白居易を通じて洛陽の文化を理解する日本人

龍門澗下濯塵纓 龍門澗下塵纓を濯い

擬作間人過此生 間人と作って此の生を過ごさんと擬す

筋力不将諸処用 筋力は将て諸処に用いず

登山臨水詠詩行 山に登り水に臨み 詩を詠じて行かん

 

龍門の流れで塵まみれの纓を洗い 暇人となって生涯を過ごそうと思う

いろんな事に体力を消耗せず 山に登り水辺で過ごし詩を作りつづけていこう

これは中国唐代の詩人、白居易(白楽天772-846年)が洛陽の龍門で詠んだ詩「龍門下作」である。

白居易が生涯に詠んだ詩の中で、洛陽に関するものは数百首あり、これは洛陽が彼にとってどれほど重要な土地であったかを表している。洛陽で、彼が最も愛した場所は龍門であり、散文「修香山寺記」では「洛陽の近郊で、最も美しいのは龍門だ」と詠っている。

唐代の詩人で日本人に最も愛されているのは、白居易であろう。かつて遣唐使が『白氏文集』(はくしもんじゅう)70巻と『白氏長慶集』29巻を日本に持ち帰ったが、漢学に魅せられ、書道や詩文に優れ、空海や橘逸勢とともに平安時代の三筆の一人として知られる第52代天皇の嵯峨天皇は、『白氏文集』を手に入れると、毎日熱心に読み、寝るときには枕の下に隠すほど大切にしていた。第60代天皇の醍醐天皇も「私が最も愛するのは『白氏文集』70巻である」と述べている。

日本の「平安女流文学の双璧」と称される紫式部と清少納言には共通点があった。二人とも白居易の詩文をこよなく愛した。紫式部の「源氏物語」には、中国文学の典籍からの引用が約200カ所あり、そのうちの半分が白居易の詩文である。

「学問の神様」菅原道真は、白居易が詠んだ「春深二十首」を模して「寒早十首」を詠んでいる。白居易は「何処春深好、春深富貴家。(何れの処か春深くして好[ことんな]き、春は深し富貴の家)」と詠み、菅原道真は「何人寒気早、寒早走環人(何れの人にか寒気早き、寒は早し走り環る人)」と詠んでいる。日本の学者によれば、菅原道真の「菅家文草」には、白居易の詩文が500余首引用されているという。

日本文学界の「泰斗」であり、日本初のノーベル文学賞受賞者である川端康成は、受賞記念講演「美しい日本の私」で、「雪月花の時、最も君を思う」という言葉を使っている。これは白居易の詩「殷協律に寄す」からの引用である。

白居易は、唐詩の歴史に輝かしい足跡を残し、日本の平安時代の文人たちに崇拝され、近代の日本人からは「日本文化の恩人」、「日本人が尊敬する文学者」、「世界的文化の名士」、「歴史的詩壇の巨星」として称えられている。

現在、中国洛陽の龍門白園には、日本人が碑文を書いた石碑がいくつもある。

1988年7月、日本中国文化顕彰会が建立した記念碑には中国語と日本語で次のような碑文が記してある。「不朽の詩人にして後世文学の恩人 白居易先生の日本文化並びに日本人に対する多大な貢献に心から感謝の念を捧げます」。

1995年3月には、日本の著名な文化人、沼田守助、山田浩史、松井宏雄、鬼頭有一が、洛陽の龍門白園に白居易を記念する碑を建てている。碑には「桜献」と題する詩が刻まれている。「琵琶の音は絶えず、山の頂上と深い谷間に月が昇り、桜の花が雲のように美しく咲き誇り、一杯の酒を満たしている」。脇書きには「桜の樹が白居易の旧居・履道里邸の歩道に300本、琵琶の山の北側に10本植樹された」と記されている。

碑文「桜献」では、白居易の旧居である履道里邸について書かれている。履道里邸は住居と庭園から成り、白居易は20年近くここに住んだとされている。彼はよく友人の劉禹錫と詩を吟じ、蔵書を収める「池北書庫」をつくった。白居易は「池北書庫」を次のように詠んでいる。

「十畝の宅、五畝の園、水一池有り、竹千竿有り。土の狭きを謂う勿かれ、地の偏なるを謂う勿かれ、以て膝を容るるに足り、以て肩を息ますに足る。堂有り亭有り、橋有り船有り、書有り酒有り、歌有り絃有り。叟の中に有るなり、白髭飄然たり、分を識り足るを知り、外に求むるなし。鳥の如く木を擇びて、姑く巣を安んじるに務む、鼃の如く坎に居りて、海の寛きを知らず。霊鶴怪石、紫菱白蓮、皆な吾れの好む所、悉く我が前に在り。時に一杯を引き、或いは一篇を吟ず。妻孥熙熙たり。鶏犬閑閑たり。優なるかな、游なるかな、吾れ将に其の閒に老いを終えん」。

白居易は「府西池北新葺水齋即事招賓偶題十六韵」の末尾にこう詠んでいる。「読み終わった本はまだ広げられたままで、終わった将棋はまだ片付けられていない。午後のお茶は眠気を覚まし、酒は憂いを消す。夕刻の雨は上がり、窓から吹き込む風は涼しい。誰かに伴われて、時々ここに遊びに来ることはできないだろうか」。

白居易の「池北書庫」を羨ましく思わない者がいるだろうか。書物を愛する者は、このような書庫があれば、それ以上求めるものはない。

洛陽は白居易の人生にとって通りすがりの土地ではなく、終の住処であった。「通りすがりの者」ではなく「帰郷者」であった。白居易が心から帰りたいと願った洛陽は、古来より何かの魔力を持っているかのように、文人墨客がこぞってこの地を愛した。嬉しいことに、隣国の日本も白居易を通じて洛陽やその深い文化を理解し、感じ取ろうとしている。