「総括」された元構成員を悼む碑
「総括」された元構成員を悼む碑
連合赤軍事件の経過
連合赤軍事件の経過

 地を覆う枯れ葉に秋時雨が降り続いていた。今月上旬、高崎市倉渕町。膝丈ほどの黒い碑は山林に溶け込みつつ、霊を慰める。

 〈連合赤軍 八名之若者 皈(かえ)る 合掌〉

 50年前。榛名湖近くの山岳アジトで、「総括」と称したリンチで8人が殺害された。後に十数キロ離れたこの場所に埋められた。当時21~25歳の男女は全員、新左翼テロ組織、連合赤軍の構成員だった。

 「怪しい集団が入って、アジトを持っている」。原田惣司(89)=同町=は消防団員として同僚と榛名山方面の尾根に出向き、山狩りしたのを覚えている。

 碑の近くの土中から遺体が見つかり、構成員同士の大量殺人が発覚したのは1972年3月。あさま山荘事件(同年2月、長野県軽井沢町)で幹部だった坂口弘(75)=死刑囚、93年確定=らが逮捕され、1週間余り後のことだった。

 原田の記憶によれば、遺体に付着した泥は、消防本部が沢水をくみ上げて洗い流した。無数の捜査員、宙を旋回するヘリコプター、わずかな電話を占拠する新聞記者たち。ひなびた山村は一変した。「リーダーが人間の心を持っているとは、とても思えなかった」

 連合赤軍は、いずれも新左翼テロ組織の共産党革命左派神奈川県委員会(京浜安保共闘)と赤軍派が合流し、結成した。構成員による最初の殺人は71年8月。京浜安保共闘側の坂口や永田洋子=元死刑囚、2011年に65歳で病死=らが、組織から逃げ出した男女2人を絞殺し、千葉県の印旛沼付近に埋めた。

 構成員はその後本県に入った。共産主義革命に向け、「国内ゲリラ戦で勝利できる『革命戦士』の養成」を標榜(ひょうぼう)、山中の拠点で「武闘訓練」を始めた。榛名山アジトで1971年12月末を皮切りに計8人を、72年2月の迦葉山アジトで3人、妙義山アジトで1人を、集団リンチで次々と死亡させた。

 県内各アジトに潜伏するなどした構成員は29人に上った。逮捕された17人のうち、5被告を審理した前橋地裁の元裁判長、水野正男(2004年死去)は手記に残した。〈その異常性は理解に苦しむばかりだった〉

 「総括」された一人、寺岡恒一=当時(24)。坂口の著書「続あさま山荘1972」(彩流社、1995年)は殺害状況をこう記す。「革命戦士になりたかった。残念です」と言った寺岡の着衣がはだけた胸部を、構成員がアイスピックで刺した。死ななかった。首の付け根を刺しても絶命しなかった。だから、タオルで何度も首を絞めた。

 刺した一人は寺岡の妻だった。

 〈私たちはその女性を裁いたが、ただ涙をためるばかりだった。懲役刑を宣告し、わずかな慰めの言葉を掛けた〉。水野はそう述懐している。

 最高幹部だった森恒夫=元被告、73年に28歳で自殺=は72年2月の逮捕後、前橋地裁に「上申書」を出した。〈日本階級闘争の中で-中略-「共産主義化」の闘いは、敵権力に対する銃を軸としたせん滅戦以前に、我々自身に死に物狂いの闘争を要求していった〉

 しかし、と水野は断罪する。〈内容や範囲が全く不明。女性なら派手、色目を使ったとか、男性なら車の運転を誤ったとか。その認定は全て、森や永田の独断に等しかった。森が恐れたのは自身らへの反抗的態度や逃亡だった〉

 〈森らの無情性もさることながら、それ以上に、極左翼の革命思想にも問題があった〉
(敬称略)

2021/11/16掲載