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かつては全国レベルから程遠く「野球後進県」と揶揄されていた沖縄県の高校野球。しかし、優れた指導者の存在や体制の整備によって力を付け、近年では押しも押されもせぬ強豪県となっています。そんな沖縄の高校球児達が全身全霊をかけて戦うのが沖縄大会。この記事では、沖縄大会に出場している強豪や古豪の野球部の歴史をご紹介しましょう。

運上 俊と運上 さえみ
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沖縄大会の強豪校、古豪の野球部の歴史

沖縄大会の強豪校、古豪の野球部の歴史

高校野球において、沖縄県と言えば強豪揃いというイメージがあります。

実際、2007年(平成19年)から2017年(平成29年)までに開催された、21の大会での都道府県別甲子園勝利数トップ10を見ると、沖縄は31勝で2位にランクイン。

1位の大阪に次ぐ強豪県となっています。スポーツ施設も充実し、プロ野球のキャンプ地としても人気です。

今回は、長い歴史の中で幾多の苦難に打ち勝ち、実力を付けてきた沖縄県の強豪・古豪に注目しました。沖縄大会でぶつかり合う彼らの軌跡をたどってみましょう。

沖縄県における高校野球の歴史

沖縄県における高校野球の歴史

まずは、沖縄県における高校野球の歴史から振り返ってみましょう。沖縄の高校野球の歴史は、沖縄ならではの特殊な事情と無縁ではありません。

戦前、沖縄の高校が高校野球の全国大会に出場したことは皆無。当時は今のような1県1代表制ではなく、沖縄大会で勝ち上がっても九州の強豪校と対峙しなければなりませんでした。

しかし、沖縄の高校野球は本土に比べてレベルが低く、歯が立たなかったのです。戦後、アメリカ占領下にあった沖縄では、野球大会が開催されていません。

それを見かねた高校野球連盟副会長・佐伯達郎氏の尽力により、1956年(昭和31年)に沖縄高校野球連盟が設立

ところが、野球技術の遅れや、栄養不足によって小柄な選手ばかりのチームになってしまったこともあり、沖縄の高校は甲子園の土を踏むことができませんでした。

沖縄の高校が念願の甲子園出場を果たしたのは1958年(昭和33年)

この年の甲子園は40回記念大会ということで1県1代表制が採られ、沖縄県代表として首里高校が出場しました。

当時はまだアメリカの領地だったため、選手達はパスポートを持参します。

このとき、首里高校は初戦敗退という結果に終わってしまいましたが、甲子園の観客達から割れんばかりの拍手を送られました。

首里高校の生徒達が「せめてもの想い出に」と大事に持ち帰った一握りの甲子園の土。しかし那覇港での検疫に引っかかってしまい、検疫官の手で無情にも海に捨てられてしまいます。

このエピソードは、当時の沖縄の高校野球を取り巻く状況を象徴する話です。こうした時代を潜り抜け、1968年(昭和43年)夏の甲子園で興南高校がベスト4入り

興南に続けと、名将・栽弘義監督率いる豊見城高校が春夏で計4回のベスト8入りを果たし、栽監督が次の指導の場として選んだ沖縄水産高校は1990年(平成2年)、1991年(平成3年)と2年連続で甲子園準優勝に輝きます。

地元・沖縄からの期待の声が大いに高まる中、1999年(平成11年)、ついに沖縄尚学高校が初めて甲子園優勝の偉業を達成。沖縄県高校野球の歴史を塗り替えました。

そして、2010年(平成22年)には古豪・興南高校が春夏連覇を実現し、沖縄の人々を歓喜の渦に巻き込んでいます。高校野球における、沖縄の快進撃はまだまだ止まりません。

沖縄の高校野球を全国に知らしめた「興南高校

沖縄の高校野球を全国に知らしめた「興南高校」

2010年(平成22年)、春夏連覇を達成した沖縄県トップクラスの強豪校です。

沖縄県那覇市にあり、校舎は中学校と一緒になっています。沖縄県では最も歴史ある高校として知られており、創立は1962年(昭和37年)。沖縄県の政治や経済、スポーツなどを牽引する数多くの人材を生み出してきました。

2010年(平成22年)の春夏連覇の際には、トルネード投法で知られる島袋洋奨投手を擁し、圧倒的な実力で一二三慎太投手(元阪神タイガース)の所属する東海大相模を下しています。

野球ファンの中には、「島袋投手と言えば春の選抜と夏の甲子園で優勝したときの勇姿が浮かぶ」という人もいる程。以下に甲子園での成績を挙げてみましょう。

春の選抜

  • 1981年(昭和56年)第53回大会…1回戦敗退
  • 1983年(昭和58年)第55回大会…1回戦敗退
  • 2009年(平成21年)第81回大会…1回戦敗退
  • 2010年(平成22年)第82回大会…優勝

夏の甲子園

  • 1966年(昭和41年)第48回大会…1回戦敗退
  • 1968年(昭和43年)第50回大会…準決勝敗退
  • 1980年(昭和55年)第62回大会…準々決勝敗退
  • 1981年(昭和56年)第63回大会…1回戦敗退
  • 1982年(昭和57年)第64回大会…3回戦敗退
  • 1983年(昭和58年)第65回大会…2回戦敗退
  • 2007年(平成19年)第89回大会…2回戦敗退
  • 2009年(平成21年)第91回大会…1回戦敗退
  • 2010年(平成22年)第92回大会…優勝
  • 2015年(平成27年)第97回大会…準々決勝敗退
  • 2017年(平成29年)第99回大会…1回戦敗退

現在でも、常勝ではないもののコンスタントに沖縄代表として甲子園の土を踏んでいる興南高校。

同校が強豪として名を馳せるようになった背景には、1968年(昭和43年)夏の甲子園で、キャプテン及び4番打者として興南高校をベスト4入りに導いた我喜屋優氏の存在があります。

我喜屋氏は卒業後、社会人野球の大昭和製紙富士に入社。大昭和製紙北海道に転籍し、北海道勢として初めての都市対抗優勝に尽力したのち、2007年(平成19年)に母校・興南高校の監督として就任しました。

これにより甲子園出場から20年以上遠ざかっていた興南高校が、甲子園への出場を決めたのです。

我喜屋監督は就任後、かつての野球部監督が使っていたモットー「魂知和(こんちわ)」を復活させ、部員達に徹底させました。

「魂知和」とは、「何事にも信念を持って取り組む(魂)」「多くの知恵や知識を身に付ける(知)」「仲間の信頼、協力を得る(和)」を指します。

我喜屋監督は、こうしたマインドや、「時間厳守を一度でも破った部員はレギュラーから外す」という厳しい教えを叩き込むことで選手達をまとめ上げました。

興南高校野球部春夏連覇の礎を作り上げた我喜屋監督は、2010年(平成22年)に興南高校の理事長にも就任。今後の興南高校野球部の活躍がますます期待されます。

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興南高校と並ぶ沖縄の2強「沖縄尚学高校

興南高校と並ぶ沖縄の2強「沖縄尚学高校」

興南高校に並ぶ沖縄の強豪校として知られているのが、中高一貫の私立校である沖縄尚学高校。

1999年(平成11年)に沖縄大会決勝で立ちはだかる沖縄水産を破ったのち、沖縄県勢として初の春の選抜優勝を達成し、故郷に紫紺の大優勝旗を持ち帰りました。

校舎は沖縄県那覇市にあり、グローバルな人材育成に力を入れている学校です。

春の選抜

  • 1999年(平成11年)第71回大会…優勝
  • 2005年(平成17年)第77回大会…準々決勝敗退
  • 2008年(平成20年)第80回大会…優勝
  • 2013年(平成25年)第85回大会…1回戦敗退
  • 2014年(平成26年)第86回大会…準々決勝敗退

夏の甲子園

  • 1992年(第74回大会)…2回戦敗退
  • 1999年(第81回大会)…2回戦敗退
  • 2003年(第85回大会)…3回戦敗退
  • 2005年(第87回大会)…2回戦敗退
  • 2013年(第95回大会)…2回戦敗退
  • 2014年(第96回大会)…準々決勝敗退

初優勝当時の監督は、栽監督の愛弟子とも言える金城孝夫氏。

金城監督は、沖縄尚学の球児達に、沖縄の県民性とも言えるルーズな時間感覚を改めるよう徹底的な指導を行ないました。

これは、金城監督の「沖縄人のいい加減なところが勝負どころの弱さに直結している」という考えに基づいたものです。

エース・比嘉公也投手と照屋正悟投手の獅子奮迅の活躍もあり、沖縄尚学は優勝という栄光を掴んだのでした。

2006年(平成18年)には、エースだった比嘉公也氏が母校の野球部の監督に就任。その練習法の中でも特徴的なのが、ノックの多さです。

「打撃練習はしなくてもノックだけは絶対やる」というぐらい、ノックに力を入れており、ときにはノックだけで1時間を超えることもある程。

ノックはランナーを塁に置くなど、実戦形式のものがほとんどで、いかに監督がノックを重要視しているかが分かります。

また興南高校の我喜屋監督もノックを大切にしており、沖縄の高校野球はノックによって作られたと言っても過言ではありません。

比嘉監督の時代、選抜5試合で防御率0.66を誇り、松坂大輔以来の決勝完封勝利を収めた東浜巨投手(2017年(平成29年)現在、福岡ソフトバンクホークス)が活躍。

東浜投手を擁する沖縄尚学野球部は、2008年(平成20年)に2度目の全国制覇を果たしました。

興南とともに、沖縄の「2強」としていまだ君臨し続ける沖縄尚学は、2012年(平成24年)から2015年(平成27年)まで、3年連続で沖縄大会の決勝に進出。「興南と沖縄尚学に追い付け」を掲げる他の高校の前に、壁として大きく立ちはだかっています。

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かつての甲子園常連校「沖縄水産高校

かつての甲子園常連校沖縄水産高校」

高校野球において、「強い沖縄」の礎を作ったのが沖縄県糸満市にある公立高校・沖縄水産高校。

興南高校に次ぎ、2017年(平成29年)時点で夏の甲子園大会に9度出場した実績を持つ古の王者です。まずはこれまでの甲子園での成績を見てみましょう。

春の選抜

  • 1986年(昭和61年)第58回大会…1回戦敗退
  • 1996年(平成8年)第68回大会…2回戦敗退
  • 1998年(平成10年)第70回大会…1回戦敗退

夏の甲子園

  • 1984年(昭和59年)第66回大会…2回戦敗退
  • 1985年(昭和60年)第67回大会…3回戦敗退
  • 1986年(昭和61年)第68回大会…準々決勝敗退
  • 1987年(昭和62年)第69回大会…2回戦敗退
  • 1988年(昭和63年)第70回大会…準決勝敗退
  • 1990年(平成2年)第72回大会…決勝戦敗退
  • 1991年(平成3年)第73回大会…決勝戦敗退
  • 1995年(平成7年)第77回大会…2回戦敗退
  • 1998年(平成10年)第80回大会…1回戦敗退

沖縄水産野球部の歴史は、伝説の名指導者・栽監督の歩みとともにあります。栽監督が豊見城から沖縄水産に転任したのは1980年(昭和55年)。

沖縄水産が実業系の高校であり、全県から部員を獲得しやすい上、広大なグラウンドの使用許可が学校側から下りたのが主な理由です。

栽監督の指導により1984年(昭和59年)に甲子園初出場を果たしたのち、1985年(昭和60年)に入部した上原晃投手(元中日ドラゴンズ)の活躍もあり、1988年(昭和63年)まで5年連続甲子園に沖縄代表として参戦しました。

そしてついに、1990年(平成2年)、1991年(平成3年)と2年連続で甲子園準優勝を果たします。

当時は大野倫投手(元読売ジャイアンツ)も沖縄水産に所属しており、沖縄の高校野球はまさに同校野球部の独壇場でした。

しかし近年では成績が低迷。2016年(平成28年)、2017年(平成29年)は、2年連続で沖縄大会初戦敗退という渋い戦績です。

かつて沖縄水産を甲子園準優勝に導いたメンバー達が支える中、同校の球児達が「過去の栄光」を乗り越え「今の栄光」を手にできるかが注目されています。

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沖縄高校野球のイメージを覆した古豪「豊見城高校

沖縄高校野球のイメージを覆した古豪「豊見城高校」

「沖縄は野球弱小県」というイメージを覆したのが、県立豊見城高校です。1966年(昭和41年)に開校し、2015年(平成27年)には創立50周年を迎えました。

1971年(昭和46年)、栽氏が豊見城野球部の監督に就任したことから、同校野球部の歴史が動き出します。下記にこれまでの甲子園での戦績を挙げてみましょう。

春の選抜

  • 1975年(昭和50年)第47回大会…準々決勝敗退
  • 1976年(昭和51年)第48回大会…1回戦敗退
  • 1977年(昭和52年)第49回大会…2回戦敗退
  • 1978年(昭和53年)第50回大会…1回戦敗退

夏の甲子園

  • 1976年(昭和51年)第58回大会…準々決勝敗退
  • 1977年(昭和52年)第59回大会…準々決勝敗退
  • 1978年(昭和53年)第60回大会…準々決勝敗退

野球部創立当時は沖縄の野球部の実力がまだまだ全国で認められておらず、抽選会で沖縄を対戦相手に引き当てた高校が「やった」と大喜びするような状況。

実際、豊見城高校も野球部員達が気兼ねなく練習できるような環境ではなく、ボールやバットを買うため、部員達が柔道着を着てサトウキビを刈り取るアルバイトをしなければならなかったという逸話が残っています。

球児達の平均身長も170cmに満たず、他県の強豪校に敵うとは到底思われませんでした。しかしそんな世間の予想は、程なく覆されることになります。

1975年(昭和50年)、豊見城高校は、準々決勝で原辰徳選手(元読売ジャイアンツ監督)の所属する東海大相模と対戦

この試合で豊見城高校は東海大相模相手に猛攻を見せます。手に汗握るような攻防の末、9回2アウト、あと1歩で勝利というところで惜しくも逆転負けを喫しました。

豊見城の奮闘ぶりは全国の人々の心を掴み、春先には鹿児島から招待を受け、初めて遠征試合も経験。それまでは見向きもされていなかった沖縄の高校野球が、豊見城の試合をきっかけに見直された証しでした。

続く1976年(昭和51年)夏、1977年(昭和52年)夏、1978年(昭和53年)夏にも豊見城は連続でベスト8入り

石嶺和彦選手(元阪急・オリックス)など、のちにプロとして活躍する逸材も入部し、栽監督仕込みの洗練されたプレースタイルや、機敏な動きで全国に沖縄の強さを知らしめます。

近年はなかなか成績が振るわず、沖縄大会ベスト16入りが精一杯となっていましたが、2015年(平成27年)春の沖縄大会で2014年(平成26年)秋季大会の王者である中部商業高校を打ち破り、準決勝に進出しました。

「受け身にならない、一手先を見据える」ことを部員達に要求する金城聡監督のもと、古豪のさらなる躍進に注目が集まります。

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名監督とともに夢を叶えた離島校「八重山商工高校

2006年(平成18年)、史上初の快挙に全国が湧き上がりました。沖縄県の離島・石垣島から、ある小さな高校が初めて、春夏の甲子園に出場したのです。

その高校こそ、八重山商工高校、通称・八重山商工でした。まずは甲子園での戦績を見てみましょう。

春の選抜

  • 2006年(平成18年)第78回大会…2回戦敗退

夏の甲子園

  • 2006年(平成18年)第88回大会…3回戦敗退

以前の八重山商工野球部は、沖縄大会初戦敗退が当たり前のチーム。当然、甲子園に出場することなど期待されていませんでした。

それが変わったのは、2003年(平成15年)に八重山商工に監督として着任した伊志嶺吉盛氏の存在です。

伊志嶺吉盛監督は八重山商工野球部監督に就任する前、中学生のポニーリーグ「八重山ポニーズ」を指導していた名将。

その手腕を買われて、石垣市長から直々にオファーを受け八重山商工に派遣されたという珍しい経歴の持ち主です。

伊志嶺監督の求心力により有力選手が集まった八重山商工は、夢の甲子園出場を実現。ときには部員がわずか2人になり、野球ができなくなったこともありました。

それでも諦めず、グラウンドに立ち続けたからこそ、甲子園に行けたと伊志嶺監督は語っています。「100年経っても八重山から甲子園は無理」という言葉を覆した底力のある高校です。

2016年(平成28年)、13年にわたって八重山商工を指導してきた伊志嶺監督は、八重山商工野球部監督としての歴史に終止符を打ちました。

「もう一度八重山商工で甲子園を」という夢を掲げ、監督・部員が一体となって野球に取り組み続けてきた八重山商工。

「猛将」なき今、八重山商工が再び「小さなチームでも勝てる」という意地を見せてくれるのか、動向に注目しましょう。

【施設情報】

スポーツの名門校「中部商業高校

スポーツの名門校「中部商業高校」

中部商業高校、通称中部商は、宜野湾市にある県立高校です。

野球だけでなく陸上部や女子バレーボール部も全国レベルで、沖縄のスポーツ強豪校と言えます。そんな中部商業高校の甲子園での戦績を見てみましょう。

春の選抜

  • 出場経験なし

夏の甲子園

  • 2002年(平成14年)第84回大会…1回戦敗退
  • 2004年(平成16年)第86回大会…2回戦敗退

中部商業高校野球部の歴史は古く、沖縄大会に初めて参加したのが1965年(昭和40年)。

2度にわたって夏の甲子園に出場し、糸数敬作選手(元北海道日本ハムファイターズ)、金城宰之左選手(元広島東洋カープ)など多数のプロ野球選手を輩出しています。

野球部は、創部当初から名門だった訳ではありません。1983年(昭和58年)に初めて沖縄大会ベスト8入りを果たすものの、それ以降10年にわたって鳴かず飛ばずの時代を迎えていました。

しかし、1993年(平成5年)、神谷嘉宗氏が監督に就任してからは状況が一変。辣腕を振るう神谷監督の指導のもと、中部商業高校は1997年(平成9年)に沖縄大会ベスト4へ進出します。

2001年(平成13年)には準決勝で栽監督率いる沖縄水産を撃破し、初めて沖縄大会準優勝という好成績を残しました。

さらに、神谷氏から監督を引き継いだ上原忠氏が采配をふる中部商業高校は2002年(平成14年)、念願の甲子園初出場を達成。

2004年(平成16年)にも、2年ぶりに2度目の甲子園に臨みました。しかし2008年(平成20年)、上原監督が母校である糸満高校に転任して以降は、やや失速気味です。

2011年(平成23年)から中部商の監督を務めている宮城隼人監督は、名だたる名監督達のように自身の哲学に基づく指導を行なうのではなく、部員達に内省を促し、少しずつ改善させるスタイルを採っています。

「思考を磨き、そして技術と部員同士の信頼関係を磨く」。中部商業高校の野球魂は再び栄光の道を開くことになるのか、目が離せません。

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不利な環境でも甲子園に行った「宜野座高校

不利な環境でも甲子園に行った「宜野座高校」

2000年代に入ってから目を見張るような躍進を遂げているのが、公立の宜野座高校。2017年(平成29年)に創立72年目を迎えた歴史ある学校です。

同校は沖縄県内でもトップクラスの部活加入率を誇るスポーツの盛んな高校で、全国大会に出場するラグビー部や県大会優勝常連のフェンシング部もあります。

そんな宜野座高校の甲子園の戦績を見てみましょう。

春の選抜

  • 2001年(平成13年)第73回大会…準決勝敗退
  • 2003年(平成15年)第75回大会…2回戦敗退

夏の甲子園

  • 2001年(平成13年)第83回大会…2回戦敗退

2000年代に入るまでは特に注目されることのなかった宜野座高校野球部。しかし奥浜正監督が宜野座高校へ赴任し、野球部の指導をするようになってからはめきめきと力を付けました。

2001年(平成13年)には21世紀枠で春の選抜に初出場。岐阜第一、桐光学園など名の知られた強豪校を次々に破ります。

準決勝で菊池俊夫選手(元オリックス)や中谷翼選手(元広島東洋カープ)を擁する仙台育英と激突。激戦の末敗れましたが、宜野座高校はベスト4入りを果たし、高校野球界の注目を浴びることになりました。

それだけではありません。同年夏の甲子園では初戦から宜野座対仙台育英という因縁のカードが組まれ、攻防の結果、宜野座高校が雪辱を果たします。

沖縄の高校の強さを遺憾なく見せつけた宜野座高校。このときエース投手だった比嘉裕選手が操る、特殊な軌道を描く魔球「宜野座カーブ」が大きな話題となり、真似する野球少年達も続出しました。

「宜野座旋風」はそれだけにとどまらず、宜野座高校は2003年(平成15年)春にも甲子園への切符を手にし、再び全国の高校野球ファンを沸かせます。

グラウンドの使用に制限があり、「全面使用できるのは週1日だけ」という不利な環境下でも、強豪を相手に対等にわたり合って見せた宜野座高校は、「限られた条件でも強さを身に付けることができる」と証明した高校です。

2006年(平成18年)に奥浜監督が母校・名護高校へ転任となってからは、浮き沈みを繰り返している宜野座高校。

しかし、2016年(平成28年)、2017年(平成29年)と沖縄大会で8強入りを果たしており、熱心な高校野球ファンの間では「再び宜野座ブームを巻き起こす日も近いのではないか」と囁かれています。

【施設情報】

※この記事は、2018年4月時点の情報に基づいて作成されています。

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