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実は、東京は首都ではない?~東京遷都について〜


今年の3月27日、文化庁が東京から京都に移転されました。
とはいっても、全てではなく半分の部署ですが、安倍政権からの政策の一つがようやく実行されたのです。
政府の「地方創生」というスローガンのもと、すでに消費者庁は徳島に、総務省は和歌山に移転がされています(どちらも一部のみの移転)。

こういったテーマの時に毎回出てくるのが、「東京の一極集中」をどうするのかという問題。
バブルの時くらいから、「東京に全て集中しすぎているのは危険だ」という考えが広がりつつあり、「首都自体を移転するのはどうか」という意見もあったそうです。

他の国を見渡した時、必ずしも「首都=最大の都市」ではありません。
アメリカはニューヨークではなくワシントンD.C.、オーストラリアはメルボルンではなくキャンベラ、ブラジルはリオデジャネイロではなくブラジリアなど、一極集中を避けて、中央省庁などの機能を他の街に移転するケースは多いです。

今、東京に津波が直撃したら日本が終わると言われています。
完全な移転の実現は難しいでしょうが、共倒れにならないように、首都機能を移していくのは得策だと思います。



首都を移して、国を良くしていく。

実は、今と同じこういった議論が、今から約150年前に日本で起きていました。

東京遷都(せんと)問題———―。
僕は大学時代にこのテーマについて研究していました。
なのでこの分野に関しては人より詳しいです。

それまで都だった京都ではなく、東京中心の国づくりをしていく。
その背景や経緯を知るとめちゃくちゃ面白いので、知らない人に向けて紹介したいと思います。



政府の“リニューアル”大作戦


1867(慶應3)年の大政奉還の後、これまでの徳川幕府ではなく、天皇を中心とした国家づくりを明治新政府は目指すことになりますが、その中の重要課題として、都を移すかどうか、いわゆる遷都がありました。

二条城で行われた大政奉還


天皇のお住まいは御所で、1000年以上もの間京都にいらっしゃる。
その天皇にお引越ししてもらって、新たな土地に国会や中央省庁を作り、国家の運営をしていく。
新政府はいわば心機一転、リニューアルをしたかったのです。

ましてや明治新政府のメンバーは、薩摩や長州や佐賀などのちょっと前まで外様と言われていた、田舎ではあるけれども、革新的な考えを持った若い政治家(みんな大体30代)ばかり。
保守的な京都の人間(公家とか)とは全然違うわけです。

そら活きのいい九州の若者と、古い考えの京都のおっさんが合うわけないですもん。笑

「なにあほなこと言うてはりますのや。京都こそが都どす。」
「・・・京都の保守派、だるいでごわす。」

新たなことにチャレンジするには、京都は何かとやりづらい土地だったんでしょうね。

明治新政府のメンバーが中心となった、「岩倉使節団」



大坂遷都案、行幸がもつ意味


そういった中でまず浮上してきたのは、大坂に都を移すという案です。
海もあるし外交的にもちょうど良さそうですよね。
しかし、大久保利通が唱えたこの大坂遷都案は、保守派の反対に遭い、無くなってしまいます。

大久保利通


ですが、一時的に天皇が出向く行幸、いわゆるプチ旅行的なものは認められます。

天皇が自ら遠征する親征は、天皇のありがたみを国民に感じさせることで士気を高めたり、新政府のアピールにもなるので、パフォーマンスとしてはうってつけだということで保守派の理解を得たのです。

この行幸は、大坂の後東京でも行われますが、大久保ら遷都賛成派からすると、いずれ完全に遷都するまでの布石、ジャブみたいなものだったと僕は考えます。
それまで宮中でじーっとしていた天皇に外に出てもらい、いろんな土地を訪れてもらう。
「天皇に移動してもらう」という免疫を周りにつけさせる効果があったのだろうと思います。

東京行幸の様子


各地を訪問する———。今では当たり前の光景ですが、当時の人々からすると、あまりにセンセーショナルでした。だって天皇は“神”なのですから。
実際にこの目で姿は見れずとも、神輿の中にいらっしゃる天皇の存在を“感じれる”だけで、国民にとって生涯の喜びになったと言います。
そういう意味でも新政府のPRとして効果的だったと思います。

そして、これらが可能になった理由としては、明治天皇が若かったということ。
この時15歳。まだ子供です。
言い方はよくないですが、まだ強い意志を持たない天皇だったからこそ、周りの大人たちがうまく利用することで、政権運営を思うように行なえたと言えます。



「江戸」が「東京」になる


大坂行幸の後、前島密による「江戸遷都論」や、江藤新平らによる「東西両都論」が過熱します。
徳川がいなくなった後、東日本を治める人がいなくなると衰退してしまうという考えから、遷都の話題の風向きは、江戸に変わっていくのです。

そして、この「東西両都論」が大きな意味を持ちました。

江藤らは、長年天皇がいないこの土地を、京都と同じ位に“格上げ”することで、関東の人々の心をつかもうという考えを示しました。

1868(慶應4)年7月、「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」が発せられ、正式に「江戸」が「東京」になります。東にもう一つ京都が生まれたのです。

ここで京都市民への配慮が見られます。
はっきりと「遷都」だということはこの時点では明言はしませんでした。

「あくまで両方とも都ですよ~。東京に都を移すとかじゃないですよ~。」
という政府からのメッセージが込められたものになったのです。


最初の東京行幸


「やっぱ東京っしょ。」という流れから、政府の方針として、ここからいかに上手く東京に首都機能を移すかのミッションが始まります。

東京行幸が1868(明治元)年9月に行われ、10月に天皇が江戸城に入られます。
この時、江戸城を「東京城」と改め、天皇の「皇居」になります。
すでに徳川家が駿府(今の静岡県)に移住した後。
つまり皇居は、江戸城を居抜きで再利用したものだったのです。

前の会社が入っていたテナントを、そのまま新たな会社が契約する。
そんな感じで東京での天皇の住まいが決まったのです。
初期費用ゼロですからね。新政府、やりくり上手。サステナブル。

江戸城


しばらく東京に滞在したのち、再び京都に帰る、還幸を試みますが、政府の中には、
「もうこのままこっちに居ていいんじゃない?」
という人も現れます。せっかくつかんだ東京の人心を手放すことを良しとしなかったのです。

それでも岩倉具視などの中心メンバーは、
「それはさすがにヤバい。京都の人も怪しむから一回帰ろう」
という意見を示し、東京市民の不安を取り除くべく、再び東京に行幸することと宮殿を新たに作ることを約束し、12月、京都に戻ることになります。

岩倉具視


再び東京へ行幸。そのまま…


1869(明治2)年1月、再度の行幸の機運が高まっている中、
「完全に首都が東京になってしまうんちゃうやろか」
と、ざわついていた京都や大坂の人々、政府内の人間に対し岩倉具視は、
「いや、東京はまだバタバタしてるから、その体制を整えるだけなの!遷都とかは一切ないの!」
という公式声明を出させます。もう薄々は気づかれてますよね。。

そして、翌年の大嘗祭(天皇陛下即位後のめっちゃ大事な行事)までには京都に帰るという約束を取り付け、3月に二度目の東京への行幸(再幸)を果たします。


結論から言いますと、この時を境に、天皇陛下はもう京都には戻ってきませんでした。


そこから政府が第一に考えたのは、いかにして京都の人々の怒りを買わずして首都機能を移していくか。です。

行幸後は、京都にあった行政機関を少しずつ移し、その代わり京都には留守官という仮の機関や、各省庁の出張所を設けます。
しばらくすると、その出張所も廃止。1871(明治4)年にはほぼすべての行政機関を東京に移転することに成功したのです。

挙句の果てには、1870(明治3)年の3月に京都で行われる予定だった大嘗祭は、諸国の凶作や資金不足などを理由に延期。
翌年3月には、結局東京で行われることが発表されました(明治4年11月に行われた)。

まあ最初からそのつもりでしたよね。笑
岩倉さん、完全にやりましたね。

京都御所


京都市民からしたら、「政府、バリせこいやん」ってなやり口ですが、その後も、天皇からの指示で京都御所を保護したり、明治天皇のお墓は京都(伏見桃山陵)に立てたりと、政府挙げての「京都に対する配慮」は続けられます(ちなみに大正天皇と昭和天皇のお墓は東京)。

しかしながら、当時の人からすると、遷都は、いつの間にかぬるーーっと行われていたのです。
京都市民は思ったことでしょう。
「あれ?天皇陛下、まだ帰ってきはらへんな~」と。


良くない言い方をすると、これが政府のやり口です。笑

それからというもの、日本政府として「首都は東京です」と公式に発表したことは、実は一度もありません。
1956年に「首都圏整備法」という法律は制定されましたが、首都を東京だと明確にしたことはないのです。

この決めきらないグレーさが日本の政治って感じですよね。
それが決して悪いとかではなく、150年前の歴史上の出来事なのに、なぜか現代に通じる人間臭さを感じて非常に面白いのです。
反発を恐れてはっきりしない。めっちゃ日本人やん。今も昔も一緒やん。

天皇が東京に旅行に行ったきり、150年以上帰っていない状態が今も続いてるだけって考えたら、なんか面白いですよね。





というわけで、このリアルな人間ドラマが、東京遷都の全貌なのです。

みんなが当たり前に首都だと思っている東京は、実は公式には首都ではなかったのです。建前では首都だけど、実際にははっきりしていないというのが真実でした。

※細かいことを言えば、1950年に出来た「首都建設法」では、首都の言及はありました。しかし6年後に廃止。「やっぱりはっきりせんとこ」ってなったんですかね。


今まで知らなかった人には、東京にはそういった経緯があったという事をわかっていただいたと思います。ぜひ豆知識として広めてくださいね。



それでは、また!


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