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世界の比較憲法・日本の比較憲法

 『世界の憲法・日本の憲法――比較憲法入門』はテーマ別に各国の憲法を比較した、新しいスタイルの比較憲法テキストです。
 しかしこの本の特徴はそれだけではありません。いま世界の比較憲法研究は新しい時代を迎えています。『世界の憲法・日本の憲法』はそのような潮流を反映している点でも新しいテキストなのです。

 編者の先生方には、「書斎の窓」2022年11月号で比較憲法の教育について論じていただきましたが、このnoteでは、世界の比較憲法研究・憲法学研究の動向、そして日本の比較憲法研究のこれからについてお話をうかがいました。

◇英米と独仏とで「比較憲法」は違う?

――本書の4名の編者の先生方は、新井先生はフランス、上田先生はイギリス、大河内先生はアメリカ、山田先生はドイツを専門とされているということですけれども、それらの国では、どのような比較憲法の研究がされているのでしょうか。

大河内 日本の憲法学において「準拠国」としてメジャーな英米独仏の4か国のなかでも、英米はどちらかと言えば比較憲法学が未発展だったという印象があります。法系としてコモン・ローであることに加えて、地理的な問題だったり、アメリカについては違憲審査制の独自の発展が憲法学を規定したことも影響しているんだと思います。

 その点、EC/EUのあるヨーロッパ――もちろんイギリスもヨーロッパではあるのですが――の国々は違うようにも見えるんですが、実際はどうなんでしょうか。

フランス憲法学の危機感?

新井 フランスですと、有名なエスマンによる仏英比較や、デュヴェルジェによる政治学的憲法学における社会主義国などをも含めた各国比較が、かねてより見られました。ただ、そうした営みはありつつも、フランス憲法学は従来、自国中心的であったのではないかというのが私の持つイメージです。

 他方で、21世紀に入るくらいからフランスでも変化があったように感じております。ひとつの要因は、ヨーロッパの中でのフランス憲法をめぐる地位の問題があると考えられます。もうひとつの要因は、グローバル化の中で諸外国との比較憲法の導入の必要性を感じ始めたのではないかということです。これについては、博士論文のタイトルに「比較憲法」を意識したものが急に増え始めるという現象からも感じ取りました。

 当初は、そうした情報に接していただけであったのですが、さらに実際の交流からも、フランスの憲法研究者が、世界に目を向け始めている印象を受けております。比較といっても、まずは英米圏やドイツその他の近隣諸国との間での、英独仏語などを介した交流が多いのかもしれません。

 その他の国への関心も以前より見られるようにも思います。日本の研究者も、昔はこちらがあちらに出向き、フランスのことを向こうで学ぶという「一方通行」であったように思いますが、いつの間にか、だんだんとあちらの先生方が、日本のことをすごく知りたがる状況になっているように感じます

 背後にある真の理由はよくわかりませんが、やはりグローバル化の影響ではないかと思います。一国中心主義的なものではない、特に英語を介した英米系の比較憲法研究サークルのようなものの存在が、ひとつ大きな影響を与えているのかもしれません。

ドイツの変化

山田 ドイツの傾向について、特に、歴史的な経緯など、十分にお話しできるほど詳しくないので恐縮ですが、一般憲法学の性格を持つ国法学の伝統や、少し時代が下ればレーベンシュタインのような業績もあり、ドイツ(語圏)で比較憲法がなされてこなかったということではないと思います

 また、英、米、仏での市民革命のなかで近代立憲主義が登場してきたあとで、ドイツは遅れてそれに出会っていますから、外来のものというか、英、米、仏の議論を参照せざるを得ない面があるのは確かだと思います。

 それでも、日本が英米仏独に模範を求めるというような姿勢とはまた趣を異にするとは言えるでしょう。最近の変化という点では、日本の少し上の世代の先生方からは、ドイツの公法学者はアメリカの議論を参照していても絶対にそれは表には出さないというような話を聞いた一方、現在ドイツ公法学の第一線で活躍している先生方を見ると、だいたいアメリカやイギリスでLLMを取っていて、肩書でもそれを明示するようになっています。また、より上の世代も、近年ではアメリカなどでの在外研究を積極的に公にしているように思います。

 その意味では、―—冷戦終結に伴う東欧革命や、冷戦後の欧州統合の進展が、ドイツにとっては、むしろ自国型のシステムの輸出を進めたという点では違いがあるものの―—フランスと一緒で、20世紀の終わりぐらいに、大きく空気が変わったのかもしれません。あと、近年は、フランスとも対話が進展しているとも聞いています

 それから、日独の交流は盛んで、こちらも変わりつつありますが、新井さんがおっしゃったフランスとの関係性より、日本人がありがたがって御説を拝聴してるという性格がまだ少し強いように思います。

イギリスの特殊事情

上田 これ流れでイギリスなんですかね(笑)。正直詳しくなくて、イギリス(スコットランド)での1年間の在外研究などにおける個人的な体験に基づく、主観的な見方でしかありませんが、イギリス――といってもその中でもイングランド・ウエールズとスコットランド、北アイルランドで異なるわけですが――における比較憲法は少し特殊なスタイルになっている気がしています。コモンウェルスとの「比較」です

 大英帝国の残滓なのか、コモンウェルスのカナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ――この4つが一番大きいですけどそれ以外にも、例えばアジアだったら香港だとか、カリブ海諸国とかの法についての参照が研究においても行われています。

 もっとも、外国法という意識で参照をしているのかはわかりません。コモン・ローという一つの法圏、もっといえば一つの国内法として自然にそれらの国々の法を見ているのではないかという印象を受けました。
 
 実際、裁判所も判決の中でそれぞれの国の裁判所の判決を引用することはままありますよね。

EU法のイギリス憲法学への影響

上田 近年の傾向としては、新井さんがおっしゃったフランスとかぶってくると思うんですけども、やっぱり20世紀終盤から21世紀にかけて一つ大きな動きがあって、それはやっぱりEUなんだと思うんです。EU法の影響がイギリスでも強くなってきました。そしてEU法ということは大陸法ですから、そういうものに対する関心、意識も出てきているようにみえます

 また翻って、イギリス法自身のプレゼンスにももしかしたら危機感があって、コモン・ローの諸国との交流をまた強めはじめたというイメージを持っています。

 日本との関係で言うと、先生方ご案内のとおり、日本の憲法研究者でイギリスをされてる方っていうのは数として決して多くありません。名古屋大学や早稲田大学の先生方が中心になられるわけですけども、全体の数も多くありませんし、これは先生方から怒られそうですけども、今でもこちらが習いに行っているという感じがあるようにみえます。そこはフランスとは少し違うところがあるかと思います。

 ただ、たまたまなのか分からないですけども、少しずつ向こうの先生が、さきほど申し上げた危機感の裏返しなのかわからないですけども、日本に対しても割とフラットに接してくださるようにはなってきてるのかなとも思います。その昔はやっぱり、私の個人的な体験にすぎないのかもしれませんが、「何しに来たんや」というか、こちらは全然お前らに関心持ってないけど好きに勉強をしていってくれっていう感じで。今は少しフラットになってきているかなとは思います。

アメリカの「比較憲法プロジェクト」

大河内 ヨーロッパはもう少し早くから比較憲法に関心を寄せているイメージがあったんですけど、グローバル化の影響という点では彼我の差はそれほど大きくないということでしょうか。

 アメリカも、今世紀に入ってから状況が大きく変わってきているように見えます。2005年にトム・ギンズバーグが中心となって立ち上げた、世界各国の憲法典について大規模かつ体系的なデータを提供するプロジェクトComparative Constitutions Projectのインパクトは、比較憲法の重要性を示したという点でも、比較計量分析の手法を推し進めたという意味でも、非常に大きかったと思います。最近、編者として分厚い3巻本の『比較憲法』(Comparative Constitutional Law, ed. Mark Tushnet, UK: Edward Elgar Publishing ltd., 2017)を公刊したをマーク・タシュネットも、1990年代から比較憲法的なアプローチを明確にしています。そういえば、アメリカ固有の話ではないですが、オックスフォード・ハンドブック・シリーズの比較憲法編の初版が出版されたのも2006年でしたね。

 ただ、アメリカの研究者が近年注目している「比較憲法」は、日本で長く行われてきたような、自国の憲法をより良く理解するために他国と対照するという意味での「比較」ではなく、よりユニバーサルな――今回のテキストにやや近いところもあるのですが――各国の憲法の特徴を記述する手法です。ドメスティックな憲法学とは一線を引いて、比較憲法を独自のカテゴリーとして扱っているとも言えるでしょうか。

アメリカの独自性?

新井 私の理解が間違っているかもしれませんが、アメリカの場合、比較憲法学という分野がある一方で、判例法学としての憲法解釈学が今も強い印象です。そのなかで、それらの分野が、前者は政治学的、後者は法学的な世界として、分離している感覚です。そこで、そもそも研究者自体の専門分野が異なる感じがしております。

 また、これも20年前ぐらいに見られたように思いますけども、アメリカでは比較憲法の知見をあまり判例の中に引用すべきではないみたいな議論がありましたよね。あの流れは、今はどうなっているのかが気になっています。

大河内 そうですね。それこそ、外国の法・判例を参照することを連邦最高裁裁判官が強く批判した――スカリア判事のローパー判決(2005年)反対意見が有名ですが――こともあるぐらいです。この批判自体は、いかにもアメリカらしい司法政治の文脈に規定された議論でもあるのですが、それを括弧に括ったとしても、新井さんがおっしゃったような独自性はあると感じています。

 アメリカでは、連邦最高裁を中心に判例の積み重ねとして憲法が構成されていくわけで、いわゆる「憲法」のテキストは、判例法学・解釈法学中心になっています。そこに、日本で扱われているような形で比較憲法が入ってくるスペースは、なおも小さいのではないでしょうか。

 他方で、ヨーロッパでは各国の裁判官を結ぶネットワーク、一種の裁判官コミュニティが作られていて、それが比例原則のような判断枠組みの共通言語化に一役買っているとも仄聞するのですが、アメリカがそこから完全に独立しているかというと、最近はそうでもないようです。2000年代以降は、外国の裁判官の視察を受け入れたり、国際技術援助の枠組みで裁判官の派遣を行なうなど、国際交流を積極化させています

 連邦最高裁で言えば、ケネディ判事やオコナ―判事などは特に積極的に海外に足を運んでいました。同性間の性交渉を禁ずる州刑法を違憲としたローレンス判決(2003年)と先ほど挙げたローパー判決――18歳以下の少年に死刑を科すことを違憲とした――は、いずれもケネディ判事が法廷意見を執筆していますが、そこでは解釈レベルで外国法が参照されています


◇比較憲法研究のグローバル化と日本

英語のパワーと憲法学

新井 ドイツとフランスの関係の点では、ドイツが特にヨーロッパの法解釈の中で優位な地位を占めている印象があります。また、違憲審査に関する論証の話でいえば、ドイツにおけるそれが非常に緻密であるのに対し、フランスは、比例原則などを含めてやや単調な論証で終わっているように思います。そうした中で、フランスが焦ってる面もあるのかなと感じます。

 もう一点、これはどこの国でも起きているかと思いますが、英語優位の国際社会で、大学(あるいは学問の手法)自体が、グローバル化を迫られているということが、フランスでも見られるように思います。これは、世界の法学がいま直面している課題のひとつかもしれませんが、現代の世界においてどうやって法学自体をグローバル化していくか、その中でフランスのプレゼンスをどう高めていくのか。印象論かもしれませんが、そういう課題が背後にあるのではないかと思います。

上田 英語の力というか、英語でグローバルになっているというのはすごく大きいし、そういう意味で、アメリカなりイギリスなりの人はそれだけで得してるな、ずるいな、けれどもその状況を作り上げたのはしたたかなんだろうなと、語学に苦労している私は強く思います。

 ただこれも感覚的なことになってしまうのですが、アメリカも世界の憲法を席巻しようという感じはもともとないし、イギリスも、範囲は広いけどもローカルな匂いはして、本当にグローバルなものをイギリスの人がどこまで意識しているかというと、ちょっとわからないという印象をもっています。

 話をこの本の内容に近づけると、もしかしたら日本というポジションはやはりなかなか面白くて、逆にこれらの国の人々よりもすごくグローバルを意識しているところもあるのかなということは、新井さんのお話を伺って思いました。面白いと思うんですよね、日本はいろいろな国を専門にする研究者がおられて、それが混ざり合って、かつ日本自身がすごく世界を意識しているところがあって。その背景事情は、150年前、明治の時と今とでもちろん違うんでしょうけれども。

グローバル化する「比較憲法学」

新井 現在、どの国も、グローバル化の中で自国の理屈を覇権主義的にどこかに適用しようとするつもりは毛頭ないのかもしれません。

 おそらく、現代のグローバル化の中で展開される比較憲法学の意味は、できるだけ多様な国から情報を集めながら、その結果をふまえて各国間における共通項や各国の特異性を確認する点にあろうかと思います

 他方で、比較を通じて普遍的なものを発見し、それを自国の近代化に応用しようみたいなことが少なくなっているように思われます。各国憲法を分析対象として突き放しつつ、対象国をグローバル化してるのかな、といった印象がございます。

日本は比較憲法研究のトップランナー?

新井 これに対して日本は、比較憲法研究の伝統は長く深遠であるものの、対象国としては特に英米独仏の4か国を中心としている状況はある程度続いているように思います。憲法研究者もまた、その中のどこかに籍を置くことが求められる感じです。そういう面では、日本独自の憲法学コミュニティが形成されているのかもしれません

山田 今まで皆さんがおっしゃったことに関連して、私は、日本は世界の中でもかなり比較憲法が盛んな国なんだろうと考えています。主として4か国に限られるとは言え、逆に言うと4か国もそれぞれに張り付いている人がいて、それぞれの文献も山ほど各大学の図書館にあるというのは世界にも類を見ないのではないでしょうか。

 そういう意味では日本は比較憲法のトップランナーなのだけれど、その反面、さきほどの英語中心の話とも繋がりますが、吸収の面ではトップであっても、世界に発信をしておらず、方法も独特なところがあって、諸外国から見ると結局何やってるのかよくわからない国になってしまっている、そんなふうに捉えています。

計量的「比較憲法」の登場

山田 それから、アメリカなどで進んできている比較憲法というのは、アメリカの人は英語しかできないところもあり、結局、英訳された他国の憲法を見て、単語数が多いとか少ないとか、形式的・表面的なところで比較しているように思えて、それもどうなのかなという思いが正直あります。つまり、条文の長さや、さらにはある事項に関連する条文を持っているかどうかで、0と1に分けて数的に処理して大丈夫なのかという疑問があるのです。

 表面的な言葉遣いから想像されるものと、実際のありようが違うことは十分にありうるわけで、従来の日本型の比較憲法では、歴史的背景なんかも含めて、現地語でしっかりと読みこまないといけないとされていたところからすると、本当にそんな英訳されたものを形式的に扱ってしまって良いのだろうかと思うのです。

 政治学でも計量系の人と地域研究の人の対立が問題になっているのと同じ現象なのだと思いますが、どちらか一方が正しいというのではなくて、車の両輪なのかなと私は考えています。計量的に、世界的な潮流みたいなものをモデルとして抽出するのも大事だし、それを踏まえつつ、個別の条文が具体的にどう運用されているのかを様々な背景にまで遡って比較することもまた大事なのだと思います。

 従来の日本型比較憲法の「準拠国」が4か国というのは、確かに少ないかもしれないのですけど、掘り下げて比べようと思うと、それぐらいになってしまうのかなという気もしていて。英語以外の言語でもそれだけ深くやってるっていうのは、むしろ日本の強みだと思います。もちろん、その結果を国際的な言語で発信することは課題なんだろうと思うんですけど。

比較憲法研究の「両輪」

山田 こういった、私の中での比較憲法のあり方についての葛藤を踏まえて、私の担当箇所で心がけたのは、比較憲法の両輪双方を試みることです。広く英訳の各国の憲法が載ってるサイトを踏まえて、関連規定があるかどうか、各国憲法を列挙するような部分と、私の能力からアメリカとドイツに限られますけど、社会的な背景も含めて深掘りして検討するところの両方を設ける工夫を自分なりにしてみたのです。

 比較憲法といっても色々あって、憲法学はまだ政治学ほど手法をめぐって分断はされていないとは思いますが、なかなか難しい問題を抱えている。先ほども言ったように、私は車の両輪のように、双方を視野に入れてバランスをとる必要があると思いますが、そのあたりは、もしかしたら、新井さんが当初考えておられた比較憲法とはちょっとずれるところもあるかもしれません。一つの章の中に毛色の違うものを入れた私の試みが成功しているかどうかも含めて、新井さんの他、みなさんからコメントをいただきたいです。

新井 私も山田さんのおっしゃる通りかなと思うところがございます。ただ、私が加えて考えていることとして、車の両輪であるとしても、その片側が非常に小さかったというイメージがございます。つまり、片側の車輪として、英米独仏の憲法学から普遍を見出すといった作業がある。もう片側、それは近年、ケネス・盛・マッケルウェイン先生などが行っている、政治学における計量的手法を用いたようなものを指しますが、こうした手法による研究は、非常に少なかったのではないか、ということです。日本の場合、計量的な比較憲法の手法が、かつての憲法改正論とつながっていたと思われる固有の事情などもあり、あまり憲法学で採用されてこなかったからではないかと推察します。

 ところが、そうした日本における状況とは無関係に、21世紀に入る頃になって、憲法に関するデータベースが非常に充実し、いろいろな情報を寄せることができる時代となり、世界のなかで計量的手法を使って比較憲法をやり始める流れが見られるようになりました。日本の比較憲法学は、山田さんのおっしゃるとおり、歴史や思想、あるいは各国の事情を適切に正確に追求することで、その中から、日本における立憲主義の確立にとって重要となるものを見出していくということで非常に成功したと思います。

 他方、繰り返しになりますが、そうした成功の影に憲法学が見落としてきた手法があったようにも思います。そうであるがゆえに、まさにバランスの取れた車の両輪にしていく方法として、上記の計量的手法にも向き合い、学問的に検証していく必要があるのではないかと思っております。

脱皮する日本の比較憲法研究

新井 従前の日本で展開されてきた比較憲法には大変重要な意義があったと思いますが、他方で、そこから普遍を見出すといった作業に重きが過度に置かれた感は否めません。そうしたなかで、さまざまな憲法体制を観察することによって、日本と同じようなことが他国でも起きていたということ、あるいはその逆に、大きな差異があるのだということを再発見する手法として比較憲法を見直すこともできるのではないかと思います。

 最近、交流をしている、日本語が堪能なフランス人の日本政治研究者がおります。その先生が、「日本の研究会に出ていつも驚くことがある。それは、日本の研究者はなぜこんなにフランスの憲法や政治のことを細かく知ってるのかということだ」といった趣旨のことをおっしゃいます。他方で、フランスの日本学研究は、いまだ一般的に語られる精神性などに根拠を置くような議論も見られる場合が多いとの感想を述べられております。そこで彼は、日本政治をもっと実証的に見ていくことを心がけているとのことでしたが、その彼いわく、日本政治を研究すると、その独自性が見いだせるというよりも、実は、日本とフランスとの間での共通性も多く見いだせるのではないか、と。そして、そうした共通の現象を見出せることこそ、日本研究をすることの意義のひとつであるというお話しをされておりました。

 こうしたお話を聞くと、世界的な国制比較の意味についても、少しずつ何らかの変化があったりするのではないか、と思ったりいたします。そして、フランスを研究する場合も、フランスに普遍や模範を追い求めるという片務的研究ではなく、フラットにフランスとのやり取りをしたら別の意味での面白さが見えてくるといったことを思います。そして、その二国間でのフラットな参照に加えて、より多国間でのフラットな参照ができるならば、さらにそれは面白くなるのではないか、と。

 ただ、先ほど山田さんがおっしゃったように、単に計量的手法だけではなく、比較対象国を広げた後に、各国に起きている深遠な憲法の世界、立憲主義の世界が広がっている可能性があることをさらに追究することが求められていくということもうなずけます。

上田 山田さんは世代が少し下ですけども、私と新井さん・大河内さんは90年代から研究を始めました。私の個人的な受け止め方ですが、まだその頃はギリギリ伝統的な国法学の流れ、つまりドイツでもフランスでもアメリカでもどこか準拠国があって、それを学んで日本と比較をする、まあ比較をすると言いながら対等ではなくて学ぶというか、日本には遅れているところがあるので先進国というか革命を経た諸外国のものを学ぶんだ、それを日本に持ってくるのが憲法学の研究なんだという――少しキツい言い方かもしれませんけれども――そういう雰囲気が学界全体の中では残っているところで研究を始めました。

 ただどこかで「本当にそうか?それだけでいいのか?」という思いもありました。それがちょうど同時期、20世紀から21世紀になってグローバル化ということになって、世界的に先ほどからお話ししているような流れの中に、日本もまた置かれるという状況になりました。私はその状況の中でも割と昔ながらの比較法のやり方を不十分ながらも続けてきていますが、そこでは、ただ外国、例えば英米独仏が進んでいて、日本がそれを学ぶということだけでもなく、純粋に比較をした結果、日本の特徴が浮かび上がるところもあります。それがいいとか悪いとかじゃなくて、日本の特徴的なところだということです。あるいは一方で、日本も普遍的にと申しますか、諸外国と同じように元々持っているものが浮かび上がることもあります

 いずれにしろ、諸外国のあり方を鏡写しに比較することによって日本の特徴を浮かび上がらせる――その評価は別にしなければならないのだと思いますが――、そういうものが比較憲法なのかなと最近は思うようになって、勉強を続けているところはあります。

アジア・社会主義国との比較

上田 比較憲法といえば、伝統的に、今申し上げた通り英米独仏ということになってしまいがちなのですが、もう一つ、日本の置かれている地政学的な立場から言っても、アジアの国々がどういう憲法を持っていて、どういう考え方で運用しているのかということにも関心を向けるべきなのかと思います。もしかしたら、日本はアジアの国々とより多くの共通項があるのかもしれませんし、もしかしたらまた違いがあるのかもしれません。

 そういうこともこれからもっと大事になってくるのかなということも感じておりましたときに、この本の企画をいただき、はじめて大河内さんとご一緒にお仕事をさせていただくことになりました。

 名古屋大学は伝統的に社会主義国、それから今は法支援整備でアジアの国々にもアンテナを貼られて比較法研究の蓄積がある大学です。そこで研究をしておられる大河内さんが比較憲法をどういうふうに見てらっしゃって、あるいはご自身がどういう意識で実践してらっしゃるのかということをお聞きしたいです。

大河内 名古屋大学では、社会主義法研究がひとつの柱として脈々と存在していますので、研究会等の議論が、日本でしばしば参照される国に加えて、社会主義法・社会主義国ではどうかという点に及ぶこともしばしばありました。

 院生時代を振り返って特に印象に残っているのは、憲法・行政法から国際法、外国法まで、教員・院生が揃って参加する公法研究会ですね。公法研究会で報告をすると、英米独仏はもちろん、社会主義、アジアといたるところから矢が飛んできますので、それに答えていかなければいけない。耳学問ですが、積み重ねていけば視野も広がりますし、良い意味で特殊なトレーニングを積ませてもらったと感謝しています。
 
 今は教員として、アジアを中心に多くの留学生と接する機会があり、とても勉強になっています。

比較憲法研究と法・制度の機能条件

大河内 その中で、一番興味深く見ているのは、法・制度の機能条件ですね。法整備支援の過程で「理想的」な法律・制度を作っても、なかなかうまくいかないんです。法・制度のさらに基礎の部分、概念だったり、社会の慣習だったり、制度を動かす人材だったり、その部分の条件がさまざまに異なっているので、うまく根付かない。特に憲法典のレベルでは、すでに「理想的」な規範が書き込まれていることが多いので、なおさら「なぜ機能しないのか」に目が向きます。
 
 法整備支援論の文脈では経路依存性という言葉で説明されますが、支援の実務においては、理想的・普遍的なものを移植するのではなく、支援対象国に根付きその地で安定的に運用していける形で支援を行っていく必要が指摘されていますし、その国の法を比較法として研究する場合には、表層にある法・制度の部分よりもむしろその一層、二層下のところを見ていく必要があると強く感じています。比較法研究の方法・スタイルとしても、今後、発展させていくべき部分だと考えています。

[2022年8月7日収録]


 グローバル化と情報化が押し開いた比較憲法研究の新たな局面、その一端を垣間見ることができた座談会でした。これから『世界の憲法・日本の憲法』を読むという方も、もう読んだよという方も、ぜひこの座談会から本書の新しい一面を発見していただければ幸いです。


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