雑誌『婦人画報』2020年1月号では、天皇陛下のご即位を祝して「奉祝・天皇陛下御即位 令和の両陛下物語」という特集を掲載。
「即位礼正殿の儀」に臨まれた2019年当時の天皇皇后両陛下のご様子を紹介するとともに、おふたりが歩まれてきた道のりを改めて振り返りました。
今回、両陛下のご結婚30年を記念して、その特集を3回に渡りウェブにて復刻。第1回では、幼少期のおふたりのご成長記録から、出会い、プロポーズ、ご成婚の日を迎えるまで、天皇皇后両陛下の若き日のご様子を振り返ります。
[初出『婦人画報』2020年1月号]
写真提供=朝日新聞社
・・・
■この続きは有料会員にご登録の方は、ハーストIDでログインするとお読みいただけます
●若き日、おふたりが出会うまでの歩みとアルバム/ 浩宮徳仁親王( ひろのみやなるひと)親王
●若き日、おふたりが出会うまでの歩みとアルバム/ 小和田雅子さま
●1993年1月19日 婚約内定
● 1993年6月9日 ご成婚の日 (残り3,100文字)
目次
1.おふたりが出会うまでの歩みとアルバム/ 浩宮徳仁親王(ひろのみやなるひと)親王
2.おふたりが出会うまでの歩みとアルバム/小和田雅子さま
3.1993年1月19日 婚約内定
4.1993年6月9日 ご成婚の日
1.若き日、おふたりが出会うまでの歩みとアルバム
浩宮徳仁親王(ひろのみやなるひと)親王
1960年2月23日ご誕生
一般的にもお見合い結婚が多かった時代に、恋愛結婚で結ばれた上皇上皇后両陛下。
浩宮徳仁親王は、おふたりのご結婚から1年たたずに第1皇男子として生まれました。
それまでの伝統にのっとれば、「帝王学を身につけるため」両親のもとを離れて暮らすのが皇太子の定めでしたが、皇族といえども「温かいホーム」をもつのだという両親の強い希望から、渋谷の東宮仮御所の“ひとつ屋根の下”に暮らし、乳母ではなく母の母乳でお育ちになりました。
渋谷区からは母子手帳も発行され、学習院幼稚園に2期生として入園。上皇陛下の幼少期には「歩く」機会さえなかったといわれますが、浩宮徳仁親王は特別扱いされることなく、ジャングルジム、ブランコ、芋掘りなどにも挑戦し、鬼ごっこの鬼になることもあったとか。
天皇陛下は、皇太子時代の1982(昭和57)年に学習院大学文学部史学科をご卒業、英国オックスフォード大学マートンコレッジへ留学し18世紀のテムズ川の水運を研究されました。学生寮に寄宿し、クレジットカードで買い物をしたり、パブでビールを飲んだりするなど、日本では経験できない自由も謳歌しました。回想録で「今日の私の生き方にどれだけプラスになっているか」と綴っています。
独身時代には「30歳までに結婚したい」と明かし、理想のお妃像については、価値観が同じ人としながら、高級宝飾店で「あれやこれやと買い物する人では困ります」ときっぱりとおっしゃっています。
2.若き日、おふたりが出会うまでの歩みとアルバム
小和田雅子さま
1963年12月9日 ご誕生
父・小和田恆(ひさし)氏は外務省入省後に英国ケンブリッジ大学に留学しイギリス法学士を取得。国際法学者として、第22代国際司法裁判所所長を務め、外務事務次官や国連大使も務めた人物。母・優美子さんは、大企業の社長令嬢。そんな小和田家の長女として、東京「虎の門病院」で誕生したのが雅子さまです。
父は、ソビエト連邦、スイス、米国、英国、フランス、オランダの計6カ国の赴任経験があり、「赴任時は家族全員で」がモットー。雅子さまも1歳数カ月でソ連へ、保育園ではすでにロシア語で話していたといいます。スイス、米国を経て小学1年時に帰国、3年時からは田園調布雙葉小学校に編入学を果たします。
生物部に入部し、当時の将来の夢は「獣医」。中学ではソフトボール部を結成しました。雅子さまと双子の妹ふたりは、元気活発でいつも日焼けで真っ黒だったといいいます。「オワ」という愛称で、先生のあだ名をつけたり、顔真似をするような洞察力の優れたクラスの中心人物だったそうです。
高校2年で再び父の転勤で米国ボストンへ、ハーバード大学経済学部を卒業するころには「外交官」を志す。帰国後、東京大学法学部第3類(政治コース)に外部学士入学するも、同年10月に外交官試験に合格したため中退。この年、合格者は28名で、うち女性は3名でした。
浩宮徳仁親王と初めて会ったのは、外交官試験に合格した直後のこと。
3.出会いから、プロポーズ、婚約後は3日に1度のデート
婚約内定
1993年1月19日
おふたりの出会いは、1986(昭和61)年10月18日。来日した王族の歓迎レセプション会場にて。外務省関係者が多く招待されており、雅子さまは同月の外交官試験に合格した直後で、徳仁親王とも2〜3分ほどご挨拶をするのみでした。その直後の英国大使館でのパーティで偶然再会を果たします。そして、徳仁親王はその年の12月30日の東宮御所での内輪の年越し会に小和田ご一家を招待しています。このころ、雅子さまへの思いはすでに膨らんでいたといえるでしょう。
次に会ったのは翌年の4月、高円宮邸にて。そうと知らされず迎えの車に乗った雅子さまは自分以外の招待客がないことに戸惑いを覚えましたが、そんな雅子さまを皇太子さまは優しくエスコートされたといいます。
「価値観と金銭感覚が同じ人」「誰とでも話ができ、控えめであっても自分の意見をしっかりと言える人」「ある程度、外国語ができる人」「自分と趣味や関心を分かち合える人」。これは徳仁親王が英国留学直後に、結婚相手の条件として挙げた4項目です。ぴったりの雅子さまですが、母方の祖父が水俣病の原因を作った「チッソ株式会社」の社長だったことや、何より雅子さまの仕事への情熱がすぐには、皇太子殿下の恋を成就させなかったようです。
おふたりがその後、再会したのは5年後の1992(平成4)年8月のこと、時代は昭和から平成になっていました。5年ぶりの再会で、「ご自身がお苦しいときにでも、ほかの人の苦しみについてまず先に考えられるような」皇太子さまの思いやりの深さと忍耐強さに惹かれたと、雅子さまは後の婚約の記者会見で語られています。
4.パレード直前に雨がやみ、19万人に祝福されて
ご成婚の日
1993年6月9日
平成5年6月9日、東京は前夜から雨。特別に休日となり、パレードが通る皇居から元赤坂・東宮御所までの沿道に詰めかけた19万人は、多くが傘や雨合羽を持参していました。
一世一代のお披露目の日に、雨の中のパレードになろうとは白いローブデコルテを召された雅子妃はさぞや気をもまれたことでしょう。しかし、パレードの直前に不思議と前夜からの雨はぴたりとやみ、薄日が差したのです。
時に大地の恵みにもなり、災害にもなる雨。天皇陛下は、「僕が一生、全力でお守りします」とプロポーズをしました。当初「外務省は辞めない」と固い意志をもっていらした皇后陛下の心にも、天皇陛下のお言葉が慈雨のように染み込んでいったようです。
監修=渡邊みどり(文化女子大学客員教授 ジャーナリスト)
編集・文=吉岡博恵(婦人画報編集部)
写真=朝日新聞社 提供 『婦人画報』2020年1月号より