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あの日、ぼくは永平寺の修行僧になった。前編

三月。
この季節は、曹洞宗の大本山永平寺に新たな修行僧たちが上山します。
ここでは私が永平寺に上山した時のことをお話しします。

※この内容はブログ「禅活-zenkatsu-」に掲載した記事を再編集しまとめたものです。有料設定ですが最後までお読みいただけますので、ご支援いただける方はご購入いただけるとありがたいです。

フェイントの雪

2014年3月。
駒澤大学を卒業した私は、修行へ行くことになりました。
曹洞宗には、本山だけでなく専門僧堂というものも合わせると各地に修行道場が存在し、どこに行くかは個人の自由です。
私もどこに修行に行くか考えましたが、過去に父である師匠が指導者として赴任していたことと、日本に曹洞宗を伝えた道元禅師が開かれたお寺であることから、永平寺に行くことにしました。

ところで、皆様は覚えているでしょうか?

2014年という年は平成26年豪雪と呼ばれる、関東でも大雪が降った年でした。
東京はもちろん、普段ほとんど降雪のない私の地元、栃木県足利市でも雪が積もりました。

ただ、知り合い曰く「太平洋側で大雪が降った年は日本海側では雪が降らない」とのことで、永平寺がある福井県も今年は暖かいらしいと、少し安心していました。

実際に、上山一ヶ月前に事前研修で訪れた永平寺は、冬でありながら暖かな陽が差し、雪も全くありませんでした。

ところが上山前日、事態が変わります。

当日は師匠に車で福井まで送ってもらう予定でしたが、その日の福井の天気予報はまさかの雪。

万が一通行止めになったりしたら時間に間に合わないということも有り得る。
さらに門前街の旅館もその日は部屋がとれませんでした。

そこで出した結論は、

当日、電車で行く。

それのどこが大変なの?思われるかもしれませんが、この時大変なのは服装です。
曹洞宗の修行僧には、上山の際に定められた服装があります。

それがこちら。

袖と裾をたくし上げた着物に草鞋と網代笠。
生活用品やお袈裟を入れた行李(こうり)を肩から下げた、昔ながらの僧侶の旅装です。

この写真は永平寺を下りた時の写真なので表情に余裕がありますが、上山の時はどんな顔をしていたのやら。

私はこの服装で電車に乗り、地元足利市から福井県へと向かうことになったわけです。

出発の朝

その朝は、前日なかなか寝付けなかったこともあってか、
目を開けても夢うつつで修行に行く実感がありませんでした。

母が用意してくれた朝食はいつになく豪華でした。

しかしなぜか、大好きな唐揚げすら喉を通りません。

「なんだかんだで緊張してるんだね」
と家族に笑われつつも、それでも実感は湧きません。

身支度を整え、涙を浮かべる母に別れを告げて、師匠の車で駅に向かいます。
師匠は多くを語りませんでしたが、
「辛い時はみんな辛いんだから、そんな時こそ思いやりをもって頑張れ。」
という一言をくれました。

知っている景色の知らない見え方

地元である足利市から福井へ向かうには、
在来線を含め4回の乗り換えがあります。
学生の頃よく乗っていた山手線のドアのガラスには、修行僧の服装をした自分が映っていました。

つい先日までお気に入りのスニーカーで乗っていた電車で、草鞋の紐を結び直す私。

周りの乗客からは「見ないようにしている空気」が伝わってきます。

慣れない服に慣れない荷物を背負って、
慣れない履物を履いた、これから修行僧となる自分がそこにいました。

見慣れたはずの景色の中に溶け込めずにいる自分がいることに気づいた時、
「ああ、本当に修行に行くんだな」
という思いがついに湧き上がってきたのです。

東京駅に着くと、東海道新幹線で米原へ向かい、特急に乗り換えます。

私は昼ごはんを買おうと思いますが食欲がなく、売店で小さなサンドウィッチと小さなコーラを買いました。

新幹線に明らかに馴染まない格好で乗り込み、座席につきます。

その道中、私は今度いつ触れるかもわからない携帯電話で大切な人たちに連絡をとりました。次はいつ聴けるかもわからない音楽を、袖でイヤフォンを隠しながら聴きました。

売店で買ったサンドウィッチはおろか、
コーラすら喉を通らなくなっていました。

米原に着き、特急「しらさぎ」に乗り換えます。

あと一時間で福井。

私を米原から福井へと運ぶしらさぎが途中で長いトンネルと越えると、
その年降らないはずたった福井に雪がしんしんと降っていました。

福井駅での出来事

ついに降り立った福井駅。
あの時「今年は太平洋側で雪が降ったから、きっと永平寺は雪が少ないよ!よかったね!」と教えてくれたあの人に見せて差し上げたい。

この雪の降りしきる景色を。

雪に対しての免疫がない私には、目の前で降っている雪が吹雪に見えました。
受け入れがたい現実に目を背けたいという思いから、まずは一旦お手洗いへ。

荷物も服装も慣れないものなので、お手洗いも容易ではありません。

男子トイレの小便器は座らずに済むので助かりましたが、寒さで鼻水が出るので、個室のトイレットペーパーで鼻をかみました。

そしてそれをそのまま便器に流そうとするのですが、荷物があるので横着をして足でレバーを踏みました。

するとその直後、私の一部始終を見ていた一般人の男性が

「あなた今足でレバー踏みましたよね?お坊さんでしょ?それでいいんですか?」

突然の叱責に驚き何も言えずにいる私をよそに、男性はその場を立ち去りました。

「僧侶として見られる」ということ

これまで、お寺に生まれ高校生で得度とくど(出家の式)をしながらも、
日常的な手伝いなどをしてこなかった私には「自分は僧侶だ」という自覚があまりありませんでした。

それどころか、ようやく一人で法衣を着られるようになったくらいの駆け出しにも満たない状態でした。

しかしこの男性の言葉によって、たとえ中身が未熟であろうと、
自分は今一人の僧侶として見られるんだということに気がつきました。

この時初めて、自分がこれから僧侶として生きていくという現実が、
リアリティをもって目の前に立ちはだかったのです。

それは同時に、これまで目を背けてきた自分の短所が、
自分自身の問題として改めて突きつけられた瞬間でもありました。
今まで両親からどれだけ言われても気にしていなかった自分の横着さや詰めの甘さが、僧侶として生きていく自分の課題になっていく。

そんな未熟もいいところの自分が、知り合いもおらず携帯もパソコンも持てない環境で、2年になるか3年になるかわからない修行生活に入る。

凍えるような寒さも気にならなくなるほどの不安が、私の心を満たしていきました。

タクシーの車中で鳴った電話

福井駅から永平寺まではタクシーで20~30分。
運転手さんも事情を察したのか、特に話しかけてこずにそっとしておいてくれました。

ここまできたら、人間何をしていいかわからなくなるものです。
スマホの充電もほとんどなくなり、あとは大人しくそこに着くのを待つのみでした。

一ヶ月前にはサークルの仲間と卒業旅行でグアムに行っていた自分が、雪の中永平寺に向かっている。
笑ってしまうようなギャップが、不安でいっぱいの私の心に追い打ちをかけました。

その時、突然スマホに着信が。

大学時代の親友からでした。

「おー間に合った!ちょうど今、面接受けた企業の内定もらったんだよ!おれも頑張るから、お前も頑張ってこいよ!帰ってきたら飯おごってやるからさ!」

大学の4年間、卑屈だった私を焚き付け、いつも励ましてくれていた親友の言葉は、何よりも心強いものでした。

電話を切ると、寒さと不安で感覚を失った身体に、体温が戻ったような気がしました。
そしてこの時の彼の言葉は、その後2年間の私の修行生活を支える大きな柱となるのです。

門前町に到着

永平寺の前には土産屋さんや旅館が連なる門前町があります。
修行に行く僧侶はここで前泊する場合もありますし、身支度だけ整えさせてもらう場合もあります。

私は旅館「東喜家」さんにて、学生時代から仲が良く、同じ日に上山をする大学時代からの友人である淳道くんと合流することになっていました。

先に到着していた彼はすでに支度が整っており、少し言葉を交わすと東喜家を出ていきました。

ここで少し説明すると、修行道場には安下処(あんげしょ)という場所があり、そこに1~2泊して作法や持ち物の確認をします。
永平寺の場合はすぐ近くにある地蔵院という小さなお寺が安下処になっており、この日はこの地蔵院に向かうことになるわけです。

16時までに地蔵院に着く決まりで、この時すでに15時、東喜家さんの名物おばちゃんも少し慌てながら、励ましてくれます。

ここでスマホ、iPodなど、修行道場に持ち込めないものを実家に送り、いよいよ身支度が整いました。

そしてついに東喜家さんを背に、私はいよいよ地蔵院に向かって足を踏み出したのです。

ある重大なミスを犯していることに気づかずに…。

出鼻を挫く

旅館「東喜家」のおばちゃんに送り出され、地蔵院へと足を踏み出した私。
そのすぐ近くには、曹洞宗の大本山、永平寺がそびえ立ちます。

そびえるだなんて大げさな、と思われるかもしれませんが、
この時の私には永平寺が暗闇にそびえ立つ魔王の城のような恐ろしいもの見えました。
しかしこの日の目的地はその手前にある地蔵院。

15時30分頃、指定の時刻までは残り30分というところで地蔵院に到着です。

網代傘を脱ぎ、お寺のインターフォンである木版を叩くと、

※ここからは先輩僧侶との実際やりとりです。

僧「そこ(下駄箱の上)に傘を置くな。」
(声の方を見る私)

僧「目を見るな。」
(慌てて目を伏せる私)

僧「返事をしろ。」

私「はい!(焦)」

僧「なんだその返事は。」

私「はい!」

僧「そんなもんか。」

私「いいえ!」←(はい!と言うべきだった)

僧「なんだと、それで本当にやる気があるのか。」

私「はい!!!」

僧「まだ(声)出るだろ。」

私「はい!!!!」

何度繰り返したか覚えていないほど、このやりとりが繰り返されました。
これまで自分は声が大きいほうだと思っていたので、声が小さいと言われたことにも驚きました。

そしてようやく、「中に入って草鞋を脱ぎなさい」と言われ、
玄関に腰掛け荷物を下ろした時、ある重大なミスに気がつきます。

絡子(らくす)がない。

絡子というのは、移動する時などに着ける簡略化したお袈裟のことで、
こんな感じの首からかけたもの。

お袈裟は得度(出家のこと)の際に師匠から授けられる
僧侶の証、アイデンティティとも言えるものです。

それをどこかに置いてきてしまったという事の重大さは、
当時の私でも容易に理解できました。

この事を言うか言うまいか…。

言えば怒られるだろう。

言わなくてもどこかで無いことに気づかれるだろう。

そもそも忘れてきたことにするか。

いや、修行に来て早々に嘘や言い訳をしてどうする!

永平寺では先輩に話しかける場合は「失礼致します」と言う決まりがあり、それは私も知っていました。
そこで

私「失礼致します!」

僧「勝手に喋るな。」

私「はい!」

僧「…なんだ?」

※文章のミスではなく、実際のやりとりです。

私「絡子を門前に置いてきてしまいました!」

僧「お前、絡子がなんだかわかっているのか!」

私「はい!」

僧「時間がないからこちらで取りに行く。お前は入れ!」

後に、この絡子は「東喜屋」さんでも見つからず、
恐らく新幹線に置いてきてしまったようです。

慣れない荷物と旅装とはいえ、なんというミス…。

昔から忘れ物が多かったり、おっちょこちょいなところは両親から言われ続けてきましたが、これほど自分の短所を恨んだことはありませんでした。

そして、これをきっかけに私はいわゆる「目をつけられた」ようでした。

地蔵院での2泊3日

私が上山した頃、地蔵院では上山者は番号で呼ばれました
(今は変わっているかもしれません)

地蔵院に到着した順に「○番の和尚」と呼ばれ、
私はこの日の上山者の中で最後の「8番の和尚」でした。

そして先に到着した7人は、壁に向かって座り、
修行生活で必要な言葉を必死で覚えているようでした。

修行道場には、近くに安下処と呼ばれる場所があり、
元々上山者はそこで身だしなみなどを整えていました。

現在では安下処で基本的な作法の確認や持ち物の点検をします。

つまり、地蔵院は永平寺の安下処になっており、
2泊の間に合掌の形の確認、食事作法、
着物の着方などを繰り返し練習します。

その間、上山者同士の私語は一切禁止です。
(これはここから1週間続きます。)

中でも辛かったのは睡眠です。

修行道場では熱を逃がさない&寝るスペースをはみださない為に、
かしわ布団という布団の使い方をします。


ここに毛布などを入れれば寝袋のように暖かく、理にかなっているのです。

また寝る姿勢も、お釈迦様が涅槃に入る(亡くなる)際に右肩を下にしていたということから、それに倣って同じように横向きで寝ることになっています。

しかし枕がないので、腕を頭の下にいれないとおばたのお兄さんのような首の角度で寝ることになるわけですが、寒すぎて布団から腕を出せません。

結局「まーきのっ」の状態で寝る事になり、私はまともに睡眠を取れぬまま朝を迎えることになったのです。

※実は坐蒲(坐禅用のクッション)を枕にしてよかったことを後から知る事になる。

3日目の朝

必死になっているうちに、あっという間に3日目の朝を迎えました。

この日はいよいよ永平寺の玄関である山門の前で入門の許しを乞うことになります。

やけに冷えると思った夜が明けた朝、
永平寺はその年初めての積雪となりました。

私を含めた8人の上山者はこの日、
雪景色に草鞋の跡を残しながら、山門へと向かうのです。

後編へ続く

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