LOST HIGHWAY

ヨーロッパの難民問題とその影に潜む違法難民ビジネス

ブダペストとウィーンの国境を走るトラックの荷室から71もの死体がみつかった。彼らはシリアやイラクから逃れてきた難民だ。パリで起きたテロ事件後も続く難民たちの移動の裏には、密入国斡旋で金儲けしようとする男たちがいる。そしてこれを差別的な政策に利用する政治家も登場する。US版『GQ』が難民問題に斬り込んだ。
ヨーロッパの難民問題とその影に潜む違法難民ビジネス

Words: Sean Flynn
Photos: Christopher Griffith
Translation: Machikane Ottogiro

©Getty Images
ウィーンまでおよそ320km──高速で3時間ほどで着くはずだ

冷凍トラックは空荷だった。ハンガリー中部の小都市ケチケメート郊外の駐車場。月は没した。日の出までまだ数時間あるから、あたりはまっ暗闇だ。トラックはボルボ製。もとはスロヴァキアのHyza社が鶏肉を運ぶのに使っていたものだ。2014年に売り出され、ハンガリーの休眠企業の手に渡る。yの字がめんどりのシルエットになったHyzaのロゴは消すということになっていたが、休眠企業はそれを怠った。

暗闇の底でざわめいていたのは、中東からはるばるやって来た人たちだ。男性59人に女性が8人、子どもが4人。総勢71人の難民はひとりにつき数百ユーロもの金を払い、運び屋たちを待っていたのだ。

乗せてもらえるのはタクシーか、商用ワンボックス車か、それともセダン車か。難民たちはことによると、トラックに乗ることになると聞かされていたのかもしれない。だがまさか、完全気密の冷凍トラックに乗せられるとは夢にも思っていなかっただろう。しかも一台に71人も。そんな条件なら手を打つはずがないからだ。冷凍トラックの荷室は横幅が8フィート(約244cm)、長さは20フィート(約610cm)もない。71人がどうにか立てる広さはあったが、乗りこめばもう身じろぎもできない。

だが、難民たちは急いでいた。ハンガリーはセルビアとの国境を鉄条網で封鎖しつつある。幸いにもその国境は越えたところだが、ブダペスト東駅から列車に乗ろうにも、乗れる見込みが立たなくなってきていた。ハンガリーはもう安全ではない。時間がないのだ。

ブダペスト市街を迂回する高速道路で、オーストリアのウィーンまでは200マイル(約320km)ほど。道が混んでいなければおよそ3時間で着くし、こんな夜中に高速で渋滞なんてあるわけがない……。

難民たちは、荷台に乗りこむ。そしてトラックは駐車場から走りだした。

2015年8月、ハンガリーは熱波に襲われた。その猛暑も10日ほど前に去り、8月26日の未明、外気温は17度前後だった。しかし71人がぎゅうぎゅう詰めになった荷室内ではぐんぐん温度が上昇しはじめる。冷凍冷蔵ユニットは故障していたが、壊れていなくても同じことだ。どのみち、換気なんてできないのだから。

なぜ、中東の難民がハンガリーに殺到するのか?

内戦下のシリアから逃れてきた人々、そしてISIS(イスラム国)の暴虐から逃れ、中東から多くの難民がヨーロッパに押しよせてきている。祖国を捨て、働き口を求めて豊かな西欧をめざす彼らの思いは切実だが、問題は、そのために不法な手段に頼るしかないことだ。

違法な越境をしなければならないから、裏社会の斡旋人に頼むよりほかに道はなく、金額は法外なものとなる。たとえばトルコからギリシャ領の島へ安全なフェリーで渡るのにEU圏の国民なら20ユーロを払えば済むが、シリア難民ならその66倍の1400米ドルもの大金を払った挙げ句に、危なっかしいゴムボートでのすし詰めの航海を強いられることにもなる。

金に糸目をつけないなら、それでもいくらかは楽ができる。たとえばアフガニスタンからすんなり脱出したい人は、2万5000ドルを支払えば、ヨーロッパのたいていの空港を素通りできる偽造パスポートを入手できる。またトルコへのビザは、5000ドルほどで手に入る。

そこに大きな商機が生まれる。ウォッカやら何やらをこっそり運んだ心得のあるブルガリア人やルーマニア人、ロマ族の連中が密入国斡旋に次々に乗り出したのだ。とはいえ欲をかきすぎるのは禁物だ。難民から金を奪ったり森に置き去りにしたりすれば、利用客を失うことになる。難民たちは法に守ってもらえないだけに、おのずと口コミにさとくなる。噂はすぐに広まるのだ。

難民たちは命がけで国境を越える

中東難民の最終目的地はドイツや北欧、もしくはせめて、その一歩手前のオーストリアだ。彼らはたいていトルコから、エーゲ海を渡ってギリシャ領に入ろうとする。国家破綻寸前のギリシャで旅を終えようとする者はまずいないから、あとはどうやって西欧までたどり着くかだ。その旅の経路を決定づけるのが「シェンゲン協定」だ。EU圏にほぼ一致する26カ国間で国境検査を廃止したもので、協定圏内に入ってしまえばあとは国内と同じように移動できる。バルカン半島を北上する場合、シェンゲン協定圏の入り口はハンガリーと、その南西のスロヴェニア。ギリシャからそこまでで通過国数がいちばん少なくて済むのが、マケドニア(もしくはブルガリア)からセルビアを通ってハンガリーに入るルート。だからこの国に、難民たちは集まってくるのだ。

冷凍トラックはハンガリー領内最後の村を抜け、午前10時にオーストリアに入った。だが、出発してからエンジントラブルが続いていて、ハーンドルフという街の近くで運転手はついに路肩に寄せた。少なくとも国境は越えたんだし、ウィーンまではあと少しだ。ここまで来れば充分じゃないか……。

運転手のひとりが荷室のうしろに回る。ケチケメートを出たときと同じく、扉は閉まったままだ。中からはくぐもった話し声も、壁を叩く鈍い音もしない。恐る恐る扉を開けてみる。すかさずまたとじ合わせ、ロックがかかったのを確認すると、一目散に走り去った。

冷凍トラックはそれから一昼夜、陽射しを浴びるアスファルト上に放置された。

翌8月27日の正午頃、草刈り機を動かしていた作業員が、路肩のトラックの後端近くで路面に油染みのようなものが広がっていることに気づいた。強い異臭もただよってくる。

作業員の通報を受けて、1台のパトカーがやってきた。トラックのうしろに車をとめて、警察官が荷室を開ける。が、よろめくようにそこから離れ、路上に嘔吐した。

やがてレッカー車が到着し、死体を乗せたままのトラックを牽引してハンガリー領内に向かう。ひんやりした建物のなかで改めて調べると、暑さで腐敗した死体がもつれ合い、折り重なって倒れていた。床に並んだ死体を数えると、71にもなった。

警官たちに護送される難民たち
難民への反感を政治的に利用するハンガリー首相

シリア内戦が始まったのは2011年だ。それからの3年間で、300万人近い難民が近隣のトルコ、レバノン、ヨルダン、エジプトへ逃れた。戦乱のイラクから逃げてきていた人たちは、あろうことか再度難民になった。2014年からはISISが猛威をふるい、新たな難民の流れができはじめたのだ。

2014年の最初の7カ月間でハンガリーに不法入国した難民は、シリア人3025人、アフガン人4068人、イラク人127人に過ぎなかった。列車や徒歩や、密入国斡旋業者の車でそうしてシェンゲン協定圏内にたどり着いた彼らは口コミで情報を広め、家族や友だちが少しでも安全にやって来られるように力も尽くす。最初は水の滴りほどだったものが、やがて確かな流れになり、それが小川へ、そして大河へと成長していく。かくしてハンガリーが熱波に襲われた2015年8月には、国内に流入した難民は5万2750人にまで膨れ上がった。

夏の終わり近くまでは、密入国斡旋業者の車輌に身を隠してこっそり国境を越える必要もなかった。一日8000人もの人波が動いていたのだから、わざわざ身を隠すまでもなかったのだ。難民たちは公然と歩き、当局への登録手続きを受け、キャンプにしばらく抑留されてから、また移動を再開することができた。だが、やがて難民をさばききれなくなって登録手続きが滞るようになり、抑留キャンプは人で溢れるゴミ溜めのごときものと化す。そして難民への敵意のようなものも芽生えてきていた。そこに好機を見出した男がいた。ハンガリー首相オルバン・ヴィクトルだ。

オルバン率いるフィデス党は2014年10月にインターネット使用に課税する政策を打ち出したことで、半年前の総選挙で圧勝に導いてくれた支持者の半数から見放される痛手を負った。オルバン首相には求心力を取り戻す必要があった。

(写真上)ブダペスト東駅に集まった難民たち。ハンガリーの右翼政治家たちが彼らを非難するなかでも、列車は連日彼らを乗せて西欧まで送り届けた。(写真下)2015年9月、アフガニスタンとシリアからの難民がハンガリー国内で当局の検査を受けるために集められた。

2015年6月、ハンガリー政府はセルビアとの国境を鉄条網と金網で塞ぐと発表した。それと同時に立てはじめたのが、「ハンガリーに来ても、国民の仕事は奪うな!」などの文言を記した看板だ。しかもその文言は、言語的に孤立性の強いハンガリー語で書かれていた。中東難民への意思表示というよりも、国民向けの人気取りだったことは明らかだ。

その夏にはブダペスト東駅で1500人もの難民が野宿するようになっていたが、翌日か翌々日には切符を買って国外に出ることができた。ところが8月の末近くになると、切符を買うための列は果てしないまでに長くなり、切符はあるのに列車に乗せてもらえない者もでてきた。そして国境は鉄条網で塞がれつつある。ハンガリーは安全圏ではなくなったのだ。難民たちに焦燥感が広がっていった。あの大量窒息死事件はそんななかで起きたのだ。

冷凍トラックにはハンガリーの仮ナンバーがついていた。そのナンバーを登録したハンガリー人の男が判明し、ケチケメートから来た車だとわかった。

ハンガリーの警察は付近の家20戸を捜索し、ブルガリア人4人とアフガン人1人の計5人を逮捕した。しかし、誰がどんな役割を果たしたのかは一向に伝わってこない。私はケチケメートの検事に面会を申し込んだ。分かったことといえば、ブルガリア人が50歳、37歳、29歳、24歳で、アフガン人が28歳だということだけだ。それ以上のことは教えてもらえなかった。

検事が言うには、冷凍トラックが見つかった翌日の8月28日にも、この街の近くで難民40人を乗せたトラックが見つかったのだという。難民は全員が生きていたが、7人は病院に運ばれた。運転手は30歳のルーマニア人の男で、50ユーロを前金で受け取り、目的地に着いたら追加で150ユーロを貰える約束になっていたと自供した。男に下された判決は懲役18カ月で、さらに3年間国外追放というものだった。

ザーカーニの駅にて。難民たちが我先にとオーストリア行きの列車に乗りこもうとしている。

冷凍トラックが乗り捨てられていたオーストリアのハーンドルフでも、まさしく同じ日に、81人を乗せたセミトレーラーが見つかっている。コンテナの扉をバールでこじ開けたおかげで難民たちは死なずに済んだが、トラックの荷室に難民をぎゅうぎゅう詰めにするなどという乱暴な手口がこれだけ相次ぐのはどうしてなのか?それだけ難民が殺到し、にわか参入の密入国斡旋業者は仕事をこなしきれなくなるうちに見境がつかなくなって、リスクをリスクとも思わなかったのか?

あの冷凍トラックを走らせた男たちも、荷室が完全気密だということに気づかないほど愚かなだけだったのか?それとも、難民の命を人間の命だと思わないほど感覚が麻痺していただけなのか?

9月15日、ハンガリーは南のセルビアとの国境を封鎖し終えた。そして1カ月後には、南西のクロアチアとの国境も封鎖した。難民の流れはクロアチアからスロヴェニアを抜けてオーストリアに注ぎ込むように変わった。すると今度はクロアチアが、国境を封鎖するむねの警告を周辺国に発しはじめ、スロヴェニアもこれほどの難民はさばききれないと音を上げだした。10月末には難民受け入れに積極的だったドイツも手のひらを返し、オーストリアも国境管理を強化すると発表した。そして11月13日、パリで130人以上が死亡する同時多発テロ事件が発生し、中東移民への反感がヨーロッパ中にさっと広がった。難民たちはさらなる苦境に追い込まれた。

だが、もはや難民の河の流れは押しとどめるすべもない。ハンガリーのようにそれをせき止めようとしたところで、大河は氾濫して余計に制御不能になるだけだろう。難民はあらゆる隙間から西欧になだれ込み、降って湧いた商機に感覚の麻痺した密入国斡旋業者はますます多くのトラックに難民を詰め込むようになる。となればいつまた、同じような悲劇が起こらないとも限らないのだ。