Speculative Zones
3つの読みどころ

1)歳を重ねるごとに自分が変わっているのか、一貫した性格なのかは人によって認識が違うし、事実とも違うことがある。
2)ひとたび自分の性格について定義をすると、人はそれを再帰反復するような環境を選ぶ場合がある。
3)人は自分が変わったのかどうかを、現実を単純化した物語によって語り、そして自分で理解する。

わたしは4歳だった頃の記憶がほとんどない。自ら4歳の子をもつ親になったいま、この事実に当惑している。息子とはうまくやっている。最近は好きな場所(喫茶店、バスルーム)をレゴで一緒に組み立てたし、「フリッパールー」と呼ばれるバク宙(わたしが息子の手を握って支えた状態で、息子がわたしの肩を超えて後方に宙返りする技)も完璧になるまで練習した。だが、そうした楽しい出来事を、息子は将来どれほど覚えているのだろうか?わたしの場合、4歳の頃の記憶として思い出せるのは、意地悪だったベビーシッターの赤く塗られた爪、両親が住んでいたアパートメントにあったつや消しシルバーのステレオ、廊下に敷かれていた独特なオレンジ色のカーペット、日の光を浴びる観葉植物、そして(おそらくこれは写真として見たものが記憶に紛れ込んだのだろう)父の面影だ。

どの記憶もバラバラでつながりがなく、生活に結びつかないし、心の内も照らし出さない。自分の気持ち、考え、あるいは性格についても、まったく記憶がない。わたしは明るくて、夕食のときも長話をするようなおしゃべりな子だったと言われているが、自分では思い出せない。わたしの息子も陽気で、おしゃべりで、一緒にいるととても楽しいのだが、彼も将来、いまの自分のことを思い出せないのかと思うと、わたしは自分のことのように悲しくなってしまう。

子どもの頃の自分をはっきりと思い出せれば、人生の進路や個性をもっと深く理解できるかもしれない。人は、4歳のときも、24歳、44歳、あるいは74歳のときも同じ人物なのだろうか? それとも、時間とともにどんどん変わっていくのか? 子どもの頃にすべてが決まるのか、それとも人生には思いがけない曲がり角が存在するのだろうか?

連続タイプと分断タイプ

多くの人は、歳を重ねるごとに自分が大きく変化したと感じる。そんな人たちにとっては、過去はまるで見知らぬ国のようで、奇妙な風習や価値観や好みで彩られている(あのボーイフレンドたち! あんな音楽! こんな服装!)。その一方で、いまの自分と過去の若かった頃の自分がまっすぐつながっていると感じる人もいて、そんな人たちにとっては、過去はまさに故郷だ。

わたしの義理の母は幼少時代を過ごした実家からさほど遠くない同じ町内に住んでいて、自分はいまも昔のままだと言い、6歳の誕生日にプレゼントとしてポニーをもらう約束をしたのに実際にはもらえなかったと、いまもぼやいている。義母の兄の見方はまったく逆だ。彼の人生はいくつかの時代に分断されていて、それぞれの時代で人生に対する態度も、環境も、友人も異なっていたそうだ。「たくさんの扉をくぐり抜けてきた」と言う。

わたしも彼と同じように感じている。それなのに、周りの人々のほとんどが、わたしはいまも昔もずっと同じ人物だと言うのだ。

何年か前の、何の変哲もない秋の日のことを思い出してみよう。当時、あなたは特定のテーマ(ガールフレンド? デペッシュ・モード?)に関心があったはずだし、ほかのテーマ(政治参加? 子ども?)には無関心だったに違いない。大学、戦争、結婚、アルコール依存症治療などといった重要なイベントはまだ起きていなかった頃のことだ。いま思い出した自分を、あなたは自分自身と思えるだろうか、それとも他人のように感じるだろうか? 昨日のことのように思い出せる? 架空の人物について書かれた小説のよう?

昨日のことのように感じられるのなら、あなたは連続タイプだ。そうでないなら、おそらく分断タイプだろう。どちらかのタイプを希望することはできるだろうが、実際に自分の感覚を変えるのはほぼ不可能に違いない。

詩人ウィリアム・ワーズワースは「The Rainbow」という作品の中で、「子どもは大人の父である」と綴っていて、このフレーズは真理を表す言葉として頻繁に引用されている。しかし、ワーズワースは願望を言葉にしたに過ぎない。「わたしは日々が当然のこととして互いに結びつくのを願う」。この言葉が示すのは、もし子ども時代と大人になったいまが虹の両端のようにつながっているならどれほどすばらしいだろう、という願いであり、このつながりは、いま立っている場所から見える幻想に過ぎないと解釈できる。

高校の同窓会に行く理由のひとつは、過去の自分の感情を追体験することにある。昔の友情を再開し、昔の内輪話で盛り上がり、昔のいざこざを再燃させる。しかし、同窓会がお開きになると時間旅行は終わる。そして、あなたが変わってしまったという事実が浮き彫りになる。

一方、過去を切り離したいと願う人もいる。かつての自分が重荷になっていたり、いまの自分に囚われたりしている人は、人生がいくつかのパートに分かれていたら、と願う。自伝的大作小説『わが闘争』の著者カール・オーヴェ・クナウスゴール──若かった頃よりもよりよい自分になりたいと願う中年男性──に至っては、生涯を通じてひとつの名前を使い続けることに意味があるのかと、疑問を投げかける。赤ん坊だった頃の自分の写真を見つめながら彼は、「手足を拡げ、顔を歪めて泣いている」この小さな子が、40歳で父親で作家であるいまの自分と、あるいは「おそらく老人ホームでよろよろと震えて座っているであろう40年後の白髪で背中の曲がった老人」と本当に関係があるのだろうかと自問する。そして、その都度名前を変えたほうがいいかもしれない、と提案する。

「例えば、胎児の頃はイエンス・オーヴェで幼少期はニルス・オーヴェ……10歳から12歳まではゲイル・オーヴェにして、12歳から17歳まではクルト・オーヴェ……23歳から32歳はトール・オーヴェで、32歳から46歳まではカール・オーヴェなど」。この場合、「ファーストネームは年代の区切りを示し、ミドルネームが継続性を表し、ラストネームが家族とのつながりを示す」

わたしの息子にはピーターという名がある。この子がいつか、新しい名前をつけるのが当然と思えるほど変わってしまうと考えると、わたしは落ち着かない気持ちになる。しかし、息子は日々学び、成長している。彼がいまとは別人にならない理由があるだろうか? わたしは息子に対して矛盾する願望を抱いている。成長し続けてほしいし、いまのままでいてほしい。

彼自身はどう思っているのだろう? それは誰にもわからない。哲学者のゲーレン・ストローソンは、一部の人はほかの人よりも単純に「断片的」なのだと考える。彼らはその日その日を生きていて、人生を長い物語とは捉えない。「わたしはどちらかと言うと断片的なほうだ」と「The Sense of the Self(自己の感覚)」と題したエッセイで綴っている。「わたしは人生をかたちのある物語とは感じていないし、自らの過去にはほとんど興味がない」

ピーターはおそらく、断片的な人物としていまを生きながら成長して、自分の人生が全体としてひとつなのか、それともたくさんのパーツの寄せ集めなのか、などといった疑問には関心をもたないだろう。たとえそうだとしても、人間の生涯に紛れ込んでくる「突然の変化というパラドックス」から逃れることはできない。わたしたちは、自分の過去の汚点を思い出しながら、「わたしは変わった!」と言う(だが、本当に変わった?)。はるか昔に起こった出来事に思い悩んでいる友人にうんざりしては、「そんなの別の時代の話だ──いまの君はまったく違う人だよ」と語りかける(でも、本当にそう?)。

身近に暮らしている友人、配偶者、両親、子どもなどに対して、彼/彼女らは本当に自分がかつて知っていた人物なのだろうか、それともわたしたちが(あるいは彼/彼女ら自身が)気づけなかったさまざまな変化を経験してきたのだろうかと不思議に思うこともある。日々、よりよい自分になろうと努力しているのに、どこへ向かっても、前と変わらぬ自分がいる(努力に意味はないのか?)。そうかと思えば、過去の自分を思い出しては、これが本当に自分なのか、前世の記憶ではないのか、などと思ったりもする。人生は長く、見通しがきかない。「わたしはこれまでずっといまのわたしだったのだろうか」と問うことで、何が学べるだろうか?

4,000人の被験者たちの数十年後

人生の連続性に関する問いについては、すでにデータが集められていて、ある程度科学的に説明できる。1970年代、ニュージーランドのオタゴ大学にいたフィル・シルヴァという心理学者が、ダニーデン市内もしくは近郊から集めた1,037人の子どもたちを対象に長期研究をスタートさせた。被験者は全員、3歳、5歳、7歳、9歳、11歳、13歳、15歳、18歳、21歳、26歳、32歳、38歳、そして45歳のときに調査を受け、研究者はその家族や友人もインタビューした。

このダニーデン調査に関わった4人の心理学──ジェイ・ベルスキー、アヴシャロム・カスピ、テリー・E・モフィット、リッチー・ポールトン──が、これまでの成果をまとめて、2020年に『The Origins of You: How Childhood Shapes Later Life(あなたの起源:子ども時代が後の人生をかたちづくる)』[未邦訳]を発表した。同書は米国と英国で行なわれたいくつかの関連研究の結果を踏まえながら、およそ4,000人の被験者たちが数十年を経てどのように変化したかを描写した。

かつてジョン・スチュアート・ミルは、若者は「生物に備わる内なる力に従ってあらゆる面で成長および発展しなければならない樹木」のような存在だと書いた。この言葉は、人は全体的に拡がり伸びていくが、土と気候の影響を受け、時には賢明な刈り込みを通じて援助される必要もある、というイメージを彷彿とさせる。一方、『The Origins of You』の執筆陣はよりごちゃごちゃとしたたとえを用いた。

彼らは、人は暴風圏のようなものだと言う。どの嵐もそれぞれ独自の特徴や動きがある。その一方で、嵐が今後どうなるかは、大気や地形など、さまざまな要素によって左右される。ハーヴィー、アリソン、アイク、カトリーナなどといった個の運命には、「ほかの場所の気圧」や「上陸する前に海上で吸い上げた湿気の量」なども関係してくるということだ。

2014年、ドナルド・トランプは伝記作家に対して、60代になっても自分は小学1年生のときと同じままだ、と語っている。それに対して研究者らは、トランプに関して言えば、この主張は決して信じられない話ではない、と書いた。しかし嵐は、環境やほかの嵐の影響を受けてかたちづくられる。嵐は絶対であり、決して個性を変えることがない、などと信じるのは自己中心的な天候の神様ぐらいだろう。

ILLUSTRATION: MALTE MUELLER/GETTY IMAGES

人間の天候を理解しようとする試み、例えば、子どもの頃に虐待を受けた人は大人になってからもその虐待の影響を色濃く残していると証明する試みは、まず間違いなく失敗に終わる。その理由のひとつとして、人の発展に関する研究の多くが「後ろ向き」であることが挙げられる。要するに、研究者は人々のいまの状態を理解してから過去を観察し、その人がなぜいまのようになったのかを理解しようとする。しかし、そのような方法には問題点も多い。

例えば、記憶の誤り。人は、数十年前の生活については基本的な事実でさえうまく思い出せないことが多い(例えば、両親の多くはわが子が注意欠如・多動性障害の診断を受けたことがあるかどうかを正確に思い出せないし、自分の両親がやさしかったか、意地悪だったかさえ思い出せないことも多い)。また、被験者の偏りという問題もある。例えば、不安症に苦しむ成人を集めて後ろ向き調査(回顧的研究)を行なえば、被験者の多くで両親が離婚していたことが明らかになるかもしれない。では、両親が離婚したにもかかわらず不安症を発症しなかった人々はどうなるのだろうか? そうした人々も数は多いのに、研究には参加しない。つまり、後ろ向き調査で個別要素の影響力を正確に知るのは難しいのだ。

このダニーデン調査に価値があるのは、それが長期間にわたって行なわれただけでなく、「前向き」だからだ。1,000人の無作為に選んだ子どもたちをスタートとして、のちに生じた変化のみを記録した。

自分をさらに自分らしくする選択

前向き調査の出発点として、ダニーデンの研究チームは被験者となる3歳児を分類した。全員とそれぞれ90分ずつ面会して、落ち着きのなさ、衝動性、意志、注意力、親しみやすさ、コミュニケーションなどの22項目で個性を診断したのである。そして、その結果を用いて子どもたちを5つのタイプに分類した。

子どもたちの40%は「バランスタイプ」とみなされた。性格特性が標準的にまとまっている、ということだ。25%は「自信満々タイプ」だった。ほかのタイプの子どもたちよりも、見知らぬ人や新たな状況にうまく対処できる。15%は「引っ込み思案タイプ」、つまり人見知りだ。10人に1人は「抑制タイプ」、残りの10%は「制御不足タイプ」と分類された。「抑制タイプ」の子どもたちは極度の恥ずかしがり屋で、何をするにも始めるまで時間がかかった。「制御不足タイプ」の子どもたちは衝動的で気難しかった。わずかな時間をともに過ごしただけの見知らぬ大人が行なったこの分類が、半世紀にわたる研究の基礎をなした。

被験者が18歳になった頃、特定のパターンが現れ始めた。「自信満々タイプ」「引っ込み思案タイプ」「バランスタイプ」の子どもたちは、タイプを大きく変えることはなかったものの、タイプ間の差は曖昧になりつつあった。その一方で、「抑制タイプ」と「制御不足タイプ」は、その傾向をますます強めていった。

18歳の段階で、かつて「抑制タイプ」と分類された子どもたちはいまだ殻に閉じこもったままで、「ほかの子どもたちに比べて意志や決断力が著しく劣っていた」。一方、「制御不足タイプ」の子どもたちは「自分たちのことを危険を顧みず衝動的だと自負」していて、「青年期の人々のなかで、有害で刺激的で危険な状況を避けようとする可能性が最も低かった、つまり、思慮深く慎重に、細心の注意を払って、あるいは計画を立てたうえで行動をすることが少なかった」。このグループの若者たちはほかの誰より頻繁に怒りを覚え、自分たちのことを「虐待の犠牲になっている」とみなしていた。

この時点で、研究チームは当初の分類を整理することにした。発展に明らかな傾向が見られなかった多数派の3グループはひとつのグループにまとめる。そして、際立っていたふたつの少数派グループに観察の重点を置いた。ひとつは「世界に背を向ける」グループで、そうすることが役に立つとも考えられるが、いずれにせよ、控えめで慎重な生き方を受け入れていた。もうひとつのグループは、数こそ同じぐらいだったが、性質はまったく逆で、「世界に逆らって生きる」道を進んでいた。それからの数年で、研究チームは「制御不足タイプ」の人々はほかの人より解雇される率も、ギャンブルに溺れる可能性も高いことを発見した。その性質は変わらなかった。

なぜ変わらないのか。その理由はこの性格が有する社会的な力にあると、執筆陣は指摘する。その気質は「機械のようなもので、それがまた別の機械を設計し、それが人格発展にも影響する」。ここで言うふたつ目の機械とは、個人の社会環境のことだ。世界に逆らって生きる者は他人を押しのける。他人が抵抗した場合、たとえそれが善意からであっても反撃とみなす。社会からネガティブな反応が返ってくるため、敵対的な姿勢をさらに強める。

同時に、心理学者が「ニッチピッキング(適性選択)」と呼ぶ行動も行なう。自分の気質を強化する社会的状況を自ら進んで選ぶのだ。「バランスタイプ」が5年生になると、「中学校へ進むのが楽しみ」と思うだろうし、実際に中学生になったら、クラブ活動などを始めるかもしれない。世界に背を向けた友人たちは、弁当をひとりで食べようとするだろう。一方、世界に逆らって進む人たち(男性のほうが多い)は、危険な状況に身を置くほうが、心が落ち着くのだ。

そのような自己発展を通じて、わたしたちは自分をさらに自分らしくする生活状況をえり好みする、と執筆陣は指摘する。しかし、そのような循環を断ち切る方法が存在する。コースを変更するきっかけのひとつとして、親密な人間関係を挙げることができる。ダニーデン研究は、世界に逆らって進む傾向のある人が適切な人物と結婚した場合、あるいは適切な人物を指導者として得た場合、進路がポジティブな方向へ変わる可能性が高まると示唆している。協力しながら世界を創造していけるようになる。言い換えれば、物語の大部分をすでに書き終えていたとしても、書き直しはいつだってできるのだ。

一見するとささいで無意味なもの

ダニーデン研究は、子どもの頃の違いが時間とともにどう重要性を増していくのかを教えてくれている。しかし、この種の研究は、わたしたち自身の深く個人的な連続性や変化について、どの程度まで明らかにできるのだろうか? その答えは、自分が何者かを問うとき、その「自分」が何を意味しているかによって異なる。結局のところ、気質だけが人のすべてではない。わたしたちの誰もが、いくつものカテゴリーに当てはまるし、そうしたカテゴリーで人のアイデンティティのすべてを包括できるわけではない。

まず、自分が誰であるかは、どんな気質の人物であるかではなく、むしろ何をやっているかで決まるという重要な側面がある。一例として、同じ寝室で育ち、性格も似ている兄弟を想像してみよう。どちらも知的で、タフで、威圧的で、野心家だ。ひとりは上院議員となり、大学の学長も務めた。もうひとりはギャング団のボスになった。性格が共通しているからといって、このふたりを似たもの同士と呼べるだろうか?

ウィリアム・バルジャーと「ホワイティ」ことジェームズ・バルジャー──マサチューセッツ州上院と裏社会で名を轟かせたボストン兄弟──の生涯を観察した人たちは、この兄弟の間には相違点よりも共通点のほうが多かったと指摘する(ある伝記作家は「ふたりとも、それぞれの生きる社会でとてもタフだった」と書いている)。しかし、そのような見解には注意をしたほうがいい。なぜなら、そこではこの兄弟の生涯に存在していた大きな相違点の数々を度外視することが求められるからだ。天国の門前では、誰もこのふたりを等価とはみなさないだろう。

バルジャー兄弟は極端な例だ。彼らほどはっきりと善もしくは悪に染まる者はそうそういない。しかし、わたしたちの誰もが、意外な、そして重要な意味をもつ行動をとることがある。1964年、映画監督のマイケル・アプテッドがドキュメンタリーシリーズの第1作『Seven Up!』の制作をスタートさせた。12人ほどの英国人のグループを7歳のときから7年ごとに訪問するという企画で、最新作は2019年に『63 Up』として公開された。アプテッドはこのプロジェクトを「すべてをもっている子どもたちと何ももっていない子どもたち」に関する社会経済的調査と位置づけた。

しかし、シリーズが続くにつれて、「富」と「貧」というわかりやすい区別に混乱が生じ始めた。参加者のひとりは在家の聖職者になり、政界に進出した。別のひとりはブルガリアへ渡り、孤児の支援をするようになった。アマチュア演劇団員になった者もいれば、核融合の研究に従事する人、あるいはロックバンドを始めた人もいた。ひとりは自らドキュメンタリー作家になり、プロジェクトを降りた。現実の生活は、そのどれもが抑えがたいほど特別で、映画監督の考えた明快な二分法を打ち砕いた。

一見したところ無意味な、あるいはほんのささいな出来事でさえ、わたしたちの人となりに影響することがある。この夏の終わり、親戚の集まるパーティーがあって、わたしは父と叔父と連れだって参加した。庭のテーブルを囲んでおしゃべりをしていたとき、1966年に始まったSF番組『スタートレック』の話題になった。父も叔父も、同番組のさまざまなバージョンを子どもの頃から観ていて、特に父は大ファンだ。周りではにぎやかにパーティーが開かれているというのに、わたしたち3人はオリジナルバージョンの番組冒頭のモノローグを記憶から掘り起こして唱えていた。

「宇宙、そこは最後のフロンティア。これは宇宙戦艦エンタープライズ号が……」──そして満足して拍手していた。『スタートレック』は父の人生を1本の線として貫いていた。人はそのような嗜好や情熱を軽視することが多いが、それらは人格形成においてとても大きな意味をもつ。ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』の主人公レオポルド・ブルームはダブリンの墓地をさまようが、墓石に刻まれたありきたりな碑文に退屈し、碑文はもっと具体的であるべきだと考える。「どこの誰それ、車大工」などとブルームは夢想し、鍋が刻まれた墓石の前では「得意料理はアイリッシュシチュー」

自分自身を描写するように求められると、わたしたちは一般的な言葉を使うことが多い。生活の詳細を語るのを恥ずかしく思うからだ。だが、弔辞を述べる友人は、わたしたちがギターを弾いたこと、古い電話を集めていたこと、アガサ・クリスティーが好きでメッツを応援していたことを語るだろう。そうした細部が集まって、指紋のようになる。そして、生涯を通じて同じ指紋をもち続ける人もいれば、複数の指紋をもつ人もいる。

ふたりのティム

人の連続性や変化について考えるうえで、生活の実情に焦点を当てることは、直感に反するかもしれない。自分の人生を「物語として」みなすことはほとんどないと語った哲学者のゲーレン・ストローソンは、自由意志と道徳的責任の考え方に反対する声を上げたことでよく知られている。ストローソンは、人間は自由意志をもたず、究極のところ自分の行為に対して責任を負わないという立場をとる。ちなみに、彼の父親で、こちらも哲学者であるピーター・ストローソンは、とりわけ自由意志と道徳的責任という両概念の擁護者として有名だった。

ゲーレン・ストローソンは、一人称視点から見た場合、自分の人生は「断片的」に感じられると断言する。だが、架空の伝記作家がいるとして、その第三者としての視点から見た場合は、生涯を1本の長い弧が貫いていて、その途中に自分がいるのだろう。内から見れば断片的で、外から見れば連続的だ。あるいはその逆も考えられる。この二面性は、おそらく避けられないことなのだろう。どの人生も、ふたつの視点から眺められるに違いない。

わたしの知り合いにティムがふたりいる。名前は同じだが、それぞれの連続性に関する考えは真逆だ。ひとり目のティムはわたしの義理の父で、自分は2歳のときから72歳のいままでずっと、陽気で競争好きな性格だったと主張する。それに、興味の対象──第二次世界大戦、アイルランド、ワイルドウェスト、ニューヨーク・ヤンキース──もずっと同じだった。わたしの知る限り、最もブレの少ない人物のひとりだ。

高校時代からの友人であるもうひとりのティムは、人生をとても分断的に捉えていて、ある意味、それは当然と言える。初めて出会ったとき、ティムはとてもやせていて、体重不足を理由に献血を断られたほどだった。周りの大きな子どもたちに威嚇されたりいじめられたりした彼は、自分も両親と同じように成長が遅いだけだと考えることで自分を慰めていた。ただし、彼の友人たちはその考えをただの言い訳とみなしていた。ところが高校を卒業したティムは突然ぐんぐんと背が伸び、アクション映画のヒーローのような体を手に入れる。大学で物理学と哲学を学び、神経科学研究所で働き、さらには海兵隊の将校になってイラクへ向かい、金融業界に入り、コンピューターサイエンスを学ぶために同業界を去った。

「個人的に知るほかの誰よりも、ぼくは頻繁に変わった」とティムは言う。そして、彼の母親と交わしたある会話の様子を鮮明に語ってくれた。そのとき、ふたりは自動車整備工場の前に止めたクルマに乗っていたそうだ。「ぼくは13歳で、人の変化について話していた。精神科医の母は、だいたいの人は30代になるとほとんど変わらなくなると言った。みんな、現状の自分を受け入れて、そのままのかたちで生きていこうとする、と。でも、これはたぶんぼく自身がその頃の生活に満足できず、いらだっていたからだと思うけど、ぼくはその考えを不快に思ったんだ。だから、変わり続けてやる、と自分に誓った。それ以来、変わるのをやめなかった」

このふたりのティムには全体像が見えているのだろうか? 72歳の義理の父に関しては、わたし自身は彼のことを20年前からしか知らないが、それでもかなり変わったと言える。我慢強くなったし、思いやりも強くなった。わたしと出会う前の人生にも、間違いなくいくつかのチャプターがあったはずだ。一方の旧友のティムには、これまで一貫して変わらなかった点がある。わたしの知る限り、彼はずっと人とは違う存在になることに固執してきた。永遠に変わり続けるのは、それ自体がある種の一貫性なのだ。つまり、彼が本当の意味でまったく違う人物に変わるには、変化をやめる必要がある。

自分と人生の時間を結びつける方法

ゲーレン・ストローソンは人が自分と人生の時間を結びつける方法は無数にあると指摘する。「物語の中で生きる人もいる」一方で、ほかの人たちは「自分の人生を一連の物語あるいは発展とみなすことはない」。しかしこれは、ある人物が「連続タイプ」か「分断タイプ」かという二分法ではない。「精神の鍛錬」の一環として分断的に生きる人もいれば、人生を「目的もなくただ」分断する人もいる。「過去は過去、いまはいま」とする考え方は「経済的な困窮──機会の完全な欠如──あるいは莫大な富に対する反応」でもありえる、としたうえでストローソンは次のように続ける。

夢想家、漂流者、野のユリ、神秘主義者、いまこの瞬間に全力で生きる人……創造力はあるのに、野心や長期的な目標がないため、小さな何かから次の何かへと動いたり、無計画に、偶然または成り行きから、壮大な何かをつくったりする人もいる。自ら気づいているかどうかは別にして、性格がとても一貫していて、自身の連続性を裏付けるかのように安定している人もいれば、一貫して一貫せず、自分のことを絶えず理解できず、断片的だと感じる人もいる。

現実はつかみどころがない。そのため、自分が変わったかどうかについて、わたしたちが語る物語は現実よりも単純なものにならざるをえない。しかし、だからといって、そうした物語には中身がないというわけではない。わたしの友人ティムが永遠に変わり続けると誓ったという話は、そのような物語にどれほどの価値があるかを示している。あなた自身が不変を感じるか、あるいは区分を認識するかは、ほぼ哲学的な疑問だと言える。変化できるということは、予測不能で自由であることを意味する。人生の主人公になるだけでなく、物語の作者になることでもある。場合によっては、弱さ、決断、変容を受け入れざるをえない。また、個性の裏面をなす有限性を拒絶しなければならない場面もあるだろう。

もうひとつの「いつも同じ自分」という見方にも価値がある。詩人ジェームズ・フェントンはその価値の一部を「理想」と題した詩に込めた。

自己は自己だ。
画面ではない。
尊重すべきは
人がそれまでどう生きてきたか。

これはわたしの過去であり
決して捨ててはならない。
これは理想だ。
これは動じない。

この見方では、人生は充実していて移ろいやすく、人は自分を変えることが強いられるかもしれない冒険の旅に出る。しかし、最重視されるのはその冒険をどう生きてきたかだ。どれほど変化したとしても、同じ自分があらゆることを受け入れ、あらゆることをやってきた。この見方には、独立宣言という意味も含まれる。過去の自分や環境からではなく、環境の影響力や人生に意味を与えるために行なう選択からの独立だ。

分断タイプは、自分で自宅を改築して、それがきっかけになって建築家になったと語る。連続タイプは、たとえどんなものが建っても、それは立派な邸宅でずっと存続するだろうと話す。両者の見解はまったく違うように聞こえるが、共通点も多い。そのひとつは、どちらも個人の発展に役立つという点だ。変化を自らに課したことで、友人のティムはどんどん変わっていった。性格の一貫性を重視したことで、義父のティムは円熟し、自己を磨けた。

長い時間を生きていると、誰もがある種の物語を語らざるをえなくなる。人生にはどうしても変わらなければならない側面があり、誰もがそれに対処せざるをえないからだ。若い肉体は古いそれとは違っている。したがって、可能性は若い頃のほうが多く、歳を重ねるごとに減っていく。17歳だったきみは、ピアノの練習を毎日1時間欠かさず行ない、誰かに初めて恋をした。そのきみが、いまではクレジットカードの返済をしながら、Amazonプライムでビデオを観ている。そんな人に、きみはいまも数十年前もまったく変わらないと言うのは、ばかばかしく聞こえるだろう。

その一方で、人生を小ぎれいにいくつかのチャプターに分けるのも不自然な行為だ。それでも、カオスに秩序をもたらすことには意味がある。自分を慰めるためでもあるが、それだけではない。未来が迫り来るなか、わたしたちは過去に基づいて行動の決断を下すしかない。物語を書き続けるには、それまでのストーリーがなければならない。

書き直しという作業を延々と続ける

自分の変わりやすさについて、ひとつの説明に固執していると、そのうち限界が来るだろう。これまで語ってきた物語ではカバーできる範囲が狭すぎて、ニーズが満たせなくなる。哲学者のキーラン・セティヤは著書『Life Is Hard(人生の厳しさ)』[未邦訳]で、孤独、失敗、病気、悲嘆などといった試練は本質的に避けられないものだとしたうえで、それなのにわたしたちは、「人生の最善の部分に目を向けることを説く」広く救済的な伝統にのっとった教育を受けてきたと指摘する。

「人はずっと同じ自分を貫く」と主張することの利点のひとつは、そうすることで、人生を一変させた破壊的な出来事を覆い隠せる点にある。しかし同書が示すように、つらい経験を認め、そのおかげでどれほど強く、やさしく、賢くなれたかを問うことには意義がある。ざっくり言ってしまえば、もしこれまで連続性の問題についてひとつの答えを出していたのだとしたら、一度、逆の観点から答えてみようということだ。変化という観点から、自分が想像していたよりも連続的ではないか、あるいはその逆か、確認してみよう。視点を変えることで、新しい何かが見えるかもしれない。

自分で自分について語る行為には、再帰的な性質がある。自分が語る物語の自分に自分をシンクロさせるために、自分で自分について語ると、必然的に自分が変化するたびにストーリーを修正する必要が出てくる。書き直しという作業を延々と続けるからこそ、生活に連続性があると感じられるのかもしれない。先に紹介した『Up』シリーズの参加者のひとりはアプテッドに対して「わたしは自分を理解するのに60年かかりました」と語っている。

難解なことで知られるドイツの哲学者マルティン・ハイデッガーは、自分が何で、誰であるかという問いについて「立場をとる」能力が、人間を際立たせていると主張した。実際、存在とは何を意味するのか、それが何をもたらすのかという終わりのない疑問について人は考え続けるしかない、と。木が生長するのと同じで、この問いかけと答えの探究を続けることが人間性にとって根本的なことなのだ。

最近、息子が自分の変化を意識し始めた。大好きだったTシャツのサイズが合わないことに気づいたのだ。それに、これまで使ってきた幼児用ベッドでは、斜めにならないとうまく眠れないとも言ってきた。またある日には、家の中で本物のハサミを持っているところを見つかった。「ぼくはもう大きいから使えるよ」と言う。海岸で散歩をしていてお気に入りの場所を通ったときには「ここでトラックで遊んだのを覚えてる? 楽しかったなあ」と話した。

現在まで、息子には実質ふたつの名前があった。生まれたばかりの頃は、わたしたちは彼を「リトルガイ」と呼んでいたが、いまでは「ミスター・マン」と呼んでいる。自分の成長に対する気づきは、成長におけるひとつのステップであり、息子は次第に「木と蔓」というふたつの側面を見せるようになった。木は生長する。その一方で、蔓は支えとなる何かに絡みついてかたちを変える。このプロセスが息子の生涯を貫いて続くのだろう。わたしたちは生きている限り変化し、変化に対する考え方を変え続ける。

THE NEW YORKER/Translation By Kei Hasegawa, LIBER/Edit by Michiaki Matsushima)