見出し画像

「平沢進」論

「境界性のミーム、あるいは輪郭と旋律はいかに抵抗したか」

(『ユリイカ2020年8月号 特集=今 敏の世界』)より抜粋 


出棺は平沢進で

 今敏は、自身に決定的な影響を与えた表現者として、繰り返し「平沢進」の名を挙げている。彼は言わずと知れた古参の平沢ファンで、『千年女優』『妄想代理人』『パプリカ』ではサウンドトラックも担当してもらうほどだった。そればかりではない。膵癌によるあまりに早すぎる死(享年四六歳)に際しては、おそらく今の生前の意思により、告別式ではずっと平沢の曲が流れ、出棺曲は「ロタティオン」だったという。私も含め出棺曲に平沢の曲をと切望するファンは多いが(ちなみに私は「白虎野の娘」)、今—平沢の「絆」の強さには嫉妬どころか畏敬をおぼえる。平沢自身「あれほど美しい死に顔を見たことはありません」「偉大な今さんの人生のフィナーレに私ごときの音楽が役に立てて光栄の極みである」とツイートしていた(2010年8月25日)。
 今は平沢の魅力について、次のように述べている。「ひねりの効いたメロディや秀逸な歌詞、覚醒を促すような歌声、どれも素晴らしいのですが、何よりそれら全てによって表現される世界観に大きな影響を受けました」(「interviews」KON’S TONE )と。その世界観とは「相反するものの同居」(「神話と科学」のような)であると。さらに今は、平沢を媒介としてユング心理学にも傾倒し、河合隼雄の著作を集中的に読んだ時期もあるという。

Interviews - KON'S TONEアニメーション監督 今 敏 のオフィシャル・サイトkonstone.s-kon.net


 思えばユング心理学もまた、八〇年代において一気に受容が広がったという印象がある。それも「シンクロニシティ」や「空飛ぶ円盤」のほうのユングだ。サブカルチャーでもユング人気は高く、P-MODELの五作目『ANOTHER GAME』(1984)には、あきらかにユングの集合的無意識をモチーフとした歌詞が散見される(平沢は当時のインタビューでも直接的な影響を語っている)。ほぼ同時期にThe Police も「Synchronicity」(1983)というかなり直球のタイトルのアルバムをリリースしたばかりであり、かくいう私もユング沼に片足を突っ込んでいた時期だった。ヒッピーとハッカーが手を結んだカリフォルニアン・イデオロギーとはやや異なり、「ユング理論」は——本人がそれを望んだかどうかはともかく——オカルトとテクノロジーを媒介する心の科学として受容されつつあったのだ。


境界線上の音楽

 ここで少しばかり迂回をして、平沢進というアーティストについて検討しておこう。彼は非常に独特のやり方で「境界線上」を歩き続けてきたアーティストだ。その境界性は至るところに見て取れる。私は幸運にも二〇一九年二月にゲンロンカフェのトークイベントで平沢と対談する機会に恵まれた(「20190213_平沢進+斎藤環」https://vimeo.com/ondemand/genron20190213)。その際の発言などを拾いつつ、彼の境界性を検証しておこう。
 そもそも最初のバンドであるP-MODEL自体が、境界的なバンドだった。メンバー全員が東大卒であるという根拠のない噂を立てられるほど知的で鋭い歌詞を、原色の派手なコスチュームとポップなキャラで歌ったらどうなるか。あれはそういう一種の実験だった、と平沢は回顧する。ロックバンドによる政治批判がイケてる時代に「音楽ごときが直接世界を変えられるわけではない」「その当時の定義の仕方と距離感をおきたかった」と考えていた平沢は、その後も一貫して時流と対峙し、距離を測り続けてきた。

 人気が出て来ると意図的にファンを裏切る(平沢によれば一〇年周期で)。常にすべてと距離を保つ。「ダブルバインド」とか「α波誘導」までやっておきながら、それを笑いのネタにもする。自身が何かにのめり込みすぎることがファンにも影響するため、距離をとることで「教祖化」を防ぐ。そう、平沢は決して洞窟にひきこもる孤高の老賢者などではない。彼のツイートはその象徴だ。リプやメンションにほとんどリプライしない代わりに、彼はあの謎めいたモノローグでファンと交流している。馬骨を自称する平沢ファンは、彼の意図を尊重し、決して教祖化しようとはしない。切断的でありながら親密な馬骨コミュニティ。ファンとこれほど特異な関係を結び得たアーティストの例をほかに知らない。かくして平沢は、注意深く周囲の環境と距離を取りながら、いまなお着実に境界線上を進んでいく。

 私が最も関心を持っていたのは、彼の音楽、というよりは、音色への嗜好だった。知られる通り平沢は、日本のテクノポップの黎明期を牽引し、一九八〇年代には最初期のAmiga(コモドール社のパソコン)ユーザーとなり、ネットが普及するや自らのウェブサイトを立ち上げてリスナーとの交流を開始している。九〇年代から開始したインタラクティブ・ライブ、楽曲のmp3配信、そして現在のアルファツイッタラーとしての人気ぶりは誰もが知るところだ。つまり平沢は、音楽業界では最も初期からデジタル・テクノロジーの可能性を追求し続けてきたアーティストなのである。


 ならば彼の音楽的嗜好も徹底してデジタルかといえば、さにあらず。例えば平沢はEDMの、いかにもEDM風のアレンジを嫌悪する。サイドチェイン(キックが鳴った時に周りの時が小さくなる)やヴォーカルのオートチューン(筆者注:セカオワの「ドラゲナイ」みたいないアレ)は恥ずかしい、とまで言う。ちなみにこの対談で創出された平沢によるサイドチェインの擬音化「ダッハァンダッハァン」は、瞬く間に馬骨たちの間で共有された。

 確かに平沢の楽曲はデジタル要素が強いし、VOCALOIDも初音ミク台頭のはるか以前から使用されてはいるのだが、同時に奇妙なアナログの手触りも残している。私はさきの対談で、「あなたの音楽は徹底的にデジタルではなく常にアナログとの境界線を探っていると思うがその見立ては正しいか?」と尋ねたが、その答えは「正しい」だった。


 考えてみればそれも当然で、平沢が小四で最初に触れた楽器は、エレキギターだった。その理由がふるっている。「ギターに惹かれた1番の理由は形。車みたいな塗装にアームがついていて電線もついている、なんだこれは!」というのだ。平沢少年を魅了したのは、アコースティックな質感や深味などではなく、エレキギターの人工性のほうだった。これは後年、彼が楽曲に疑似サンプリング音を多用した理由にも通ずるところがある。「あの不自然さ・あの人工感がたまらなく良かった」というのだから。エレクトロニカもヒップホップも存在しなかった時代の、あのぎこちない、どこか滑稽なサンプリング音たち。


 とはいえ、平沢のアナログ感も独特だ。彼の比喩を借りるなら「お父さんが入ったトイレの後の便座に座る嫌さ」「クリームを聞いたとき、犬の死体みたいと思った。まずフレーズとギターの歪みがそう感じさせた。犬の死骸みたいでかっこいいと思った。それが死にたて、まだあったかい、こういう温度感があった」どちらも肯定的な比喩である。座りたての便座、死にたての犬。そういう要素は、例えば「世界タービン」の謎の掛け声や、「コヨーテ」の奇妙な鳴き声などにも見てとれる。最近で言えば「鉄切り歌」冒頭のサンプリングヴォイス「イ゛オ゛ラ゛~」がこれにあたるだろうか。菊地成孔が濱瀬元彦の演奏を指して言った「マンドライブテクノ」という表現は、平沢にもしっくりあてはまる。

※ 実はこれに続く今敏論が最高に面白い八〇年代論なのですが、無料公開はここまで。読みたい人はぜひユリイカを買おう!







この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?