの誰かが明らかに能力が追い付いていない際、あるいはチームメンバーが前提となる目的に納得がいってない場合、折角の共通の達成目標を立てて合理的に前に進めていきたいのに、その一人に無理にペースを合わせなければならない状態に窮屈さを抱いてしまう。そしてそのメンバーに「価値観が合っていない」「力が追い付いていない」ことが暗示されることもよく見られるパターンです。

こうした状況は共創の空間に価値を生みだすことのできる「内部者」と、力を発揮できずに周縁に追いやられた「外部者」という構図が歴然と現れている状況といえます。そうした際には共創の過程から振り落とされた外部者が「能力不足に気付く」ことが成長機会と捉えられたり、目的合理性を追究する上ではそのメンバーを外すのは仕方がなかったのだと正当化していくことも見られます。

しかしそれは結果として「内部者」と「外部者」がくっきりと顕在化している状況を是認することともいえます。「果たしてこれが本当に正しい共創なのか?」という葛藤ばかりが残りかねません。そこでもう一つの探究の定義を考えています。

共創とは「内部者」と「外部者」の境が存在せず包摂し続けること?

前項の定義は①背景の異なる存在が、②共通の達成目標を掲げ、③共に創作活動を行うというものでした。しかし「②共通の達成目標を掲げ」た結果、その達成目標に合理的に到達できない場合、合理性を阻害する要因となっているメンバーなどに追加の努力を強いることが考えられます。すなわち目的遂行に資さない要因が見られた場合は誰かが無理して「変化」することでチームの歯車がようやく回り、共通の目的に向けた合理的な「共創」が始まることも見られました。

ところで一つ考えたいことがあります。そもそも共創を進める上で誰かの「無理な変化」は必要な努力なのでしょうか。もっとも、自分も他者もメンバーも「ありのまま」の状態で居続けることはできないのでしょうか。そもそも共創とは何かの目的を立て、それに向けて合理的に駆動することが前提となるのでしょうか。

実は「共創」は「目的を立ててその達成を目指すという合理的な手段系列には適合しない」のではないかということについては多くの議論があります(例えば三輪 2019aなど)。たとえば西(2019)は共創を「進行する動的な「風景」としてたちあがる」ものと捉えており、当該論考においても目的合理的な手段選択としての「共創」があるわけではなく、ある種の非連続で合理性がそこにはないグルーヴのようなもの(これを西 2019では「うねり」と呼んでいる)が共創の要素になるのではないかという見方です。

また三輪(2019a)では、郡司の共創学会が設立された際のアイデアを引用しつつ「外部を呼び込む実践的プロセス」に"共創っぽさ”があると論じています。すなわち「自分以外の外部の存在と包摂し続けること」に共創の本質を見る立場です。「包摂し続けること」に共創の前提を置くならば、組織合理性に基づく「内部者」と「外部者」の乖離も、はたまた合理性についていけない「外部者」の離脱も見られないはずでしょう。

この立場に関連して、哲学対話と呼ばれる「共に考えることを通して生まれるコミュニティ」づくりに取り組まれている哲学者の梶谷真司は、自分の取り組んでいる哲学対話の実践を「共創哲学」と呼称したうえで、「共創」を"inclusive"と英訳しています。この梶谷先生の共創観とは、あらゆる立場や境遇の異なる人々が、自分や相手の属性や立ち位置などが気にならない「安心した空間」で「誰もがそのままで共にいる」ことが実現できる空間に「共創」としての特徴を求めているのです。

例えば梶谷は実存思想論集に掲載された論文の中で次のように語っています。

 では、そのコミュニティで否定する側にいる立場の強い人、社会の上位や中心にいる人はどうかと言うと、彼ら自身も多くの場合、否定されるのではないかという不安を抱えている。それは一つには「上には上がいる」からである。また、もともと自分たちは正しいはずだと信じているぶん、否定されることに対する抵抗感が強い。否定されないように多大な努力をしてきた。だからしばしば他人を否定することで、自分の優位を保とうとする。
 このような関係の中では、自分を否定して相手を肯定するか、相手を否定して自分を肯定するかのどちらかになりやすい。しかし結局のところ、立場が強くても弱くても、誰も否定されることは望んでいないだろう。だから否定されない、否定する必要もないというのは、誰にとっても大きな安心感につながる。こうしてコミュニティの中の人たちは、上下や優劣を作ることなく対等でいやすくなる。

梶谷真司(2021)共に考えることと共にいること―哲学対話による新たなコミュニティの可能性ー;実存思想論集,36号, 「哲学対話と実存」,p.7-28.

そもそも多様な人が存在する共同体では互いを理解しあって受け入れるには多大なコストがかかります。前述の共創空間を作り出すための「誰かの無理」がここでいうコストに該当するでしょう。そのコストを払うことが「合理性」から著しく外れて難しくなった時に、つい他者との共存の道を絶つという選択肢(排除したり、拒絶すること)が目の前に現れたりします。

問題はそこで生じる「排除・拒絶(exclusive)」な状況をどう回避すれば良いのかです。そこで梶谷(2021)は「相互理解」はしなくても良いと主張しています。なぜならそもそも他者とは育ちも境遇もまったく異なるため、本質的に理解できないものだからです。相手を理解しようとして自分自身の表現を我慢したり、自分を変容させたり、妥協もしなくても良い。このように梶谷は自分と他者の「差異」をそのまま保持し続けることを重視しています。

しかしその代わりに梶谷は「理解はできないかもしれないけども、そのような人がいるということは『受け止める』ことができる」と語っています(梶谷 2021)。受け止めるとはどういう状態でしょうか。つまり相手からありのまま発話されたものや表現を「ありのままの自分の状態で聞く」というような姿勢などが考えられます。

この「受け止める」空間はまるでラッパーやダンサーなどによって行われるサイファー(複数人が輪になってリレー的に表現しあい、その表現を見たり聞き合うという場)や路上や文化施設などで行われている参加型アート(鑑賞者とアーティストの境界のないアート制作活動)にも似たものがあると考えられます。

その場で創り出されていく表現は決して何か目的を帯びたものではないものの、その人の「ありのまま」がその場に自然に発露されていき、そして皆がありのままの状態で受け止めていく。上手い下手といったことは関係なく、自然に合いの手や応援の声、歓声が上がり、一人一人のありのままに反応していく。このような「相手のありのまま」を「ありのままの自分」が受け止めてくれる包摂的態度が「場」に展開されていることは、参加者が創造的行為に参加することに対する安心感を与えることになります。

やがてその空間は「内部者」と「外部者」の境が存在しない包摂的な環境となります。このような「内部者」と「外部者」の境が存在せず包摂し続ける空間こそ共創の定義ではないかと見ることもできるでしょう。

結局「共創とは何か」について、よくわかってない

しかし梶谷(2021)や三輪(2019a)などで見られた「「内部者」と「外部者」の境が存在せず包摂し続けること」は共通の目的があるわけでもなく、目的に向かう合理性がそこまで重視されない、安心感が確保させることを重視する空間だからこそ実現可能ではないかという反論もできそうです。

現に哲学対話やサイファーなどは特段に何か具体的目標の達成を掲げて行われる創造行為ではありません。

実際に梶谷などを中心に取り組まれている哲学対話は「他者と共にあれる場(inclusiveな場)」をどのように実現できるかという問いに基づくものであるため特段な達成目標をそこに置いている訳でもないですし、ラッパーなどによるサイファーもいわゆる「バトル」のように勝ち負けを争うといった目的性がある訳ではなく、純粋にその場に発露された表現行為を「受け止めてもらえる」安心感が確保された共創行為といえます。

ただし「共創」を進める上で、自分や相手の身分や属性も開示しない、気にもしない、ありのままでいていい、安心した空間が「本質的に」重要だとしても、民間企業などはこうした目的合理性を欠いた「共創」は理想主義的であるという批判を受けることも容易に想定されます。

前述のとおり企業などでの新規事業創造などのワークショップなどでは、「イノベーション:競争優位性」を確保するという目的が共創の中に内包されがちです。こうした明白な目的設定と、その目的に向けた合理性の追求は、言わずもがな持続的な企業経営において重要であり、数値的に投資収益率(ROI)も厳しく評価されることがあります。

このような合目的的空間では、目の前にある他者がどういう人間か(能力の高低、年齢の高低、所属部署、身分の高低)を顕在化させた方がかえってことが上手くいく場面も見られます。「同じチームのAさんが開発部門のマネージャーだったから社内の交渉がうまくいき、プロジェクトが前に進んだ」などは属性を顕在化させることで創造行為が前進した場合とも言えます。

ここまでの議論を総括すると、誰もが安心してその場に居ることができることを大切にする空間における「共創」と、ビジネスイノベーションを生み出す新規事業開発の文脈における「共創」は、どうも同じ言葉なのに全然考え方が異なりうる可能性を秘めていることがわかります。すなわち「共創」の定義の中にも多様性があり、「共創」をどのように解釈するかは個々の置かれた状況や実践文脈の違いに依存しうるからこそ、「共創」の一般定義を設定することには困難性が生じているということです。

共創の定義の多義性。他にも対比軸があるのであくまで暫定解にすぎない。

「共創」の定義困難性は実践者に困惑と葛藤を与えます。最初は手探りで「共創」をはじめるのですが、だんだんと「共創とは何か」がよくわからなくなって、「自分の取り組んでいる創造行為は本当に共創的なのか」を疑い始めます。例えば次のような形です。

  • 例えばまるでジャズセッションのような、互いのありのままを引き立て合うような共創空間を作ろうとしていた方が、ふと気づいたときにはプロジェクトが合目的性を帯びていて、「内部者」と「外部者」の境目がくっきりと現れていることに気付き、「これはいけない」と葛藤すること。

  • あるいは最初は目的性のない即興的で安心性の高い共創空間を作っていた方が「あれ、私いま何に向かってこれをやっているんだろう」とコンパスを持たずに大海原に出てしまった自分自身に不安を抱くということ。

結局どちらのケースも「共創」という言葉を頼りに実践を開始したところで、そもそも「共創」という言葉の持つ奥深さに困惑している状況といえます。私自身もここまで「共創」の定義について思索を膨らませてきましたが、実の所よくわかっていません。「共創」とはなにかについてわかること自体が困難な概念ともいえるのかもしれません。

今回自分が参加した共創学会においても、あらゆる場所で「(自分の取り組んでいる実践や研究は)本当に共創なのか」というモヤモヤを語られる方も多く見られました。自分自身も今回の学会での発表準備を続ける中で「このプロジェクトが『共創』的であったことをどのように説明すれば良いだろう」という悩みに溢れました。

私のポスターを見にいらっしゃったとある先生も「西村くんはこのプロジェクトはどういう点で『共創』的だと思う?」という質問を投げかけてくださいました。うーん。結局自分も今のところ「共創」についてよく分からないんです。

わかったことがあるとするならば、第一に「目的合理性と包摂的態度の間にはパラドックスが存在しがちなことはわかった」ということ。第二に「共創ってすぐわかった気になれるほど単純じゃないぞ」ということ。だからこそこれからも大事に、でもその領域の研究に従事する者としてプライドを持って探究し続けていきたいと考えています。

研究者にとって最も大切な仕事は『分からない』とちゃんと言うこと

2日前のアドベントカレンダーで田島さんが「わからない」ことに向き合うということについて書かれていました。この記事の中で田島さんの言葉から触発された箇所を引用してみます。

そもそも研究機関でもあるMIMIGURIは、わからないことを日常的に探究しているメンバーの集まりなので、「わからない」と気軽に言えるカルチャーがあったのです。

Kazuki Tajima(2022): わからない、に向き合う。(2022.12.10アクセス、https://note.com/kazukitajima/n/n98a1fcf3d987)

自分には研究上の師匠がいるのですが、その師匠は初めての学会発表にビビっていた自分に、「発表準備は徹底的にやりこんでください。でも分からない質問にはわからないと答えてください。研究者にとって最も大切な仕事は『分からない』とちゃんと言うことです」と声をかけていただきました。

この言葉によって焦って準備していた自分の心の重石がなくなり、同時に「確実にそうである」と言えることと「確証がないこと」については明確に峻別する、「わからない」ことを「わかったふり」をすることの不誠実さを自覚するという教訓になっています。

しかし「わからない」と主張することは現時点では誠実な態度ですが、未来においても「わからない」と言い続けているのは個人的には嫌だなぁとも思っています。だって悔しくないですか。わからないのって。いつか解き明かしたいじゃないですか。

「わからない」はわかるようになるためのチャンスです。せっかく自分が一歩知識を前に進めることができるチャンスが目の前に落ちているのに、思考を止めてしまうことに勿体なさを感じるし、未来の自分に対しても誠実ではないなと思うのです。すなわち「わからないは、その状況を放置してよい免罪符ではない」と考えています。

わからない状態にあるからこそ、未来の自分がわかっていけるように、そして自分の周りの人々などにもわかったことを共有できるように努力していく責任を背負っています。だからこそ「共創」の探究は進めていきたいですし、あらゆる共創に関する学術研究の領域にも関わり続けたいと思っています(この記事を書く中で思いが強くなっていきました)。

古代からのカレーの成り立ちや、真のカレーの定義など知らなくとも美味しいカレーは作れるように、そもそも「共創」とは何かがわからなくとも、「共創」に関する活動に取り組むことはできます。そもそも実践者として活動する上では本記事に見られるように「共創の定義」などについてそこまで悩む必要はありません。しかし「共創」の活動に取り組む中でやはり「自分の共創に足りないものがあるのではないか」と悩み始め、知りたくなる、もっと考えたくなる人は出てくるものと考えられます。そして「共創」の本質について議論し、わからないと感じたものを少しでもわかるように挑み続けることが、結果的に実践者としての自分自身の豊かさに繋がっていく感覚があるのだと考えられます。「学会」に代表されるアカデミックな活動に参画することは大きな意味を持つと考えます。

共創学会にもMIMIGURIをはじめとして「デザイン」や「共創」にかかわる活動をされている実践者が多く見られました。ぜひわからないことで悩まれている実践者の方もアカデミックな活動に覗いてみてはいかがでしょうか。

参考文献

三輪敬之(2019a)「「共創学」発刊を祝して」『共創学』Vol. 1, No.1. pp.23-30.
三輪敬之(2019b)「共創表現のダイナミクス -実践,理論,システム技術-」『共創学』Vol. 1, No.1. pp.1-2.
清水博(2000)『共創と場所』NTT出版.
西洋子(2019)「共創するファシリテーションのダイナミックレイヤ」『共創学』Vol. 1, No.1. pp.13-22.
大塚正之(2019)「「共創」とは何か」『共創学』Vol. 1, No.1. pp.61-66.
梶谷真司(2021)「共に考えることと共にいること―哲学対話による新たなコミュニティの可能性ー」『実存思想論集』36号, 「哲学対話と実存」,pp.7-28.
堀田竜士, 三井実, 伊藤孝行, 白松俊, 藤田桂英, 福田直樹(2019)「研究者と市民の共創を生み出す研究会の提案」, 人工知能, 第34巻, 4号, pp. D-I92_1-8.
藤川佳則, 阿久津聡, 小野 譲司(2012)「文脈視点による価値共創経営:事後創発的ダイナミックプロセスモデルの構築に向けて」,組織科学,46巻,2号,pp38-52.

明日12日は、最近はCultibase Schoolで大活躍され、ある時は社内で「みのもんた」に変貌する、いぶし銀のデザインストラテジスト、エイマエダカツタロウさんです!お楽しみに!!



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?