秀吉の城を埋めて築いた巨大な大坂城。そこに建つニセモノ天守をどう理解すればいいか──世界とつながっている日本の城 第4回

現在の大阪城は、豊臣秀吉時代の面影が一切ない? この巨大な城について、香原斗志が解説する。
大阪城 osaka castle

圧倒的スケールと秀吉との関係は

大坂城のスケール感には圧倒される。隣接する読売テレビが時々映し出す全景は、広大な二重の堀と高い石垣に囲まれ、巨大な不沈空母のようだ。周囲を歩けばさらにその感を強くさせられる。

約2キロ続く南外堀は最大幅75メートルで、石垣は高さが最大30メートルにもなる。かつて7棟あった櫓は、戊辰戦争と太平洋戦争で5棟が焼失したが2棟が現存。そのひとつ六番櫓は高さ15.4メートルで、全国に残る12の天守とくらべても、丸亀城、弘前城、丸岡城、備中松山城より大きい。ところが周囲の堀と石垣が広大すぎて、とても小さく感じてしまう。また、本丸東側の石垣は32メートルで日本一の高さだ。

大阪城
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門の周囲の石垣に、通る人を威嚇するように巨石が用いられているのも、大坂城の特徴だ。大坂城の門の多くは枡形になっている。「枡形」とは門の内側に設けられた方形の空間のことで、枡形内にもうひとつの門を構え、まっすぐ侵入できないようにしてある。

本丸の正門である桜門も枡形になっているが、その石垣を構成する石の大きさが途方もない。堀に面した高麗門の両脇には、高さ3.4m、幅6.9mの竜石(右)と2.7mと6.9mの虎石が据わっている。そして枡形に入ると、城内一の巨石である蛸石が正面に見える。5.5mと11.7m、表面積は36畳分で、重さは推定108トン。また、蛸石の右には幅5.7m、高さ6.5mの碁盤石が、左側の面には4.2mと13.5mの振袖石、6mと5mの桜門四番石がある。

城全体の正門、大手門も負けていない。高麗門の正面に高さ5.1m、幅11m、重量が推定150トンという大手見付石が据わる。そして、すぐ左は5.3mと8mの大手二番石、右は4.9mと7.9mの大手三番石で固められている。

このスケールを前に「豊臣秀吉はやることが大きい」と思う人もいるようだ。しかし、それは違う。現在の大坂城は元和6年(1620)からの11年間に64家の大名が動員され、天下普請で新たに築かれた徳川の城だ。大坂城といえば想起されるのは豊臣秀吉でも、実は、いまの大坂城は秀吉とはほとんど無縁である。

西の丸から見た「大阪城天守閣」。

秀吉の広壮な城は地上に痕跡もない

大坂城は大阪平野を南北に伸びる上町台地の北端に築かれている。それ以前は事実上の城郭である大坂本願寺があったが、織田信長との石山合戦ののち、本願寺は天正8年(1580)に降伏。信長は跡地に政権の中枢となる城を築くつもりだったが、2年後に本能寺で斃れたため、信長の後継者となった秀吉が、そこに築城を開始した。秀吉は堀をはじめ、本願寺の縄張りをかなり引き継いだようだ。

イエズス会の宣教師ルイス・フロイスは、著書『日本史』に、

「(大坂)城の建物なり部屋、大坂の拡大した市自体、また城の周囲に建てられて行った日本の諸侯、武将たちの屋敷等そのいずれにおいても、すでにかつての美しかった安土の市および城をはるかに凌いでいるとの定評がある」

と記している。また、天守などについてはこう書いていた。

「八層から成り、最上層にはそれを外から取り囲む回廊がある。また濠、城壁、堡塁、それらの入口、門、鉄を張った窓門があり、それらの門は高々と聳えていた」

だが、秀吉が築いた広壮で守りもすこぶる堅固な城は、慶長19年(1614)の大坂冬の陣ののち、家康側が突きつけた和解条件をのんだ結果、裸城同然になる。城下町を囲む壮大な総構えのほか二の丸の堀まで埋められ、堀際の塀や櫓も壊されてしまったのだ。こうして翌年の大坂の夏の陣で落城し、無残な廃墟となり、さらにはその後、残った石垣や堀も埋められてしまったのだ。

36畳大の蛸石。右が碁盤石で左が振袖石。

偶然掘り起こされた豊臣時代の石垣

現在の大坂城が徳川家によって改築されたものであることは、明治時代からわかっていたが、豊臣時代の旧状をどれだけ引き継がれているか、わかっていなかった。そもそも豊臣大坂城の具体的な姿自体、福岡藩黒田家に伝わった『大坂夏の陣図屏風』などを除けば史料が乏しく、ほとんどわかっていなかった。

だが、偶然が重なって謎は解けていった。きっかけは昭和34年(1959)、西外堀の涸水だった。それを機に同年、大阪市と大阪市教育委員会、大阪読売新聞社は「大坂城総合学術調査団」を立ち上げ、石垣や地盤の調査を始めた。

すると石垣に江戸期の刻印が多数見つかり、現在の石垣は徳川が再築したものだとはっきりした。加えて、本丸の地表から7.3mの地下に石垣が発見されたのだ。小ぶりの石が加工されずに「野面積」で積まれたその石垣は、いったいなんなのか。が、翌年、また偶然が重なって謎は解けた。

桜門の高麗門と竜石(右)、虎石。奥に見えるのが蛸石。

徳川幕府の京都大工頭だった中井家で、豊臣時代の「大坂城本丸図」が発見され、そこに石垣の高さや長さのほか、建物の詳細な平面図まで描かれていたのだ。こうして、発見された石垣は豊臣大坂城本丸の「中の段帯曲輪」の石垣だと考えられるようになったのだ。

昭和59年(1984)にも水道工事に伴う調査で、天守台東南の地表から1.1メートルの地下から石垣が見つかった。高さは6メートル。「大坂城本丸図」によれば、中の段帯曲輪の内側に一段高い「詰めの丸」があって、秀吉や正室の北政所が住まう奥御殿があり、その北東隅に天守が建っていた。

つまり、最初に発見された石垣の上端が、豊臣時代の本丸「中の段帯曲輪」の地表面で、新たに発見されたのは、そこから一段高い「詰めの丸」の石垣だったわけだ。ともに埋め戻されたが、後者は掘り返され、地下に展示施設を設ける準備が進められている。

本丸東側の石垣は日本一の高さ。

豊臣大坂城をはるかに上回った徳川の再築

さて、地下に石垣が見つかってわかったのは、豊臣大坂城に盛り土し、現在の大坂城が新たに築かれたという事実だった。場所によっては10m程度も盛り土されていたのだ。

徳川幕府は落城させた大坂城の再築に当たって、豊臣家をはるかに上回る徳川の力と権威を見せつける必要があった。普請の責任者だった藤堂高虎の事績を記した『高山公実録』などには、二代将軍秀忠と高虎が大坂城の石垣の高さや堀の規模を倍にしようと考えた旨が記されている。それが実現されたのである。

先に本丸東側の石垣は約32mと記したが、豊臣時代、そこに高石垣はなかった。堀の内側には下の段帯曲輪があり、その内側には一段高い中の段帯曲輪が設けられ、さらに内側に、もう一段高い詰めの丸があった。つまり、石垣を3段に分けて高さを支えていたのだ。総石垣の城は事実上、織田信長の安土城に始まった。秀吉は安土城を上回る城を築こうとしたが、石垣を積む技術は未熟だった。

その技術は、関ヶ原の戦い後の築城ラッシュのなかで長足の進歩を遂げた。現在の大坂城に見る長大な高石垣は、石垣築造技術に長けた西国の大名たちが、そのころ頂点に達していた技術で積み上げたものなのだ。

フロイスが「遠くから望見できる建物で大いなる華麗さと宏壮さを誇示していた」と記した秀吉の天守も、豪華絢爛ではあっても、規模は徳川の天守にかなわなかった。豊臣時代の天守は石垣を含む高さが約39mと推定されるが、徳川の天守は約58.3m。天守台の面積も豊臣時代のほぼ2倍になった。

本丸西側から「大阪城天守閣」を仰ぐ。

史実とかけ離れた現在の「大阪城天守閣」

ところで豊臣時代の天守は、大きな入母屋造の建物のうえに物見を載せた、「望楼型」と呼ばれる初期の形式で、「大坂夏の陣図屏風」などを見るかぎり、壁面は黒漆喰と下見板の組み合わせで黒く、金箔押しの瓦と金の破風飾りで飾られ、最上層は欄干の上部に鷺、下部に虎が金で描かれた絢爛たる建築だった。一方、徳川の天守は、1階から少しずつ小さくして上の階を積み上げた「層塔式」という、新しいシンプルな形式だった。

しかし、江戸城と並んで史上最大級だったその天守も、建って40年しか経たない寛文5年(1665)、落雷を受けて焼失し、再建されることはなかった。

では、現在の「大阪城天守閣」はどういう建築なのか。徳川再築の天守台の上に建つが、大きな入母屋の建物を2つ重ねた上に物見を載せた望楼型で、「大坂夏の陣図屏風」に描かれた天守同様、鶴(屏風では鷺だが)や虎の装飾も施されている。令和元年(2019)に安倍晋三元総理は、大阪市で開催されたG20サミットでこの天守を、「16世紀のものが忠実に復元された」と紹介したが、17世紀の石垣に載っているのである。

天守再建が計画されたのは昭和2年(1927)、昭和天皇の即位を記念してのことで、市民の寄付で賄う方針が定められた。そして予定通りに150万円の寄付金も集まったが、大阪市の方針は「豊臣秀吉の天守を復興させたい」というもの。しかし豊臣時代の石垣はなく、徳川の天守台に建てるしかない。

その結果、大阪市土木局が設計した天守は、「大坂夏の陣図屛風」を参考に、豊臣時代の小さな天守の姿を徳川の大きな天守台上に再現し、壁面は徳川時代と同じ白亜にするという、不思議な外観になった。豊臣大坂城の実態がほとんどわかっていなかったため、やむを得ない面はあるのだが。

当時としては先進的な鉄筋コンクリート造で建てられ、昭和6年(1931)に竣工した「大阪城天守閣」は、このように史実とはかけ離れた建築なのだ。しかし、すでに築後90年が経過し、平成9年(1997)には国の登録有形文化財にも指定され、別の「歴史的価値」が生まれている。

最大幅75メートル、広大な南外堀。

大阪の伝統につながるランドマークとしての意義

国の特別史跡でもある名城のシンボルが史実と異なることに、複雑な気持ちも抱くが、「大阪城天守閣」を評価できる点もある。それは過去の建築様式を再利用するという西洋近代の建築手法を、日本の伝統的様式に正しく応用できている点にある。そうして日本建築の伝統を踏まえながら、都市のシンボルを創造している。

たとえば、英国議会の議事堂になっているロンドンのウェストミンスター宮殿は、1834年の火災でほぼ全焼すると、あえて中世のゴシック様式を範としたネオ・ゴシック様式で再建された。とはいえ、当時の趨勢であった新古典主義を排除したわけではなく、建築の配置や構成には、古典建築の理念である比例法則を取り入れていた。つまり、最新の建築に都市の伝統につながる歴史的意匠をこらすことで、歴史や伝統を体現した都市の象徴となりえたのである。

「大阪城天守閣」も同様に、鉄筋コンクリートの最新建築に、豊臣時代の天守がまとっていた桃山時代の様式を再利用することで、日本の、そして大阪の伝統とつながったランドマークを創出できている。

大阪城内にも明治以降、西洋風の建築が数多く建てられた。それらは複合施設「ミライザ大阪城」になった旧第四師団司令部庁舎をはじめ、西洋の建築様式を利用していたが、残念ながら、日本および大阪の伝統と少しもつながっていなかった。ある建築様式の再利用は、その土地に固有の歴史や伝統をイメージさせるためのものであるはずなのに、日本で西洋の様式を模倣した建築は、真似すべき精神は置き去りにした猿真似にすぎなかった。

その点、大阪城天守閣は、ヨーロッパ近代の建築手法を猿真似でなく、その精神とともに取り入れて、日本的なランドマークのあり方を示している。史実とかけ離れているのは残念だが、学ぶところはあるのである。


PROFILE

香原斗志(かはら・とし)

歴史評論家

早稲田大学で日本史を学ぶ。小学校高学年から歴史オタクで、中学からは中世城郭から近世の城まで日本の城に通い詰める。また、京都や奈良をはじめとして古い町を訪ねては、歴史の痕跡を確認して歩いている。イタリアに精通したオペラ評論家でもあり、著書に「イタリア・オペラを疑え!」(アルテスパブリッシング)等。また、近著「カラー版 東京で見つける江戸」(平凡社新書)が好評発売中。\