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伝染病に苦しむ兵士みとる 従軍看護婦の証言

周りの船が魚雷で沈没

 太平洋戦争真っただ中のインドネシアで、陸軍病院の従軍看護婦として兵士らの看護に当たった山田富久さん(87)=滋賀県東近江市=。インドネシアに向かう道中は、同じ船団の船が米軍潜水艦の魚雷に沈められる様子を目の当たりにし、死も覚悟。命からがらたどり着いた現地の病院では、伝染病で苦しむ多くの若い兵士らの死に立ち会った。

 ◇     ◇

 日本赤十字社の救護看護婦養成所を卒業した直後の1944(昭和19年)年6月1日、召集令状が届いた。父は「おめでとう。よかったな」と言ってくれたが、母は半泣きになっていた。外地のどこに行くかは分からなかったが、令状をもらって良かったと感じた。

 7月1日に大津駅を出発した後、広島の「博多館」という旅館にしばらく滞在した。「播磨丸」という船で、10日に広島の宇品港を出航した。一時は高雄(台湾)に引き返したが、次の船団を待ち、30日に高雄を出た。

 しかし、バシー海峡を進んでいた夜、船上の甲板で横になっていると、「ダーン」と水煙が上がった。米軍の潜水艦の魚雷が飛んでくるのが分かった。甲板にいた船員から「(魚雷が)右に当たれば左に飛び込め、左に当たれば右に飛び込め」と言われた。

 「自分一人だけじゃないから怖くない。もう死ぬんだ」と思い、日本の方を向いて拝んでいたら、ちょうど波が高くなった時に魚雷が船の下を通ったので助かった。沈んだ船からは、兵士か船員3人ほどが泳いで私らの船に乗り込んできた。

 20隻ほどで船団を組んでいたが、一晩のうちにほとんどが魚雷に当たって沈没。その中に滋賀や京都の兵士がたくさんいた。残ったのは、看護婦が乗っていた播磨丸など3隻だけだった。

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