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鳥山真翔ものがたり


赤子の目力。

0歳〜3歳【生誕】

1989年9月5日。

東京都板橋区の病院で生まれ、すぐに練馬区へと引っ越す。

生まれた時、病院で母が
「この子は私の子じゃない」
と呟き周囲を驚かせる。

お顔はまん丸だが常に目に力がある不気味な子供だった。

音大卒で研究者の父と、おおらかな母の元に生まれた、
2歳年上の姉、1歳年下の妹の間の、長男。

生後7ヶ月で完全に2足歩行、
2歳の終わりには補助なしで自転車に乗り始める。

学んだ数秘術によると
誕生数は5。運命数は7。

スピード、自由と変化の本質の中に、
精神性のカルマを背負う人生が、

ここから始まるのである。


可愛い。

3歳〜8歳【目覚め】

トランペッターであった父の元、3歳からトランペット、ピアノに触れ始め、絶対音感が身につく。
同時に、周りの人との感覚の違いに悩み始める。


小学校に入っても、
「なぜこんな簡単なことをわざわざ学ばなければいけないのか」
「こんな問題がわからない理由がわからない」
と、周囲とのギャップからか、大人しい子供になる。


また、この頃からすでに
謎の体調不良や発熱をよくおこし、
周囲を心配させる。


ちなみに、男の子らしく”〇〇レンジャー”が好きだったが、
真似をするのは女性演じるピンクのキャラばかりで、
この頃からLGBTQ的片鱗が顔を出していたのかもしれない。


この頃の体型に戻りたい笑。

9歳〜14歳【天才少年】

みるみる天才になっていく。。。(笑)
小学5年生の頃の自由研究で、

「100種類の水溶液を作り、
その容器を叩いた時の音程、周波数の違い」

を研究し、東京都から特別表彰される。

音楽でも神童と呼ばれ、サントリーホールでトランペットソロ演奏をする。

「ギフテッド」という言葉はその頃なかったが、IQのテストを受けさせられ151という数値を叩き出す。

周囲から将来を期待され、塾に週5で通い、中学受験をする。

日本でも有数の進学校が合格確実だったが、

受験日全て、いつもの発熱となり試験に参加できず不合格
人生で初めての大きな挫折をする。

結果、練馬区にある公立の中学へ進む。

この頃から謎の体調不良が悪化
病院では検査しても何も出ないので仮病扱いされ始める。


余談だが、14歳の時に、原宿でスカウトされ、芸能事務所にも所属。(よくあるパターン)
映画やドラマに出演。結構しっかりとやる。

その後の人生がどうなってしまうのか・・・この頃は知る由もなく。。。


ギャルサーの総代表でした。

15歳〜17歳【崩壊】

中3。何かの糸がプツンときれるように、全てが崩壊していく。
家庭もギクシャクしだし、帰るのも億劫に。
塾に行ったフリをしながら、毎晩悪いやつらとつるむようになる。


不登校になり、父親とは包丁を振りかざし合う喧嘩をする日々。

自分は愛されていないのだ、

生まれてきた意味なんてない、と信じ込む。

家にはさらにほぼ帰らなくなり、
さらに素行は悪化。父親と縁が切れる。

ちなみにその頃男性と初×××。(笑)


英語が話せたため英語特待で無理やり
高校に入学するが、3ヶ月で中退。

さらに、さらに、悪化。
ここには書けないほど「やばい」日々を過ごす。


その後、またもや謎の高熱を出し
ついには生死を彷徨う。

緊急搬送され、
半年間の、入院。

難病の持病を抱える

医師に「このままだとあと10年も生きられない」と余命宣告される。


16歳にして余命を告げられたことにより、
人生について深く考え、素行改善しようと試み、

同じ高校に再入学。


しかし1個下の子たちに呼び捨てされるの生活に、ヤンキー精神が耐えきれず、喧嘩の日々で、

またも3ヶ月で中退。
高校を2回も3ヶ月で中退するという偉業を成し遂げる。


目が、やばいやつの、それ。

17歳〜19歳【ダークサイド。】

さらに本当に「やばい」やつ(やばすぎて割愛。笑)となり、

ダークサイドな社会人として様々な経験をする。


この頃より、自分の体調不良が、持病だけでなく、
何か目に見えぬ強大なチカラが原因でもあると感じるようになる。

きっと今世の修行として?と言い聞かせながらも
不安をごまかすように、底無し沼を泳ぐように生き、
同時に、あり得ないことばかり体験させられるようになる。


出会う人(友人や同僚や恋人)が不慮の事故に巻き込まれたり、
病に犯されてしまったり、

たくさんの悲しいお別れをする。
死生観を日々考えるようになる。


霊的な(と信じている笑)発作などの症状が収まらず、
精神科を始め様々なに通うようになり、
統合失調症やパニック障害と診断されるがしっくりこない。


どうも立ち行かず、悪い縁をたちきり、群馬県に逃亡。

ホストクラブで働きながら高崎駅にて路上ライブをはじめ、

自分には音楽があることを思い出し、、、

半年後、東京に戻る。


以前子役として所属していた事務所のつてで、
子役に歌を教えることからボイストレーナー業を始める。


さらに音楽を学ぶために、
200万円借金をして、音楽の専門学校に入学。


ボイストレーナーとして、

某音楽スクールに勤めながら、学校に通う。

二足の草鞋の日々。


やはり奥底に
目に見えぬ力を感じながら、

少しずつ更生されてゆく。


伝説の成人式。

20歳〜22歳【独立・起業】

無事成人を迎える。

ボイストレーナーとしての才能がすぐに開花し始める。

いきなりたくさんの生徒に師事していただくこと自信につながり、
自分の生きる道はこれだ、と確信。


しかし、すぐに発熱し働けなくなることに社会的な理解を得られず、

当時社員として勤めていたボーカルスクールを退社。
21歳の頃、独立をし、「Switch Of Voice」を設立。


もちろん起業は甘くなく、、、

夜はアルバイトで水商売(ゲイバーやホスト)
整体師の仕事などと掛け持ち。

思い返すだけでゲロを吐きそうになるくらい忙しかったが
これらの仕事は、今、全てに役立っていると思う。


ヤンキー根性で
常に3つ以上の仕事を掛け持ちし、

平均睡眠時間は2時間

移動の電車が唯一ゆっくり寝られるので、
電車に乗るのがすごく楽しみだった。


また、空前絶後のモテ期襲来。(笑)

日々違う男と寝、数百以上の様々な恋に溺れ、
恋から人との深いコミュニケーション、心理を学ぶこととなる。

恋愛は親や友人にも見せない姿を見せ合う
最高のアトラクションだと思った。


フレキシブルに仕事をしているのをいいことに、
毎日この世の遊びという遊び、

全てを経験した気になっていたのではないだろうか。

きっと、ここまでずっと、寂しかったんだと思う。


プレゼンテーションライブ。

23歳〜24歳【カリスマへ。】

当時勤めていたゲイバーや、西麻布のバーのつてで、
たくさんの芸能界の人脈ができる。

ボイストレーナーとしても才能が頭角を現し、

たくさんの芸能人を教え始める


「Switch Of Voice」
にも、噂を聞きつけた
たくさんの未来ある若者が通うようになり、

常に生徒が100人以上いる状態となる。

バイトは、この頃には全て辞めた。


知らぬ間にカリスマ、と呼ばれるようになり、
みるみるみんなが僕を見る目が変わったのがわかった。

鳴り止まぬ問い合わせメールの通知。
僕を馬鹿にしてきたレコード会社の大人たちも
たくさんの実績を生み出すことにより
「先生」と僕を崇めてくるようになった。


僕がいい、と言ったものは、いい。

僕が悪い、と言ったものは、悪い。


気がつけば、そんな環境になっていった。
自分の言葉には人の人生を変える力があることを知った。

それは自分の言葉ではなく神様に喋らされているようだった。


夢を追う生徒たちの人生を背負うほど、

孤独になり、弱っていった。


そんな自分を置き去りにしたまま、
僕のスクール「Switch Of Voice」は急拡大して行った。


メジャーリリースの2ndシングル。

25歳【カオス】

「自分が歌手として、プロとして背中を見せる」
そんな意気込みで、生徒たちを引き連れ、
「鳥山真翔with Switch Of Voice Choir」でデビュー。

オリコンなどの音楽チャートにも続々ランクイン、
iTunesストアランキングでも最高1位を獲得。


生徒たちも続々とメジャーデビューを果たす。


順風満帆のように思えるがその頃、
謎の体調不良のほかに、

重度の目のチック症に悩まされる。

人の声を聴くたびに、まばたきが止まらない。


ずっと気が付いてはいたが、
自分のボイストレーニングが、
耳ではなく目を頼りに行なっていること
をはっきりと体感するようになる。


さらに同時期、ボイストレーニングの限界を感じ始める。


「声を変えるということは、

人生を変えなければいけないということだ」


と、壮大なテーマを与えられたのだと悟る。
しかし、僕が感じる限界とは裏腹に、 「Switch Of Voice」はさらなる急拡大を続ける。


その頃、、、
2歳年上の実の姉が、


末期(ステージ4)の卵巣ガン

だとということが発覚する。


支えるために、
自分の家に姉と母をよび、共に暮らし、

弱りゆき、いかに儚き人の生命と向き合う日々となる。


死んだ姉。

26歳【姉の死と、植物人間の母。】

生徒は増え続け、
常に月に100時間以上のレッスンをするようになる。

さらに自ら歌手としても、
月に15本〜20本のライブや、
会社経営、プロデュース業をこなす中、


姉のガンは無情にも、進行。


支えながら、また不眠不休の生活となる。


疲れからか、僕も痩せてしまい、
181cm身長があるのに、体重が53キロになる。


26歳の11月。

ある日、

今度は姉ではなく、


母親が突然、

重度のくも膜下出血で、
意識不明の植物人間状態となる。

毎日仕事の合間に母と姉の病院を何度も往復。
毎日意識のない2人と向き合うこととなる。


その中でも、ステージに立ち、
笑顔で生徒たちの夢を支え続け、頭が狂った。
レッスンが終わるたびにトイレに駆け込み、
吐いた。

最後は吐くものもなくなった。


そして、その1ヶ月後、
姉は、28歳で、

ガンによる呼吸不全で亡くなる。


1ヶ月の間に、
一緒に暮らしていた2人を突然失い、
途方にくれた。


母が意識不明になった日も、
姉が死んだ日も、

僕は当たり前にステージに立ち、歌い、
生徒に背中を見せ続けていた。


人はなぜ生まれてきて、なんの使命を果たすのか。


死ねば灰になる。魂なんて綺麗事だ。
思い出のみを残すことのみになんの意味があるのか。

溺れるように苦しみながら28歳で死んだ、
大好きだった姉の亡骸を見ながら、

そして、娘の死を見ぬまま50歳で植物状態となった、
大好きな母の寝顔を呆然と眺めながら、


ただ、そう思った。


少しずつ回復してきた母と。

27歳【生と死と、脳と筋肉】

両親は離婚していたため、
家族は突然、僕と妹の2人となった。

その後、母は奇跡的に一命を取り止め
少しずつ回復して行ったが、
意識が戻るのに半年かかり、右半身に重度の麻痺が残る。

さらに、、、
母は、起きた頃にはほぼ全ての記憶を失っていた。

バリバリのキャリアウーマンだった母が、
高次脳機能障がいのため、幼稚園児のようになった。

その姿もショックだったが、
何より、自分の意識がない間に、
「あなたの娘は死んだんだよ」
という事実を伝えることができないことがショックだった。

生と、死について考えるうちに、
それらをあまり考えていない人と話すのが苦痛になることもあった。

喜怒哀楽は失っていた。

何かを楽しむことの虚しさ、
何かに怒ることの虚しさ、
そんなものは、母や姉の心と比較したら、
全て無駄だと感じた。

そして、、、
ある母のケアマネージャーさんとのミーティングの際、

「ずっとは入院できないので、
あなたはこれからずっと、
お母さんの介護生活になります。

お母さんは歩くことも正常な判断もできないので、
今のような不規則なお仕事ですと、
難しいかもしれません。」

と告げられる。

そうしているうちに知らぬ間にカリスマは崩壊し、
生徒たちと関わることが苦痛になり、
会社を畳むことを決意。

たくさんの生徒にお別れを告げる。
そして愛情の裏返しで、
たくさんの生徒に、恨まれ、嫌がらせを受ける日々。

精神的にボロボロだったが、
それでも母の体を少しでも回復させるために、

毎晩寝ずに、脳と筋肉の研究を始める。

病院でも行わない母のリハビリを、
僕自身が行い始めると、

母はみるみる記憶を取り戻し、
筋肉の拘縮も、溶けてゆく。


原宿クエストホールにて。400人に見守られながら。

28歳【同性婚】

27歳で介護生活が始まるとわかった時、
「一緒に介護をしてくれる生涯のパートナー」
がいればすごく助かるな。

と思っているところに、
心優しいベトナム人の男性と出会い、パートナーとなる


絵描きでモデルだった彼は、
とても繊細な「自閉症」で、
「高次脳機能障がい」で幼女のようになった
僕の母と、
とても馬が合った。


ただし、
脳の障がいをもつ二人との日々は、
僕にとって容易ではなく、、、


日々、彼らを理解するために、
さらに脳の研究に没頭する。


感情と運命を超えた世界を日々体感する。


そして・・・
日々の研究が功を奏してか?

母は、奇跡のようにみるみる回復!


心配されていたつきっきりのような介護生活は、
必要ないレベルまで回復していった。

さらに、
母や彼を理解するたびに
生徒さん達の悩みも理解できるようになり、

辞めようと思ったボイストレーナーの仕事でさらに求められるようになる。


生徒数はこの時点で5千人を超える。


そして・・・
27歳の終わりに、

出演したコンサートの帰りに、
フラッシュモブでプロポーズをし、


28歳の11月、

原宿クエストホールで、

同性婚の結婚式を挙げる


同性婚はこの国では認められていないが、
約400人の方に参列していただき、


その模様が日本テレビ「スッキリ!」で特集。
そして、映画化もされる。


余談だが、、
彼と、当時のswitch of voiceのスタッフたちと、
交流の場として、中目黒にゲイバーを開き、

ママとして、たくさんの人の接客もする。


フジテレビ「ノンストップ」での生放送の様子。

29歳【美顔ボイトレ】

脳と筋肉を理解すればするほど、母は回復し、
さらに、ボイストレーナーとしても、
たくさんの症例を救える
ようになった。

全国から飛行機や新幹線でも訪ねてくれる方が増え、
そして、生徒数はあっという間に1万人を超えた。

僕が考案した「美顔ボイトレ®︎」が話題になり、
フジテレビ「ノンストップ!」で、30分の特集が組まれることとなる。

その放送が反響を呼び、
メソッドが書籍化

トントン拍子で雑誌やテレビにどんどん出させていただくようになり、
ボイストレーナーとしての世間的地位が少しずつ確立してゆく。

僕のレッスンはキャンセル待ちが続出となり、
数ヶ月待たないとレッスンが受けられない状況になる。

しかし、やはり人生そうはうまくいかぬもので・・・
そのたくさんの声を"視過ぎた"反動か、

幼少期からの目のチック症や、
原因不明の高熱の症状が再発

やはり自分には声が視えている、ことを確信


また、急激な環境の変化で、ストレスが爆発。
自閉症の彼は、そんな僕について来れなくなり、
ある日、突然、自宅から消えてしまう。


結婚式が映画化までされたのに、

即、独身に舞い戻る。(涙)


彼には今でも心から感謝している。
煩悩を全て捨てた愛を、彼が教えてくれた。


そう、人間は余計な感情を持ちすぎているのだ。

もっと、もっと、シンプルで良いのだ。


「マツコ会議」での特集で、マツコさんと。

30歳【自問自答】

さらに出演依頼等も増え、
メディアにもどんどん出させていただいた。

その中でも特に、
日本テレビ「マツコ会議」で、
時間丸々特集していただいたことで、
よりフィーバー。

全国を飛び回ることになり、
教えた生徒数はついに2万人を超える。

しかし・・・
日々何度も同じメソッドを、
たくさんの人に伝えてゆく中で、
肉体的にも精神的にも疲弊し始める。

声をテーマにした仕事は絶対向いているが、
本当に、自分の人生の使命は、これなのか?

自問自答の日々。

もっと、もっと、僕にはカリスマがある。
人の人生に影響を与える、特別な力がある。
そう信じているが、なかなか見出せない。

「声」が色で見える。その人の人生の「色」を感じる。
自分が乗り越えた数々の困難にも「色」があった。
「色」を変えることで、僕は生徒の皆さんにどうなって欲しいのか。

そんなことを考えながら、来る日も、来る日も、
全身全霊で、レッスンをし続けた。

人の声と向き合えば向き合うほど、
人の未来や、魂の叫びが、見えるようになった。


占いセッションの様子。

31歳【声で魂を、占う。】

悩んでいることをよそに、コロナ渦となる。
そもそもボイトレレッスンを開催することが難しくなる。

自問自答をしてゆくうちに、
「このメソッドは、映像化や、
誰か優秀な人を育てて、伝えてもらおう」
と決意。

全てのメソッドを詰め込んだDVDを制作したり、
「日本ボイス&ビューティ協会」を立ち上げ、後進の育成を開始。

自分は、、、
これまでの人生経験と、
自分の「声」について感じる特殊能力を活かし
人の人生にさらに踏み込んだアドバイスをするために、

「占い師」をの仕事を始める。
「声」の話だけでは占いきれない部分を補うための占術
を学ぶ。

四柱推命、占星術、
そして、メインとなる「多次元数秘術」の技術を習得。

自分の「声が色で見える」霊的な能力と、
具体的な数字がベストマッチ。
「声色数秘術」を開発。

声で人生を変えることができると、
誰よりも知っている僕は、さらに多くの人の声、を受け取ることとなる。


1時退院にて母の遺骨と。

32歳【母との別れ。自分も死んだ。】

2021年7月29日。
忘れもしない。僕は突然倒れた。
原因は色々考えられたが、
先述の幼少期からの免疫疾患が爆発したそうだ。

意識はほぼなくなり、重度の肺炎となり、
酸素濃度は60代に。

救急搬送される直前、一緒に住んでいた
母が行方不明となった。

僕に気を遣って買い物に1人で出掛けてしまったことが原因だった。

探したくても動けず、無念の中、
たくさんの警察に出動してもらった。

数日間、
呼吸器をつけながら呆然としていると、
妹から着信があった。

「お母さん、遺体で見つかったって。」

まるで夢を見ているようだった。
コロナ禍なので病室から一歩も出られぬまま、
病院の先生にもそれを言えず、

崩壊しそうになっているところに追い討ちが。

「あなたの呼吸器の状態が悪く、
肺は元には戻らないほどダメージを受けています。
歌うお仕事は難しいかも。
入院も、長引きそう。頑張ろうね。」


担当医の女性は淡々と僕に告げた。
サポートの看護師たちは気まずそうにしていた。

母親は警察に火葬場まで連れて行ってもらい、
燃やされる当日。

僕は閉じ込められた新宿の病院の、
16階の窓から空を眺めた。

どこかに。
母が煙となって旅立つ姿が見えないかを
探し続けて

1人で泣きながら
何回も何回も

「ごめんなさい」

と繰り返した。


約1ヶ月後。

毎日先生に帰りたいとお願いして、
先生は苦い顔をしていたが、
無理やり退院させてもらった。

外に出てみれば
身体は思ったより悪く、
1歩歩くだけで呼吸困難になりそうだったけど

母の遺体が見つかった現場に直行し、
そこで跪いた。

「もう一度、やらなきゃ。」

と、無感情で、僕は小さく叫んだ。


現在・33歳【僕の夢。】

その後の僕は、ただただがむしゃらだった。

「歌えない」と言われたけれど
プロのボイストレーナーとしての底意地で、

リハビリを必死に続け、
一つ一つの仕事を取り戻した。

特に守るものも無くなり
なんのためにやっているかなんてわからないけれど、

とにかくがむしゃらになった。
がんばっている間は痛みを忘れられると思ったのかもしれない。

呼吸器をやられたことで
声が出せない人の気持ちがさらにわかるようになったし、

ファンや生徒の方の支援もあり、
元通りのワークバランスまで戻していくことができた。

それが支えてくれた皆様への恩返しで、
生きる意味だと思った。

同時に、
自分は何者なのかをより一層考えるようになった。

結局わからなくて、
もういいや、と、
何度か首を吊ったり
両掌にいっぱいの薬を飲んでみたけど、
うまく逝けなかった。

33年間、必死に生きてきた。
自分の心を置き去りにすることも多かった。

だけど、
ずっと言い続けていた夢がある。

「小説家になりたい」

なんでも叶ってきた僕にとって
唯一難しかったことで、
文を連ねようとパソコンに向かうと、

マッサージをしたかのように
血が通い、
体温がいくらか上がる気がした。

もう一度自分の人生を探すために、
今日からnoteを始めてみた。

僕が生きてきたことを、
こうして文字に起こしていくことで、
誰かの心を動かすことができるのなら、

どうしても、
やってみたい。

中卒なもんで、乱文乱筆だけど、
僕なりの味が出ていいかもしれない。

ここまでお読みいただいた皆さん。

ぜひ、次の物語にも、
お付き合いいただければ。


それでは、
よろしくお願いいたします。


2023.6.1
鳥山真翔


※この「鳥山真翔ものがたり」は2020年に公式HPに書かれたもので、2023年6月に加筆修正をくわえたものです。

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