伝説や伝承、本格的なファンタジーを呼びおこすお城は、現代の旅行者を惹きつけるある種の魔法のようなもの。 そびえ立つ建造物や王宮の豊かな庭園は、子どもの頃ベッドタイムに読んだおとぎ話の世界へと再訪させてくれます。
世界中の宮殿や城は、豊かな歴史を伝えるうえで魅力的な役割を果たし、 伝説的なホールや空高くそびえる塔は、支配者の勝利(そして悲劇)を表しています。さらに、華やかで時を超越したデザインを通して、深く詳細な建築についての教えや教訓を学べます。
大火事の後に再建されたデンマークの宮殿から、自然の美しさを反映した日本の要塞まで、これらの魅惑的なお城には、たくさんの物語が詰まっています。今回は、世界で最もうっとりする17のお城を見てみることで、きっと、物語の「めでたしめでたし」を心から信じられることでしょう…♡
スロバキア ボイニツェのボイニツェ城
ゾボア寺院で見つかった記録によると、このロマネスク様式の城は、早くも1113年に木造の砦として建てられたのだとか。木造から石造へ徐々に置き換えられ、12世紀までに城はゴシックとルネッサンスの要素を含むように。
ハンガリーとクロアチアのマーチャーシュ1世はこのお城の最初の所有者ではなくとも、このお城の将来に最初に投資した人物の1人であったとされています。彼はこの小さな町にやって来ては勅命を起草し、彼の名前が付けられたリンデンの木の下でそれらを口述したのだとか。
城主が次々と外観の改修や部屋の追加を続け、最終的に城がヤノス・フェレンツ・パルフィの手に渡るまで止まらなかったそう。仏のロワール渓谷にあるロマンス風の城に連れて行かれた彼は、骨董品、タペストリー、手工芸品のコレクションでいっぱいの、おとぎ話の城を再現しようとしました。ボイニツェ城は世界で最も観光客が訪れる城の1つになり、毎年何十万人もの訪問者がその神聖なホールを散策しています。
フランス シュノンソーにあるシュノンソー城
手入れの行き届いた幾何学式庭園に囲まれたシュノンソー城は、反射するシェール川に優雅に浮かんでいるように見えます。元の構造は11世紀にまで遡り、フィリベール・ド・ロルムに城の特徴であるアーチ型の橋を建設を依頼したのはアンリ2世の愛妾、ディアーヌ・ド・ポワチエでした。
1559年に王が亡くなった後、別の権力をもった女性カトリーヌ・ド・メディシスへと持ち主が変わり、今度は彼女がこのお城をお気に入りの住居としたのです。カトリーヌは、壮大なギャラリーと完璧なおもてなしスキルで、ゲストを魅了しなかった夜はなかったとか。息子のフランソワ2世の戴冠祝賀行事で、フランス史上初の花火大会がこの敷地内で開催されました。
しかし、第二次世界大戦中ドイツ軍と連合国が礼拝堂を爆撃した後、このお城は甚大な被害を受け、 1951年、ムニエ一族は建築家ベルナール・ヴォワザンに、庭園と建造物の修復を委託しました。
エジプト アレクサンドリアのカーイト・ベイの要塞
地中海にあるこの厳粛な要塞は、スルタン・アシュラフ・カーイト・ベイがオスマン帝国軍のアレクサンドリアへの侵攻を知って、1477年に建設が開始したもの。 消滅した「ファロス島の大灯台」の跡地にお城の計画をたて、以前の残骸を回収し、モスクと入り口に赤い花崗岩の柱を建てました。
オスマン帝国はエジプトを占領、1882年のイギリス軍の砲撃まで、この要塞は軍事要塞として機能していました。印象的で見事な建造物は、エジプトの古代最高評議会が元の美しき姿に再建するまで、ほぼ1世紀の間、港に放置されていたのだとか。
1952年の革命以来、このお城は海事博物館となり、エジプト海軍の勝利と敗北について詳しく紹介しています。
ドイツ シュヴァンガウのノイシュヴァンシュタイン城
バイエルン王ルートヴィヒ2世は、1868年に世間の目と政治的混乱から逃れるため、ノイシュヴァンシュタイン城の建設を命じました。普墺戦争中、プロイセンがオーストリアとバイエルンを征服後、ルートヴィヒ2世は事実上権力を剥奪されましたが、それでも自身が王国を統治したいと切望していました。
長年の友人であるドイツの作曲家リヒャルト・ワーグナーへの手紙の中で、ルートヴィヒ2世はノイシュヴァンシュタイン城に対するビジョンを次のように書いています。「高貴なスーリング、チロルの山々、そして平原のはるか向こう側の素晴らしい景色を望む、居心地の良い客室がいくつかあります。 あなたは私がそこに来てほしい尊きゲストを知ってますよね。」
ルートヴィヒ2世は完成したノイシュヴァンシュタイン城を見ることはできませんでしたが、「おとぎ話の王の城」は1886年に一般公開され、全ヨーロッパの中でも、最も人気のあるお城の1つです。
エチオピア ゴンダールのファジル・ゲビ
ファシリデス皇帝は新首都ゴンダールを設立した後、1636年に壮大な要塞都市の建設を指揮しました。これに先立って、国の領土を旅し、地元の人々が提供する食べ物を食べて生活、テントに滞在していたのだとか。ファジル・ゲビは当初から、エチオピアにおいて、変化の象徴とされてきました。
高原の上に建つ建造物群は、王室の居住区だけでなく、一連の庭園、寺院、図書館、さらにはプールで構成されていました。ファシリデスの後の各支配者は中世風の要塞を拡大し続け、古文書でよく見られる象牙の彫刻と宝石がちりばめられた天井で宮殿を埋めたのは、ファシリデスの孫、イヤス1世でした。
ファジル・ゲビは、地震と外国軍からの攻撃で、何世紀にもわたって多くの被害を受け、第二次世界大戦中のイギリスの空襲とソマリア・スーダンとの紛争による被害後、お城全体は長年廃墟のような状態に。1979年には、このお城はユネスコの世界遺産に登録され、現在の魅力的な状態にに復元されました。
フランス シャンボールのシャンボール城
壮大なフレンチ・ルネサンス建築のシャンボール城は、印象的な440もの客室、282の暖炉、84の階段、装飾的された堀を誇り、フランス君主制によって建てられた最も魅力的な建造物の1つです。
フランソワ1世は、週末の狩猟用の隠れ家として、1519年、ロワール渓谷に巨大なお城の建設を開始。イタリア人専門家によると、レオナルド・ダ・ヴィンチの驚異的な作品に魅了されたフランソワは、二重らせん階段などのお城の要素に彼の影響を受けているのだとか。
結局、フランソワは記念碑的な住居があまりにも精巧すぎることに気づいて治世中数週間しか滞在せず、むしろこのお城は、フランス君主制の権力と永遠の影響力の象徴としての役割を果たしたと言えそうです。
シャンボール城では、訪問する人たちがルネッサンスの驚異の歴史を感じられるように、何千ものライトで飾られたホリデーシーズンを含め、年間を通じて多くのイベントを開催しています。
オマーン ナハルのナハル砦
オマーンのバティナ平原の上の壮大な要塞を一目見たとき、その不規則な形に気付くかも。イスラム時代以前のナハル砦の元の構造は、ナハル山の麓にある大きな岩の周りに建てられていたため、少し不完全に見えていたのだそう。
この砦は、略奪や攻撃から近くの交易路を保護するために建設され、独自のモスク、住宅地、レセプションホールを擁するまでに拡大されました。 見落とさないで欲しいのが、兵士が侵入者に熱いデーツの果汁をかけるかのような引っ込んだ場所が奇妙にも追加されているところです。
ほとんどの日は、この砦は歴史的遺物のある博物館として運営されていますが、金曜日に訪れると、毎週の市場でフレンドリーなヤギが出迎えてくれますよ。
日本 松本市の松本城
松本城の起源は、小笠原氏が他の侵略者をかわすために砦を築城し始めた1504年にさかのぼります。 完成からわずか数年で、武田信玄が軍事要塞を占領しました。歴史の中で、このお城のデザインは真っ黒な壁と屋根を備えた背の高い3塔の構造に進化し、別名「烏(からす)城」と呼ばれることも。
1872年頃、不動産業者が新しい建物や集合住宅を建設しようとして、城は取り壊される可能性に直面、しかし、松本の住民は城を救う運動をして最終的には市政府に買い戻されました。
今日に至るまで、松本城日本の国宝に選ばれ、大名が建てた城の最後の例の1つになっています。
インド デリーの赤い城
ムガル帝国の皇帝シャー・ジャハーンは、首都をアグラから新しく建てられた都市デリーに移した後、赤い城(ラール・キラー)の基礎を築きました。 赤砂岩が建材のファサード(正面の構造)の後ろには、複雑な仕組みではめ込み細工され飾られたホールや部屋があり、伝統的なムガル様式とペルシャ、ティムール、ヒンドゥーのデザインの要素が混ざり合った建築様式に。
1857年のインド大反乱までは、赤い城はムガル帝国の象徴で、壁に収められていた多くの貴重な宝石が盗まれ、バハードゥル・シャー2世は失脚。しかし、独立インドの初代首相ジャワハルラール・ネルーが「運命との約束」の演説を行うランドマークとしたので、イギリスの支配からの独立を獲得するインドにおいて、重要な役割を果たします。
毎年インドの独立記念日に、首相はここの城壁からスピーチを行い、国家の重要事について強調しています。
デンマーク ヒレレズのフレデリクスボー城
キャッスル湖の3つの小さな島に位置する、著名なフレデリクスボー城は、デンマークとノルウェーの統治者クリスチャン4世の権力の象徴として建てられました。ルネッサンス様式のこのお城は、1859年に元の構造が火事で焼失するまで、100年以上にわたり正式な王宮でした。
なんと炎上から逃れたのは礼拝堂と謁見室だけだったので、宮殿再建の資金を集めるため、全国的に宝くじや献金が行われました。 王室が滞在しないことを決めたのち、ここフレデリクスボー城は1878年に国立歴史博物館として再開しました。
現在、世界的に有名な博物館となったこのお城は、印象的なコレクションや肖像画、歴史的な絵画、城の内部を通してデンマークの歴史を語ってくれています。
ポルトガル シントラのペーナ国立宮殿
中東とヨーロッパのバロック様式の影響を受けたペーナ国立宮殿は、ポルトガルの19世紀ロマン主義のちょっと変わったカラフルな雰囲気を表しています。 フェルナンド2世は、シントラの山頂にあるお城を、ポルトガル王室の夏の別荘として建設しました。
ファサード(正面の構造)を彩る鮮やかな色合いのコントラストにより、赤い時計塔、復元された修道院、黄色な新しい宮殿など、違う部分ということが示されています。 この宮殿は、ポルトガルで君主制が廃止された1910年の革命まで、王室が頻繁に使用していました。
何年にもわたる荒廃の後、20世紀になってやっと修復され、後にユネスコ世界遺産に登録されました。 現在では、訪問者は青々とした丘陵の景色を見ながらトレッキングし、宮殿を構成するさまざまな建築様式を探索できますよ。
イタリア アンドリアのカステル・デル・モンテ
カステル・デル・モンテとそれが建てられた目的には多くの謎が...。 皇帝フレデリク2世は、1240年に南イタリアの辺鄙な地域に城塞の建設を命じましたが、それは防衛機能のないものでした。 建てられた後、皇帝はすぐに城を放棄したので、彼の意図には疑問が残されたままなのです。
中世建築の傑作としてあがめられているこの城塞の配置は、それぞれの角に八角形の土台と塔があり、その中に8つの台形の部屋が。 幾何学的なその配置は、聖杯や人類と神の関係を参照することで、実際にはより深い象徴的な意味を持つ可能性があるのだそう。
本来の目的に関係なく、この八角形のお城は、南イタリアで最も訪れる人が多いランドマークの1つとなり、ユネスコの世界遺産に登録されています。
イギリス ウィンザーのウィンザー城
世界最古でかつ最大の住居であるウィンザー城は、900年以上にわたって英国君主の公式の王宮として機能してきました。征服王ウィリアム1世は、ロンドンへの西側からの接近を防衛するため、住居と要塞の両方の役割を果たすようにと、1070年頃ウィンザー城の建設を開始しました。
このお城は、プライベートチャペルを追加したビクトリア女王を含め、これまで住んできた無数の君主からの多くの改修をされてきました。 1992年、火災により礼拝堂と100を超える部屋が損傷や破壊され、完全に元の状態に戻ったのはその五年後のことだったそう。
ここは今も英国王室のお気に入りであり、聖ジョージ礼拝堂では数多くの結婚式が行われています。 エリザベス女王とフィリップ王配も、安らかな週末を過ごすため、この静かな宮殿をよく訪れるのだとか。
スコットランド エディンバラのエディンバラ城
キャッスル・ロックという岩山にそびえ立つエディンバラ城は、スコットランドの首都全体に権威と気高さを醸し出しています。 考古学者は鉄器時代からこのお城の敷地に人が定住してきたと考えていますが、王室とのつながりは、デイヴィッド1世が母親に敬意を表して聖マーガレット礼拝堂を建てた、12世紀に遡るのだとか。
王室は、何世紀にもわたって、宮殿を住居や軍事要塞として再認識してきました。 宮殿のドアの上には、スコットランドのメアリー女王と夫ヘンリー・スチュワート(ダーンリー卿)のイニシャル「MAH」が金色で装飾されています。
1603年の王冠連合の後、このお城は軍事拠点とされてきました。 現在、訪れた人たちは「スクーンの石(運命の石)」ように、スコットランド君主制の様々な建物や古代の遺物を見ることができますよ。
日本 姫路の姫路城
優雅な白いファサード(正面の構造)と驚異的な17世紀の日本の建築物である姫路城は、鳥の飛行に似ていることから「白鷺城(はくろじょう)」という別名が。
姫路城は、地元での攻撃に対抗する要塞として1346年に建てられた瀬戸内城にある複合体で、防衛や保護の特殊な装置を備えた83の建造物で構成されています。 しかし、姫路城は戦闘で使用されることはなく、住居用として転用されました。
1931年、日本政府はここを国宝とし、近世城郭の代表的な建築物としています。 姫路と桜がある公園のガイドツアーは、日本語と英語の両方でされ
ルーマニア ブランのブラン城
1897年出版、ブラム・ストーカーの小説「ドラキュラ」とのつながりから、悪名高きブラン城は、伝承とミステリーに包まれています。この中世の要塞は、1377年から1388年の間に、トランシルヴァニアとワラキアの間の峠の上に建てられました。
15世紀にヴラド・ツェペシュはこの地域を支配して串刺しなどの残忍な処刑方法で知られており、城のミステリアスな設定とヴラドの血に飢えた欲望が、ストーカーの悪名高い物語に影響を与えたのだそう。
トランシルヴァニアがルーマニアの一部になると、市の評議会は、2つの地域の統一に貢献した感謝の品として、この城をルーマニアの王妃マリアに寄進しました。 博物館として再開された1993年まで、王室の住居として使われていました。
ドイツ シュヴェリーンのシュヴェリーン城
シュヴェリーン城の起源は幻像的な島に要塞の最初の跡が見つかった942年まで遡ります。 フリードリヒ・フランツ2世大公が建築家ゲオルク・アドルフ・デムラーに古い建造物の改修を依頼したのは1847年で、城が最終的な形になりました。
大公はデムラーに、現代的でありながら過去の見事な建築と遺産を称えたお城を設計するように指示しました。 歴史家の宮殿は現在、ドイツで最も有名な城の1つであり、(カッラーラ大理石と金色の鉄の扉を備えた)王座の間を含む653の部屋と、先祖代々のギャラリーがあります。
訪れる人たちには、魔法のような宮殿の前に、宮殿のお庭やレストランを散策するよう推奨されていますが…気を付けて! まだお城に住んでいると噂されているシュヴェリーンのいたずら好きな幽霊、ペーターに出くわしちゃうかも。
※この翻訳は、抄訳です。
※この記事は、2020年10月30日時点の情報です。
Translation:KAORI TAKEUCHI