金持ちなら「貴族」になれるのか? 歴史から学ぶ、貴族の本当の姿

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貴族とは何か

『貴族とは何か』

著者
君塚 直隆 [著]
出版社
新潮社
ジャンル
歴史・地理/歴史総記
ISBN
9784106038945
発売日
2023/01/25
価格
1,925円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

地位や財力のみにあらず。本物の貴族に不可欠な資質とは――君塚直隆『貴族とは何か』を読む

[レビュアー] 明石健五(『週刊読書人』編集長)


贅沢な衣装に身を包み、舞踏会を楽しむ貴族たち

君塚直隆・関東学院大学教授の新刊『貴族とは何か――ノブレス・オブリージュの光と影』が刊行され注目を集めている。同書は、古代ギリシャから現代イギリスまで、貴族たちの波瀾万丈の興亡史を丁寧に辿り、「ノブレス・オブリージュ」の精神を問い直している。はたして貴族の条件とは、財産なのか、権力なのか、血統なのか?

音声プラットフォーム「Voicy」にて、チャンネル「神網(ジンネット)読書人」を開設し、パーソナリティとして面白い本をいち早くピックアップする「週刊読書人」編集長・明石健五さんの解説をテキストに編集して紹介する。

『ベルサイユのばら』とは一味違う?

本書のポイントは3つあります。

1つめは、いわゆる「貴族」に対して多くの人たちが抱いているイメージを覆す、「目からウロコ」の一冊であるということです。

「貴族」というと、皆さんはどんな人たちをイメージしますか。働きもせず、所有する土地から莫大な収入を得て、贅沢な暮らしをしている遊び人――こんなイメージではないでしょうか。

私自身は、『ベルサイユのばら』に登場するフランス貴族の印象が今でも強く、市民が日々、食うや食わずで、爪に火を点すような暮らしをしているのに、晩餐会や狩猟にうつつを抜かす人々を、つい思い浮かべてしまったりします。「パンがなければ、お菓子を食べればいいじゃない」という有名な言葉もありますが、いずれにせよ、どこか浮世離れした人たちの印象が強くあります。

ところが、本書を読むと、そのような先入観が一変します。古代ギリシャ、ローマ、中国、中世から近代までのヨーロッパ、そしてイギリス、日本……それぞれの国で、貴族という階級がいかに形成され、どのように時々の政治や社会、文化を担ってきたのかが、歴史を遡って詳細に分析されています。

古代ギリシャで理想とされた「貴族政治」

古代ギリシャにおいては、哲学者プラトンが理想の政体として思い描いていたのが、「貴族政治」だったといいます。その本来の意味は、「最善の人々による統治(優秀者支配)」でした。プラトンは著者『国家』で4つの国制、すなわち(1)名誉支配制、(2)寡頭制、(3)民主制、(4)僭主独裁制に分類し、(1)を「哲人王」による「王制」あるいは「優秀者支配制」であるとして、次のように定義しています。

「それは豊かな理知と同時に「徳」を備えた人々を「守護者」とする国制である。彼らは「けっして自分のための利益を考えることも命じることもなく、支配される側のもの、自分の仕事がはたらきかける対象であるものの利益になる事柄こそ、考察し命令する」存在となる。そのような支配者たちのなかに、一人だけ傑出した人物が現れる場合には「王制」と呼ばれ、すぐれた支配者が複数である場合には、「優秀者支配」と呼ばれる」(君塚直隆『貴族とは何か』21頁)

つまり、貴族すなわち優秀者とは、理知と徳を備えており、かつ自分の利益を優先させるのではなく、逆に支配されるものたちの利益を重視する存在だということです。「貴族」というものを考える際に、この言葉にすべてが集約されているとも言えるのではないでしょうか。

またプラトンの弟子アリストテレスも、統治にあたって最も大切だと考えていたのが、「徳」だったといいます。アリストテレスは、著書「政治学」において、次のような言葉を残しているそうです。

「王制に適しているのは、政治を主導することに関して傑出した徳を持っている一族を自然に生み出せるような集団である。貴族制に適しているのは、徳ゆえに市民的支配を主導する人々が自由人にふさわしい支配をおこなうときに、その支配を受け入れることができる大衆を自然に生み出せるような集団である」(同書24頁)

つまり、貴族というのは、単に富の力を持った人たちのことではなく、なによりも「徳」を備えていることが肝要であって、そうした人たちが私利私欲を忘れて統治するからこそ、人々もそれに従うということです。

このような考え方は、古代ギリシャだけではなく、中国でも同様でした。儒教には、「徳治」という考え方があります。孔子は、「為政者が人民を道徳で導き、礼で統制していくなら、人民も道徳的な羞恥心を持って、その上に正しくなる」と言っています。

「金持ち=貴族」ではない

では、中世のヨーロッパではどうだったのか。第2章の冒頭で「君主と民衆の中間権力として『貴族』がおり、貴族こそが政体を支えていた」ことが指摘されています。さらに中世史研究家のカール・ヴェルナーは「中世の国制史とはすなわち貴族の歴史にほかならない」と言っています。つまり、統治において、貴族が重要な役割を担ったということです。

先ほども述べた通り、私は、貴族といえば『ベルサイユのばら』に出てくるように遊蕩三昧の日々を送っていたに違いないと思いこんでいましたが、本書を読むと、それは必ずしも貴族の本来的な姿ではないことがわかります。著者・君塚さんの言葉を引用します。

「貴族に特有の教養や知識、そして国民を護らなければならないという強い道徳的信念に基づき、公共の利益のために尽くし、それは国王からも国民からも信頼を寄せられる要因になった」(同書77頁)

貴族は、単に金持ちだから、その財力をバックに信頼されていたというのではない。金を持っているだけでは、決して尊敬も信頼もされない。ここでは「道徳」、あるいは「教養」という言葉が使われていますが、私なりの言葉でいえば「人を人として、やさしく包み込むような」、あるいは、人が道を踏み外そうとした際には「厳しく糺すような」、
そんな人格・風格を兼ね備えた人物のことを「貴族」といえばいいでしょうか。

もちろん、そうした素養を身に着けるためには、一定程度の財力・環境・教育が必要だったかもしれません。ただ、それは必要条件にしか過ぎません。「金持ち=貴族」ということにはなりません。

1学年に1人ぐらい「貴族」がいた?

ポイントの2つめです。

ここまでに既に何度も「徳」あるいは「道徳」という言葉が出てきましたが、貴族であるためには、本書のサブタイトルにもなっている「ノブレス・オブリージュ(高貴なるものの責務)」を備えていなくてはならないということです。

本書は、現代に生きる私たちが、ややもすると蔑ろにしがちな「道徳」「公共精神」「自己犠牲」といった言葉の意味について、今一度考えるきっかけを与えてくれます。こうやって言葉にするのも何やら少し気恥ずかしいですが、やはり人間が生きる上で「徳」は最も大切にしなければならないことなのかもしれません。だからこそ、プラトンもアリストテレスも、孔子も、そのことを正面から語っていた。君塚さんの言葉を引用します。

「モンテスキューが説く「共和制」とは、人民の一部が主権を持つ場合には貴族制、全体が主権を持つ場合には民主政と定義づけられていたが、いずれにせよ共和制を支える原理は「徳」であった。それは自分の利益よりも全体の利益を優先しようとする、自己犠牲的な公共精神を意味した」(同書161頁)

そのような精神、徳の思想を忘れ、私利私欲に走り出した時、人心は離れていく。貴族の堕落、行き着く先は、政治制度・社会の崩壊です。それは歴史が証明しており、本書は、そうした貴族の堕落の歴史をも詳らかにしています。

冒頭に申し上げましたが、私たちが「貴族」としてイメージするのは、この堕落した「貴族」たちのことなのかもしれません。繰り返しになりますが、本来の「貴族」とはそうではなかったといことです。

たとえば、小学校・中学校・高校時代を思い起こしてください。金持ちだけれど、決して金持ちぶらない。頭がいいけれど、人のことを小馬鹿にしない。誰にでもわけへだてなく、やさしくふるまう。そして、そうした態度・行動を、決して嫌味に感じさせない。――そんな誰からも一目置かれるような人が、1学年に1人ぐらいはいたんじゃないでしょうか。

本書を読んでいて、そういう昔の記憶がよみがえってきたことを申し上げておきます。

参議院は衆議院の暴走を止められるのか?

ポイントの3つめです。

本書は、古代ギリシャ、ローマ、中国、ヨーロッパ、イギリス、そして日本の貴族たちの栄枯盛衰を語った1冊ですが、単に貴族の古い歴史を辿り直したというだけではなく、それが現代の政治を考える上でも示唆に富んだ内容になっており、学ぶべきこと非常に多い本だということです。

たとえば、世界で唯一残っているイギリスの「貴族院」について、その歩みから、現代的意義について語られています。本書では、1830年生まれ、当時の保守党の若手政治家を代表する、第3代ソールズベリ侯爵の言葉が引かれています。

「貴族院とは、排他的な貴族的特権を死守するための砦などではなく、もしも国民の多くに異論があるような法案が庶民院を通過した場合には、総選挙が行われるまでそれを議論し尽くし、場合によってはそれを否決することで庶民院に解散・総選挙を迫るだけの力を持つ」(同書193頁)

この言葉を噛みしめつつ、翻って、日本の「参議院」の在り方について考えてみるのはいかがでしょうか。果たして、衆議院の暴走を止められるような「良識の府」足り得ているのか。

昭和22年から平成21年までの62年間で、衆議院を通過した法案に対して、参議院が修正・否決するか、審議未了ないし継続審議にしたものは、わずか11%しかないという研究結果も、本書では紹介されています。

日本の参議院は、しっかりとした「チェック機能」を果たせていない状況にあるわけです。その理由についての詳しい分析も、本書ではなされています。その上で、今の議会や政治を変えていくためにはどうすればよいか。そこでも、根本に立ち返って、「徳」とは何かについて考えを及ぼすことが重要になってきます。

このように、君塚直隆さんの『貴族とは何か のブレス・オブリージュの光と影』(新潮選書)は、ひとりひとりが、今一度、社会におけるエリート層の存在意義、そして「徳」の意味を考え直すきっかけとなる1冊であると思います。是非ともお読みください。

週刊読書人
2023年2月14日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

読書人

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