未明の連立政権離脱宣言、社会党の判断はどう受け止められたのか

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君島浩
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世論に見る平成の内閣68

 朝日新聞は1946年から世論調査を実施しています。過去の調査を繰り、歴代内閣を振り返るシリーズを随時配信します。

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 3月3日。ひな祭りの日にテレビ画面で村山富市元首相の笑顔を見かけました。ちょうど100歳の誕生日。トレードマークの長い眉毛は健在で、好々爺(こうこうや)ぶりも変わりませんでした。しかし、記者が初めて間近で接した村山氏の印象――それは「憤然」の2文字でした。

 今から30年前のことです。非自民連立政権の細川護熙内閣の退陣が決まり、94年4月25日、村山氏が委員長を務める社会党は、衆参本会議での首相指名投票では新生党羽田孜党首を支持しました。しかし、直後に新生党、日本新党民社党などが衆院で新しい統一会派「改新」を結成。外された社会党は連立離脱を決めました。

 地方総局に勤務していた記者は、東京に取材応援に来ており、めまぐるしく変わる状況をよくのみ込めないまま、永田町を駆け回りました。

 日付が変わった26日午前1時過ぎに、村山氏は会見。「許すことはできない」と、社会党にとっても悲願だったはずの非自民連立政権に対し、絶縁を宣言しました。

 社会党には、細川政権以来、新生党の小沢一郎代表幹事、公明党の市川雄一書記長の「一・一ライン」に煮え湯を飲まされてきた、という思いがありました。村山氏の堪忍袋の緒もついに切れた、とささやかれました。

 当時の朝日新聞の紙面では、その前の首相官邸への出入りでは、ふだんは「温厚」な村山氏が記者団に「『チッ』と舌打ち」。報道陣から「抗議したのか」と問われると、「何いってるんだ」と「怒鳴った」と描かれています。

 連立政権で最大勢力だった社会党を失った羽田内閣は発足と同時に少数与党に転落。政局は不安定化しました。

 それから10日あまりたった5月8、9日に行った世論調査(面接)で、社会党の連立離脱の是非を質問しました。

 社会党が連立政権を離れて「よかった」と答えた人は53%で、「よくなかった」は26%。「よかった」が「よくなかった」の倍となりました。

 社会党の支持層の評価はどう…

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