撮影:今村拓馬
RECEPTIONIST CEO、橋本真里子(40)は三重県鈴鹿市出身。年齢の離れた兄が2人いて、母親は橋本を出産した時、30代半ばだった。当時としては遅い出産で、同級生の母親に比べると年齢も上だったという。
「お道具箱の名前の字が、うちの母だけ妙に達筆で、いかにも年上っぽいのが嫌でした」(橋本)
授業参観に来る若い母親たちにあこがれ、「早く結婚して、若いお母さんになるんだ」と思っていた。
小中高は地元の共学校に通い、「これまでとは違う世界を経験したい」と、東京の女子大に進学。大学生活やアルバイトを楽しんだ。当時はまだ「永久就職」という言葉が存在した時代。女子大で、周りに結婚志向の強い学生が多かったこともあり、当時もまだ「結婚して、子どもにおやつを手作りするような『丁寧な母親』になるんだ」と、漠然とイメージしていた。「どんな仕事をしたいか」も明確でないまま就職活動の季節を迎え、行き詰ってしまう。
黒髪にリクルートスーツ、教科書通りのエントリーシートなど「個性を重視すると言いながら、実際は個性を消す活動」への違和感も強かった。結局途中で就活をやめ、卒業後は1年ほど、アルバイトなどをして過ごした。
1年後、安定した収入を得ようと考えた時「当時は就職氷河期で、選択肢は派遣しかなかった」(橋本)。学歴不問で接客など過去のバイト経験を生かせて、しかも大企業で働ける仕事として思いついたのが受付だった。派遣会社を通じて2005年、IT企業トランスコスモスの受付業務に就く。ここで、橋本の人生を大きく変える出会いがあった。
社員に「NO」が言える先輩
トランスコスモス時代の受付の先輩たちと橋本。写真手前が橋本の「ロールモデル」となった冨田めぐみだ。
提供:RECEPTIONIST
トランスコスモスの受付は、女性ばかり約10人の大所帯。「先輩たちはみんなプライドを持って働いていて、刺激をたくさんもらいました。その後のキャリアを大きく左右する初職として、これ以上ない良い職場でした」と、橋本は振り返る。
受付は、外から見えるほど優雅な仕事ではない。特に来客の多い10時~14時ごろ、各時間の00分前後の受付は、橋本が「テロ」に例える忙しさだ。約束に遅れまいといらだつ訪問客、予約していない会議室を使わせろと迫る社員らの声を同時並行で聞きながら、来客を担当者に取り次ぎ、面会室に案内し、お茶を出して片付けて……と「耐え忍び、ひたすらさばいていく」(橋本)。見えない場所では、ハイヒールで走り回ることもある。
豪雨だろうが大雪だろうが、常に時間通り出社しブースにいなければならない。先輩たちがいかなる時も、一糸乱れぬ髪型とメイクで背筋を伸ばして受付に立つ姿に、橋本は「プロ意識」を感じた。橋本自身も「パニックにならずいい意味でポーカーフェイスを保てるよう、表情が鍛えられました」と振り返る。
この職場で橋本の「ロールモデル」だったのが、サブリーダーだった冨田めぐみ(43)だ。
「才色兼備できりっと業務をこなし、社員の無茶な要望には『やってあげた方が楽だけれど本人のためにならないし、ここで無理を通すと、後でチームのみんなも迷惑する』と毅然と断る。それでいてオフの時間はキュートで、受付の女性みんなに好かれていました」
一方、冨田によれば橋本の第一印象は「学生みたいに若くてかわいらしい子」。素直で先輩の教えをよく聞き、メモを取るなどして一度聴いたら覚えようとする姿勢に好感を持った。
冨田によると、受付志望の女性の中には、面接の時に「意外と厳しい仕事ですよ」といくら念を押しても、「座ってニコニコしていればいい」という甘い気持ちで入って来る子たちもいる。こうした女性たちはすぐに離職してしまうため、人の入れ替わりも激しいという。また、気性が激しい子が来客への不満を顔に出してしまい、クレームを招くこともある。
「橋本さんは頭の回転も速かったし、周りへの配慮もできた。気分が常に安定していて、来客の理不尽な要求も、上手に笑顔でいなすことができたので、安心して仕事を任せられました」(冨田)
派遣切りを経験。受付嬢の選手生命は短い
撮影:今村拓馬
橋本はその後、USEN、ミクシィ、GMOインターネットとIT系の職場を渡り歩き、受付のメンバーをまとめるリーダーも務めた。USENでは、東京ミッドタウン移転直後のオープニングスタッフだったため、受付のシフトや会議室の使用手順なども、リーダーである橋本が、一から作る必要があったという。また同社では、グループにある芸能事務所所属の女性たちがアルバイトで加わったため、彼女たちと本職の受付スタッフをまとめるのに苦心した。
「本職はタレントであるアルバイトの子たちとプロの意識に差があるのは、ある意味当然です。リーダーとして誰よりも多くの仕事をこなし、『それほど言うなら、やってみてくださいよ』という不満を封じることで、どうにかチームを回すことができました」
ミクシィでは「派遣切り」に遭遇した。2人体制の小規模な受付で居心地もよく、3年半勤務したが、同社の収益悪化によって雇い止めに。この時「これ以上(受付で仕事を続けるの)は、無理かな」と、漠然とした不安を感じた。
橋本は就職の直後から「受付嬢の選手生命は短い」と、先行きをシビアに見ていた。当時はほとんどの募集要項に「第二新卒から30歳まで」という年齢制限が記載され、「応募の段階から、現場での限界を伝えられている気がした」からだ。
しかし自分には、受付以外の業務経験もPCのスキルもない。ミクシイの受付に3年半いたことは履歴書に書けるが、職場で何を成し遂げたのか、自分には何ができるのか、語ることはできるだろうか……。
現場の声聞かない内製受付システムに疑問
GMO時代の橋本(写真中央左)は受付のリーダーを務め、正社員への誘いもあった。しかし、登用を断り、起業家への道を歩み出していく。
提供:RECEPTIONIST
「受付嬢」として最後の職場となったGMOでもリーダーとして、制服のモデルチェンジなどを担当。「最先端の制服にしたい」という代表の熊谷正寿の意向を受けていくつか候補を選び、熊谷の前でプレゼンした。
採用されたのは「Tシャツはイブ・サンローラン、靴はクリスチャン・ルブタン、冬服はモンクレール」(橋本)と一流ブランドで固めた、かなり先鋭的なデザイン。「制服にこのデザインは求めてないんですけど……」と文句を言う若手を「気持ちは分かるけど、これほどお金を掛けてくれる会社はないよ」となだめるなど、経営陣と現場の調整役も担った。
「GMOは派遣・正社員の区別なく仕事を与えてくれたので、組織で物事を通す方法など、受付の領域を超えたスキルを学べました」
そして再び、人生の転機が訪れる。GMOが、「最先端のシステムで、最高レベルのセキュリティを実現したい」と、自社開発の受付システムを導入したのだ。しかし開発に当たって、受付担当者へのヒアリングは全くなかった。「現場の意見を聞かないなんて、いけてなさすぎでしょ」と、橋本は思った。
システムを現場で使い始めてみると、案の定不便な部分が多かった。
「最先端の受付」を実現したはずなのに、なぜタブレットにタッチペンで手書きしなきゃいけないの? お客さまが来社するたびに、わざわざ顔写真を撮って入館証に貼る必要ってある? お客さまが「写真撮られるなんて、聞いてないよ」と、受付に文句を言うのも当たり前だ。これじゃ技術を見せびらかしているだけで、誰もハッピーじゃない!
本当に使えるものを作るなら、絶対に現場が関わらないとだめだ。ないなら作ろう、私が作るしかない—— 。橋本は決意した。
橋本はGMOからの「正社員に」という誘いを断り、少しずつ起業準備を始めた。
取り立ててスキルも貯金もない30歳そこそこの受付嬢が、会社を立ち上げ開発費を調達し、IT技術を駆使して受付システムを作る—— 。一見途方もないプランを達成した背景には、仲間たちとの「出会い」があった。
(敬称略・続く▼)
(第1回はこちら▼)
(文・有馬知子、写真・今村拓馬)
有馬知子:早稲田大学第一文学部卒業。1998年、一般社団法人共同通信社に入社。広島支局、経済部、特別報道室、生活報道部を経て2017年、フリーランスに。ひきこもり、児童虐待、性犯罪被害、働き方改革、SDGsなどを幅広く取材している。